邪祓師の腹痛さん【富士見L文庫より書籍発売中】   作:深川我無

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プール⑭

 榛原大吾は玄関のドアを開けて暗い部屋に明かりを点ける。それにしてもミサキのやつプールでしたいだなんて予想外だったな。変態の気があるなら、今度はもっと過激なことをさせてやろうか? そんなことを考えながら、男はパソコンの電源を入れた。

 

「オギャ……」

 

 どこかで赤ん坊の泣く声が聞こえた気がした。しかしマンションの別室に赤子がいたとてなんら不思議はない。男は気にも留めずパソコンで動画の編集を開始する。

 

「オギャア……アァ」

  

 またしても赤ん坊の泣き声。うんうん。命が産まれるのは素晴らしいことだ。

 

 そんなことを考えながらも男の意識はパソコンから途切れることはない。そうやって榛原大吾という男は成功を収めてきた。どんな時でも、どんな状況でも、自分の予定を変えることなどない。

 

 スターバックスにコーヒーを飲みに行く途中で、例え老婆が死にかけて倒れていたとしても、男が老婆に一瞥をくれてやることはない。ましてや立ち止まることなど絶対にないだろう。

 

 ただしそこにスターバックスを越えるメリットがあれば話は違ってくる。男は打って変わって親切で愛情深い好青年の顔に変わり、甲斐甲斐しく老婆を介抱するだろう。

 

 しかしながら、この赤ん坊の声にはどこか違和感を感じる。

 

 男はふとそんなことを考えた。

 

 その違和感は男を無性に苛つかせた。キーボードを操作する音までイライラと神経を逆撫で始める。

 

「チッ! うるせぇなぁ! いったいいつまで泣いてんだよ!? 親は何やってんの!?」

 

 男はそう言って椅子から立ち上がった。その時、違和感の原因に行き着いて男は固まった。背中を冷や汗が流れるのを感じる。

 

 このマンションは全室防音仕様の高級マンションだった。男が住処を探すに当たり、絶対に譲らなかったのがこの防音仕様だった。

 

 連れ込んでしまえば外部から遮断できる匿名の空間。

 

 一介の水泳インストラクターでは到底住めないような高級マンションに、男は親からの潤沢な援助を受けて住んでいた。

 

 そんな防音室のマンションで、いったいどこから赤ん坊の泣き声が聞こえる……?

 

 男が狼狽して辺りを見回した時だった。

 

「ぱぁぱあ……」 

 

 男の耳元でくぐもった声がそう言うのが聞こえた。振り向こうとすると小さな冷たい手が弱々しく耳を掴んだ。

 

「うわあああああぁあぁああああぁぁああ!!」

 

 男は確かに聞こえたその声と、耳に触れた感触に取り乱し壁際に飛び退いた。

 

「だ……誰だ!? ミサキか!? ミサキの悪戯か!? 分かった!! 唯か!? 唯だろ!? もう話はついただろ!?」

 

 男は叫んだが誰からの応答もなかった。

 

 シン……と静まり返った部屋にまたしても赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。

 

 

 

 そのころ卜部とかなめは小林唯という少女に会っていた。

 

「はじめまして。わたしがさっき電話したかなめです。この人は腹痛先生」

 

 かなめはそう言って卜部を指す。卜部はかなめを睨みつけて言った。

 

「卜部だ。あんたに話があって来た」

 

 その言葉を聞いて小林唯の表情がこわばる。

 

「もう! 先生! いきなりそんな態度じゃ唯ちゃん怖がっちゃうじゃないですか!」

 

 かなめが割って入った。

 

「オブラートに包むのは気に入らん。だいたいこいつももう大人だ。分別が無いわけじゃあるまい?」

 

 そう言って卜部は少女に鋭い視線を送る。

 

「あの……話ってなんですか……?」

 

 少女は意を決しておずおずと尋ねた。

 

「単刀直入に言う。堕ろすな。あの男のことが心配なら気にしなくていい」

 

「ど……どういう意味ですか? だいたいミカにしか言ってないのに何で知ってるんですか?」

 

「あんたが情報源を知る必要はない。それより、そいつを堕ろせば絶対に後悔することになる。あんたが関わったのがあのプールじゃないなら、俺も別に何も言わない。だがあそこはもう限界だ。これ以上悪化すればあんたはその生命の責任をとんでもない方法で支払うことになる」

 

 卜部の眼の奥の冷たく鈍い光が少女の瞳の奥を突き刺す。少女はぽろぽろと涙を流し始めた。

 

「いいな? 必ず産むんだ。親に相談しろ。無理なら行政を頼れ」

 

 そう言って卜部はメモ書きを少女に渡した。

 

「わたし……こんな事になって……ごめんなさい……本当は堕ろしたくなくて……でも怖くて……ごめんなさい……」

 

 少女は泣きじゃくりながら謝罪を繰り返した。

 

「大丈夫よ。先生がなんとかしてくれる。唯ちゃんも先生を信じて」

 

 かなめは少女の背中をさすりながら言った。

 

「あの男の始末は俺がつける。あんたは自分とそいつのことだけ考えろ」

 

 卜部はそう言い残してその場をあとにした。

 

 その背中には言い知れない感情の渦が見てとれた。

 

 しかしそれが怒りなのか、悲しみなのか、かなめにはわからない。

 

 わからないなりにも、かなめはその後に従って歩き出した。

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