【完結】もしもし、アクアくん?〜女優探偵の事件簿〜   作:ねこのまんま

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第12話の三編はいわゆる動機編です。

本シリーズのルビーたちの無人島ロケは2030年代後半想定です。2018年に幼少期アクアがゴローの死を調べている原作1巻準拠(?)です。よって、個人間オーディション組の面々は20代前半です。




㉔ 第12話 風の神様(前編)

 

 ─約90年前─

 

 故郷に帰ろうとする兄弟を乗せた大型船が、黒潮に逆らいゆっくりと南西へ進む。

 沖縄からの疎開先は通常南九州であるところ、二人の兄弟は親の知人を頼って兵庫に行っていた。 

 彼らは終戦後、無理を承知で、まだ生きているか分からない両親のもとへ帰るために沖縄に戻ろうとしている所だった。

 

 その船の甲板に、幼い弟を抱いて兄が立っている。

 

 航海の半ば、10歳を少し過ぎたくらいの兄は、『船に置いておけない。海に捨てるしかない』と船員に言われ、重い脚を引きずるように弟を抱いて甲板までやってきた。

 3歳になろうとしていたはずの年の離れた弟は、甲板の強い風を浴びても、兄の腕の中でずっと目を閉じて微動だにしない。

 

 医者がいないから何の病気かもわからず衰弱していく弟のために、自分は支給されたなけなしの食料に手を付けず、全部弟に食べさせようとした。

 咀嚼してもそのまま口から零れ出て、どうすればいいかもわからず、沖縄に残った両親から託された弟の命が消えていくのを見ているしか出来なかった。

 

『捨てるなら、思いっきり放れよ。真下に落とすだけだと、船の螺旋(=スクリュー)に身体が巻き込まれて可哀そうなことになるかもしれんからよ』

 

 もともと体の弱い弟を、せめて両親がいる故郷で療養させたいという自分の判断は間違っていたのだろうか。

 長い船旅に耐えられないかもしれないって、どうして考えられなかったんだろう。

 何も出来ず、感染の可能性と衛生問題を理由に故郷まで連れて行けず、海に遺体を捨てるように言われ。

 さらに、亡骸を力いっぱい放り投げろとまで言うのか。

 

 3歳の子どもなんて、関節や手足の甲すらぷくぷくと柔らかい生き物なのに。どこを触っても骨しか感じなくなった弟の身体は、軽いから放ったら遠くまで投げられそうだな。

 これから自分がやることに実感を未だに持てていない兄は、そんなことを思った。

 

「ごめん……僕のせいで……」

 

 足にも手にも力が入らないのに、どうやって弟を還したのか覚えていない。

 弟を抱いていた時よりも重くなった両腕を、表情を無くしたまま少年は見下ろし続けた。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 ―57年前―(0歳)

 

「はわあああ~~かぁんわいい~~」

 

 小学生になったばかりの少女が床に膝をつき、眠る赤ちゃんを興奮気味に見つめる。

 指先でほっぺをつつくと、抵抗なく指が沈んで、血色のいい肌のさらさらとした感触が心地よかった。

 

「はーちゃ(=お母さん)! 茉莉のほっぺ、おもち! おもちだよ!」

「はいはい……茉白(ましろ)は本当に茉莉のことが好きねえ」

「んん~! がまんできない! チューしちゃっていいかな!? むちゅちゅ! ほっぺにむちゅちゅっちゅのちゅっちゅ!」

「こら! 起きちゃうでしょ! やめなさい!」

「おきたら、あいがねかせるも~ん」

 

 出産直後は赤くしわくちゃで、起きているのに目を開けられないその姿にちょっと驚いていた。

 けれど、産まれてすぐ父が運んできた岩淵の水で姉がその体を洗い、みるみるうちに妹は天使のような姿になっていく。

 茉白と呼ばれた少女は、通い始めた学校に行っている時と、家の手伝いをしている時以外はずっと妹の事ばかり見ていた。

 

 得られないと思っていた、年の離れた妹だった。

 周りの子どもたちを見ても、ひとりっ子は自分の家だけだったから。始まりはそんな淡い理由でも、第二子に反対していた祖母を母が説得してくれて産まれた新しい命に触れ、まだ幼い姉は、気付けば両親よりも妹の世話をしていた。

 

 

 不定期に動く長いまつ毛に、生の息遣いを感じる。

 どんな夢を見てるのかな。赤ちゃんは夢を見るのかな。

 何して遊ぶのが好きになるかな。

 おしゃべりできるようになったら、どんなお話ししよう?

 おっきくなったら、はーちゃみたいなきれいな人に育つのかな。

 

 この子が生まれたから、あいも『いんね』かぁ。

 ふふふふ。なんか恥ずかしいけど、早く呼ばれてみたいなあ。

 

 

「……ん……ふぇっ……んぎゃっ……うええん!」

「はーちゃ、茉莉おきたよ~。おなか空いてるって」

「はいはい、さっき飲ませたけど……ほんとにお腹空いてるのかな、おしめじゃ……」

「はあ~……。はーちゃ分かってないね~。

 

『えっ……んぇぇっ……ふえええ!』 が 『おしめとりかえて』

『んぎゃっんぎゃっ……うええん!』 が 『おなかすいた!』

『ええええん……ええええん……』 が 『さびしいからだっこして』

『えええん!…んぎやああぁぁぁ!』 が 『ねむいからねかせて』

 

 だよ?」

 

「……茉白はもう、立派な茉莉博士ね……」

「ねんねしたいとき、いちばんおっきいこえで泣くみたい。ねむる時だれかにだっこされたいのかな? 甘えんぼだねー」

 

 授乳される時、命がけで全力で吸う赤ちゃんが、疲れてそのままうつらうつらした後、眠いなら眠ればいいのに大きな声で泣き出す。

 泣いたときに抱っこして眠らせるのは姉の仕事になっていた。

 重いだろうから私が、と母は言うけれど、いつの間にか姉の腕で抱っこした方が妹は早く、深く眠りにつくようになっていた。

 小学生になったばかりの6歳の子どもには赤ちゃんは重い。大の大人でも、寝ぐずりする赤ちゃんの寝かしつけは本当に重労働だ。

 それでも姉は、疲れたらその場に座ってでも、その腕に抱いて、揺らし、妹が安心しきった顔で寝息を立てるまで、寝ぐずりがひどい時は30分でも1時間でも抱き続けた。

 

 

「茉莉。あいはいんねだよ。いんねって呼んでくれたら、こうやっていっぱい抱っこしてあげる。茉莉はあいのかわいい妹だもん」

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 ―54年前―(3歳)

 

「いんね! いんねぇ! ねえねえ!」

「ただいまー。はいはい、抱っこね。どんどん重くなるなぁ……そろそろ無理かも……」

「いんねぇ、どこいってたのー?」

「学校だよー。毎日そう言ってるでしょー?」

「なんで、なーんで、がっこう、いくのー?」

「難しい事聞くなあ、茉莉のくせに……」

「おそと、いこ!」

「だ~め、やることやってから」

「やだー!やだやだー!」

「駄目なものはダメー」

「いやぁーー!!やぁーだぁー!!やだー!」

「おっ、今日のイヤイヤは気合入ってるねー」

 

 3歳になった妹は、姉が帰って来る時いつも玄関までドタドタ迎えに来て抱きついていた。

 学校から崖沿いの道を進み、井戸の側を通って狭い山道を登った先にある家までの通学路は、子供には大変だけど、帰ってきた時の妹の「お出迎え」は密かな姉の楽しみだった。

 姉が荷物を片付ける際も、カルガモの親子のようにずっと姉の後ろにぴったり張り付いて、ペタペタとした歩みでついていくのが見慣れた光景になっていた。

 ねん挫したように足を引きずる姉のふくらはぎを見ると、今日は妹がしがみついている。

 

「んしょ、んしょ」

「茉莉、いんねは宿題してるの。ちょっとまって」

 

 電気は学校にしかないから、日が暮れるまでに宿題を終わらせないといけない。帰ってきてすぐ文机に向かう姉の膝に、よじよじとよじ登ってきた妹がすとんと座る。

 斜め後ろ上に振り返って、にひひと笑ってちょっかいをかけ始めた。

 お外で遊ぶなら日が暮れるまでだから、妹も早く姉を連れ出したくて必死なのだ。

 だったら宿題をする姉を邪魔しないのが一番だけど、当然妹は分かっていなかった。

 

「いんね、いんねぇ、あのねー」

「うん、どうしたの?」

「えっとねー」

「うんうん」

「いんねぇ、あのねー」

「うんうんうん」

「うーんと、えっとねー」

「うんうんうん(早く言わないかなあ)」

「いし、どかしたらねえ、だぁんごむし、いたのー」

「そっかあ。よかったねえ」

「いっぱいいたー」

「どのくらいいたの?」

「えっとぉ。いーち、にーい、よーん、ごーお」

「茉莉、2の次は3だよ」

「にーい、さーん、ごーお」

「ちがうちがう」

「だぁんごむし、いんねにあげるー」

「ええええ!?」

 

「こら茉莉、いんねの邪魔しないの!」

 

 ポケットから灰色の丸い何かを取り出し姉の眼前に差し出した妹。姉がびっくりして大声を出したところで、母が現れ妹を叱った。

 巫女姿の仕事着に身を包む母を見て、姉は宿題をしていた手を止める。

 

「はーちゃ、巫女のお仕事?」

「んー、海辺に住んでる宇喜多さんのところ、子供生まれたから。お宮参りの御祈祷に行くわ。産褥は過ぎたとはいえ、奥さんはこんな山奥まで来れないから……。この神社ももう少し麓にあればいいのに……いっそ巫女権限で引っ越しちゃおうかしら?」

「池が社の裏にあるから無理でしょ。お供えの稲の管理もあるし」

「そうだけどね。途中の山道も、10年くらい前の大地震でパラパラ石が落ちてきてるし。正直怖いわ」

「お手伝い、いる?」

「大丈夫よ。葬祭は大変だけど、冠婚はそんなでもないし。めんどくさーって聞こえるように言ってたらととう(=お父さん)が手伝ってくれることになったわ。ラッキーて感じ」

 

 幼い姉妹の父が母を手伝うと聞いて、姉は納得して頷きつつ。

 明確に村長という立場がないこの島において、何かと島を代表することが多いこの神社の巫女は、家では隙あらば布団でゴロゴロして仕事をめんどくさがる人だった。

 こんなにだらしなくて良いんだろうかと、母を見ながら姉は思っていた。

 今も大あくびをしている母。さては妹の昼の寝かしつけにかこつけて昼寝してたな。

 不真面目な巫女だなあ。

 

「不真面目な巫女だなあ」

「自分の母親捕まえて随分言うじゃないの。真面目でお利口な茉白は誰に似たやら」

「ほんとに、はーちゃの代わりに私がしっかりしないとね」

「頼んだわよ、早く引退させてね。じゃ、茉莉と遊ぶなら危ないところ行かないでねー」

 

 広い社の拝殿を兼ねた家の入口に向かって行った母を見送ったのち、妹が口を開いた。

 

「はーちゃ、なにしに行くの?」

「お仕事だって。はーちゃはね、この『穴山神社』の巫女様。この島の神様にお仕えしてる、穴山の巫女なの。私たちも、穴山の巫女の娘として、お手伝いしなきゃね」

「ふーん。かしこみかしこみー?」

「そうそう。ふふ、そこだけ覚えちゃったのか。よしっと、宿題おしまい。遊ぼっか」

「うん! おっそと! おっそと!」

「茉莉、くっく履いてー」

「……できない。くっく、はかせて」

「えー!? ととうの前ではお利口に履いてるじゃん!」

「できないのー!」

「ウソつけ! 出来ないふりでしょ! 早く靴はいて!」

「やーだー!!」

「お外で遊べないよ! いいの!?」

「やぁぁだあああぁぁぁ!! うあああああん!!」

「なんでこの流れで泣くのー!!? もー! 履かせてあげるから!」

「いいいぃぃぃいいやああぁあぁ! やーーーだーーー! じーぶーんーで! じぶんでやるの!」

「あああ腹立つ! どっちだよーーー!?」

 

 暗くなる前に姉と外で遊びたいなら、妙なこだわりとわがままはやめた方が良いのに。

 当然妹は、3歳の子どもらしく分かっていなかった。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 ―51年前―(6歳)

 

「茉莉、思いっきり鳴らして怖がらせて」

「うん! おりゃあ! あっち行けえええ」

 

 社の後ろの岩淵の池から少量水を引いて作られた狭い神饌田の、まだ緑色の稲穂を狙う者がいる。

 木の板に紐を括りつけて垂らしたものを思いっきり振ると、ガランガランと音を立て、スズメたちは驚いて飛び立っていった。

 水の持ちが悪いこの島の土地ではほとんどの稲が陸稲で、水稲を育てられる場所は貴重だったから、稲管理をする妹は心なしか胸を張っていた。

 

「これでしばらく来ないかな!?」

「そうだね、あとは台風が怖いけど……さてと、スイカ行こうか」

「やった! いこいこ!」

「あ、ちょっと待って。黒い雲が西にあるから、カッパ持ってく」

 

 夏休みのある日、6歳になった妹を連れて、早朝のスイカ畑に行く。

 冷蔵庫はおろか冷やす水も無いこの島では、夕方になってしまうと陽を浴び過ぎてしまうから、冷えたスイカを食べたいなら早朝に限る。そう教えられている島中の子どもたちは、寝坊しないで今日は朝早くに島のスイカ畑に集まった。

 自給自足のこの島は、困った時はお互いさまで、作り、或いは採ったものを時には分け合って生活していた。

 

「穴山の嬢ちゃん、帰りにこれ持ってってくれるか。今朝取った魚。うちのととうの葬儀で巫女さんに世話んなったからよう」

「いつもありがとうございます。母に代わりお礼申し上げます」

「ははは、お利口さんやなあ、子供なのに。さすが将来の巫女様。最近海が落ち着いてるのも、神様と穴山さんのおかげやな」

 

 スイカ畑の主から、小さな生簀に入った魚を持ち帰るよう言われる。

 冠婚葬祭を一身に担う穴山の家は、こうして挨拶され、一目置かれて『おすそ分け』されることも多かった。

 

「今から冬の用意しておきたいので……いただいたお魚、燻製にしようと思います」

「お利口すぎん……? 茉白ちゃんまだ小学生よな?

 さて、子供ら、皆来たか? よーし、石に落とせえ」

 

 スイカを育てた農家の人の合図で、硬い石の上にスイカが落とされる。

 包丁のように綺麗に切り分けられるわけじゃないから、子供たちは鼻まで赤い汁で濡らす。

 

「もう食べ終わったの? じゃあ茉莉、あーん」

 

 早く食べ終わった妹の顔を拭って、姉が自分のスイカを分ける。

 すると、貰ったスイカの種を吹きつけられるという形で恩を仇で返される。

 最初妹の悪戯を叱っていた姉も、最終的に他の子どもたちと一緒に種を吹き合って遊び始めた。

 大人に対して背伸びして大人ぶっていた姉が、幼い自分たちと同じような遊びをし始めたのを見て、妹の笑い声はさらに高くなった。

 

「そろそろ降ってくるかもしれん、皆帰りい」

 

 スイカ畑の主が、夏雨を告げるような黒い雲が空を覆い始めたのを見て子供たちに帰るよう告げる。

 学校よりも低い所にある畑から神社までは遠い。

 他の子どもたちはもう家に帰っただろうけど、早起きしたせいで眠そうにしている妹に合わせてゆっくり歩いていた姉妹は、学校の前の分岐のところで雨に降られてしまった。

 スコール性の強い雨だった。

 

「カッパ持ってきてよかった……茉莉、歩ける?」

「……」

「眠いの?」

「……」

 

 こくっと頷く妹。

 こうなるんじゃないかな、と家を出た時から覚悟していた姉は、一度しゃがんで慣れた手つきで妹をおんぶし、その上から合羽を着た。

 

「よいしょっと」

「いんねぇ……おもく、ない?」

「ふふ、昔より重くなったなあ。でも大丈夫だよ。いんねは強いもん。だから……いいよ、ねんねしても。

 頭、いんねの肩に乗せて。目を閉じて、ゆっくり深呼吸して。また目を開けたら、お家についてるからね」

 

 学校前の分岐から井戸がある広場まで、切り開かれた崖の道を、二人分の体重で踏みしめる。

 カッパをかぶっておんぶされていると、カッパの中が雨と汗で蒸れて、眠りで意識が揺蕩う中で姉の匂いを感じる。

 これまでいたずらして怒られたり、ケガをして痛かったりするたびに、泣きながら姉の胸の中で受け取っていた匂いだった。

 

 慣れた匂いが雨露と草と土の匂いに混じり、火照った姉の背中の熱を感じる薄暗いカッパの中は、妹だけの世界だった。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 妹をおんぶして歩いた崖沿いの道に、落ち葉の絨毯が敷かれ始めた頃。色づく木々の間を通りながら学校から帰ってくると、家の中で妹が泣いていた。

 

「うええええん……」

「……今度は何して怒られたの? この子」

「雨集めてる桶、遊んでたら倒しちゃって水がね……。それで、ととうが」

「あー、この季節に……井戸の水は濁ってて飲むのに使えないし……でもまだ秋雨降るし大丈夫じゃないかな。下校の際に貯留槽から少し貰って帰るから、ね?」

「悪いわねぇ、助かるわ。はあ、茉白はお利口さんなのに。姉妹でも随分違うわね。しょうがない、はーちゃと遊ぶ?」

「やだ、いんねがいい……」

「あらあら、ほんとにお姉ちゃんっ子ね。じゃあはーちゃはご飯作ってるから、おとなしくいんねを待ってるのよ。茉白、今日は特に仕事ないから、茉莉と一緒にいて」

「はーい。ふふ、茉莉、宿題すぐ終わらせるから、終わったらお芋とりに行こ?」

 

 妹をあやしつつ、姉はすぐに宿題に取り掛かった。

 泣き止んだ妹のはしゃぐ声が聞こえて見てみると、魚を調理している母から何かを与えられていた。どうやら二つ与えられたようで、一つ食べた後もう一つを姉に持ってくる。

 透明の小さなビー玉のような丸い玉だった。

 

「いんね、はーちゃからもらった! いんねにもわたしてって!」

「んー? なに? お……魚の目玉?」

「うん!」

「ご馳走じゃん。久しぶりだね。冬も近づいて来てるし……お芋多めにとって干しとこうかな……早く畑に行かなきゃ」

 

 噛み締めると、グミのような食感の後、ブシュッと塩気のきいた汁が飛び出す。そういえば、採れる魚の種類も夏から変わったな、と考えながら、姉は上着を一枚自分の肩にかけた。

 

 その後宿題を終えて妹を呼びかけると、返事がない。

 

「あれ、はーちゃ、茉莉は?」

「え? ごめん、ご飯作ってて……あ、靴と籠が無い」

「ええ!? 行ってくる! ほんとにあの子は!」

 

 芋は多少地面が悪くても強く育つから、崖の側や隘路に植えられていた。

 そんな場所にやんちゃ盛りの妹が向かっている可能性に肝を冷やす。芋畑までの足場の悪い最短ルートを、少し足をもつれさせ、山の中の枝を払いのけて息を切らして駆けた。

 

「あ、いんね、みてみて! 一人でもできたよ!」

「茉莉!」

「えっ……」

 

 崖のすぐそばで顔に泥を付けて地面に座る妹に、思わず大声をかけた。心配の裏返しのような怒りの感情をぶつけそうになる。

 しかし、驚いて竦んだ表情をする妹を見て、かける言葉と声のトーンを選ばないといけないと姉は感じた。

 立ち上がった妹の両肩に、息を整えながらそっと手を置く。

 この子がここにいるのは、『お芋多めにとって干しとこうかな……早く畑に行かないとね』と自分が言ってしまったからだ。

 

「茉莉、あのね。この島は推島のようにお医者さんはいないでしょ? 怪我したらどうするの? こんな崖、落ちたら助けられない。むき出しの自然の中絶対に一人で危ないことしちゃダメ。分かった?」

「……うん……」

「よしよし、いんねのために頑張ってくれたの? じゃあこの後は一緒にやろうね」

 

 ちょっと泣きそうになっていた妹も、蜘蛛の巣と落ち葉を頭に付けたままの姉に頭を撫でられるうちに、分かりやすく表情を戻していく。

 二人で掘った芋は、家まで持ち帰って、干す分と種芋以外は藁と土を上にかけて保存食にする。

 冬はとにかく食事にも水にも事欠くから、夏の段階から日々の食事だけでなく冬への備えも常に島民は念頭に置いていた。

 

「あ、茉莉、ついて来て」

「なに?」

「綿の殻剥けてる。飛ばされないうちに採らなきゃ」

 

 帰路、日輪の光が込められた綿の殻が剥けてきたので、綿畑にも寄り道する。きたる寒さに対抗するために、綿毛を集めては籠に入れていった。

 食べ物ではないけど、これも大切な冬備えの一つだった。

 

「茉莉の布団もちょっとボロになって来たし。新しいのを繕ってこの綿入れてあげる」

「ううん、いんねのふとんに入れようよ。ポカポカだよ、きっと」 

「ふふ、いいの? 茉莉は優しいね」

「うん、いんねのふとんモコモコにしよ! で、あいもいんねのふとんで寝る!」

「そうきたか……茉莉はいつになったら一人で眠れるの? 今朝もいつの間にか入ってきて、いんねにくっついてたじゃん……おかげでこっちは眠り浅いんだけど。しかもこの前おねしょもしたよね、いんねの布団で」

「あ、ねえねえ、柿もとろうよ! もうオレンジになってる!」

「話逸らさないでねー。あとあれは大人にとってもらおうね。いんねでも届かないもん」

「でも、いんねは柿が大好きでしょ? 柿だけはあんまり分けてくれないもんね」

「よく見てるな、この子……」

「かたぐるま! それならとどくよ!」

「ええー!?」

 

 果樹園なんて立派なものではないけど、場所が空いていれば植えられていた柿の木は、熟れた実を放置すると枝が折れやすいため大人が定期的に実りぐあいを確認していた。

 だから子供である自分の仕事じゃないと意識から外していた姉は、妹からトンデモ提案を受けて狼狽えたものの、この小さい生き物からキラキラ目線を受けると彼女は断れない。当然妹は分かっていた。

 一番低くて色味がしっかり変わっている柿の実を狙って、妹が3歳くらいの頃からやっていなかった肩車を意を決して敢行した。

 

「いんね、もうちょ、もうちょっと右!」

「うう~ん……くぅ……重……」

「つかんだ! むおーーー!」

「ちょちょっ! そっと採って!」

 

 力任せに枝から実を取ろうとする妹を見て、捥いだ反動で二人とも倒れる未来が見えた姉が慌ててストップをかける。

 ねじれば切れることを教えてようやく採れた戦利品は、本来であれば皮を剥いて干す。柿の葉だけ乾かせば茶葉になる。これも冬の備えになるはずだった。

 

「うーん……かたい……しぶくはないけど、もうすこし甘いといいのに……まあいいか」

「あー! 茉莉食べちゃったの!?」

「おいしくなかったらいやだもん」

「もう……ま、もっと熟れたやつをまた採りに行こうか。今日一個とったこと、ととうにもはーちゃにも内緒ね?」

「うん! いんね、あーん」

「え? あははは……ありがと。あーん……固い……確かにもうちょっと熟れていてほしいかな」

 

 下前歯の乳歯がつい最近抜けた妹から、歪な歯形が刻まれた柿が差し出され、姉もその果汁少なめな柿にかじりついた。

 いつもおやつを姉から分け与えられて育った妹は、『あーん』の発音も姉を真似て、姉や友達に同じことをする子になっていた。

 

「うわ! すっごいおっきい鳥!」

 

 戦利品を両手いっぱい胸に抱えながら夕陽を受けて帰るさながら、ピピーピーと鳴き声が聞こえて空を見ると、翼を広げると2mに及ぶ大きな鳥が飛んでいた

 

「クロアシアホウドリ、っていう鳥だよ」

「くろあし?」

「たまにマレビトさん(=島外の人)がこの島に来てるでしょ?」

 

 殆どの人に知られていない小さな孤島にも、時々外の人が訪れる。

 新設された環境庁が生物、自然の保護区域にこの島を指定して以来、定期的に研究者や好事家がやってきて、その対応も穴山の人間がやっていた。

 母のお手伝いをして研究者の案内をする姉は、『好奇心旺盛な地元の子』と思われたのか、研究者たちから島の動植物について学校の先生より深く教わっていた。

 

「虫とか草とかだけじゃなくて、あれも珍しい鳥らしくて。秋から春にずっと北から飛んで来るんだけど……冬は寒いから、暖かい推小島まで南下してくるって。ここで卵産んで育てるんだってさ。あの鳥が来たってことは、いよいよ秋も深いなぁ」

「へえー。いんねはなんでも知ってるね」

「マレビトさんたちが教えてくれるんだ。でもあの鳥についてはおうさま(=お祖父ちゃん)が教えてくれた気がする。物知りな人だった」

「あいもおうさまに会ってみたかったなー。ね、北ってどこ?」

「ずーっと遠く。そこから何日も飛んでくるんだって。どこまで飛んでいけるんだろ……多分すっごく涼しいとこじゃないかな」

「じゃあこの島が、鳥たちのゴールなんだね」

「そうだね。きっとここに戻ってきた時は、くたくたに疲れちゃってるだろうね」

 

 あまり羽ばたくことなく、風の力を上手く受けながら飛んでいく姿を二人は立ちどまって見つめていた。

 夕陽に重なると、横に広がる左右対称のシルエットになる。

 

「羽があったら、あいもとおくにとんでいけるのかな?」

「ふふ、羽だけじゃ飛べないよ。海の向こうまで飛べる渡り鳥は、体の中のものを出来るだけ少なくして軽くしてるの。そうしないと風の力で飛んでいけないから。茉莉は島の外に行ってみたいの?」

「うん、だって推島、みえてるのに行ったことないもん」

「そっか。じゃあ稀に冬でも海が凪いでる日があるから、定期便で行けないか頼んでみようか。冬はどうしても食べ物足りなくなるし、本当に困ったら定期便で水とか運んでもらってるから」

「いんねもきてくれる!?」

 

 島の外を見てみる願いが早くも叶うかもしれないと、再びキラキラ目を姉に向ける妹。

 姉も一度行ったことがあるけど、生まれ育ったこの島とは何もかもが違う推島での非日常が楽しく、行く機会があるならもう一度行きたいと思っていた。

 流石に自分もまだ12歳。姉の自分ではなく親がついて行くだろうけど、次女の子育てを何かと長女の自分にまかせている両親だ。妹の監護にかこつけて姉の自分も行けそうだと十分考えられた。

 

「いーよ。はーちゃに聞いてみよ?」

「わーい!」

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 姉妹が大人に内緒で一つだけ実をとった柿の木も、全て実を失ってしばらく経った頃。

 あっという間に夜になってしまう季節のため、燭台が欠かせない肌寒い夜だった。

 そろそろ寝なさいと言われているにも関わらず、文机に向かって必死に何かをしている妹を、姉が後ろから頭越しに覗き込んだ。

 

「意外……茉莉にこんな才能があったなんて」

 

 推島に初めて行った時の妹のはしゃぎっぷりは、振り回され慣れている姉でも疲れてしまうほどだった。前日は興奮して寝不足だったくせに、妹は現地で無限の体力を見せつけ、帰りの船で姉の膝を枕にして糸が切れたように眠ってしまった。

 たくさん人がいて、大きな船が並び、4階建ての高いビルもあって。

 その時の興奮を残そうと、姉のノートと鉛筆を借りて描き始めた推島の景色の絵を、何枚も描いている。

 6歳の子どもが描いたとは思えない、12歳の自分を遥かにしのぐその出来に、姉は感心を超えて空恐ろしいとすら感じた。

 

「お絵描き、楽しい?」

「うん! ねえ、がっこでもおえかきできるんでしょ?」

「そうだね。美術っていう授業が週に一回あるからね」

「たのしみだなぁ」

 

 寝る前に小腹が空いたから、珍しく冬が旬の野菜である蕪を焼いたものを齧りながら、集中している妹を見守った。

 焼くとサツマイモのように甘みが増す冬のおやつの匂いを嗅いで、案の定妹がめざとく気付く。

 姉の方を向いて何も言わず口を開けたので、姉は一かけら放り込んだ。

 

「ねえ、かえりのふねのるとき、マレビトさんが名前かいてたけど、なんで?」

「この島はね、前も教えたクロアシアホウドリもそうだけど、珍しい生き物がいっぱいいる。だから来た人が勝手に持ち出さないように、身元が分かるように昔ルールを作ったんだってさ」

「ふうん? あいはかかなくてよかったの?」

「小島の住民はいいんだよ。おうちに帰ってるだけだもん」

 

 冬にも時々、生物の研究者が小島に来る。姉妹の帰島の便に乗り合わせた研究者たちは、船に乗る前に名前を書いているのを妹は見ていた。

 自分たち家族は顔パスだった。特に母は立場上推島によく行くため、推島の町役場の人にも小島の住民であることを覚えられているらしい。

 

「茉莉ももう少しで小学生かあ。いんねも楽しみだよ。茉莉が描く絵、すっごく上手だからもっと見てみたい。妹の絵が上手だって友達に自慢したいな」

「えへへへ。ねえ、がっこもたのしみだけど。推島だけじゃなくて、もっといろんなところ、見てみたい」

「推島以外も? いんねも行ったことないなあ」

「いんね……ありがと。いんねのおかげで、しまのそと、見れたから」

「ふふ、どういたしまして。私もまた行けて楽しかったよ」

「……いんねも、しまのそと好きなの? 時々……いんね、キョロキョロしたり、はーちゃがよんでも、へんじしないでなにかを見てる時あった」

 

 お礼を言われて姉が隣に腰かけると、絵を描くのを中断した妹が尋ねてくる。

 よく周りを見てるな……と姉は思った。この絵の正確さもそうだけど、結構観察眼がある子なんだな、と。

 しかし、尋ねてきた内容は少し意表を突くもので、いつもより落ち着いた口調で尋ねてきている妹に、どう返事をしようか悩んだ。

 

「そうかも。私はこの島が好き……でも推島は、小島に無いものがいっぱいあるもんね」

「うん! いんねも行ったことないならさ、推島以外にもいっぱい行こうよ!」

「あ、あははは……推島以外もか……」

 

 思ってもいなかった可能性を示されて、姉は答えに窮する。

 自分が、この島から出て、遠くに、いっぱい行く?

 ……いや……思ってもいなかったなんて、嘘だ。幼少期に祖父のお話を聞きているうちに芽生えた心に、無意識に蓋をし続けていただけだ。

 でも……。

 

(……次女であるあなたと違って。私は穴山の長女である身だから)

 

 母のように、この島でやらないといけないことがある。ずっとそう言い聞かせられて育ってきたから。

 推島くらいならともかく……本土や、さらに遠くに行くのは……。

 

「いつか、行けたらいいね」

 

 妹の目からキラキラ光線が放たれても、歯切れの悪い返事しか出来ない姉を見て。

 幼いながらも違和感を覚えつつ、妹はいつもの調子を取り戻した。

 

「うん! やくそくだよ! いっしょに行こうね!」

「……分かった。約束、ね。ほら、もう寝るよ。いい子にしないと『バクの鬼』が来るよ」

「ええ!? も、もうねるから」

 

 守れるか分からない約束をしてしまった後ろめたさを誤魔化すように、お絵描きをおしまいにして寝るよう妹に呼びかけた。

 この島の大人も子供も恐れる『バクの鬼』を口にすると、妹も素直に立ち上がった。

 

 燭台の灯りを消し、子供部屋の寝室に二人で向かう。木の床を素足で歩いたせいで、姉妹の足はすっかり冷えてしまった。

 それでも冬ごしらえした布団に入れば、隙間風が入ってくる寝室でもじんわりと暖かい。

 学校もあるし早く寝ようと、真っ暗な寝室で姉は目を閉じる。

 しかしそういう時に限って、些細な音も大きく聞こえて、些細な感触すら鋭敏に感じ取ってしまう。

 

「……何してるの?」

「ううん……」

 

 ごそごそという音の後、姉の布団に一瞬冷たい空気が入って来た。

 数か月前に綿畑で宣言したことを、何度も有言実行してくる妹に呆れながら、姉は自分の布団の端に寄って、一人分スペースを空けた。

 

「さむい……さむいよお……」

「もー、しょうがないなぁ。遅くまで上着も着ないでお絵描きしてたからでしょ?」

「あったかい……いんねのおてて、あったかいね。ここでねていい?」

「もう来ちゃってるじゃん。こんなに冷えちゃって……ほら、おいで」

 

 布団の中で抱き寄せた小さな体の頭を撫でたり、肩とかお腹とかをさすってトントンと叩いたり。

 妹が1歳くらいの頃、姉が抱っこするのが難しくなるくらい妹が大きくなると、代わりに添い寝しつつこうして全身を撫でた。そうすれば、妹の寝ぐずりが次第に収まって寝息が聞こえてくる。

 それは6歳の今も変わらず、寒いと体を震わせていた小さな体の動きがだんだんとおとなしくなっていく。

 全身布団の中に体を入れ、姉の胸に頭をうずめていた妹が、モグラのようにもぞもぞと上にあがってきた。

 姉の目の前の布団が盛り上がった直後、妹が布団から目から上だけひょっこり出して、姉を見上げた。

 

「やっと茉莉の手、あったかくなってきたね。早く寝よう?」

「……もっと、せなか、とんとん」

「えー? もう……甘えんぼすぎ。いんねが6歳の時は一人で寝てたよ? このままずうっといんねと一緒じゃないと眠れない子になったら困るよ。ほら、とんとん」

「えへへ……いんね、あいが入ってきて、さむくなかった? あいがあったかいなら、いんねは冷たいんだよね? あったかいは冷たいに流れていっちゃうんでしょ?」

「難しいこと知ってるねー。でも大丈夫」

 

 自分の身体が冷たいせいで、姉に寒い思いをさせたと心配する妹の頭を撫でた後、両手で自分より小さな両手を挟み、包んだ。

 重なった4つの手のひらの中心で、姉の熱を受けてすぐに温まった妹の手は、姉の手の動きに呼応して指に指を絡ませてくる。

 

「こうやってお祈りする時みたいに両手を合わせると、右手も左手も、どっちもあったかいでしょ?」

「うん」

「茉莉の言うとおり、あったかいものと冷たいものが触れると、片方は冷たく感じて、もう片方はあったかく感じる。

 だけど人の手と手だけは、触れた時にお互いどっちもあったかいって思えるの。

 だから、寒くなんかないよ。茉莉の手はあったかいから」

「よかったぁ……いんねぇ……えっとねぇ……」

「どうしたの?」

「あのねぇ…………」

「うん……?」

「…………」

「……おやすみなさい、茉莉」

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

「いんね、ここほんとに美術室なの? 音楽室に比べて何もないね」

「結局お外に出ることが多いんだよ。先生がそういうの好きな人だから」

「ふうん」

 

 長い冬が過ぎ去って、姉は中学生に、妹は小学生になった。

 二日前にささやかな入学式を済ませたが、小学校も中学校も同じ建物だから、姉の方はあまり『入学』の認識が湧かなかった。

 

 音楽室には楽器があったり、作曲家たちの肖像画が壁に並んでいたのに、それに比べ何も無い部屋で席に着く姉妹や他の子どもたち。

 定刻になると、初老の男性が美術室に入ってきた。

 島の教員はほとんどが推島から赴任していて、美術もその例に漏れなかった。

 

「新学期初めての授業だね。入学おめでとう。美術の授業は余り部屋に閉じこもらないで、外に行って何か写生していくからね。でも最初はあんまり遠くに行かずに……屋上へ行こうか」

 

 美術教員はこの島の自然と景色を気に入っているのか、先ほど姉が言っていたように屋外活動が多い様子だった。

 授業開始とともに生徒はみんなすぐに連れ出され、階段を上がって屋上に行く。

 初めて上がる、この島の一番高い建物の屋上。自分たちが住む神社の方が標高は高いけど、森に囲まれているから眺望は学校の方がはるかに良い。

 

「わー! すごーい! 学校の屋上からって、こんな景色なんだね!」

 

 屋上から見える、緑の多いこの島と、水平線まで何もない太平洋と、澄み渡ったきれいな空。

 画用紙と鉛筆、絵の具を渡されて、何を書いてもいい、と先生から伝えられた。

 

 何を描こうかな、と悩む妹の目に、隣でもう作業を始めようとする姉の横顔が映る。

 

『茉莉が描く絵、すっごく上手だからもっと見てみたい。』

 

「……せんせ」

「はい、穴山さん……の妹さんか。はは、お姉さんがこの学校に入って来た頃にそっくりだね。どうしたのかな?」

「あいは、いんね、描きたい……」

「お姉さんを?」

 

 先生と妹のやり取りが姉にも聞こえ、困惑顔でそれを見守った。

 つまり、モデルになれってこと? でも自分も課題をしないといけない。

 

「いいんじゃない? お姉さん、どうかな。今日のお姉さんはモデルになることが『授業』ね。提出はしなくていいから」

「いいんですか? でも……」

「冬学期の授業中に言ってたよね、妹さん、凄く絵が上手いって。人物画は難しいけど……先生もどのくらい上手いか気になるな」

 

 気さくに笑いながら姉の課題免除を言い渡し、美術教員は姉妹を屋上の一点に案内した。

 遠くに海と、島民の家と畑が見える、屋上の際だった。

 

「ここなんてどうかな。島の風景が上手く入る構図でいいと思う」

「ありがとうございます、先生。じゃあ茉莉、いんねのこと、上手に描いてね?」

「う、うん……初めてだけど頑張るね……」

「ふふ、うん。よろしくねっ」

「じゃあ描くよ、いんねこっち向いて!」

 

 周りの子たちもどんどん作業を進めている。競い合ってるわけじゃないけど、早く描き始めようとする妹に、もう一度先生が近寄ってきた。

 

「穴山の妹さん、お絵描きのテクニックを教えてあげよう」

「え? せんせ、あいにもできるかな……」

「できるよ。なに、そんなに難しい事じゃない。三分割法っていう考え方があってね……お姉さんを描くわけだけど、お姉さんを真ん中にするわけじゃなくて……」

 

 一週間に一度しかない代わりに、美術の授業は二限連続で行われる。

 描かれる方も長い間じっとしていないといけないから、結構疲れてしまうけど、いじらしくこちらを観察しながら精一杯描く妹が可愛くて、笑みを抑えられないままあっという間に時間が過ぎていく。

 

 先生が妹に絵画指導をしたのは最初だけで、それ以外は他の子の絵を見て一人一人指導しているうちに、美術の授業は終わった。

 

「みんな頑張ったね。上手に描けてる。しかし、これは……穴山の妹さんの絵は、ちょっと上手すぎるな……長く教えてきたけどこんなに絵が上手い子は初めてだよ」

 

 基本的に生徒を平等に褒めるこの教員がべた褒めする妹の絵の出来が気になって、姉も覗き込んだ。

 真ん中じゃなくて、右3分の1くらいのところに姉が立っている構図。左側には、この屋上から見える景色が広がっている。

 先生の教えどおりの構図で描かれた振り返って笑う姉の表情は、見る人に強い印象を残した。

 モデルその人の特徴をよく捉え、その瞬間の情景と描かれた人の感情を丁寧に切り取った絵だった。

 

 妹が、誰かに見せたい、ずっと残していきたいと思った、姉の姿だった。

 

「すごい上手だよ、茉莉。皆に自慢しちゃおうかな」

「えへへへへ、へへへ。じゃあ、この絵はいんねにあげる!」

「ほんと? ふふ、ありがとう。茉莉、今日頑張ったから……授業日誌、書いてもらおうかな。先生、良いですか?」

「ああ、いいんじゃないかな。先生からも頼もうかなと思ってたよ」

「日誌って、何書くの?」

「その授業の感想とか、何を学んだとか、だけど……何でもいいんだよ。穴山の妹さんがこの授業中に感じたこと、素直に書いてごらん」

 

 受け取った日誌は、各授業で必ずつけるように言われているものだけど、美術の授業では結構肩の力を抜いて書いてもいいらしい。

 名前欄に『あなやま』と書いたあと、内容欄に何を書こうか妹は悩んだ。次の授業もあるから、早く書き終わらないと。

 感じたことを素直に……。

 

 

『19××年 4月10日

 あい(=私)も うっつえ(=一昨日)から がっこに行けるようになって はじめておえかきしました

 せんせも じょうずといってくれました

 大すきな いんね(=お姉ちゃん)のえ いんねもうまいと いってくれました

 だから いんねにあげようと おもいます

 いんねがうれしいと あいもうれしいです』

 

 

 書き終えた妹の日誌の内容を、姉も読み込んだ。

 読みながら、妹の発言や行動を振り返る。

 

 大人の前でかしこまる姉の肩の力が抜けるよう振舞って。

 姉がやらなきゃと思ったことを手伝おうとして。

 姉の好物があれば、姉の真似をして「あーん」としてくれて。

 遠出を楽しむそぶりを見せたら、もっと遠くへ一緒に行こうと言ってくれて。

 

(そう、だったんだ……)

 

 わがままで甘えんぼなこの子は、ずっと一貫していたんだ。

 姉が嬉しいと、自分も嬉しいって。

 

「茉莉……この絵。大切にする。ずっと、大切にするね」

 

 ずっと、姉の自分がこの子を世話しなきゃ、と思ってた。自分が産まれて来てほしいと望んだ命だから、それが当たり前だと思ってた。

 可愛い妹が柔らかく小さな手を姉の方に伸ばした時、その手を温めることが出来るなら、それだけで満たされていたのに……いつの間に、こんな子になっていたんだろう。

 『お世話してる』つもりだったのに、どちらの方が多く受け取っていたんだろう。

 

 姉妹とはいえ、他人。きっと、姉と妹は違う気質を持って生まれてきた。

 それでも、共に生きるうちに、お互いの心が、お互いに編み込まれていって……どこか、自分と似はじめた妹に、改めて絵を受け取ったことについて言葉にした。

 手元の絵から感じる繋がりは、陽だまりのようだった。

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

「学校での初めてのお絵描きはどうだった?」

「えへへへ!」

「そっかそっか、分かりやすい子だね」

 

 満面の笑みを浮かべながら見上げてくる妹の頭を、姉は指先まで使って手のひらで包むように両手で撫でた。

 子供の細く触り心地のいい髪が、撫でられるのに任せて少し乱れる。そうすると、些細なことでも全力で笑う高い声が姉の手の中から聞こえる。

 その声を聞くと、姉の表情もふわりと変わる。妹が描いた絵と同じ表情が、頭を撫でる彼女にも咲いた。

 

「ねーねー、学校の上から見えたんだけど、がっこの裏に何かあるの? 黄色っぽいものがいっぱいあった!」

「ああ、屋上から裏手見たのね。普段は大根とか野菜育ててるんだけど……じゃあさ、今から行こっか」

「えー? 帰りが遅いと、はーちゃに怒られない?」

「少しなら大丈夫。茉莉、ついて来て!」

 

 妹の柔らかくて小さな手を引き、妹の歩幅に合わせて姉のお気に入りの場所に連れて行く。

 少し前までぺたっぺたっとした歩き方だったのに。私一人で歩いている時と速さがもう大して変わらないな、と姉は思った。

 

「うわあ〜〜!」

「今の季節はね、ここ、フリージアがいっぱい咲くの。そっか、茉莉はここに来たことなかったよね」

「これ、校庭にもあった花?」

「そう。この花はね、元々はアフリカっていう遠いところのお花なんだって。それで、春から初夏にかけて……うわっ!?」

 

 姉の説明を最後まで聞かずに、今度は妹が姉の手を引っ張ると、姉はつんのめりながら花畑に飛び込まされた。

 姉と手を繋いだまま、目が回るのを厭わず姉を中心にして遠心力に任せてぐるぐる回る。

 背が高くない黄色の花が二人の踝を覆い、蜜を吸っていた蝶や蜜蜂が姉妹に道を空けて飛び立った。

 やがてコマの中心にさせられた姉が目を回して、その場に尻もちをついて花を下敷きにして寝転んだ。

 

「どーん!」

「ぐふっ……! ま、まつり……お腹にどーんは、ダメ、だからね……」

「あはははは!」

 

 大の字に倒れ込んだ姉を見て、その胸に飛び込むようにわざと妹がのしかかり、不意打ちで重たいものが乗った姉がうめき声を上げた。

 しばらく姉の胸に顔をうずめて頬を擦り付けていた妹が、ゴロゴロと転がるように寝返りを打って姉の身体から転げ落ちて、姉の腕を枕にして空を見上げた。絵を描いていた時は快晴だった青空が、少しずつ白い雲に覆われていく。

 

「いい匂いだねー」

 

 顔の真横にある花に近づき、胸いっぱいに息を吸う。

 甘さと瑞々しさが混ざった匂いに、ほんのりと冷たい風が運ぶ潮の香りが混ざった。

 

「お花を少し頂戴します……茉莉、見ててごらん?」

 

 妹と一緒に身を起こした姉が地面に座り込み、島の自然に一言挨拶したのち、無数にある花の一つを摘む。

 花の根元に口づけする姉を真似すると、妹の口の中に芳醇な花の蜜が注がれた。

 

「甘い……」

「少しだけにしてね、お腹痛くなっちゃうから」

 

 フリージアの蜜は、ジュースなんて無かった生活の中で、サツマイモや焼いた蕪、干し柿に並ぶ甘味だった。思わず次に次にと手を伸ばそうとする妹を姉がたしなめる。

 それでも『あと一本でやめる!』という言葉を何度も繰り返し、妹の横座りの太ももの上には手折られた花がいくつも並んだ。

 

「もー、少しだけにしてって言ったのに」

「だってー」

「お花がもったいないなぁ。じゃあこれは、こうして……」

 

 手を伸ばして妹の太ももの上に無造作に積まれた花を取り、姉は茎を捩じって縄をより合わせるようにして一つにしていった。

 花びらの位置を少しずつずらしながら丸い形により合わせて、やがて月桂樹の冠のように掌よりも大きな輪になっていく。

 緑の茎を裏地に、輪のいたるところに黄色い花が咲いている花飾りが出来上がった。

 

「すっごーい! いんねは何だって出来るんだね!」

「そうだよー? いんねは何だって出来るんだよ?」

 

 えっへんと胸を張る姉から、いつも大人びようとし続ける彼女の、隠しきれない子供っぽさが滲み出る。

 すごいすごい!と目を輝かせてこちらを見る妹の目を見て、そんな湧きあがる嬉しさが、次第に照れに変わっていった。

 

「綺麗……」

 

「おうさまが言ってたんだけど、『お外の世界』じゃ春の色って、薄紅色なんだって。『サクラ』っていう花があるって。

 この島の春の色は黄色。寒い冬は、漁に出れないほど海が荒れるし、畑からあんまり取れないし、雨が少なくて水に困るし……そんな冬を終わらせてくれる花だから。

 

 黄色はね、寒さが和らぐ砌の、温かさを思い出させてくれる色なの。

 

 いんねもこの黄色の花が好きだよ」

 

「ふうん。いんねは『サクラ』見たことあるの?」

「無いなあ。図鑑で見ただけ。花びらが散ると綺麗らしいんだけど、どんなお花なんだろうね」

「えへへへ、でもあいは、いんねが教えてくれた黄色のお花のほうがいい! 輪っか、いいなー。あいも作れるかな?」

「ふふ、もう夕方だから、また今度教えてあげる。今は、茉莉……おいで」

「うん?」

「もっと近く……」

 

 自分が作った花飾りを見下ろし、すぐ隣にいる妹に声をかけた。

 にじり寄ってきただけの妹にもっと寄るよう伝えると、わざわざ姉の膝の上にすとんと座って、姉の胸を背もたれにしてきた妹。斜め上後ろに振り返って、姉と目を合わせてにひひと笑う。

 数年前と同じ動きなのに、姉の足にかかる重みはずっしりとしていて全く違った。

 

「……この甘えんぼめ」

「いんねが来てって言ったんじゃーん。えへへ、あったかーい」

 

 言葉を覚えはじめた時と大して変わってないのか、びっくりするほど成長しているのか。

 はっきりしない6歳の命に、手元にあった花飾りをかけた。

 急に首に温かい姉の手が触れてきてびっくりしている妹の首元が、華やかな黄色で覆われる。

 

「このフリージアの首飾り、茉莉にあげる」

「いいの!? わーい!」

「うん。これは茉莉のもの。お礼だよ」

「え?何の? あ、さっきのお絵描きの絵?」

「ふふ、それもあるけどね。それだけじゃないよ?」

「……? いんねのために何かしたっけ? あ! 柿あげたりとか、お芋とったりとか!?」

 

 振り返って、キョトンとした後にドヤ顔を見せる妹の頭を、もう一度わしゃわしゃと撫でる。膝の上の妹は猫のようにくすぐったそうに目を細めた。

 

「そうだね。でもね、誰かのために何かするって、モノをあげたりとか、何か手伝うとか、そういうのだけじゃないんだよ」

「ふーん? たとえば?」

「そうだなぁ……例えば、こうやってお話してくれたり。一緒に遊んだり。お友達とそうしていると楽しいでしょ?」

「うんうんそっか。つまり、いんねはあいと遊んでほしいんだね。しょーがないなあ」

「んんー? なんでエラソーなんだこの子は? 茉莉はさぁ、いんねにはわがままだったり」

 

 姉にわがままを言ってくれて。

 

「泣き虫だったり」

 

 姉の胸で、安心して泣いてくれて。

 

「甘えんぼだったりじゃん」

 

 私を求めてくれるから。妹のあなたに、フリージアの首飾りをあげるの。

 

「なにそれ! 甘えんぼじゃないもん!」

「じゃあ今いんねのお膝に座っているのは誰かなー?」

 

 言われて恥ずかしくなった妹が立ち上がろうとすると、今度は姉が妹を後ろから抱いてそれを止めた。

 妹の肩幅が姉の胴体幅と同じくらいだったから、抱きしめるとすっぽりと腕の中に収まった。

 

「温かい……茉莉はあったかいなあ」

「もー! いんねやめてよ、髪、くすぐったい」

「甘えんぼ、私の方かもね。ふふ……茉莉が私のところに来てくれたことが、一番嬉しいの」

「えー、それだけ?」

 

 まだ妹に伝えてなかった。きっと両親も伝えていない。

 年の離れたこの妹は、本来産まれてくる予定ではなかった命であること。

 祖母の意思で、母も兄弟姉妹がいない一人っ子で、茉白も元々一人っ子であるはずだったこと。

 

 それでも不思議なめぐり合わせで、茉白の願いが叶い産まれた命であること。

 それだけでなく、同じ屋根の下で育ち、お互いが姉妹であると認識しながら過ごせていること。

 

 だから──

 

「茉莉の命も、茉莉と私が会えたことも。私が祈ったから来てくれた、神様からのおくりものなんだよ?」

 

 あなたと会えたこと、当たり前だって思わないから。

 

「かみさま? あははっいんねどうしたの? 神様だって。変なの!」

「ええ……変なのって、そんな反応……あなたも一応神職の家系なんだから……」

「じゃあ、あいも、いんねがいてくれること、当たり前だって思わないから!」

「……意味わかって言ってるのかな、この子は。真似っこしてるだけじゃないの?」

「そんなことないもん! あいはいんねのこと、大好きだから!」

「そっか……ふふ。茉莉は本当に……一緒にいると元気をくれるよね。じゃあ、いんねのどんなところが好き?」

「うーん…………あったかい、ところ?」

「……」

 

 『賢い』『お利口』『真面目』『優秀』『しっかり者』。

 妹がかけてきた言葉は、大人たちがかけてくるものとは違う。片腕でもっと強く抱きしめ、もう片手で頭を撫でる。今日だけで何度も撫でられた妹の髪は、癖っ毛のようにあちこちに撥ねていた。

 振袖のようにゆったりとした姉の袖が妹の顔にかかって、妹は袖をどけて真上を見た。後ろから抱く姉が妹の顔を見下ろす。

 

 お互いの顔が上下互い違いのまま目が合う。垂れ下がった姉の長い髪が帷のように二人の顔の周りを覆い、表情はお互いにしか見えないまま、微かにくすくすとだけ周りに聞こえた。

 

 大好きだと言ってくれた妹に同じ言葉を返そうとしたけれど、妹の首元に咲く黄色の花を見て、代わりに違う言葉をかけることにした。

 

「お花にはそれぞれ、言葉が込められてるんだって」

「ふうん?」

「花言葉っていうんだけど。黄色のフリージアの花言葉は、『無邪気』。ふふ、茉莉はフリージアの花が似合うね」

「えへへへ、お花にあう、かあ。へへへ」

「でもね、フリージアには他にもいっぱい色があって……どの色でも共通の花言葉があるんだけど……」

「なーに?」

「……それは、茉莉に自分で調べてもらおうかな」

「えー! けちー」

「自分で調べるのも勉強だよ。茉莉も小学生になったんでしょー?」

「いんねも先生みたいなこと言うね……ねえ、この花飾り、すぐに枯れちゃうよね……? どうすれば、ずっと……」

「押し花のやり方、教えてあげる。そろそろ帰ろっか。作った押し花、いんねが作ってるうちの神社お手製のお守りに入れよ?」

 

 服を少しはたいて草花を落としながら、姉が立ち上がる。

 座ったまま見上げてくる妹に右手を伸ばすと、妹はその手を両手でつかんで引っ張り立ち上がった。

 

「雨、降っちゃうのかなあ。曇ってきた」

「花曇の空、だね」

「はな……雲なのに?」

「花が咲く季節の曇り空を、花曇っていうの。曇りなのに陽の光も感じる明るい空。でも少し、空気が湿ってる気がする。確かに降ってきちゃうかも。早く帰ろ」

 

 手を繋いで、学校の裏の花畑から山の上の神社に向かう。姉の腕にしがみついて、ぴょんぴょん跳ねながらぶら下がろうとする妹のせいで歩きが遅くなり、校門を過ぎたあたりで次第に霧雨が姉妹を包んだ。

 

 空と海を霞ませ、音だけを無くしたかのような、静かで優しい雨だった。

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 ―48年前―(9歳)

 

「え~ん……」

「また怒られたの? しょうがない子だなあ、茉莉は……」

 

 薫風に湿り気が混じり、木々の緑が濃くなった頃。日直のため帰りが遅くなった姉が家に帰ると、社の奥の方で正座させられている妹を見つけた。

 妹ももう9歳。怒られて泣きべそをかくような年ではなかったけど、未だに親に折檻されるような悪戯をしている妹にため息をつく。

 

「お帰り」

 

 姉が帰ってきたことに気付いた母が、社の奥から現れた。手には仕事で使う大幣を持っている。

 

「いつも使っているのがほつれちゃって。さっき予備の大幣がある為朝の社まで行ってきたの」

「茉莉と?」

「そ。で、回収したそれを振り回して遊び始めたまではまあ、そこまで怒るほどではなかったんだけど。倉庫に忍び込んで、あの薬品の蓋開けちゃったから」

「えー! あれは触っちゃダメって言ってるじゃん! 大丈夫なの?」

 

 『あの薬品』が少なからず危険なものであることを知っている姉は、絶対に触らないよう早い段階から妹に言いきかせていたが、妹の好奇心は姉の言葉を上回ってしまった。

 母が十分叱っただろうことも含め、姉としては叱るより先に心配の言葉が漏れた。

 

「大丈夫よ、近くで嗅がなかったから。はあ……この子ったら、まさか窓から入るなんて。この社に比べたら、あの社は子供でも行きやすいし、基本無人だし……他の子が入ったら危ないからせめて薬品はこっちに回収しておこうかしら……けど、一度開封しちゃうと揮発して抜けちゃうものだから、あれはもうダメかな……正直、もう無くて良いと思ってるし」

「とっとくなら鍵付きの箱とかに入れといたら? 倉庫の中なら鍵もさびにくいと思うし」

「そうね、そうしましょう……さて、茉莉、足崩していいわよ」

「足しびれた〜……」

 

 母は姉に荷物を置いて手を洗ったら戻るよう伝える。姉が戻ってきたので、母は妹の隣に座るよう伝えた。

 

「色々教えてなかった私も悪かったわ。茉莉ももう9歳だし、いい機会ね。ちゃんとこの神社と巫女の務め、お話ししようかな」

「……はーちゃ、茉莉にも話すの?」

「茉白、あなただって9歳の時にはもうお手伝いしてくれてたでしょ?」

「そうだけど……」

 

 妹は、大きくなったらこの島から出ていくだろうな。推島での小旅行で興奮していた妹の姿から何となくそう考えていた姉は、妹に神職の仕事を教えることに消極的な立場だった。

 しかしどうやら母は違う考えを持っているらしく、古めかしい本を片手に姉妹の前に座った。

 これから話すのは、遠い昔、幼かった姉に病弱な祖母が語った、この神社のあれこれだろうか。

 

 優しくも、身体……どちらかというと精神を病んでいたのか、あまり表に出てこなかった祖母だけど、たまに祖父に連れ出されて陽の光を浴びていた。

 祖母が心から安心して笑顔を見せていたのは、祖父だけだった気がする。

 

 そんな祖母も、茉莉が産まれる直前に祖父が亡くなって数年後、祖父ありきの命だったかのように、すぐ後を追うように黄泉に隠れてしまった。

 茉莉が産まれた瞬間には立ち会えたものの、産まれたばかりの茉莉を抱きながら『ごめんなさい……』とつぶやいていた姿がどうしても忘れられない。

 

 昔を思い出していた姉の頭は、語り出した母の声で呼び戻された。

 

「むかしむかし、伊邪那岐神と伊邪那美神という二柱の神様が……」

「え、はーちゃそっから話すの? 長いと茉莉寝ちゃうよ?」

「……そうね、じゃあ、そんなこんなで、天照大御神様がお生まれになりました」

「えー!? 寝ないもん!」

「本当? じゃ、ちゃんと話すわね」

 

 母の口から語られたのは、神話の時代の話だった。

 伝説的な話だから、創作だろうことは妹の頭でも分かるけど、登場する個性的な神々の物語を理解半分で聞いていた。

 

「こうして、伊邪那岐神と伊邪那美神がお創りになった日本の地に、沢山の神様がお生まれになり……それを奉る神社が各地に出来ていきました」

「ふーん……」

「っていうのは実は嘘で」

「え!?」

「8世紀に綴られた古事記、日本書紀、万葉集……それから10世紀に成立した『延喜式神名帳』を見ると、昔から神話で語られる神様を祭っていたのは、伊勢神宮とかの限られた神社だけだったみたい。当時記録にあるだけで2861あった神社の殆どは、具体的な祭神名を語り始めたのは10世紀以降から。有名な神様を勧請(かんじょう)したりしてね」

「うーん……??」

「ってことで、各地に神社が出来た頃は、メジャーな神社以外は有名な神様を祀ってない。『神社』の歴史は『神話』より長い。それなら、それ以前の人は何を神様として見ていたか。

 山。水。海。樹。石。火。風。超常的、驚異的な力を示す現象と存在を神様と捉えていた。この島にもたくさんの神様がいて……地水と川がないこの島では、水の神様こそ最も尊いもの。

 この神社がお招きしている神話の神様は、天照大御神様。地の恵みを育む……私たちが生きる上で欠かせない、日輪と……天水だけに頼らざるを得ない生活である以上、日輪だけではなく雨雲も神様からいただくものだった。つまり……」

 

「スヤァ」

 

「はーちゃ、茉莉が寝てるよ」

「……これでも省略して話してるのに。しょうがないわね、目が覚めるようなところに行きましょうか」

 

 母が立ち上がったのに合わせて、姉が妹の頬を両側からつまんで起こし、二人で社の奥に歩いていく母について行った。

 

「茉莉、昔話は時間をかけて勉強してちょうだい。とりあえず、巫女の務めが3つあるから、それを先に教えるわ」

 

 いつもは施錠されている、社の最奥の大きな扉。その扉が妹が見ている前では初めて開け放たれ、好奇心が高じて妹が母の背から頭を傾けて中を覗こうとする。

 灯りを持つ母が入ると、薄暗い空間の奥の方がキラっと光った。

 

「ここ、なに?……お皿? なんか、くすんでいるような……」

「青銅の鏡ね。本当に大昔からあるものらしいわ。茉莉はここに入ったのは初めてよね。ここは本殿で、神様がおられる所。さっき話したこと、覚えてる? 神話の中で、鏡が出てきたでしょ」

「あ、えーと、アマテラス様が、岩の中に隠れちゃったけど……その中から出て来てもらう時に使ったとか……」

「そうそう。最初の方はちゃんと聞いてたのね。隠れてしまった天照大御神様を呼び戻した鏡は、日輪信仰の象徴。この島以外の神社も、本殿に鏡がある所が多いわ」

 

 鏡の周りにいくつもおかれていた大きな箱は、蓋をかけられて封じられている。母がその中の一つを開けて、中を照らした。

 色々なものが雑多に入っていて、そこに統一的な法則は見出せなかった。

 

「これは?」

「簪ね」

「かんざし? どうやって使うの?」

「髪飾りよ。桔梗の飾り付き……これは確か、古文書の日記の……。じゃ、結構昔の人のものかな。ここにあるものは、(よすが)。亡くなった人と、それを送る人の縁をかたどるもの」

「ふーん……」 

「さっき、自然を神様と見立てるって話をしたよね。もう一つ、神様となりうる存在があった。死を経験した人……ご先祖様が、神様だった。亡くなった方が神様として現世(うつしよ)に残るには、鏡のような『依代』が必要。人が人の依り代となることを『縁』といった。縁の形は色々……東照大権現のように、功績をたたえて、尊敬を縁として神様としたり……天神様や平将門命のように、恨みと恐れを縁としたものも。

 この島も同じ。命は亡くなると黄泉へ隠れてしまうけど、この島で一番大切な水を『迎え』と『送り』……生まれ、死ぬ時に捧げて。『縁』が『依り代』になるよう、奉ることで生きていた人の霊魂が一部残って神様となり、その神様はこの島の自然に宿る。この島のどこかでその人が息づいていると、思うことができる。

 茉莉、分かるかしら?」

「あんまり」

「素直ねえ。要するに、生前仲良かった人との(よすが)を神社に納めれば、神様になって島の自然に残ってくれるはずってことよ。(よすが)があれば、また会える気がするって。

 

 或いは……亡くなる人が自ら、自分が死んだ後も見守っていきたい人との繋がりを(よすが)として決めて、祀ってもらうよう頼んでいったことも多かったみたい。

 

 人が生くるとは、人の中に遺ること。

 

 そして自然に宿ったご先祖様に祈るの。『地震が減りますように』『台風が減りますように』『崖が崩れませんように』『ちょうどいいくらいの雨が降りますように』『豊作になりますように』『船が出れるくらい海が穏やかでありますように』とか色々。

 だからお葬式の度に新しい(よすが)を受け入れるとともに、ここにあるたくさんの人の(よすが)を守っていかないとね。それが巫女の務めの1つ目」

 

 母が箱の蓋を元通りにしようとしゃがみ、姉も手伝った。

 一人では少し大きい蓋で、普段開けられていないからか埃が舞い、妹は顔を顰めながら鼻と口を覆った。

 

「並べてみると結構自分勝手なお願いだね」

 

 自然現象なんて祈ったところで起きる時は起きるのに、と妹は率直な感想を言う。

 

「茉莉……昔は推島とこの島は流刑地だったのよ。勝手に島から出ていけなくて、今ほど崖が切り開かれていないから畑も少ないし、水を貯めるものも無かった。頼れるのは、同じ島民と、かつて島民だった神様だけ。過酷な自然の中で、人だけが救いだったからこんな信仰になったと思う。

 流刑地と言っても、みんながみんな罪深い人ってわけじゃない。戦いに負けた人とか……病気で苦しむ伴侶を想って心中しようとした人とか。

 たとえ罪を背負っている人でも、祈りの心くらいなら、許されてもいいでしょう?」

「うーん……そうかも。じゃあ、死んじゃった人とまた会いたいから、(よすが)で残ってもらってるってこと?」

「ちょっと違うかな。どちらかというと、きちんとお別れするために(よすが)を祀ってる」

「え、どうして? 残ってくれないと寂しいからやってるんじゃないの?」

「……これは茉莉にはまだ早いわね。大きくなったら分かるわ」

 

 子供扱いされてあしらわれたと感じた妹が口を尖らせる。

 そんな次女の頭をポンポンと撫でた後、本殿から姉妹を出して施錠したのち、母は本棚のある自室に娘たちを案内した。

 

「巫女の務めの2つ目は、20年に一度のお祭りの役目。眠ることで、夢で直接神様たちに島の自然を穏やかにしてもらうようお願いすること。いつの時代も、神社は『神様』と『人間』の仲介だからね」

 

 そう言いながら母が取り出した本は、相変わらず古めかしくて黄ばんでいる。

 開いても、文字もカタカナばっかりで読みにくい。

 

「ところで茉莉、あなたは夜泣きがひどい赤ちゃんだったわね」

「え、何急に。赤ちゃんの頃なんて覚えてないよ」

「茉莉が覚えてない代わりに茉白が覚えてるわ。いんねは今の茉莉より年下の頃、なかなか眠らないあなたを夜に何時間も抱っこしてたのよ」

「えー!? いんね、本当?」

「あはは……まあ、何時間も、は大げさ……でもないかも」

「いんね……あいがいたせいで、大変だった……?」

「そんなことないよ、大丈夫」

 

 しゅんとした妹の肩を撫でながら、姉は母に少し不満げな視線を向けた。

 赤ちゃんなんだから誰でも当たり前なのに、こんな話をしたら、この子は罪悪感を覚えてしまうかもしれない。

 しかし母はそんな姉妹を満足げに眺めながら、飄々と話を続けた。

 

「さてそもそも、なんで赤ちゃんは夜泣きをするんでしょう? 本当のところは分かってないらしいけど……『眠りを死と勘違いしている』『夢の内容にびっくりしてる』っていうのもあるらしいわ。

 お祭りで私たち巫女のやることと似てる考え方ね。この島の神様は、本来隠世にいる人。眠りによって疑似的に死ぬことで、夢の中で隠世に行って神様に直接お願いしてくるの」

 

 語られる話がだんだんと抽象的、霊的な内容になっていくにつれて、妹は困惑顔を浮かべる。

 母は古い本を開きながら話を続けていた。

 

「万葉集では、夢は「伊目(いめ)」と書かれている。その語源は「寝目(いめ)」であるとされ、眠りの中で見ることができる不思議な夢は、古代の人も関心があった。

 古事記には、疫病の流行を憂いた崇神天皇が夢を見て、そこに現れた大物主神から神託を得て解決する場面がある。

 眠りは死の体験。夢は人間が神々と交わる回路であり、異界からの信号。

 もう17年前か……前のお祭りで、皆に見られながら私も眠ったわ。次のお祭りは3年後。茉白に頑張ってもらわないとね」

「なんで20年に一回なの?」

「式年遷宮って言葉、聞いたことある?」

 

 妹の疑問に母が答えた言葉は、ずっとこの島にいた子供には当然聞きなれないものだった。

 

「天照大神がおわす伊勢神宮は20年に一回、まあ、平たく言うと維持管理の改築を千年以上前からしてるんだけど。時間が空くと世代が代わっちゃうからね、宮大工の技術を次の世代に伝えられる間隔が20年なんだって。昔からあるうちの神社もそれに倣ってか、20年に一回悪くなったところを直したり、(よすが)が増えていく本殿を増築したりしてる。

 そのタイミングで、『島も世代が変わりました』ってことで、ご先祖様との顔合わせのためにお祭りも一緒にやってる」

「え、誰が工事やるの?」

「島民総出でやってくれてた。皆は小さな家なのに、私たちは豪邸に住まわせてもらってるってこと」

「……なんか、申し訳ないね」

「ちなみにととうは前回の改築に参加してる。今回の改築では棟梁よ」

 

 学校より低い平地にある他の島民の家は、一世帯で8畳程度の小屋のようなもの。

 大して私物を持っていない以上、限られた土地は家より畑に使う方がよく、複数人が住むには狭い家ばかりで、料理は屋外でやっている所もある。

 そんな住環境の島民たちが、山の上まで資材を持ってきて穴山家のために工事をする様子を想像して、妹は居心地の悪さを感じた。

 

「ここは森の中で風が弱いし、台風の避難所も兼ねてたらしいけど。それだけ、皆この神社と信仰……ま、私たちに縋ってるということ。

 お祭りの夜は島民皆来るわ。私たちは皆の期待に応えないとね」

 

 期待に応える、というのは、さっき母が言った『眠る』という役目のことだろう。

 眠って神様に会う? どうやって?

 そんなこと、本当に出来るのかな……。

 それに夜眠るだけなら、そんなに大変じゃないよね? みんな毎日やってる。

 妹の疑問を察したのか、母がお祭りの詳細を語る。

 

 この神社でお葬式をした時、遺族は(よすが)を祀った後、この島のシュロの繊維を『標縄』に編み込んでいく。

 そうして20年で伸びていった何本もの『標縄』のうち、一本だけお祭りの最中に燃やすのだという。

 

「万葉集にも書かれている『標縄』は、そこに神様が存在する印。燃えていく縄のケムリはご先祖様がいる黄泉への道しるべ。

 隠世に行ってしまった人との紡いだ縁を編み込むように、みんな注連縄を作るの。

 いくら修行した穴山の巫女でも、眠りは仮の死でしかない。死んだことが無い人は、黄泉への道を知っているわけがない。煙の道しるべが無ければ黄泉へはいけないから……巫女は煙が出ている短時間にドンピシャで眠り始めないといけない。これが結構大変なの。

 想像してみて。数百人に見られながら、数分以内に寝ないと20年に一回のお祭りが失敗するプレッシャーを」

「寝なきゃって頑張るほど眠れない気持ち、分かる……あいも眠れない日は、いんねの布団に行くから……」

「え? じゃあ茉莉は毎日寝つき悪いから私の布団に来てるの?」

「はーちゃ、お祭りで眠れなくて眠ったふりをしちゃったらどうなるの?」

「また話逸らしたな……」

「眠ったふりをしてしまったら……お祈りが届かなくて、島に災厄が起こるって言われてる」

「そうなんだ……ひょっとしてお祭りにあの薬品が使われるの?」

「あなたたちのおうさまの話をしましょうか」

 

 本をパタンと閉じて本棚に仕舞った母は、代わりに入り口反対側にあったふすまを開けて、小さな木箱を取り出す。

 開けられた箱の中には、島には無い珍しいプラスチックの名札と眼鏡。そして、写真だった。

 

「何これ?」

「おうさまの遺品。もっとあったんだけどね……さすがに選別した。戦争を経験した人だからかな、モノを捨てるって発想が全く無い人だった」

「これ、写真!? 学校の図鑑で見たことある! カメラっていうやつで描くんでしょ!? すごーい! 見たまんまに描けるんだね! これで……いんね、描いてみたいなあ」

「あははは……写真は『撮る』っていうんだよ。この島にカメラなんて無いけど……じゃあ茉莉がカメラを持てる機会があれば、撮ってもらおうかな」

「うん! えへへ」

 

 話が逸れ始めた姉妹に対して、軽く咳ばらいをして母が話を続けた。

 

「茉白もこの写真見たことなかったかしら?」

「うん……おうさまの……若い頃? 白衣着てるね。お医者さんだった頃?」

 

 幼少期に遊んでくれた壮年の祖父とは違う若い姿を、姉が珍しそうにのぞき込む。

 

「そ。おうさまはね、子供の頃……戦争が終わった直後、幼い弟を亡くしちゃったんだって。疎開先から故郷に帰ろうとして……船の上で、病気で死んじゃって。亡骸を海に捨てざるを得なかったんだって。弟は身体が弱いのに、自分が無理やり帰らせようとしたからだって、何十年経ってもその時を思い出すのが辛いって言ってた。だから病気を治せるような人になりたいって思ったのかしら」

「おうさまって、ためともさんだったんだ!?」

 

 推島とこの島では、本土からやってきた男性が島の女性と結婚して移り住む時、その男性を『ためともさん』と呼んだ。

 祖父が島外出身であることを今更知り驚く妹。

 それに比べ姉は、博識な祖父が島外出身の医師であることを幼少期に本人から聞いていたし、だからこそ外の世界についてよく知っていることも理解していた。

 

 推島の病院に赴任した時代のものなのか、『高坂』と書かれた名札を妹はしげしげと眺める。

 

「……たかさか?」

「『こうさか』。穴山家は女系だからお婿さんが苗字を変えるけど、高坂はおうさまの旧姓ね」

「ふうん。なんでばんま(=お祖母ちゃん)と結婚したんだろ?」

「ばんまが推島の病院に一時期入院した時があったらしいわ。そこで一目ぼれしたんじゃない?」

「ふうん……?」

「ま、それはとにかく。お医者さんだったおうさまは、ばんまと結婚してお医者さんをやめる時、病院からあの薬品を持ってきてくれたの。あれは麻酔薬……たくさん吸ったら無理やり寝てしまう薬品よ」

「そんな薬あるんだ。怖……」

「そう、怖いの。これからは勝手に開けちゃダメ。危ないし、悪い子には『バクの鬼』が来るわよ」

「ええ!? うん……開けない。……ケムリが昇る間にうまく眠るために、その薬品を持ってきたってこと?」

「そのとおり。茉莉は賢いわね。いい子いい子」

 

 やや脅し気味に声を低くして母が伝えると、身を縮こませて妹が呟く。

 その後話の内容を理解した妹の頭をグリグリ撫でる母を見て、姉は思う。

 

 具体的かつ余計なことを言わずにこの話を終えようとしているな、と。

 

 祖父がその麻酔薬を持ってくる前はどうやって祭りをしていたのか。なぜ祖母は入院したのか。

 眠りに失敗してしまった時、実際に過去どうなったのか。

 

 それに加え、茉莉に『穴山家の第二子』の本来の役目を言うとショックだろうから、言わない方が良いだろうと。

 

「そろそろ暗くなっちゃうよ」

 

 母の意図をくみ取り、姉は次の話題に誘導した。

 

「そうね。じゃあ最後に。茉莉、この島で一番怖いのは何でしょう?」

「え? ……台風?」

「そうよねー。一回来ると島の1割くらいの家が吹っ飛んでいくもんね……頭が痛いわ。でもそれより怖いものがあるでしょ?」

「……『バクの鬼?』」

「そう。それを退治すること」

「え!? 怖い鬼と戦わないといけないの!?」

 

 子供たちの躾やいうことを聞かせる脅し文句として言い伝えられている『バクの鬼』。妹も例外でなく恐れていた。

 推島からやってくる鬼は、瞬く間に多くの島民を食べてしまう恐ろしい存在だと。

 しかし、この島の場合は大人も本気で怖がっているのが特異だった。

 

「そもそもバクの鬼が何なのか教えてあげないとね」

「怖い鬼でしょ……? 見たことないけど」

「……見たことないのは、見えないから。『病気』やそれを連れてくる存在のことを言ってるのよ。どうしても水は推島より不衛生だし、狭い島だから伝染るのが早いし、罹患した罪人が来たこともあるし……過去に何度か、人口が半分になってる。室町時代の疱瘡と江戸時代のネズミは文献に残ってる。ネズミのせいで飢饉も起きたけど、特にネズミが連れてきたツツガムシがひどかったらしいわ。最近だと、75年前の感染症も結構酷かったみたいねぇ……。

 ところが、平安時代末期にスーパーヒーローが現れました。穴山家のご先祖様、鎮西八郎為朝様です」

「ためともって、確か……海辺の神社の名前?」

「この穴山神社はそもそも、岩淵の池があるから建てられたもの。為朝神社の方が古いのよ」

「え、あのちっちゃい神社の方が歴史長いんだ……」

 

 誰も住んでいない、時々公園扱いして遊んでいた小さな神社が由緒あるものだと知り、妹はちょっとバツの悪そうな顔をした。

 

「ものすごく強い武士だった為朝様は、都の戦いに負けて推島まで来た時、疱瘡の鬼を退治しました。その結果、推島も小島もしばらく疱瘡が流行らなかったのです。

 みんな為朝様を崇めて、小島に神社を建てて神様として祀りました。めでたしめでたし……ってことで、病気で亡くなった方のお葬式だけ為朝の社で執り行って、標縄もそこで保管してる。(よすが)はあっちの本殿が狭いからこの社に持ってきてるけどね」

「ふうん……あっちの神社、一応意味あったんだ……退治って、なにやるの?」

「勿論、為朝様と同じように鬼とタイマンするのよ」

「ええーーー!?」

「ウソウソ。さっき言ったお祭りで、自然を穏やかに……と一緒に、病気が流行らないようお祈りするだけ。今時……推島もすごく医療機関が発達してるし。そんな病気なんて来ないわ」

 

 冗談を本気にした次女を見て、母は笑った。

 実際に母の言うとおりで、現代では大けがをしたり、明らかに症状の様子がおかしい場合は推島の病院に連れて行って解決する。

 ただの風邪程度であれば、学校の先生が医師代わりに診てくれることもある。

 戦後、医療技術が発達した現代の推島の様子を度々見ている母は、これまでのような悲劇は現代ではそうそう起こらないだろうと考えていた。

 

 しかし、直ちに命を脅かさないものの、風邪が流行ったり貯めた水が悪くなって集団で身体を壊すことは定期的にあるし、病気がもとで亡くなる人は何人もいる。

 波が高くて病院に行けない時はやはり困ってしまう。

 

 今も小島に生きる人々は、今なお病魔の伝承を心から恐れていることも母は感じていた。

 

「茉莉、長々と話したけど、だいたい分かった?」

「だいたい忘れちゃった」

「……。(よすが)を管理する、祭りで役目を果たす、病魔を退治する。来島者対応とか細かい仕事は腐るほどあるけど、これだけ覚えなさい」

「はい! りょおかい!」

「返事だけは良いわね。ま、私と……これからいんねがやっていく仕事、知っといてね」

 

 含みのある母の物言い。思わず妹は声を上げた。

 

「あいは?」

「ん?」

「はーちゃといんねだけなの……?」

「穴山の巫女の仕事は長女だけよ。茉莉は大丈夫。将来茉白が全部やってくことよ」

「いんねだけ、なの……? いんねは……長女だから、やるの……?」

 

 妹が幼少期の頃は姉が遊んでくれていたが、小学生になってからは友達と遊ぶことも増え、姉は母について行って出かけることも増えていった。

 そんな二人のやることに、妹の自分は関わらなくていいのか。

 

(いんねは……生まれた時からこれを、やらなきゃいけないって決まってたんだ……)

 

 姉は生き方を選べないことを知った妹の脳裏に、島の外を興味深そうに見渡すかつての姉の姿がよぎった。

 

「あいも、はーちゃと……いんねと、一緒に……」

 

 寂しそうでいて、強い決意も秘めた表情をする次女を見て、母はにやりと悪い笑みを浮かべた。

 

「あらあら、あーらあら、茉莉も手伝ってくれるの? いい子ね~。うーん、実にいい子だ。はーちゃ嬉しいわ。じゃあいっぱい巫女修業しなきゃね。んじゃまずはこれ。大祓詞の写詞100回」

「ええ~!? こんなに長いの100回!? 読めない字ばっかなんだけど……」

「茉白は宿題の傍らでやったわよ。どんだけ緊張しても、何十年経っても忘れないで宣読出来るくらい体に染みつけてね。

 あと覚えるのはこれだけじゃないからね。神話と為朝様の伝承、古典……あとはそうねぇ……神職を全うするなら、社会の成り立ちと自然の理、人の心のあり方くらいは最低限分かってないとね。茉莉の通信簿、優は美術だけでしょ? 他の科目も優を増やしていってね」

「うえ~ん……言うんじゃなかった……」

 

 全部音読するのに5分くらいかかりそうな難解な文字の羅列に泣きごとを言う妹は、それでも言われたとおりに机に向かう。

 殆どの字にフリガナを振ってもらっているのか、ボソボソと読み上げながら筆記用具を動かしていた。

 

「ふっふっふ……戦力になってもらうわよ、茉莉……」

 

 それを見ながら満足げにお茶をすする母を見て、姉は半目で抗議の視線を向けた。

 

「茉莉まで使って楽しようとするなんて……」

「失礼ね。職業訓練を兼ねた課外授業ってやつよ」

「……あんなこと言って。どういうつもり? あの子、本気でやっちゃってるじゃん」

 

 母に文句を言いつつも、姉は飄々と答えてくる母の意図を測りかねていた。

 お祭りで世代交代するのは巫女も同じで、先代がどこまで手伝うかは場合によるが、一応あと三年で母は自分に引き継いで巫女の立場を終える。

 今後長く続ける仕事なら、手伝ってくれる人を教育するのは投資ともいえるけど、母はあと少しで引退だった。

 それなら慣れた仕事は他人を教育してやらせるより自分でやった方が早くて楽である以上、妹にも教えていくのはむしろ労力が増える。母が本当に面倒くさがりな性格ならやらないはずだ。

 

「茉白、見て。茉莉の真剣な顔」

「……」

「あの子ったら、本当にいんねと一緒にいたいのね~。可愛いじゃないの」

「……すっごい甘えんぼになっちゃった。よかったのかなあ」

「あれは甘えんぼとは違うし、そもそも甘えんぼと甘ったれは全然違う。いんねにしてもらってきたこと、当たり前だと思ってないのね。茉莉を見てると、あなたに謝らないとって思っちゃう」

「え? 何が?」

「あなたを『お利口さん』って褒めてきたこと。手のかからないって言われて嬉しい子なんていないよね。茉莉はあなたに似て優しい子に育った。そんなあの子がやりたがってそうなら良いじゃない?」

「……でも、あの子は、私と違って。島の外に、出ていくと、思うから……」

「そうかもしれないわね。ま、それならしょうがないわ」

 

 推島での楽しそうなひと時は、その後何度か渡航した時も同じだった。

 好奇心旺盛な妹は、恐らくこの島にとどまらない。

 

 あの子は、長女じゃないんだ。義務はない。

 お絵描き好きが高じた生き方をするのか。見たことが無いものを見るのが好きなら、いろんなところを旅する生き方にするのか。

 

 私と違って、生き方を選べるんだから。

 

(うらやましいな……)

 

「ッ……! 私のために茉莉が生き方を決めるなんて、イヤだよ……はーちゃに、弟か妹が欲しいって言ったのは、私だからこそ……」

 

 一瞬、心の中で湧いた感情に反射的に蓋をした。認めるどころか、向き合う事すらおぞましい感情であると瞬時に悟った。

 長女と弟妹で立場が異なることを理解してなお弟妹を望んだ人間が、今更間違っても抱いてはいけない感情だと思ったから。

 

 何かを噛み殺すように言葉を絞り出す長女の声を聞き、ニヤニヤとした笑いをやめた母が、妹を真剣なまなざしで見る長女の横顔に目配りした。

 

「そうね。第二子が欲しいって言ったのはあなただったわね。本来、穴山の長女と他の子は別々の場所で育てられたらしいけど、あなたが望んだ子だから、あなたと一緒に育てられるようにしたわ。ばんまは一人っ子を望んだのに、ばんまを説得してまで茉莉を産んだ理由、分かる?」

「……いや……」

「私は立場柄、推島の町役場によく行くから分かる。本土と島嶼に生活の差が出るのは仕方ないにしても……目の前の推島と小島の間にこんなに生活水準に差が出たのは、有史以来だと思う。

 若い子、特に中学校を卒業した子は、みんな推島の高校に行って帰ってこない。土地に執着しない人は不便な生活がイヤで、不慣れで先行きが見えなくても推島に移住していく。悪い事ではないし、止める権利も無い。

 私の子どもの頃……1970年代くらいから、随分人口が減ってきた。私の頃すら高校に行ったきり戻ってこない友達がいる。

 つまりね、あなたは数百年続いた歴代の巫女の中で、一番孤独な思いをするかもしれない」

「……」

「ばんまも体弱くてあんまり働けなくて、私は子供のころからずーっと一人でやってきた。結構大変なのよ。あなたには一人でやる辛さを味わせたくなかった」

「そうだったんだ……じゃあ、私のために……?」

 

 面倒くさがりで何も考えてないと思ってた母の、思わぬ意図の吐露に、長女は驚いて目を合わせた。

 『分かってくれたのね』と母は微笑み目を細める。

 

「はーちゃ……いい感じのこと言ってるけど、遠回しな『引退後に母は手伝いません』宣言でしかないこと、私は見逃さないからね……」

「チッ……バレたか。賢しい子を持つと苦労するわ……」

「自分の娘捕まえて随分言うじゃん。今後の私の務めを心配してたの? でも結局あの子の人生が私のものじゃないのは変わらないよ」

「まったく、真面目で強情ねえ。私はあの子に一度も『やれ』なんて言ってないのよ?」

「……それだけじゃないよ……茉莉に、特にお祭りで関わってほしくない。

 茉莉が産まれた後にばんまから聞いたの。はーちゃも私も、なんで一人っ子にさせたかったのか」

「……聞いてたんだ、37年前のお祭りのこと。茉莉を産んだ以上、私からはあえてあなたに教えてなかったのに。どこまで聞いたの?」

 

 コトンと机に湯呑を置いた母だけでなく、姉も声のトーンを落とした。

 

「さっき、茉莉にもわざと言わなかったんだよね。

 疱瘡とかが流行ったのは、巫女が眠りに失敗した世代だったから、それ以降祭りの眠りにみんな神経をとがらせてて。

 それからお祭りで眠るのは、穴山の血を引く巫女の弟や妹の役目で。

 そして、おうさまがあの薬品を持ってくるより前の時代は、どうやって無理やり眠らせていたのか……とか。

 

 おうさまがばんまと結婚したのは、一目ぼれじゃないでしょ?

 ……お祭りの時、自分のせいで妹が……。それでばんまが心を病んで入院して。診てくれたおうさまは……昔自分も、自分のせいで弟が……。だから、ばんまのことを他人事だと思えなくて。

 ばんまを支えるだけじゃなくて、この島の、危ないお祭りをやめさせるためにあの薬を持ってきたって。

 それでも、巫女に弟妹がいたら、同じ道を歩むかもしれないから……大体そんなこと言ってた」

 

「大丈夫よ。そのために、おうさまがアレを持ってきてくれたんだから。アレがあるからばんまを説得できたのよ」

 

 母は先ほど取り出した、姉妹の祖父の写真をもう一度眺めた。

 

「ここまで大変だったなあ。マレビトさんが来ることはそこそこあるけど、穴山家に島外の男が婿入りしたも初めてだし、お祭り中麻酔薬で眠らせるなんてさらに島民にはびっくりだったはず。お祭りの直前に大きな地震もあったし、いつもと違うやり方は印象良くなかったと思う。

 ……でも……先代の巫女の妹のこともあったし。今後大きな災厄がなければこのやり方でもいいって、島のみんなはやり方を認めてくれた。

 信仰の心象を戻すために、やれるだけのお祈りはしてきたわ。巫女が山から下りて出張祈祷なんて、本来そこまでやってないんだからね。37年前以前みたいに、お祭りで茉白に茉莉を眠らせるなんてこと、無いようにしたかったから」

 

 ふう、と息をつく母を見る。

 幼いころから体の弱い祖母を支え、現在、娘である自分の神社運営を案じて出来る限りのことをする。

 面倒くさがりは口だけで、一人でずっと家族と島を支えてきた母の印象は、今日だけで姉の中でかなり変わっていた。 

 

「分かった。でもあの薬品、もういらないって言ってたけど、いいの?」

「あれは医者じゃないと扱っちゃダメ。危ないものだから。実際吸わされた私もしばらく頭痛かったし。おうさまですら、自分は元医者だけど麻酔科医じゃないから、本当は使いたくないって言ってたわ。今回のお祭りは……薬品を使ってるふりをするから、あなたは前日に徹夜でもして何が何でも眠ってちょうだい。

 流石に眠ったふりをするわけにはいかないから……それだけはちょっと、ね」

「皆に見られながら? あはは、厳しいなあ……」

「学校の先生にも秘密にするようなお祭りの伝統なんて変えていきましょう。それがおうさまの意思だし。だからやっぱり、あの薬品は倉庫には置いとく。『ある』ふりだけして、使わないものにしておくわ。

 ところで次のお祭りまで3年間、茉白はどうするの?」

「え?」

 

 ふと話題を変えてきた母は、真面目な話は終わりとばかりにニヤニヤ笑いを戻していた。

 

「あなたも今年で中学卒業でしょう。高校行かないの? あなたの成績なら入試も大丈夫でしょ」

「ええっ!? でも、ここでやることあるし、何よりその、お金……」

 

 3年後のお祭りまでは見習いだけど、任せたがりな母のお陰で、既に現段階でほとんど姉が巫女として表舞台に立っていた。

 高校に行くというのはつまり、推島に下宿するということ。特に冬は、波が荒れれば一か月定期便が出ないなんてザラにある。

 自分が不在でもいいのだろうか。

 

 そして、小島は自給自足と言えば聞こえはいいかもしれないけど、換金可能な産業はほとんどない。養蚕やヤギの乳業等を細々とやるだけ。

 よその家庭でも、子供が推島の高校に行った時、仕送りが本当に難しいと聞く。

 貨幣経済からも置き去りにされかねない小島の環境では、そんなお金があるのなら島を出ていくであろう妹が進学するべきで、巫女になる自分の進学を姉は始めから考えていなかった。

 

「行きたいって気持ちは、否定しないのね?」

「……」

「茉莉を今から仕込んでるのは、あなたが通学中抜ける穴を埋める意図もあるから。

 あなたに早いうちから色々任せてたのは、進学して戻ってきてすぐ引き継いでも大丈夫なようにしたいから。

 それとね、これまで私から推島町役場に頼んで、この島で何度か失対事業をしてもらった。それで島民皆にお金が渡るようにしたし、ウチもお金はある。

 覚えてない? 例えばほら、為朝の社までの道が落石と雑草でひどかったから、アスファルト敷いてもらった工事。数年前にやったでしょ?」

「ああ……あったね。皆何してるんだろうって思ってたけど……」

「推小島は僻地過ぎて離島振興法の適用外になってるからね。ひどい話よね~。だからちょっとくらい公的支援を受けようかなって」

「でもあの時のお金、残ってるの?」

「商店も無いこの島で基本使い道無いでしょ。何も心配しなくていいわ。『茉莉が通うお金もある』って言った方が、あなたには効くかしら?」

「……ん」

 

 あれこれ考えられるからこそ、一人で思いつめがちな姉が、母の言葉を聞き少し目を伏せて口元をほころばせた。

 推島に行ったことは何度かあるけど、生活するのは初めて……。

 

 蛇口を捻ればきれいな水が出るって、本当なのかな?

 車輪がついた大きな乗り物、どんな仕組みなんだろ?

 高校はウチの中学校よりも図書館が大きいのかな?

 夜も電気で明るいなら、いっぱい本を読めるのかな?

 

 もう離れ離れになると思ってた友達と、あと3年は一緒にいられる。

 新しい所で……どんなことが出来るのかな。

 

「茉莉が好奇心旺盛なのは、あなたと一緒にいたからだろうけど。あなたの賢さは、おうさまから受け取ったのね。それに、環境庁に環境保護区指定されてからやってくる研究者の相手もしてるし……。

 茉白は、お花とか、鳥とか……生き物の事を調べるのが好きなの?」

「……そうかも」

「そう。じゃあ、いっぱいやっておいで。あんまり自分の気持ちに蓋をしちゃダメよ。

 さっきはああいったけど、引退した後も手伝うつもり。まずはお祭りを乗り切らなきゃね。あなたと島のために、出来る限りするから……『好きなように生きて』って言いきれない母親を、許してね……」

 

 まだまだ若いけど、少しだけ肌の張りを失いつつある母の手が、母と背丈がほとんど変わらなくなった長女の頭を撫でた。

 どうしてか、本当に気まぐれだけど。母の手に誘われるようにそのまま姉は横になり、母の膝に頭を預けてみる。

 妹が産まれてから、こんなに甘えることがあっただろうか。いつ振りか忘れてしまうほど懐かしい、頬に受ける感触だけを感じたくて目を閉じると、そのまま意識が落ちていくような感覚を覚える。

 

「あー!! いんねがはーちゃに甘えんぼしてる!」

 

 姉の珍しい姿をめざとく見つけた妹が、写詞を中断して二人の元にやってきた。

 

「茉莉、終わったの?」

「うん、一枚かけた!」

「が、がんばったね~(汚い字だなあ……)」

「いんね、はーちゃ、大丈夫だよ。あいも巫女様のお手伝い頑張るからね!」

 

 姉に褒められ、えっへんと腰に手を当ててにひひと笑う妹。字は汚いけど、見たことも無い難しい漢字ばかりだから当たり前で、たった一回でも集中して書ききった妹を見て、姉は悩むのをやめた。

 

「茉莉。いんね、次の春から高校に行っていい? 推島に住むことになるけど、長い休みは戻って来るから……」

「えー!? むう……。 ……うん、わかった」

 

 自身の寂しさと、姉の楽しそうな顔を天秤にかける時間は、妹が年齢を重ねるごとに短くなっていた。

 

「茉莉はいい子ね~。お姉ちゃん思いね。茉莉も行きたかったら、高校行っていいのよ? 私は行ってないから、高校ってどんな感じか教えてちょうだいね」

「はーちゃは……島の外に行きたいって思ったこと、ないの?」

「私はそんなでもないかな。推島を見ててもあんまりそんな気にはなれないし。

 綺麗な水をいつでも飲める世界は、モノもいっぱいあって、何でもできるけど……代わりによっぽど頑張らないと、人から必要とされない世界だなあって。それよりこの島でお茶飲みながら、空と星を眺めてる方が性に合ってる。

 ……ううん、やっぱり水がきれいってだけは、どんな時も正義ね。お茶が美味しくなるし」

「ふうん……?」

「ああ、でも一回くらいはおうさまの故郷にでも行ってみようかしら。前に本土行った時は、おうさまの故郷に行くには『ぱすぽーと』が必要だったからダメだったの」

「はーちゃ、推島より遠くに行ったことあったんだね」

「うん。おうさまは外のことに詳しいし、遠出するなら私が巫女になる前にってことで、幼い頃連れてってくれた。伊勢神宮とかも見てきたわ」

 

 懐かしむように語る母の湯飲みは空になり、片付けようと立ち上がる。そのまま夕飯の準備も始めるのだろう。

 暗くなる前に自分も宿題を終えようと、姉はさっきまで妹がいた文机に向かった。

 

「あと99回書かなきゃ……」

 

 妹も姉の隣に座り、写詞の続きを始める。

 かつて自分もやっていた巫女修行だった。まだ幼かった妹の世話もしながらこれをやるのは、結構大変だった記憶がある。

 

「あーあ……いんね、もしこの島に死んだことがある人が来たらどうなるかな?」

「へ?」

 

 素っ頓狂なことを言った妹に対し、姉も負けず劣らず間の抜けた返事をする。

 

「だってさ、お祭りで眠るのは死の体験で……ケムリを辿らないと、隠世にいる神様に会えないんだっけ?

 死んだことがあったらさ、黄泉への道も知ってるから、こんな修行してお祭りで眠らなくてもいいじゃん」

 

 妹も、この修行にやる気はあるけど、地味で大変でめんどくさいとは思っているんだな。

 文句も言わずにやってきた自分と違い、思ったことを素直に言う妹がおかしくて、つい笑みがこぼれてしまう。

 

「死んじゃった人は蘇らないし、前世を持ってる人なんていないよ。だから私たちは(よすが)を守ってる」

「分かってる。たとえ話だもん」

「だけどそうだなぁ。死の経験があって、前世の記憶を持っている人は、この島では神様みたいなものだよね。

 ここに来たら、修行やお祭りなんてしなくても、その人は夢で島の神様からメッセージを受け取ったり。

 あるいは、自分自身が黄泉への道の懸け橋になって、近くで眠る他の人に、神様と会える夢を見せたり……なんてことが、出来るかもね?」

 

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