【完結】もしもし、アクアくん?〜女優探偵の事件簿〜   作:ねこのまんま

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㉕ 第12話 風の神様(中編)

 

 ―46年前―(11歳)

 

「お帰り、帰って来るの明日じゃなかった?」

「明日は波浪警報が出てるから、早く帰ることにしたの。夏休みの宿題も全部終わったし。どうせ台風も来るだろうし、夏と冬は渡れる時に渡らないと」

 

 宵時に境内で社の階段に腰かけ茶柱を確認していた母は、玉石を踏み締める足音が蝉時雨に混じるのを聞き、長女が帰ってきたことを感じ取り顔をあげた。

 長期休暇は戻る、と言っていた娘は、二年生の夏休みになった今、約半分高校生活を終えても律儀に実家に帰って来る。

 母も立ち上がり、近くて遠い帰郷をした娘を招き入れた。

 

「ととうと茉莉は?」

「田んぼの中干し作業してるわ~」

「はーちゃは行かないの?」

「……うっ……お腹が……!」

「って言ってサボったのね」

「誰か来るかもしれないから一人は社にいないといけないかなって。はぁ~、窓口業務も楽じゃないわ」

「……まったくこの人は……あ、二人とも帰って来た」

 

 社の入り口から『暑かった~』という声。

 春休みぶりの家族二人のうち、背の低い方は帰省した姉を見て目を輝かせて駆けだした。

 

「いんね、いんねぇ! へへへ、一日早ーい!」

「ちょっ……! 転ぶから! あと汗臭い!」

「ひどっ」

「ごめんごめん、分かるよ、中干しの水の管理大変だよね」

 

 11歳なのに落ち着きのない妹が、全力疾走とともに抱き着ついてくるのを受け止める。

 昔とは比較にならない衝撃によろけ、妹の背に手を回すとしっとりと汗で湿っていた。

 高校に行くまで自分がしていた作業を引き継いでいる妹を労い、汗を拭いてやる。それよりも早く父の汗を拭いて着替えを用意した母が、姉妹に夕飯を呼びかけた。

 

「一日早く帰ってきたのに、4人分用意してくれてたの?」

「風と波と空を見れば、明日の波浪は予測できる。あとはあなたの性格ね」

「……かなわないなぁ」

 

 春ぶりの4人そろっての食事は、当然帰省した姉への質問攻めになる。

 父も母も、日帰りで推島に行くとき以外ずっと推小島にいる人間だったから、高校はおろか推島での生活すら珍しそうに聞き入っていた。

 

「夏休み終わったらね、二学期に校外実習があって。川の生物観察に行くの」

「川!? 川って本当にあるんだ……。ねえ、どうして晴れてるのにずっと水が流れてるの!?」

 

 北西と南東に計二つの山がある推島のうち、推小島から見て反対側、つまり東側の山は特に湧水が豊富で、川や小さな滝もある。

 たまに推島に行く際も東側まで足を運ぶことは無かったから、実物の川を見たことが無い妹は興味津々だ。

 たまり水ではなく地面から湧く流水は、いつでも冷たく玲瓏で、そこにしかいない生き物がたくさんいるらしい。

 

「早く夏休み終わらないかなあ。見てみたいな。川の生き物」

「夏休みが早く終わってほしいなんて。いんねは変わってるね」

「ふふ……。ねえ、最近こっちの島はどう?」

 

 自分ばかり話していると感じた姉が、話題を変えて自分が不在の間の推小島の様子を聞いた。

 それに対し、夏の始め頃から感じていたことを母が答える。

 

「そうねえ。今年の夏、晴れが少なくて涼しすぎるかな」

「それ、この国全体でそうらしいよ。なんか2年前のフィリピンの火山の噴火が原因?だとかなんとか。沖縄以外は梅雨明け宣言が取り消されたってさ」

「収穫が心配だわ。夏野菜も明らかに出来が悪い。天照様がお顔を出す日が少なくて……昔ほどネズミが多くなくて本当に良かった」

 

 全国的に今年の夏は日照時間が極めて不足していて、結果的にその後の秋、この国は記録的な米の不作に繋がる。

 その影響はこの島にも及んでおり、降雨が多いのはこの島の水事情を鑑みると良い事ではあるけれど、やはり日照も無いと作物は育たない。

 『ちょうどいいくらいの雨が降りますように』という祈りは、バランスが大事だという経験則が顕れたものだった。

 

「それと、今年に限った話じゃないけど。ここ10年くらいで推島が有名になったせいか、たまにこの島の事も聞きつけた人が来るようになったけど……5月の始めとか、それこそ最近……夏休みとか、そこそこマレビトさんが来てる。別にいいんだけど、うーん……密漁、とかされると困るわね」

 

 来るもの拒まず、というスタンスである母や島民たち。珍しい生物がいるとか、釣りの穴場とか言われているようで、『何もない島なのによくこんなところに来るなあ』とは思うものの、来島時少しもてなしたあとは好きにさせていたし、そもそも来るなと言う権限も無い。

 しかし、当然来島者の母数が増えれば、現地の生活を顧みない人間が現れる可能性も上がる。釣りのゴミを放置して帰っていく人間に眉を顰める島民が増えている。

 さらに、母の最後の言い淀みは、決して密漁だけを問題視しているわけではないのを家族たちは感じた。

 

 あとは、定期便以外の船でこっそり来ている者もいるようで、来島者名簿が少し機能していない様子でもあった。

 

「確かに、推島にも本土から旅行で来たっていう人を結構見かける。それこそ10年前に推島の滑走路が伸びて、ジェット飛行機が来るようになってから増えたって。でも私が高校入ったあたりから観光客減ってるらしいよ」

「そうなの?」

「何か、バブル?が弾けて本土の人も旅行に行かなくなったとか、大人たちが言ってる。本土も島の一部の人も大変なことになってるってさ」

「そう。自分の力ではどうしようもないものに振り回されるのはどこも同じね……」

 

 姉と母が難しい話をしているのを、よく分からず妹は首をかしげていた。

 バブルって、泡? どうやら外の世界は、状況が目まぐるしく変わっているらしいということだけは理解した。

 

「ご馳走様。はーちゃのご飯はやっぱり私の舌に合う」

「あらそう? 推島で良いもの食べてるのかなって思ってたけど」

「こっちは味付けが塩だけだから、素材の味が濃くて好き。食器は私が洗うね。はーちゃと茉莉も、食べ終わったら持ってきて」

 

 既に食べ終わった父の食器も一緒に、家の裏手にある水桶場に持っていって姉は食器を洗い始めた。

 

「これで良かったのかしら」

「何が?」

 

 長女の背中を見つめる母が零す言葉の意味を測りかねて、妹は首を傾げた。

 

「高校に行っても帰ってこないといけないのに、よその島での生活を体験させて。私の場合は、はじめから他の選択肢が無かったから迷うことも無かったけど……中途半端に自由を与えられても、却ってあの子は辛いだけじゃないかって何度か悩んだわ」

 

 珍しい姿の母だった。自分の子供に、それもまだ小学生の次女にこんなふうに悩みを打ち明けたことはかつてなく、妹も少し驚いて母を見つめる。

 しかし、悩みの内容自体は、悩むようなことではないように妹には感じた。

 

「はーちゃ、あんなにいんねは楽しそうにしてるんだよ? それだけでいいじゃん! 考え過ぎだよ」

「そう……そうね。そのとおりよね」

「でしょ? にひひひ」

 

 やっぱり血を分けても、姉妹は他人。性格は結構違うな、と母は思う。

 

「やっぱり優しい子ね、あなたは」

「えー? いんねと違って、あいは当たり前の事しか言ってないと思うけど……」

「優しさにも色々あるわ。茉白は周りをよく見て気を回せる子。だけど真面目で文句を言わず抱え込みがちだから。ああいう子には、大切なことだけをまっすぐ言えるあなたみたいな子が隣にいると安心する」

「え、なんか照れるな~……。でも、はーちゃも思うんだ。いんねは人を頼るのが苦手で背伸びしがちだって」

「あなたがこの仕事をやることも、元々反対してたのよ。さてと、私も食器洗うの手伝いに行くわ。ねえ、前も言ったけど、茉莉も高校は行きなさいね」

「うん! ありがと!」

「ちゃんと勉強するのよ」

 

 屈託のない次女の笑みを見て、母は考えていることを言い出せずにいた。

 この島に外の世界の空気が入ってくる頻度が上がる一方で、人口は減りゆき、生活水準の差はますます広がる。

 自分の代で出来る限りのことをしたけど、それでも娘たちの代で、この島には人がいられなくなるかもしれない。思っているよりも、その日は近いかもしれない。

 時代の流れには逆らえない。

 

 聡明で好奇心旺盛な長女に高等教育を受けさせたいという単純な親心とは別に、もし推島に移住となっても生きていきやすいよう、推島での生活経験や学歴はあった方が良いだろうと。

 

(お祭りは、来年、か……)

 

 子供たちにとって、島民にとって何が幸せか。

 この島に人がいる限り、自然と生活の安寧を祈る神職の宿命は繋いでいく必要がある。それなら、抱え込みがちな長女を支えられる人は一人でもいた方が良いと思い、次女にその気があるなら神職として育てたが、自問は尽きなかった。

 

 あらゆる事態を想定していると言えば聞こえはいいが、どっちつかずの中途半端なことをしてしまっているのではないかと。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 蚊帳が揺れる雰囲気を感じて妹は目を覚ました。

 

 久しぶりに姉と同室で夜を過ごせる嬉しさからもともと眠りが浅く、まだ外は暗いのに部屋から出ていく姉の姿を寝ぼけ眼で見ていた。

 

「いんねぇ、どこ行くの……?」

 

 寝巻のまま靴を履く姉。時刻はわからないけど、およそ外出する時間ではない。

 追いかけるように部屋から出て、目をこすりながら声をかけると、玄関口で月明かりの下、姉が振り返った。

 

「起きちゃったの?」

「うん……暑くて眠れなかったし。いんねがいなくなったから」

「起こしちゃったのか。眠れないなら一緒にお出かけする?」

「はーちゃに怒られない?」

「大丈夫、丸め込んでやるから。ついてきて」

 

 暗い森が風に靡かれて葉を揺らす中、姉は妹の手を引いて山道を下りて行く。

 目を閉じても歩けそうなくらい歩き慣れた道だった。

 やがて井戸がある広場まで下りてくると、学校のほうの道へ向かうと思っていた妹の予想と裏腹に、西にある崖に向かって姉が歩く。

 

「こっち何もないよ? 崖で危ないし」

「ふふ、茉莉に海までの近道を教えてあげよっか。子供だけだと危ない道だけど、もう大きくなったからね」

 

 崖に沿うように生える中低木の隙間を縫い、崖に面する位置まで飛び出していく姉の後ろ姿を追いかける。

 月明かりに色はなく、輪郭だけの姉を見失わないように続いていくと、あまり時間を経ずして前髪が風で浮き上がり、崖の上から海が見下ろせた。

 

「ここ、崖を下りられる細い道があるの。ずっと昔の獣道だったのかな」

「結構怖いんだけど……こんな道があったなんて」

「気を付けてね、暗いし」

 

 ジグザグに崖を下り切り藪をかき分け、姉妹は波打ち際まで歩いて行った。

 砂浜なんてものはない、むき出しの岩場の中から、できるだけ平らで波しぶきに濡れていない場所を見つけると、二人は腰を下ろした。

 

「あ~涼し~。いい風だね。この島の風はどこも潮の香りがする」

「推島は違うの?」

「うん。島の内側は海から遠いからね。ふう……暑苦しい中眠れないよりも、ここで風を浴びながら海見てたほうがよっぽど気持ちいいな」

 

 左上から月明りを斜めに受けて、鼻のふもとに影を作る姉の横顔を、右隣に座った妹が見守る。時折、もみあげ周りの髪が風に靡き、隠れていた耳が露わになる。

 暗い中でも迷わず歩き続けた姉は、何度か夜にここに来ていたのかもしれない。

 恐らくこれまで妹を起こさないように寝室を抜け出していたけど、今日は偶然起こしてしまったのだろう。

 

「いんねは夜に一人でここに来たことあるの?」

「ま、何度かね。西側のこっちは誰も来ないからさ、考えたいことがある時とか。夜の海は落ち着くし、星も綺麗だしね。ここの景色、好きなんだ」

「ふうん。夜の海って、真っ暗で吸い込まれそうで怖くない?」

「確かにそうかも。でも今日はさ、満月で明るいから。この光は眩しすぎなくて、柔らくて好き。月は南西……今3時くらいかな」

「もうちょっとで朝だね。意外と眠れてたんだ……。うーん、何度見ても兎が餅つきしているようには見えない。そもそも兎って杵を持てるの?」

「ふふ、昔の人がそう見えただけだよ、持てるわけないじゃん」

「だって兎が動いてるところ見たことないし。学校の図鑑でだけ」

「え、茉莉図鑑なんて見てるの?」

「ちゃんとお勉強してるもん」

「へえ……」

 

 二年前、妹が大祓詞の書き取りを始めたあの日のことを姉は思い出していた。

 神職を全うするつもりなら、社会、自然、人文科学を最低限理解しておけと母が妹に言い聞かせていた気がする。

 端から見たら、宗教の仕事はファンタジーで形而上的なものを扱っているように見えるかもしれない。しかし、祈りが務めである人間だからこそ、尽くすべき人事と待つべき天命の境界を認識しておくのは間違いなく意義があるし、科学を学べという母の言い聞かせもそういう意図だろう。

 そして、意外、という言葉は妹に失礼かもしれないけど、彼女は言われたことを最大限やり遂げようと日々積み重ねている様子だった。

 

「私たちは満月の時、いつも兎を見れるけど。どうして月はいつも同じ面を地球に向けているか分かる?」

「自転と公転の周期が同じだからでしょ」

「おー……ほんとに勉強してるんだ……」

「ふふん、なんだって聞いちゃって! 美術以外も『優』とってるからね!」

「じゃーあ、いつも見えない月の裏側はどうなっているか知ってる?」

「え? えーっと……」

 

 思いがけない一歩踏み込んだ姉からの問いかけに、妹は言葉に窮した。小中学校の本を全部読んだわけじゃないけど、そんなこと書いてある本は無かった気がする。

 

「兎はいなくて、クレーターで傷だらけなんだって。写真見たけど、表側と全然違ってちょっとびっくりしちゃった」

「ふ~ん。全体的にそんな感じなの?」

「そうだね、あの兎の模様の部分を『海』っていうんだけど、裏側は平らな『海』が少ししか無いんだってさ。地球で月の光をもらっている限り、月は荒れた背中を見せてくれないんだよ」

「高校の図書館の本はそんなことも書いてあるの?」

「ふふ、まあね。勉強すると、これまで見てきたものの見え方が変わるから楽しいよね」

 

 なんだか少し、姉が変わったな、と妹は思う。

 元々暗い人だったわけではないけど、些細なことでこれまで以上に朗らかに笑う姿を見て、姉は今やりたいことをやれているんだな、と嬉しい気持ちになった。

 

「茉莉はどう? はーちゃ、厳しくない?」

 

 いなくなった姉に代わり、母の仕事を手伝う妹の状況を長期休みで帰ってくるたびに聞いていた。

 人に見られると緊張もするし、意外と体力仕事だし、姉も体の小さい子供のころは結構大変だった記憶がある。

 

「うーん、神楽も覚えたし、この前は最初から最後まであい一人で結婚式やった」

「え! すごいじゃん。んん? その時はーちゃは何してたの?」

「『良き母、良き妻、良き巫女であるためには、時間と体力に余裕を持つのが大事なのよ~。あとは任せたわ』って言って途中でバックレてた」

「6年前の私の時と同じじゃん……」

 

 姉妹で目を合わせてくすくすと笑う。

 どうやら思っていた以上に、妹は姉が辿って来た道を追体験しているらしい。

 

 そうして母や姉の苦労を知る中で、妹は少し気になることがあった。

 

(最近、この島に不安な気持ちが広がってるような……)

 

 巫女見習いとして島民と関わることが増えた妹としては、夕飯の時に母が言っていた二つの懸念要素が、そのまま島民の不安の原因になっているように感じた。

 

 今年の冷害で、凶作は避けられない。

 文献にある鼠害のように餓えて死人が出るような事態にはならないだろう。昔は推島も不作であり、かつ本土との物流はほぼ無かったが、現代はそうではないから。

 自給自足というよりは、正確には地産地消というのが正確なこの島は、水や食料が本当に足りなくなったら推島の援助を受けて来ていた。しかし、天候と波浪が安定しない場合、最悪一か月定期便が着岸出来ず、食料不安は非常に困ったことだ。

 

 そして援助を受けてきたからこそ、来島者を拒むようなことはこれまでなかったけど、その来島者の事情が少し変わってきている。

 研究者や珍しい生物の好事家は、推小島を良く知っている。しかし、『推島から見える変わった形の島を見てみたい』『釣りの穴場らしい』という本土からの旅行客はここのところ増えており、水と病院が無いこの島の事情を知らずにやってくる。

 

 そして半年前の冬、島民にインフルエンザが大規模に流行した。

 茉莉も罹患し、命に別状はないものの、数日間高熱に苦しんだこの流行り病は、どう考えても外の人間がこの島に運んできたものだ。夕飯の時に母が言い淀んだ来航客の本当の懸念は、病院が無い島に病気を持ち込まれることだった。いくら推島の医療が発達してるとはいえ、高頻度でこういうことが起こるなら話が変わってしまう。

 

 そしてインフルエンザは、約75年前にも推小島にやってきている。大正7年頃からの数年の間世界的に流行し、スペインで初めて報道されたこの病気は、『冬の風物詩』程度の認識である通常の季節性インフルエンザと比較して約4万倍もの毒性を持つタイプで、感染力と死亡率が極めて高いまま小島に蔓延した。

 つまり、家族や隣人が次々病気に倒れ、或いは死に至る様子を幼い頃に間近で見ていた人間が、高齢の生き証人として今もこの島にいる。

 

 半年前のインフルエンザに、75年前の地獄絵図を想起したんだろう。長老の語る朧げで恐ろしい当時の記憶は、高熱で苦しむ症状も相まって、島民たちの『バクの鬼』への不安感をより強くしていた。

 

 どちらも、島民の努力でどうこうできる話じゃない。天候不順も流行り病も祈りの領域だ。そうなると、その不安を来年のお祭り以降にその背に負うのは、妹の隣で控えめに笑う姉だ。

 妹の巫女修行に反対していたくらいだから、姉はきっと、一人で抱えて島のために務めを果たそうとする。

 お祭りも……島民たちは、島の神様に祈りが届くよう強く願い、穴山の人間への期待は大きいはず。

 

 でもそれは、今回のお祭りに限った話ではない。母が祖父の手によって、あの薬品を吸って眠った19年前のお祭り。その2年前……記録を見る限り、たしか1972年の12月。推島の東方沖で震度6を観測した大規模な地震があり、余震が続き島民の不安が募っていたらしい。

 なんの偶然か、前回も今回も、お祭りが近くなる頃に祈りの役割が強まっている。

 

 それと、さっき姉は『考えたいことがある時』に深夜にここに来ていたと言っていた。何を悩んでいるのか、妹も全てを分かっているわけではない。

 そもそも姉は、この島に心から残りたいって思っているのか。義務感だけで生きてはいないか。母が夕飯の時に零した長女に対する心配が妹の脳裏によぎる。

 姉が考えていることや思いについて、必死に考えを巡らす妹は、姉の方を向いて問いかけた。

 

「……いんねは……」

「なーに?」

「この島、好き? それとも……」

「うん? もちろん好きだよ?」

「そっか……ならいいの」

「……」

 

 妹は昔から、周りをよく見る観察眼のある子だった。姉の反応を伺うように聞いてきた妹の懸念を払拭しようと、これまでも幾度となく撫でてきた妹の頭に手のひらを乗せ、姉は努めて明るい声で語り出した。

 

「茉莉、あのね。いんねには夢があるの」

「え、どんな?」

「この島にね、高校建てちゃうの!」

「えー!?」

 

 絶対無理でしょ、と妹が言うのを遮るかのように、姉はまくし立てる。

 

「今の学校の隣でもいいかな。で、図書室もおっきくしてさ。そうすれば子供も推島に行っちゃうことも無いし、皆残ってくれるかも! 私も巫女の務めの傍ら、生物の先生とかしてみたいな! 研究者の人はこれからも来てくれるだろうしさ、一緒に調べたりして……」

 

 風と潮騒が姉の息継ぎを埋める。『夢』を語り終えた姉は、妹の頭に乗せていた掌を、妹の右肩に下ろして抱き寄せた。

 自分からは抱きつくくせに、姉に抱かれるのはだんだん恥ずかしがり始める年齢の妹も、今はされるがままに姉に凭れた。

 

「だから、私はこの島でやりたいことがあるんだ。ふふ、私の夢を伝えたの、茉莉が初めて。頑張るよ。はーちゃもいる。穴山の男は神職にほとんど関われないけど、ととうもいる。島の人も……茉莉も。それに、この島の自然も綺麗で大好き。本当にそう思ってる。だから、だから……茉莉は、外の世界に行ったら……時々でいいから、何かあった時とか……ううん、何も無かった時でもいい。渡り鳥……クロアシアホウドリみたいにここに帰ってきてさ。色々見てきたこと、教えてほしいな。私はそれだけで十分」

 

 姉の自分は今、この子の頑張りのお陰で高校に行けている。それだけでも、少し胸がチクリと痛む。母の意図には反してしまうけど、妹に申し訳ないなと思ってしまう。

 二年前も姉は思ったように、本来妹は姉と同じことをしなくてもいい。

 この子は、外の世界に興味があるんだから。

 

 しかし、妹の反応は予想に反したものだった。

 

「にひひ、いんねらしい夢だね。じゃあ、あいも手伝うよ!」

「ふふ、ほんとに? うーんでも……茉莉はお外の世界に興味あるって言ってたでしょ? はーちゃの言うとおり、推島の高校に行っていいんだからね」

「そうだね、高校には行ってみたい。でも帰ってきて、あいはいんねのそばにいるよ」

 

 抱え込みがちな姉の隣に、妹がいると安心だ。

 夕飯の時、母から言われた言葉が、妹の中でしっかり刻まれていた。

 少し困ったような笑みを浮かべる姉の表情は、妹がいる右を向くと月の光の陰になってしまう。

 

「もう……どうしてそんなに残ろうとしてくれるの?」

「昔、フリージアのお花をくれた時にも言ったでしょ? いんねのこと、大好きだもん!」

「でも、茉莉だってさ。好きだって、大切だって言える人はたくさんいるでしょ? いつまでもいんねばっかりじゃダメだよ」

「うん。友達も好き。はーちゃもととうも。お仕事はじめてから、島のみんなとお話しすることが増えて……ありがとうって言ってくれる。高校に行ったりしたら、今度は島の外に大切な人が出来るかも。でもね」

 

 陰になった姉の表情とは対照的に、姉の方を向く妹の表情は月に照らされはっきりと見えた。

 

 

「いんねはいつまでも特別だよ!」

 

 

 妹の一番古い記憶の頃から優しかった姉は、こうして今も妹を想ってくれる。

 

 月明かりを受け取れる場所に居続けたら、月の裏側が荒れていることに気付けない。待っていても、姉は一人で背負おうとしているものを、周りに預けようとしてくれない。

 それならずっと姉に照らされてきた私は、これからは姉の裏側に寄り添いたい。たとえ孤独な務めの中で、悩みと責任を抱えがちな姉の裏側が荒れてしまっても、私はそこに僅かにある姉が安らげる海になろう。

 

 

 いんねが好きな、花と、鳥と、風と、月があるこの島で。

 

 ずっと……ずっと一緒にいようね。

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 姉が高校の下宿先に戻る直前、この夏何度目かの台風が島を襲った。

 ただしこの季節では日常茶飯事で、週に二回ぶつかるなんてザラにある。

 規模こそ大小交々だけど、島民たちの木造の簡易な家にとって台風は死活問題で、一回の台風を乗り越えてもその次の台風で窓が壊れてしまったりと、とにかく悩みの種だった。

 

 島民たちは気象庁からの無線を受けて、それぞれの家屋の脆弱なところを縄などで補強し、壊れないことを祈りながら学校へ避難していた。

 

「茉白も災難よねぇ。もう少しで夏休みが終わるタイミングでまた台風来ちゃって」

「しょうがないよ。祈りを届けても神様だって自然のすべてを動かせるわけじゃないんだし」

 

 穴山家は皆社の中にいた。

 前回の改築から19年経っているとはいえ、やはり基礎と柱が頑丈な社のおかげで、学校が出来る前までは避難所として使われていただけあって倒壊の恐れも低い。

 また、山の森の中にあるため、相対的に島内でも風が弱いことも功を奏していた。

 

 しかし、今回やってきた台風は規模が想定以上だった。

 

「ね、ねえ……いくらなんでも風、強すぎないかな……」

「確かにこの規模はあんまり経験したことないなあ……っていうか茉莉、暑いし重いんだけど」

 

 姉の背に貼りついて怯えた声を出す妹の言うとおりで、窓の外は轟々とけたたましい風の音と、振り子のように暴れる境内の椿の木の撓る音が壁の隙間から漏れ聞こえた。

 時折、ミシミシと木材が軋む音がする。20年に一度の改築は、社全てを修繕するわけではなく、弱っているところだけを狙い撃ちで直す。つまり、前回直す必要がないと思われたところは、39年前の木材だった。

 

 いい加減ガタが来ていた部分にこの台風は大丈夫なのかと内心不安に思っていたのは姉だけでなく、居室にいない父は釘と板を持って家の中を巡っていた。

 

「もうすぐ夕方ねえ。朝になったら止むかしら」

「ま、今年はもともと雨が多い夏だったけど……水に関してはダメ押しで降ってくれてそれだけは良かったかもね。しばらく水不足にはならないでしょ。あとは……私は、始業式までに高校に戻れるかな……」

「台風終わっても一日は風強いもんね。あと台風っていうか、雨の後って、この社の境内も蚊が多くなってイヤなんだよね……麓はそんなでも無いのに、この神社周りは多いじゃん」

「ちょっと茉莉。蚊の幼虫のボウフラは水をきれいにしてくれるんだよ?水の中の有機物とか微生物を食べて、自分は蚊になって出ていくから死骸にもならないし、汚れて微生物が多い水は酸素が少なくてエラ呼吸の魚が住めないけど、ボウフラは尻尾を水面から出して空気呼吸するから汚れた水に住めるし、こんなに水質浄化に都合のいい生き物いないんだよ?地球から蚊がいなくなっちゃったら水質汚濁が一番困るはず。この島で貯めた雨水にボウフラが湧くけど、この子たちがいないと水が汚れてお腹こわしちゃうかもしれないんだからね」

 

「いんねは生き物の話だとすっごく早口になるね」

「高校行って生物オタクに磨きがかかったわねこの子……」

 

 その時、バキバキとけたたましい音と共に、家の奥から父が大声で呼ぶ声が聞こえた。

 立ち上がって様子を見に行く姉妹二人の目に映ったのは、弓なりに家の中へ曲がった壁を冷や汗を流しながら抑える父だった。

 

「茉莉! そこの野菜の木箱壊して! ととう、釘は!?」

 

 姉の指示で急いで木箱を解体し、即席の補強板を持ってきた妹とともに、父が抑えている壁に十字に打ち付ける。

 ほっとひと息している父と娘二人の真上の屋根が吹き飛んだ。

 激しい雨と一緒に、3人の頭に埃とよく分からない細かいゴミがポロポロと落ちてくる。

 

「ムキャー!? いんね、何これ!?」

「あー……屋根に巣くってたネズミのフンだね」

「いやぁー!!! 家のネズミ返し意味ないの!?」

「木に登って屋根に飛び移って入る子もいるんだよ。クマネズミっていうんだけど、この子たちは人がいなくても森だけで生きていけるから、神社の立地的にどちらかというと私たちがこの子たちの住処にお邪魔しちゃってる感じで……」

「こんな時まで生き物談義しなくていいから!」

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 朝日が出る頃には、もう台風は過ぎ去っていた。

 社のいたるところが破損したこの台風は、姉の体感どおり数年に一回程度しか来ない規模のもので、屋根や壁が失われた部屋の荷物を避難したり応急処置をしたり、一家はほぼ徹夜だった。

 

「はーちゃ! 早く行くよ!」

「勘弁して~。ちょっと寝かせてよ~」

 

 通常の経年劣化は自分たちで家の修理をしていたが、天災で破損した場合の家屋の修理資材の援助は、慣例で穴山の巫女が代表して推島町役場に陳情していた。

 家の中なのに木漏れ日を浴びれるようになってしまった居間で眠そうにする母を、姉が叱咤する。

 

「みんなのお家の被害を確認しないと! 早く直してあげないと、学校に住む羽目になる人が出るかもじゃん!」

「今日一日は、風も強いし……眠いし……せめて、お昼に……」

「だ~め! わがまま言わないの!」

「いんね、あいも行くよ!」

「ふふ、茉莉はいい子だね。それに比べてこの大きい子供は……」

「く……自分の母親捕まえて随分言うじゃないの……」

 

 父が社の応急処置兼留守番をしてくれることになったので、あくびを抑える母と娘二人で社を出て下山していく。

 ところどころ、森の木の枝がなくなっていたり、枯損木が倒れていたりと散々な状況だったが、ぬかるんだ山道を降りて行った。

 

「はーちゃとお仕事、なんか久しぶりだな」

 

 先頭を歩く妹の後ろで、姉が独り言を口にする。心なしか弾んだ口調だと妹は感じた。

 長期休暇で長女が高校から帰ってきても、母の方針で姉に手伝わせず妹が主だって働いていたから、中学卒業まで当たり前だった母との共働作業は姉にとって久しぶりだった。

 

「いんね、なんか楽しそうだね」

「そ、そんなことないよ。茉莉、不謹慎だよ」

「いんねは明日には高校に帰っちゃうから、はーちゃと一緒に巫女のお仕事できるの今日だけだもんね」

「そういうのじゃないから! ほら前向いて! 転ぶよ!」

「は~い」

 

 神社から井戸に至るまでの、歩きなれた急な山道。妹が振り返ると、姉から少し離れた後ろで、こっくりこっくりと舟をこぎながら器用に歩く母がいる。

 姉の言うとおり、天災の被害確認なのに不謹慎だけど、妹こそ、姉との共同作業は初めてで、少し浮かれた気持ちだった。

 

「3人一緒でお仕事は初めてかもね……ん?」

「茉莉? どうしたの?」

「ここ気を付けて!……こんな川みたいなのあったかな?」

 

 妹が見下ろす先には、水の流れが下りる方向から見て左側の山の斜面から道を横切っていた。

 しかし、川なんていうほど大規模なものではなく、本当にチョロチョロとした小さな水の流れ。

 当然そこの周りは地面がビチャビチャで、気付かず踏んだらズルっと転ぶのは避けられない。

 

「いや……こんなの無かった。……はず……」

「だよね? なんだろうねこれ。まあいっか、転ばないように気を付けてね」

 

 飛び越えて先を行く妹。訝し気に地面を見ながらそれに続こうとする姉。

 

 その姉の足に、山側から土が滑るように覆いかぶさった。

 

「え?」

 

 状況が飲み込めず固まる姉。風と小さな水音だけだった辺りに、突然大きなものが滑るような音が響いた。

 音よりも地面からの振動の方が気持ち悪いな、と感じた姉が音の出る山の方を見ると、滑り落ちてくる斜面と大きな石が自分に向かってきている。

 

 逃げないと。

 妹も叫んでる。

 早く前に。

 だめ……足がすくんで……。

 

 姉が恐怖のあまり何も出来ずにいると、後ろから激しく突き飛ばされて地面に倒れ込んだ。

 

 土砂崩れに飲まれた衝撃かと思ったが、倒れ込んだ方向が違う。

 姉が恐る恐る目を開けると、先を歩いていた妹の靴が前にあった。

 歩いていた方向にどうして突き飛ばされたのかすぐに理解できず、泥だらけの服を少し払いながら起き上がりつつ、妹の顔を見上げた。

 

 妹は顔面蒼白で、さっきまで姉が立っていたところを見ていた。

 

 その表情で、何が自分を突き飛ばしたのか、否応なく姉も理解してしまって。

 

 振り返った先の惨状を見て、膝と腕の震えが止まらなかった。

 

 

「はーちゃ! はーちゃ! ど、どうしよ! どうしよどうしよう! ああ あああ! なんで!私の、私の、せいで……! はーちゃ、はーちゃああ!!!」

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 こんな時、どんな言葉をかければいいんだろう。

 ひぐらしの声が鳴り響く中、左から頬に西日を受けるのを感じながら、妹は境内で立ち尽くす姉の背を見つめていた。

 島民たちの手で母の遺体を何とか土の中から取り戻し、島を守る神様となるよう祈るまでの間、姉はずっと泣くこともなく淡々とこなしていた。

 

 突然すぎてしばらく現実を受け入れられなかったのは、妹も同じだった。

 呆然としてしまって、涙が枯れるほど泣き続けたのは、母への祈りを終えてからだった。

 

 姉も同じなのかと妹は思ったが、どれだけ時間がたっても姉はついに今に至るまで自分の感情を出すことなく、夏はとっくに終わってしまった。

 だからと言って、姉が母の死に何も感じないはずがない。時々ものぐさな母に軽口を叩いても、深い信頼が姉の心にあったことくらいは感じ取れる。

 

 あれから姉は、極端に食事の量が減ったり、時々脈絡無く肩と手を震わせたり。夜中に叫びながら目を覚ました姉の背をひたすらさすったこともある。

 より姉を傷つけてしまいそうで、どんな悪夢を見てしまっているのか、まだ妹は聞けていない。

 

(何とかしないと……)

 

 母親の喪失の悲しみを、『姉のそばにいてほしい』という母の遺した言葉と共に、ある種の使命感をもって妹は克服しようとしていた。

 

「いんね……」

「……何?」

「その、大丈夫……?」

「何が?」

「えっと、だって……」

「大丈夫だよ。いんねは強いもん」

 

 姉は首だけひねり、肩越しに流し目を後ろにいる妹に送る。姉の顔に浮かび上がる頬骨による影は、これまで無かったものだった。

 虚ろな姉の目は、本当に自分に焦点を合わせているのか。夜の海より真っ暗な姉の瞳に、妹は恐怖すら覚えた。

 

 何とかして、姉の心が回復できれば。

 新学期になっているけど、姉妹は言わば忌引き休暇のような形で通学していなかった。でもひと段落した今なら姉は推島に戻れる。生物観察の実習を楽しみにしていたし、高校生活の中で姉の心も少しずつ癒えていけばいい。

 そう妹が考えていたことに対し、姉は冷や水を浴びせた。

 

「高校に退学の連絡した。手続きのために一度行ってくるから」

「ええ!?」

「当たり前じゃん。私が巫女を継ぐんだから。もともと決まってたことだよ」

「そ、そんな! ねえ、まだ手続きしてないんでしょ? いんねが高校を卒業するまで、あいがお仕事、頑張るから! 考え直して……」

「茉莉は義務教育でしょ、ちゃんと通いなよ。何言ってんの」

「うう……でも、そんな極端な……」

「……茉莉。あのね、私がはーちゃに早く台風の被害を確認しようって言ったから、あの時はーちゃは土砂崩れに巻き込まれたの。私が逃げ遅れたせいではーちゃは隠世に行っちゃったの。だから巫女の務めは私だけがしないといけないんだよ」

「な、なに言ってるの? きっかけと原因は全然違う意味の言葉だよ? そんなの、何でもありになっちゃうよ……いんねは悪くないよ!」

 

 首だけ後ろを見ていたのをやめ、姉は振り返り妹を見据え、早口でまくし立てた。

 姉なりに母の死をどのように受け止めているのかが初めて妹に開示された形だったが、それを聞いた妹は、とてもまともな内容とは思えなかった。

 聡明な姉らしくない、前後関係と因果関係を取り違えた発言に戸惑う妹を置き去りにするように、姉は話し続ける。

 

「だからもう、茉莉はこの仕事しなくていいから」

「なんでそうなるの!? いんね落ち着いてよ!」

「何度も言ったでしょ。茉莉に義務はないの」

「そんな、今更……あいも、あいもいんねと一緒に……! あいだって、何度も言ったでしょ!」

 

 姉妹が生み出す二つの長い影が、片方が揺らいで一つになる。

 妹が目に涙を浮かべながら姉の胸に縋りつき見上げてきて、姉は歯を食いしばり、妹の肩に手をのせ目を合わせた。

 

「茉莉……それだけじゃない。全部私一人でやるから。今からでも、ととうと推島に移ってくれない?」

「……は?」

「茉莉も、わかるでしょう? 目の前の推島の生活は大きく変わっていって、小島は人は減っていく……そして今年の冷害、最大級の台風、去年のインフルエンザ……そして今、現役の巫女が隠れてしまった。島のみんな、不安でたまらないの。そんな中で、穴山の長女がチャラチャラ高校に行ってる場合じゃないの。それに、それに……19年前、薬を使うっていう、いつもと違うやり方でお祭りをした巫女が……はーちゃが、こんな形で黄泉に隠れてしまって……やっぱり、本来の、やり方で、お祭りをしないとって、声も……茉莉に、言ってなかったけど。この島の本来のお祭りは……」

 

「知ってるよ」

「え……」

「はーちゃから教えてもらったよ。言いたくなさそうだったけど」

 

 つい先日為朝の社に母と行った時、妹は古文書を見つけて内容を母に聞いた。最初ははぐらかそうとしていた母だったけど、姉のためになりたいと食い下がる妹に根負けして、書かれている内容を伝えた。

 かつての巫女が眠りに失敗して、疱瘡が流行って以来この島で行われ続けた、島民しか知らない、島外に口外してはいけない20年に一度のお祭りの内容だった。

 母は、あの薬品があるからもうこんな狂ったやり方でお祭りはしないと言っていたけど……これまでと違い薬品を使ったお祭りは、『これで本当に夢を見れるのか?』と余り島民の印象は良くなかったとも言っていた。そのせいで苦労したとも。

 

 肩を掴む姉の指から、妹のものじゃない震えが伝わってくる。

 怖くて、不安で、どうしようって震えているのは、自分よりも姉なんだ。

 姉の不安と震えを和らげたくて、妹は努めて明るい口調で話しかける。

 

「あいはここ数年はーちゃのお手伝いをしてきたんだから、島のみんなから務めを果たすつもりだと思われてる。島のみんなが穴山家のために色々してくれるのは、私たちがお祭りで大変な役目を担うから。なのに、あいが出てったら、島のみんなから『務めを放棄した』って思われて、はーちゃの時よりいんねはもっと大変な思いをするよ」

「でも……そんな……」

「あいは大丈夫、大丈夫だよ。何があってもいんねのこと信じてるから。ねえ、いんねは今、疲れちゃってるんだよ。当然だよ……。そんな時、一人になっちゃいけないんだよ?」

 

 やっぱり避けられないのかと、姉は絶望で眩暈がした。

 

(全部、全部、私のせいだ……)

 

 祖父と母が敷いた、このお祭りをせずに済む軌道を壊したのは、母を死なせた私だ。今後何も大きな災厄がなければ、薬を使ったやり方でもいいという条件だったんだから。

 そして妹を神職の道に本格的に引きこんだのも、妹を当てにする母に同意して高校に行った私だ。

 

 人の力ではどうしようもない所で、悪い事が立て続けに起こっている。あのお祭りをやるなら、きちんとやり抜かないといけない……。これまでも、やり抜かないと良くないことが起こっている歴史の積み重ねがある。

 

 母を死なせる形で母の代わりに巫女になった私は、これから100人以上の島民たちの生活を守らなければならない。

 眠ったふりをしてお祭りを終えてはならない。私が、私が……やらないといけないんだ。

 

 でも、大叔母はこのお祭りのせいで……妹も、もし私が力加減ややり方を間違えたら……。

 

「……」

 

 土砂に身体を潰された母が、地に伏せた姿勢のまま、動けない私の足首を痛いくらいに掴んでくる。あの日からそんな夢を何度見ただろう。

 

 さっき妹は『いんねは何も悪くない』と言ってくれた。優しい妹だ。姉を想ってきっと正しいことを言ってくれた。

 

 そんな妹に、母を死なせた業を背負わせるわけにはいかない。

 

 それなのに、妹がこんなふうに姉に尽くそうとしてくれてるのは、かつて母が言ったように、私がこの子にずっと寄り添ってきたからだ。

 私が産まれて来てほしいと望んだ命のために、良き姉であろうとし続けてきたから、この子は私と同じ道を歩もうとしている。

 

 

「茉莉、私はそんなこと頼んでないよ」

 

「え、え……」

 

 突き放さないと。

 この子は外の世界でやりたいことがある。見たい景色があるんだ。

 それに、お祭りで一番過酷な役割を担うのは妹だ。無事に終わっても、妹の中でトラウマになってしまうかもしれない。

 だから……お祭りが避けられないなら、せめてそれを終えたらもう妹を関わらせてはいけないんだ。

 

 胸の奥から取り出した無表情の仮面をつけて、抑揚も無く妹に語りかけた。

 

「私の立場になって考えたことあるの? あなたが良くても私が困るの」

「やだ、やだよ、いんね、やだ……」

「でも茉莉の言うとおり、お祭りはもう……避けられない。確かに移住は言いすぎだった。でもそれ以外の神職の仕事はもうしないで。それと、お祭りが終わるまでこの神社を出てってよ。島の西にさ、崖の目の前に建てられた家があるでしょ。あそこに住んでた人、推島に出て行っちゃったから今空き家だったはず。そこにととうと住んでて。ととうには言っておく。

 はーちゃからどこまで聞いてるか知らないけど、ばんまの頃より前から、お祭りが終わるまで姉妹は別々に育てられてたんだから」

 

 後一年、この妹と同じ屋根の下に住んで、お祭り当日を迎えるなんて無理だ。

 とても『送る』なんて出来ない。

 そこまで考えて、なぜ本来穴山家の長女と弟妹は産まれた時から別々に育てられていたのか、ようやく理解した。

 

「そんなことしたら、いんねはここで一人暮らしになっちゃうよ! 食べ物とか、水とかどうするの?」

「どうとでもなるよ。巫女修行の合間にそういうのも身につけてきたもん」

「うう……どうしてそんなに、一人でしょい込もうとするの? いつもみたいに、ついて来てって、言ってよ。あいも、いんねに頼まれなくても、そばに──」

 

 

「ねえ! 茉莉は生き方を選べるんだよ! 自由なの! いつまでわけわかんないこと言ってんの!」

 

 

 妹が羨ましい、妬ましいと一瞬頭によぎった時、母が高校に行かせてくれた。

 高校、最後まで行きたかった。

 

 外の世界にも興味があるけど、この島が好きなのも偽りのない本心だから……巫女になるのが決められた道なら、せめて父と母と、ここで過ごしたかった。

 大切なかわいい妹が、そばにいるよと言ってくれて、嬉しかった。

 

 一緒にいたかった。

 

 そんな心の奥底にある色んな醜い感情も、このまま観察眼のある妹にいつまでも表情を見られたら、見透かされてしまいそうだった。

 母を死なせた私は、母を慕うことも、母の死を悲しむことも、妹に頼ることも……もう……。

 

 

「そうだよ……あいは、選べるの。いんねと違って、生き方を選べるんだよ……だから……ひっく……いんねを選ばせてよぉ……」

 

 

 ボロボロと大粒の涙をこぼす妹の肩から手を離し、早く荷物をまとめてとだけ伝えて、姉は社の中に消えていった。

 

 泣き虫な妹の涙は見るのも止めるのも慣れていたのに、これ以上その場にいられなかった。

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 ―45年前―(12歳)

 

『武田』

『タケダ?』

『俺の名前だよ。君は?』

『……まつり』

 

『穴山茉莉』

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

「んで? 何しに来たって? この時期ここ来れないはずなんだけど」

「だから、今夜のお祭りを調べに……やっぱ態度わりいなこの子」

 

 恐らくルール違反をしながらやってきた来訪客に対して、不審感オーラにジトッとした目線を上乗せしてきた少女に武田は毒づく。

 

(来訪者の相手は神社の人間の務め。いんねに手伝うなって言われたけど、とんでもなく悪い人かもしれないから、釘刺しとかないと)

 

 つま先立ちで大人になろうとする少女は、あれから約1年、遠目にしか会えてない姉に代わって不届き者を問いただす。

 

「せめて来島者名簿に名前書いてきたの?」

「え? そんなのあるのか?」

 

 やっぱり、と少女は嘆息した。

 自分はかんきょーちょー?の人じゃないから、希少な動植物の保護をする権利も義務も義理もない。だけど、現地ルールを守らずやってくる人というのは、密漁まがいのことや、島民が処理に困るプラゴミの放置等、碌でもない人間である割合も高い。

 ちょっと調べれば分かる名簿ルールくらい守れているかは、来島者が持つ倫理水準の試金石にもなる。

 

「……おにーさん、希少生物こっそり持ち出すつもりなの? ルール守ってよ」

「いや、そんなものに興味ねえよ。よく分かんねえけど、持ち出さないからいいだろサインなんか」

「いいかどうかをなんでルールを守るべき人が決めるの。ルールの意味ないじゃん」

「意外と口回るなコイツ……」

 

 とんでもなく悪い人じゃなさそうけど、いい加減で何も考えてなさそうでイヤな人。少女は子供だからこそ残酷に武田の第一印象を決めてしまった。

 

「あーところで、まつりちゃんとやら」

「うわっ馴れ馴れしい」

「うるせえな。薬ないか? 酔い止めを……」

「うわっ厚かましい」

「頼むよ……波が凄くて……まだ身体が揺れてる感じがあって……」

「自業自得って言うんでしょそういうの」

「わかったよ、ごめんって……まつりさん」

「もー、しょうがないなぁ。じゃあ学校いこ。薬あるはず」

 

 激しい波による酔いは中々収まらなかったので、武田は薬を頼んでみると、少女は踵を返して島の中心に向かって坂を上っていく。

 少女は『学校』と言った。学校は当然義務教育である以上、人がいる場所には必ずあるだろうけど、まさか病院は無いのか。この様子だと、交番や消防も。

 事前に聞いたのは簡単な歴史とかだけで、現地に公的機関がここまでないとは武田も思っていなかった。

 

 しかし、目の前の少女は何者なんだろうか。

 何か荒んだ感じの口の悪さもある気がするけど、こうして体調の悪さを訴えると動いてくれる人の良さもあるらしい。

 白く、袖口がゆったりしている服と、背筋の伸びた姿勢と所作も相まって、どこか神聖で凛とした雰囲気も感じる。

 

 小柄な後ろ姿を追いかけていくうちに、道は分岐にあたる。左方向は地面が木漏れ日に照らされる崖沿いの道だったが、少女は右に曲がっていった。

 鉄の小さな門を少女が開いた先には、二階建ての建物と、泥だらけの狭い敷地が武田の目に映った。

 

「ここが学校か? 校庭、ひどいな……昨日の台風のせいか?」

「降って一日くらいはこんな感じ。台風は昨日の昼だからこれでも結構乾いた方だよ。直後は水浸しだったもん。端っこの方歩いてこ」

 

 蛇口のついた大きなコンクリートの水槽のようなものの脇を通って、施錠されていない校舎の入り口を開く少女にただついて行く。

 簡単な木の板が敷かれている廊下を進んでいって、書類が多く綴じられた部屋に入った。島の外から来た武田にとって、この部屋は一番馴染みのある文明を感じた。

 

「職員室か? 勝手に入っていいのか?」

「うん。先生いないし。ええっと薬は……これでいい?」

「ああ……どうも。東京でも見る薬だな」

「推島から先生が持ってきてくれるの。怪我しても学校の先生が診てくれる。お水は……持ってきてないの? じゃあはい、これどうぞ」

 

 本当に医師免許を持つ医者もいないんだな、と武田が驚いていると、少女は彼に錠剤薬を手渡したのち、服の内側から竹を加工した水筒のようなものを取りだし、それを傾けて器一杯分の水を差し出した。

 時々島に訪れる生物の研究者たちはこの島の上水環境を知っているため、基本的に自分たちで水を工面するが、持ってこれなかった場合は島民が差し出す水を感謝しながら飲む。

 

 受け取った武田は、揺れる水を見て眉を顰めた。

 

「……何か、泳いでないか?」

「ボウフラでしょ? 蚊の幼虫だよ、知らないの? そのくらい気にしないで」

「いやなんだよこの水! 腹壊すだろ!」

 

 少女の武田を見る目はみるみるうちに細くなり、眉間にしわを寄せ始め、唇は真ん中が引きあがり尖り始めた。

 

「……。あのさあ……タケダさんだっけ? 今からでもさっさと帰んなよ。船無くて帰れないなら7kmくらい泳げば?」

「分かった分かった! 飲む!」

 

 飲み物くらいペットボトルを持っていくべきだったと武田は後悔した。

 せめて煮沸したい。口から出かけた言葉と共に、意を決して水をごくりと飲みこむ。

 こんなところに送り込みやがって……と自身の好奇心を棚に上げて上司を恨むも、もうすでに遅い。

 

 しかしこれ以上少女のこちらに対する印象を悪くするのはマズい。彼女が取材の生命線だと思われるから。

 そこまで考えた時、上陸してから無意識に感じていた違和感の正体に気付いて、武田は疑問を口にした。

 

「集落は島の南のこっちしかないのか?」

「北は潮流に削られて海辺まで崖だから、誰もいないよ。集落はここだけ」

「そうか……その割に君しか会わないな。他の住民を見ないけど、何してるんだ」

「……みんな、寝てる」

「は? 昼間から?」

「今夜、明け方までお祭りだから」

 

 お祭り。少女の口から出てきたキーワードに武田が飛びついた。

 

「徹夜で何するお祭りなんだ?」

「教えない」

「え、何でだよ。いいだろ」

「マレビトさんには駄目って言われてるから」

「よく分かんねえけど君は何で起きてるんだ。徹夜なんだろ、いいのか?」

「私の役目は眠ることだから」

「役目……」

 

 やっぱりこの子は、お祭りの中心にいる神職の子ではないか? 眠る役目とは?

 武田は自分の勘を信じて、あの手この手で少女から情報を聞き出そうとしたが、少女のガードは固かった。

 

「ねー、ダメって言ってんじゃん。いい歳してイヤイヤなんて言っちゃいけないんだよ? 学校で習わなかった? 島の外に学校無いの?」

「いちいち煽って来るなこいつ……」

「何でそんなに知りたいの?」

「テレビ局に勤めてるんだけど、ネタ集めの一つだよ。上司からの指示でね。その人、推島に行ったことあるらしいんだけど、ここのお祭りしてること軽く聞いたんだってさ。それで、オカルトでも何でもいいから、珍しそうなら行って来いって言われて」

「テレビきょく?」

 

 お祭りの関係者らしき人の前で『オカルト』と口走ってしまったことに、武田は一瞬『しまった』と思ったが、少女はもっと基本的な語彙も分かってなさそうだった。

 確かに、こういうのはグイグイ聞いても仕方がない。どうも第一印象も悪いようだし。

 

 3年前に長崎で大規模な火山噴火があった時、マスコミが危険な区域にまで立ち入り、消防や警察まで巻き込んで火砕流に飲まれ犠牲になったのは記憶に新しい。

 ただでさえ、最近マスコミの過剰な取材行為に対する世間の目は厳しいのだ。

 

 北風がダメなら太陽で行くか、と方針を変えることにした武田は、まずは信頼を得られるよう自分の事を話すことにした。

 

「まあ、世の中のいろんなことを調べてな、それをいろんな人に伝えるお仕事だ」

「へぇー、じゃあいろんな所に行ってるんだね」

「そうだよ。これの直前にはアフリカ行ってた」

「アフリカかあ。ずいぶん遠いね。私も島のお外には興味はあるんだけど。見たことないもの、見てみたいし」

「アフリカは知ってるのか」

「学校で習ったよ。それにアフリカって、フリージアってお花の原産地なんだってね。いんねが教えてくれた。昔、渡り鳥がここに運んでくれたのかなあ」

「いんね?」

「お姉ちゃんのこと」

 

 出会ってから終始武田に塩対応気味だった少女が、ここで初めて少し顔をほころばせた。

 好きな花なんだろうか? あと姉がいる様子。

 フリージア……聞いたことない花だけど、この子と信頼関係を得る鍵がここにあるかもしれない。

 

「どんな花なんだ?」

「小っちゃくて可愛いんだよ。いろんな色があるんだけど、私は黄色が好き」

「へえ。綺麗なんだろうなあ。見てみたいな」

「うーん……真夏の今はもうお花散っちゃってる。絵には描いてるけど、見る?」

「ああ、見たい。気になる。是非見せてくれ」

「えっなんか勢いが怖い……」

 

 露骨に前のめり過ぎた態度のせいで少女が少し引いていたが、相手の好きなものの話題で攻めると決めた武田は、少女の誘いに乗ることにした。

 絵を見せてくれる、と言っている。お祭りと言えば神社。もしこの子が本当に神職の子なら、お祭りの現場である神社かその近くに住んでいて、家まで連れて行ってくれるのではないかという期待もあった。

 

 学校から出て、来た道を辿って島を西に向かって行く。家々が並ぶけど、彼女の言うとおりみんな寝ているのか、しんと静まり返っていた。

 

「あ、丹宗(たんそう)さん、まだ繭干ししてる」

「たんそう? 繭干し?」

「あの家に住んでる人の名前。お芋で焼酎っていうお酒作るのが上手い人なんだけど、養蚕もしてて。いつも蚕の繭は煮込むんだけど、夏はああやって屋根に干せば十分暑くてさなぎが死んじゃうから」

「なんで夏だけ?」

「水が貴重なの。煮込まずに済むならそうしたい。今は台風のお陰でマシだけど、雨降らないと水は配給制だから」

「へえ……『まだ』って、なんかマズいのか?」

「干しすぎると糸が乾燥する。見極めが難しいけど、一日くらいで終わらせないと。昨日からやってたから……後で声掛けとこ」

「よく見てるんだな」

「……私たちが、島のみんなの生活を守らないといけないから。はい、あそこが私たちの家」

 

 家、と言われて案内された場所は、他の家と同じで、プレハブ小屋のような小さな家。窓があって、床が高い。変わった形の家で、近くに神社がある様子もなく、自分の当てが外れたかと思った武田は心の中でため息をついた。

 後ろに高い崖が聳え立っていて、恐らく岩を削ったんだろう。必死に人が住める場所を開拓した痕跡が見れる。

 屋根の下あたりに、タライや木製の桶が置かれている。あれで屋根に落ちた雨水を雨どい伝いに貯めている様子だった。

 

「おりゃ!」

「うおっ!?」

 

 突然少女が、水を貯めた木桶のふちを棒で強く叩き、武田が驚いて声を上げた。そのまま少女はさっき使った水筒を取り出し、柄杓で水を掬って水筒に補充する。

 

「な、何したんだ? 今」

「叩けばボウフラがびっくりして底に行くからその隙に上澄みを汲むの。たまにどんくさいのが逃げ遅れるけど。さっきタケダさんが飲んだ奴みたいに」

「コメントしづらいライフハックだな……マジで雨水貯めてしのいでいるのか……ボウフラ……駆除しないの?」

「この子たちが水をきれいにしてくれてるって、いんねが言ってたから」

「蚊が多くなるんじゃないのか」

「分かんないけど、海辺は風強いからまだマシなんじゃないかな。山の中は風が少し弱いから、確かに多いかも。でも夏に水質が悪くなって飲めなくなる方がイヤ」

 

 こういう水たまりの多い生活だと夏場の今は蚊がひどいんだろうな。先日のアフリカロケを経て、武田は蚊に対して不快を超えて恐怖を抱いていたため、この島の生活に今更ながら驚く。

 そんな彼をよそに、少女は戸を開けて家の中に入った。

 

 『私たち』の家と言っていたけど、さっき言ってた姉や家族が住んでいるのだろうか。しかし、家の中は無人だった。モノが少なく、この子の学用品が目立っている。

 

「ととうと一緒に住んでるけど、ととうは準備で昨日からいないよ」

「そ、そうか。ととうって、お父さんかな。何の準備?」

「そういえば帰りの迎えはいつなの? 宵には皆起き始めるから、早く帰らないと、いるはずがないマレビトさんに皆びっくりしちゃうよ」

「明日の早朝だよ」

「ええ……見つかって問いただされても知らないよ。どこで寝るつもりだったの?」

「えーっと……なんか宿くらいあるのかと……」

「……ハァ……本当に見切り発車で来てるんだね。今夜ここで寝ていいよ」

「え、お父さんいないんだろ。君と二人でここで過ごすのか? 流石にそれは……」

「? 私も今夜はお祭りでいないけど。一人で寝てて」

「あーそうだったな。じゃあお言葉に甘えるか」

 

 見た感じ、小学校高学年。微妙な年ごろの少女と二人きりで一晩は……と武田は一瞬考えたが、そういえばこの子も一晩お祭りに参加するから、一人でここを使わせてくれるらしい。

 そして父親が何をしているのかも聞いてみたものの、聞こえなかったかのように流されてしまった。

 

「こんなお花なんだよ」

 

 そういえば、絵を見に来たんだったな。少女のニコニコ顔を見ながら、武田はここに来た表向きの目的を思い出した。

 見せてもらうと、とにかく上手い。アヤメ科の花だと武田でも推測できたのは、花びらも一つ一つ丁寧に書き込まれているからだ。

 それに正確なだけではなく、構図も計算されている。主題である花畑は絵の下3分の2を占めているが、ここが島であることが分かるように、黄色の花が一面に咲いている絵の中の世界で、空と海が青々と描かれている。

 夏の今はギラついた濃緑で覆われているけど、絵には風に揺れる薄緑の木が描かれていて、これは春の景色だろうか。この絵を見た人がこの場に立ったかのように、情景に温度すら感じられる。

 

「へえ、子供とは思えない出来だな。丁寧で上手だ」

「……ほんと? へへ……」

 

 いつも褒めてくれる先生や友達の言葉も嬉しいけど、一番絵を褒めてほしい人とは離れ離れになっている。

 打算もあるだろうけど、本音でもある武田の評価を聞いて、島外の人からも評価された少女は恥ずかしそうに両手を顔に当て、隠した口元を綻ばせた。

 

「ああ。構図がすごく上手いんだよな。それに、景色が綺麗な島なんだな」

「うん! 私はこの島好き。いんねもこの島が好きだからもっと好き」

「絵描いて食ってるやつもいっぱいいるけど、興味あるならカメラなんてどうだ? 見たことないものに興味あるんだろ、行動範囲広がるぞ」

「……カメラ……カメラって、あのカメラ?」

「どのカメラを言ってるか知らんけど、俺が持ってるのはこれだよ」

 

 武田は肩から下げている鞄を開けて、中のカメラを少女に手渡した。高価なものである以上落とされたら困るが、少女は興味を持っている様子なので、ここでこちらに関連する話題を引き込もうと試みた。

 

「重……! これがカメラ……どう使うの、これ」

「このボタンを押す。デジタルカメラって言うのも世に出てきたらしいけど、これはフィルムタイプだ。アフリカじゃこんな写真撮ってきた」

 

 武田は少女に現地で現像した写真を何枚か見せた。

 見渡す限りの大草原。推島でも見れないキリンや象といった野生の動物。雄大な自然もあるかと思えば、人々の素朴な暮らしや大都市もあり。エキゾチックな写真の数々に少女は目を輝かせる。

 もちろんいろんな課題を抱えた地域でもあるが、武田はあえてそういうのは見せなかった。

 

「すごい……! 写真はやっぱり見たまんまの景色を綺麗に写すね」

「絵は絵にしかない良さもあるけど、これはこれでいいだろ? 設定いじれば見た目以上に印象的に写せるぞ」

「うん……こういう所お仕事でよく行くの?」

「そうだな。今回はロケの随行だよ」

「ろけ……?」

「芸能人が出る番組を撮ってた。俺は普段芸能界の裏方だから」

「げーのーかい?」

「教科書に載ってないことは本当に何も知らないんだな。なあ、カメラ、興味ありそうだな。お祭り撮ってみたらどんな感じに写るか見てみないか?」

「またその話? ダメ。社の言いつけは絶対守るから」

 

 ダメか。これは正攻法ではどうやってもダメだな、と武田はあきらめた。

 それなら、騙してしまうようなやり方だけども搦手から行くしかない。

 夜にこの子がこの家を出てお祭りに向かうのを尾行するやり方もあるけど、地図も無く初めて訪れるこの地で明かりも無い。

 彼女は今、社と言った。やっぱり予想どおり神社がある。『山の中は蚊が多い』とも言ってたし、尖った山の険しい道のりの奥に神社があるのかもしれない。

 勝手知ったるこの子は迷わず行けるだろうが、自分は彼女を見失ったら遭難してしまうかもしれない。

 夕方の今のうちに行って道を覚えられないだろうか……。

 

「分かった、諦める。じゃあ、このカメラでこの島の他の景色を撮ってもいいか」

「はあ……それならその辺でいくらでもどうぞ」

「それでだな、夜のお祭りは撮らないから、今の明るいうちに君が言う『社』とか撮っていいか? 有名な推島の隣にあるこの島、ちょっと珍しい所だって紹介するだけだ」

「えー!? ううん……いやでも……」

「頼むよ……ノルマ厳しいんだ。テレビ局勤めも大変なんだよ……」

「じゃあ辞めればいいじゃん。島の外には生き方がいっぱいあるんでしょ?」

 

 揺らいだ少女に対し、半分本音、半分泣き落とし作戦を始める武田。実際ここまで子供に対して必死なのも、何も持って帰らなければ会社に何をされるか分からないから。

 しかし残念ながら、田舎の少女に対して不況時のサラリーマンの悲哀を語っても無意味だった。

 

「ったく、これだから子供は。バブルが崩壊してどこも大変なんだよ。北海道の一番デカい銀行の経営が危ないなんて話も聞くし……猫も杓子もハワイ旅行なんて時代じゃないから、国内旅行に回帰してる風潮も出始めてて需要あるんだよ、こういう取材」

「難しい話されても困るんだけど……」

「今時生き方なんて選べないんだ。俺たちのところも動き悪いと上の人間からグーで殴られるやつもいる。俺だってアフリカで死にそうな目にあったし……さっき言った上司にも、アフリカから帰って家に帰る暇もなくここに行けって言われたんだよ……ロケで大変な目にあったって言ったのに……上の連中は人を人と思ってねえんだ」

「死にそうな……げーのーかいってところ、そんなに大変なんだね。私には無理だなあ。でも、そっか……生き方、選べないんだ……いんねと同じか……。じゃあ、その『じょーし』って人に行ってこいって言われたから来たの?」

「ま、それもあるかな」

「ひどい人だね……」

 

 子供から同情を買うために大人が仕事の愚痴を言うことに、武田も多少プライドを犠牲にしてしまっている。

 しかし実際、アフリカのロケで病気にかかり、重症化する直前で投薬を受けられて回復したものの、散々な目にあった。

 その辺のエピソードを具体的には言ってないが、どうやら少女の気持ちを傾けるのに一役買ったようだ。

 上司の事も話したが、子供なりに非情な上司にドン引きしている様子だった。

 

 ただし、どちらかというと彼女は『生き方を選べない』という言葉に、姉を重ねていた。

 しばらく会えてない人に、一度……お祭りの前に、なんでもいいから話すきっかけが欲しいとも。

 姉と一緒に務めを果たすお祭りで、姉に蟠りや寂しさを抱えたまま役目を担いたくなかった。

 絵で残したあの頃のように……大切な人を、今度は絵とは違う形で残せたら。カメラなんて無い島で、こんなチャンスはまたとないから。

 

 話すなら、一年ぶりだけど……。

 

 

『写真は『撮る』っていうんだよ。この島にカメラなんて無いけど……じゃあ茉莉がカメラを持てる機会があれば、撮ってもらおうかな』

 

 

(いんね……)

 

「まあ……撮ってもいいんじゃないかな」

「本当か!?」

「うん……山の上なんだけど、案内してあげる。それで、その……使ってみていい?

 私、いんね、撮ってみたい」

「ああ。ん? 君が撮るのか?」

「へへ……いんねが撮らせてくれれば、だけど……写真も、欲しい」

「しょうがねえな、いいよ。じゃあ早速行こう。日が暮れる」

 

 そのまま家を出て、家を出た少女はさらに西に行って、藪をかき分け進み、崖をつづら折りで上る狭い道を上っていった。

 やっぱり明るいうちに行けてよかったと思った。こんな道、暗い時に行ったら分からないし、最悪踏み外して落ちてしまうかもしれない。

 

「井戸あるんだな。使わないのか? 水貴重なんだろ」

「大雨の時以外ほとんど枯れてる。無いよりマシくらい」

「そうなのか。しかし……いつまで登るんだ? 結構辛いんだが」

「今半分くらい。何でそんな大荷物なの?」

「カメラの機材がいっぱい入ってるんだよ。それが重い。……良いモノを作るには手間がかかるってこった」

「へー」

 

 古びた井戸の脇を通って進み、曲がりくねった山道を進む。一か所斜面が抉れたように木が無い所があり、土砂崩れでもあったのかと聞きたくなったが、息が切れ切れだったので言わずに黙々と少女について行った。

 こちらを一度も振り返らず、息も切らさず道案内する少女を追いかけることしばらく経って、大きな鳥居が見えてくる。

 

 あれが神社か。

 広い境内で、おそらくここでお祭りをするのは間違いなく、この子に案内してもらえなかったら絶対に来れなかったな、と武田は思った。

 

「いんね探してくる」

 

 すたすたと境内を進み、社の中に消えていく彼女の背を見て、武田はまた違和感を覚えた。

 社に入る躊躇の無さと、彼女の家族がいることからして、ここが少女の実家ではないか。

 ではなぜ、まだ小学生の子どもが、父親と一緒とはいえ実家の外で暮らしているんだろう?

 学校から近いから? いや、ここからでも通えなくはない気が……。

 

 少女の言っていたとおり、海辺より容赦なく群がる蚊を払いつつ境内で待っていると、少女が社から出てきた。そのまま、奥行きがあって大きな社の脇を進んでいくので、慌ててついて行く。

 

「いんね、岩淵の池にいるみたい」

「なんだそれ?」

「この神社の裏にある綺麗な池。この島は水が貴重なの」

「それは何度か聞いたな」

「だから大昔、池のある場所に神社を建てたの。この島では迎える時と送る時、水を使うから。大切な場所だから汚したりしないでよ」

「んん……? 送る? まあつまり、宗教的な場所なのか」

 

 本当にすぐ裏手に見えた、変わった地形の池のそばに人影が見えた。池の近くにある小さな田んぼを見ている様子だった。

 20かそれより若い、ともすれば高校生くらいのその女性は、武田から見ても明らかにこの神社に関わる巫女であることが分かるような服装と雰囲気だ。

 容姿に至っては、彼女とこの少女は姉妹であることが容易に推測できるほど似ている。

 

「へぇ、綺麗なねーちゃんだな」

「……」

 

『茉莉ちゃんのお姉ちゃんは美人だね』『茉莉ちゃんはお姉ちゃんにそっくりだね』

 友達に言われると鼻高々で嬉しい言葉も、げーのーかいから来たらしいこの男の言い方は、何だかぞわっと不快で気持ちの良いものではなかった。

 

「いんね!」

「……え? 茉莉?」

 

 一年前に遠ざけ、あえて今日まで話しかけたりしなかった妹が突然現れて、姉は無表情の仮面をかぶるのも間に合わず素っ頓狂な声を上げた。

 今夜のお祭りで会うことになっているのに、どうして夕方に差し掛かる今現れたのか、意図を読み切れないまま振り返る。

 

「いんね、あの、早く来て、ごめん……」

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

「その、お祭りまで、まだ時間あるけどさ。あのね、カメラがあるんだよ。それでいんねの写真、撮ってみたくて」

「へ? カメラ?」

「う、うん。昔、私がカメラを持てる機会があれば、撮ってもらおうって、言ってくれたから……」

「……。覚えてるけど。なんでカメラなんて茉莉が持ってるの?」

「それはその、この人が……。それであの、その、すぐに、帰っちゃうから。今しか無理だから、撮れたら……って……」

 

 久しぶりに会えば、優しい姉に戻っているのではと妹は僅かに期待していた。

 そうでなくても、昔笑い合いながら話した約束を思い出させれば、絵を描けば必ず褒めてくれた頃のように、昔の雰囲気に戻るんじゃないかと。

 

 しかし、最初だけ不意打ちにびっくりしていた姉の口調は、みるみるうちに温度を失くしていた。

 その雰囲気を感じ取って、妹の声もどんどん小さく尻切れトンボになっていく。

 

 そして、妹が指さしたカメラを持つ人物を見て、姉の整った顔が険しくなり、妹は更に縮こまった。

 

「……その人、誰」

「あの、その」

「マレビトさんじゃない。なんで今日いるの。ううん、来てるのはどうせ推島でルールを守らない漁の人がいたんだろうけど、なんでこの人をここに連れて来てるの」

「……えっと」

「ねえ。茉莉なら島民みんなのこと知ってるよね。知らない人は外の人だって分かるでしょ。お祭りがある時にマレビトを入れないようにしてるのに、よりにもよって巫女の妹がここまで連れてくるなんて何考えてんの」

「……」

「こんなことしてさ、迷惑なんだけど。さっさとこの人連れて山を下りて。

 そちらの方。ここ数日はこの島は島民以外立ち入り禁止です。最近ルールを守らない来島者が増えて困ってるんです。お引き取りください」

 

 今日のこの時間帯は他の島民たちは恐らく寝ているだろうけど、もしかしたら眠れていない人がいるかもしれない。

 穴山家の妹が、お祭りの日にマレビトを神社まで連れて行ってるのを、眠れていない他の島民が目撃したらどうなるか。

 

 妹は、少なくとも中学を卒業するまであと3年以上はこの島で生活をする。

 それなのに、妹にとってよくない風聞が立ち、過ごしにくくなるようなことがあってはならない。

 

 それに……お祭りをやり抜くために、この一年間、あえて離れる事で妹への情を出来るだけなくそうとしてたのに。

 お祭りまであと数時間の段階で昔を思い出すようなことを言われ、心がざわついてしまった。

 それもあって、やや軽率な行動をした妹を叱るにしても、姉の態度は必要以上に妹を突き放すものだった。

 

 去っていく姉の背を見ながら打ちひしがれる少女を見て、どうも複雑な関係の姉妹なんだなと武田は思う。

 この子には可哀そうだが、武田は自分がやるべきことをやることにした。

 

 島民に見つかってはいけない以上、お祭りの時は境内より中に入れないだろうから、境内の奥まったこういう所は今のうちに撮るしかない。

 

「顔が良い分怒ると怖えお姉ちゃんだな……。あー、まつりちゃん、残念、だったな……?」

「……」

「えっとだな、悪いんだが、さっき言ったとおりにこの辺とか、神社の写真とか撮っていいか?」

「……お好きにどうぞ……」

 

 振り返りもせずうなだれたまま、少女は武田に返事をした。

 

 見出しは『推島のとなり、知られざる秘境の信仰に迫る!』だと平凡すぎるだろうかと考えながら、武田は神社にとって大切らしい池に向かってシャッターを切る。

 アフリカでも何枚も撮ってきたから、途中でフィルムが足りなくなってしまった。

 補充するべく大きなリュックを下ろし、アフリカで開けて以来取り出していなかった大きなフィルムケースを開いた。

 

 

 武田を見ずに放心していた妹はもちろん、撮影に集中していた武田も。

 

 

 この時、フィルムケースから、小さな小さな黒い影が二つ、池に向かって飛び出していったことに気付かなかった。

 

 

 

 

 

『ヤマ○ルいなくてよかったね』

『結局○マビルがなんなのかよく分かんないけど──あれ? 血を吸うといえば……あかねちゃんもフリルちゃんもさ、誰か蚊に刺された? いなかった気がしない?』

『蚊? ん、言われてみれば……虫よけはしたけど、確かにいなかったかもね?』

『もともと島に蚊がいないなんてこと、あるのかな?』

『どーかな。蚊なんて船に付いたり荷物に入ってたら簡単に上陸しちゃいそうだけど。血を吸ってお腹いっぱいの蚊は飲まず食わずで何日かは生きるらしいよ?』

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 あれからほとんど口を利くこともなく、崖の前の家に戻り宵口に軽く食事を済ませた少女は、昼に言ったとおりこの家で寝ていいと言い残し、夜闇の中出ていってしまった。

 武田はそのまま彼女を尾けていくことも考えたが、どうにも少女が出ていった後に家の周りがざわめいている。

 島民たちが目を覚まし、彼らも山の上の神社を目指すのだろうか。島民に見つからない方がいいと少女が言っていた以上、身を潜めるように武田は家の中でじっとしていた。

 

(そろそろいいか……?)

 

 腕時計を見ると、もうすぐ日が変わる。

 島民たちが家を出るタイミングは同じではなく、全員出ていったことがある程度確信できた段階で武田も山を登り始めた。

 

 満月ではないけど月も出ている。ざわざわと木々が風に揺れる音を恐ろしく感じつつも、つい先程歩いた一本道のため、カメラを担いで迷うことなく境内の入り口に到着した。

 

 大勢の島民が集まっている。まだ始まったばかりのようで、取材の目的はとりあえず達成できるかもしれない。

 皆社に向かって座り、社の前には長い縄のようなものと、夕方には無かった机が社に対して平行に置かれ、その上に頭が向かって右側になるように人が横たわっていた。

 目を凝らしてよく見ると、横になっていたのは昼に行動を共にした少女だった。そして、その少女に姉と呼ばれていた女性が、縄に火をつけ、細い煙が空に登っていく。

 

 その後、姉も机によじ登り、そして妹に覆い被さり──

 

「おい、おい……何、やってんだよ、こいつら……」

 

 どんな奇祭なんだろうか、暗い中でうまく撮影できるだろうかと鳥居の影で身構えていた武田は、境内の光景に目を疑った。

 観光資源となりうるものを調べ、撮ってくるというのが今回の取材の目的だけど、こんなもの、とても表に出せるものじゃない……。

 

(祭りのこと、島外の人間に言えないわけだよ……)

 

 むしろ、推島の警察に言うべきか? いや、状況がよく分からなくてなんて説明すればいいか分からないし……長野の御柱祭のように、死人が出るような危険な日本のお祭りは、現代でもいくつか残っている。

 悩むくらいなら、何も見なかったことにしてズラかろうか。しかし、パワハラ上司にはなんで報告するべきか。

 とりあえずネタだけ押さえておいて、これを使うかどうかは上に判断させれば……。

 

 

『もー、しょうがないなぁ。じゃあ学校いこ。薬あるはず』

『お水は……持ってきてないの? じゃあはい、これどうぞ』

『こんなお花なんだよ』

『私はこの島好き。いんねもこの島が好きだからもっと好き』

 

 

「……」

 

 誰に対して言っても、あの少女が好きなこの島の生活は壊れてしまうだろう。境内の様子を撮ろうとカメラを構えるものの、中々シャッターを切る気になれなかった。

 呆然と見続けた後、結局武田は一枚も撮ることなく、島民に見つからないように早々に下山した。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 注連縄に火をつけた姉は、全身がぐっしょりと濡れていた。

 この島では送るにも迎えるにも、水が必要だから。この直前に、妹の私を『送る』お祭りのために、巫女は岩淵の池の水で身を清めていた。

 前髪を額に張り付かせ、皆に見られながらゆっくりと私の元へやってくる。

 このお祭りでしか使わない、ずっと倉庫に置かれていた寝台のような机で横たわる私に覆いかぶさり、能面のような無表情のまま、水にぬれて冷たくなった手を伸ばしてきた。

 

 

 約100年前、推小島から北に約150kmのところに浮かぶ島の、とある人物が結核にかかった。その人は漁が上手くて人望があったにも拘らず、他の島民達はその結核患者を村八分にした。そして結果的にすぐ北にあった別の無人島へ、重病人とその母親2人を追い出す形になったという。

 非情な判断の背景には、その15年ほど前の明治12年、同じ島でコレラっていう病気が流行って、数か月で180人もの人が亡くなったことがあったらしい。

 小さな離島で死に至る感染症の流行を経験した人──自身も死の淵に立たされ、奇跡的に回復した後も、家族と友人の埋葬作業が待っていた人たちが、どれだけ病気に対し恐怖を抱いたかを物語るエピソードだった。

 結核患者が移住した無人島には、結核の快癒を祈るために『鵜渡根后明神』を祀った神社が、100年経った今でも遺っている。

 

 為朝の社にあった古文書を読めず、母からその内容……昔のお祭りについて半ば無理やり聞いた後、北の島の話も含め、更に詳しく歴史を調べた。

 はじめは巫女がただ眠るだけだったのが、疱瘡という病気が蔓延した時代にお祭りの内容が変わったらしい。疱瘡は、かつて穴山家のご先祖様の、為朝様が防いでくれたという病気だった。

 

 その時の巫女が、お祭りで眠れなかった。だから、夢で為朝様やご先祖様にお祈りすることが出来ず、その少し後に疱瘡が蔓延した。

 それ以来、お祭りで巫女が眠ったふりをすることが、絶対にやってはいけない最大の禁忌になった。

 

 そして後の時代の鼠害とツツガムシ病の流行の時も、巫女が上手く眠れなかったらしく、禁忌は決定的になった。

 以来数百年、巫女が眠る代わりに、巫女の手で穴山の血が流れる人間が確実にお祭りで眠ることが出来るように、20年に一回……麻酔薬なんて無かった時代でも、素早く確実に眠らせられるこのやり方で、お祭りをしてきた。

 

 祖母と大叔母に何があったのかも、母から聞いた。言いたくなさそうにしていたけど、知らなければならないという思いで食い下がった。

 このやり方でお祭りをした結果、大叔母に障がいが残り、その数年後に亡くなった。姉妹で情が湧かないように生後すぐから妹と別々に育てられても、祖母は自分のせいで妹が黄泉に隠れた事実に押しつぶされて、心を病んだとも。

 

 

「すぅー……ふぅー……」

 

 お祭りの時だけ神事に参加する父の重低音の祝詞が響く。

 横になって呼吸を整えた私の首に、姉の両手が重なった。

 少しずつ、体重がかかってくる。上手にやれば、呼吸が出来なくなるよりも先に……眠るように意識が無くなるらしい。姉の前髪からポタポタと池の水が滴り、私の顔を濡らした。

 

 これでいいんだ。私はこれまで何度も、この手に抱かれて、眠り、夢の世界へ行っていた。幸せだった。今夜もこれまでと同じだ。

 

 冷たい姉の手の中で、ドクンドクンと首元で自分の脈が暴れているのを感じる。

 大丈夫だよ。私はいんねを信じてる。苦しいけど、このままで大丈夫。

 煙が導くままに、仮の死を以て黄泉に行って、ご先祖様に、はーちゃに、会ってさ。この島といんねを守ってって、お祈りしてくる。これでいいの。

 

 私は、いんねのためなら、なんだって──

 

 

『茉莉、私はそんなこと頼んでないよ』

『私の立場になって考えたことあるの?』

『あなたは選べるんだよ! 自由なの! いつまでわけわかんないこと言ってんの!』

『こんなことしてさ、迷惑なんだけど』

 

 

(……)

 

 

 ずっといんねのために必要なことを身に着けてきたけど、このお祭りが、私たちが一緒にできる最初で最後の務めなのかな。

 

 お祭りを終えたら、血を分けた姉妹なのに、違う生き方をしないといけないのかな。

 

 私はもう必要ない? 私はいない方が良い? 私がいると、いんねはつらくなっちゃうの?

 

 私は、もう、そばに……いられないのかな。

 

 

「げほっ……! かはっ……!」

「……っ!」

 

 無事にお祭りを進めるために、苦しんでいる素振りを姉に見せちゃ駄目だって分かってるのに。胸の奥からこみ上げてくるものに耐えられず、僅かに咽こんでしまった。

 

 その途端、首にかかる姉の重みが消えた。

 

(……?)

 

 薄目を開けて、覆いかぶさっている姉を見た。

 咽こんだ私を見下ろす篝火に照らされた顔は、さっきまでの無表情とはほど遠く、土に飲み込まれた母を見た時と同じ、悲痛な緊迫と絶望に染められていた。

 

 手に力を込めるのを止めた姉が、顔をゆっくり下ろし、頭の高さが私と同じになった。ちょうど島民たちからは、私の頭があるせいで姉の顔が見えなく位置まで。

 右真横にある姉が今どんな顔をしているのか、真上を向いていなければいけない私は分からなかった。

 

 風に攫われそうなほど小さな、掠れて震えた囁き声が聞こえた。

 姉がその姿勢のまま私の耳元で、唇の動きが他の島民に見えないように出した声だった。

 

 

「お願い……眠ったふりをして……」

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 夜が明けて、崖の前の家に戻った時、タケダと名乗ったマレビトは既に島を出ていたようで、彼が担いでいた大荷物も含めてもぬけの殻だった。島民たちも騒いでいないし、だれにも見つからずに出たようだった。

 徹夜のためすぐに眠ってしまいそうだったから、他人がいなくてホッとした。

 

 姉のささやきの後はしばらく眠ったふりをし続けるしかなく、お祭りは……失敗したと言うしかない。だけど、私と姉しかその事実を知らず、表向きはつつがなく終わった体でいた。

 お祭りの後全島民が境内から帰っていったのを見送り、最後に私が下山した。父はこの後数週間にわたり社の改築作業が始まるから、その工程を姉と少し話していた。

 

(……)

 

 横になったらすぐに眠れると思ったけど、やっぱり先ほどまで行われていたお祭りのことを思い浮かべてしまう。

 姉の手が緩んだのは、私が余計なことを考えて、咽てしまって……そのまま眠ればいいのに、出来なかったから……。

 もしこれのせいで、災厄が起きたら。恐ろしい病気がもたらされたりしたら。夢の中で祈りを届けることが出来なかった、私のせいだ。

 やるべきことをやれなかった後悔を抱きつつも、その日は昼に暑さで目覚めるまで眠り続けた。

 

 社の改築作業が始まり、これには島民からも数十人が参加していた。父も昼に山の上の社に行き、夕方には私がいる崖の前の家に帰ってくる。

 学校がなくて子供たちが家や畑の仕事ができる夏休み中に、動ける大人たちでやりきるつもりらしい。

 去年の大型台風で屋根が飛び、びしょ濡れになっていた文机のあるあたりは、床が腐りかけていたからいずれ直さないと、と帰ってきた父が言っていた。

 

 父は妻を喪った辛さだけじゃなく、危険なお祭りをやることになった娘たちの事も去年から相当心配していた。

 女系の穴山家の婿らしく、家業においては妻や長女の判断に従うものの、無事に終わってホッとしているのが言葉の節々から伝わってくる。

 

 いつ私は、社に帰れるんだろう。

 お祭りのために離れて暮らしていたのなら、お祭りが終わった今、姉のいる住み慣れた社に父と共に帰りたい。

 だけど、この一年の姉の私への態度。昨晩のお祭りの顛末。姉に蟠りがないと言えばウソになる。姉も同じ気持ちかもしれない。

 憤りなんかじゃなくて、帰ろうとしても受け入れてもらえないことが怖かった。

 きっかけがないまま一週間ほど、夏休みの宿題を済ませ、クラスメイトの家の畑仕事を手伝ったり、台風の後に海辺にあがる綺麗な貝殻をおはじき遊び用に集める幼子や低学年の子の安全を見守ったりして過ごしていた。

 

 結局社に帰るきっかけは、父からの声掛けだった。だけどその内容は、お祭りで眠ったふりをしてしまった私にとって、心臓が止まりそうな内容だった。

 

「いんね、来たよ……」

「茉莉……」

 

 茉白が風邪で倒れた、看病してやってほしいと、父が言ってきた。経験したこともない高熱で、うなされ横になったまま身動きが取れないという。

 一度に全部の荷物を今の家から持ってくることはできず、身の回りのものだけ手にして山を登る。お祭り以来8日ぶりに再会した姉は、私を見ても体を起こせそうになく、代わりに控えめに笑顔を見せた。

 

「大丈夫? お水汲んでくるね」

「うん……」

 

 体に触れると、意外と父の言うほどの高熱じゃない。もう治ってきてるのかな。でも、おでこに乗せられた濡れ布巾は温くなってる。

 すぐに社の裏の木桶に行き、新しい水を汲んで濡らす。ついでにのどが渇いているだろうから、器一杯分の水も持って行った。

 

「飲める? ゆっくり……」

「ん……ありがと、おいしい……」

 

 口元に器を運んで、ゆっくり少しずつ首だけ上げた姉の口に入っていく。

 ちゃんと、白くて細い首の喉が小さく動いている。それだけで本当に安心する。

 そのまますぐに、小さな鼻からすうすうと寝息を立てて姉は眠ってしまった。

 

 一度着替えたのか、姉が脱いだ服が畳まれずに積まれていた。病人が眠った以上はやれる看病も無く、社の改築をする父たちを出来る範囲で手伝ったのち、姉の服を洗濯することにした。

 

 もう一度社の裏に行って木桶から少し水を汲む。裏道の奥の方を見ると、岩淵の池のそばに、今年は姉ひとりで管理していた神饌田が見えた。

 まだ緑色の稲穂が狙われている。木の板に紐を括りつけて垂らしたものを思いっきり振ると、ガランガランと音を立て、スズメたちは驚いて飛び立っていった。

 

「……」

 

 また、姉と一緒に、あの頃のように……こういうことが出来るのかな。

 姉の病気は、私が祈りを届けられなかったせいだったらどうしよう。

 

「……やけに多いな今年は。気のせいかなぁ」

 

 夕陽に照らされて飛んでいくスズメを見送っていると、蚊が耳元で嫌な羽音を立てて近寄ってくる。

 おめおめと刺されるのも嫌だから追い払っても、別の数匹が忍び寄ってくる。

 ここには生活で使う雨水を集めた木桶だけじゃなくて田んぼもあるし、何より岩淵の池もある。

 森に囲まれてて島の中でも風が弱く、昔から蚊が特に多いところだった。

 

 蚊の幼虫すら愛した姉が、そろそろ目を覚ましたかもしれない。もう一度着替えさせたりして……食欲があるなら元気が出るものを食べさせないと。

 

「お帰り」

「起きてたんだ」

「うん」

「……びっくりしちゃった。いんねが風邪ひいたって」

「ふふ。来てくれて、よかった。この部屋、一人で寝るには、広すぎてさ。でも、もう、来てくれない、かもって……思ってたの」

 

 戻ってきたら、姉が目を覚ましていた。起きてからしばらく経っていたのか、いつのまにか姉は長い髪をまとめて、左肩から前に流していた。

 社の外から、改築作業をしている島民たちに、今日の作業終了を伝える父の号令が聞こえる。まだ気分がすぐれないのか、姉の小さく途切れ途切れの声は父の声に上書きされそうで、耳をそばだてた。

 

 かつて姉妹で共に眠っていた寝室は、今は少ない姉の私物があるだけだった。これ以外にもあったはずだけど、押し入れにしまっているのだろうか。

 よそよそしく会話が続くのに耐えられず、姉に問いかけた。

 

「風邪? すごい熱が出てるってととうが言ってたけど、私も去年かかったインフルエンザかな……」

「どう、だろ。今冬じゃないけど。分かんないや」

「そうだよね、ごめんね、熱あるのに話しかけちゃって」

「ううん。いいの。今、少し楽だから。茉莉の声、聞きたいよ」

「そっか。……確かにさっき触った時、そこまで熱が無いように感じたんだよね」

「うん。やっぱり風邪かなあ」

「……ねえ、お祭りの時……私のせいで、失敗しちゃって……いんねのこの病気も、お祈りできなかったから、バクの鬼が来たんじゃないかって思って……」

「ちがう、違うよ。茉莉は何にも悪くないよ。もし、お祭りが失敗、しちゃったせいなら。この風邪は、私のせいだよ。やっぱり、出来なかった。ばんまのお祭りの事、昔から知っててさ。はーちゃは、私のせいで、隠れちゃって。その上茉莉も、40年前のお祭りみたいに、私のせいで、なんて。耐えられなかったの。

 心が壊れちゃった、ばんまの気持ち。ずっと昔のことを忘れられなかった、おうさまの気持ち。今なら、よく分かる。自分勝手で、ごめんね。お祭りの時も、一年前の、あの日からも」

 

 ここで全部話し切ろうとするかのように、精一杯言葉を生み出す姉の言うことを、遮らずに聞いていた。

 社を追い出された一年前のあの日、どんな言葉を姉に届けていたら……あの日の段階で姉からこの言葉を聞けたんだろう。

 

 こういう人だって、分かってたはずなのに。

 

「……はーちゃが言ってたよ。真面目過ぎるいんねには、私がいた方が良いって。お祭り失敗しちゃったし、悪いことが起こるかもしれない。二人でこの島を守っていこう?」

「うん……うん。ごめんね。ねえ、茉莉。あの、その……」

「……」

 

 姉の手が、私の服を淡く摘まんでいた。

 ここまで身も心も弱らないと、妹の袖を引くことすら出来ない姉の枕元に寄る。

 座っていた姿勢を崩し、姉の隣で横になると、丸一日ここで横になってた姉の布団から、目頭が熱くなる匂いがした。

 

「いんねは昔からすぐどっか行っちゃうから、私がそばにいくくらいでちょうどいいよね。ここに帰って来るから……謝るくらいなら……一人になろうとしないで。……置いて行かないで」

「……うん。あり、がと。でも茉莉、うつっちゃうかも、しれないから。こんなに、近くに来ちゃダメ」

「むー。じゃ、治ったら── あの頃みたいに……いい?」

 

 力なく開く姉の目と視線を交わすと、昔のように頭を撫でられた。

 このまま隣で私も眠ってしまいそうな、一年の蟠りを一瞬で融かす温かい手だった。

 

「もー、しょうがないなぁ。じゃーあ、治ったら。今までの分も、ね。……ふふ」

 

 内緒話でもないのに、大人に隠れて悪だくみするように、耳元に手を当てられてヒソヒソと語りかけられる。

 耳に感じる姉の息遣いが、こそばゆくて心地良い。

 

 良かった。私たちは元どおりになれるよね。

 熱も下がってるし、このままいんねの病気が早く治りますように。

 大丈夫。いんね、早くあの頃に戻ろ?

 はーちゃを喪った悲しみも、島を背負う大変さも、私が一緒に抱えるよ。

 

 

「ううー……痒い。やっぱりさっき洗濯した時、蚊に刺されちゃったみたい。境内にもいっぱいいたしさ」

 

 

 いんねのそばには

 

 

「そうなの? 実はね、いんねもお祭りで、お清めした時、刺されちゃったみたいで。注連縄に、火をつける時、痒くて困ってたんだよね。今日までも何回かやられて」

「えー、そうだったの? あはは!」

 

 

 私がいるんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、姉はまた信じられないほどの高熱を出していた。父の言っていたとおりの症状で、姉の意識はずっと朦朧としていた。

 一時的に良くなってはまた高熱が出る、を繰り返しながら、どう見ても回復じゃなくて悪化していた。

 時折熱が下がった時に立ち上がる際、姉が目眩を起こしてそのまま床に崩れ落ちたのを、横から何とか支えた。重い貧血も起こしているようだった。

 

 そして、私が社に戻った2日後に、父も同じ症状の病気で倒れた。

 父だけじゃない。他の島民も次々倒れていった。そのほとんどが、社の改築を手伝って、穴山の社に来ていた島民たちだった。

 

 神社に行けばかかる病気だと噂が流れた。そして、お祭りが上手く行えてなかったのかもしれないとも。

 バクの鬼が、来てしまったと。

 

「お願いです、風邪っぽいんですけど、普通の風邪よりもひどい症状で……助けてください!」

 

 他の島民たちの話も聞き、異常事態だと判断した私は、姉と父に水と作り置きの食事を枕元に置き、推島に助けを求めてくる旨伝えて山を下りた。学校から推島の病院へ無線連絡をすると、症状と他の島民への蔓延状況を問われる。

 自分の足で各戸を廻り、調べてまた病院に伝えた。いつのまにかもうたくさんの人が、高熱と偽りの回復を繰り返している。

 ついにお祭り以来神社に行っていない人にも兆候が出始めていた。

 

 症状の重い人から病院に搬送し、念のためまだ発症していない人も皆推島で検査を受けることになった。

 

「こんな時に……!」

 

 夏は月に何度も台風がやってくる。木々を大きく揺らす台風を窓から恨めしく眺めることしかできない。こんな天気じゃ船が着岸出来ないし、この波で無理やり病人を運ぶわけにはいかない。

 時間ばかり経って、姉たちの症状は悪化し、新たな発症者が出始める。

 もどかしくて頭がどうにかなりそうだった。

 

 数日後にやってきた船から降りる病院のスタッフと思しき人や他数人の大人たちを、まだ元気な島民たちと手分けしてそれぞれの家の発症者の元へ案内した。

 物々しい防護服を着たお医者さんたちの中で、一番高齢そうな白髪の眼鏡をかけた男性から、症状が一番重い人は誰かと問われ、山の上の社まで連れて行った。

 

「この子は、君のご家族?」

「はい……姉です」

「そうなんだね、確かにお顔がそっくりだね。この神社の子なのかな?」

「そうですが……」

「そうか……この子たちが……」

 

 先生は少し考えこむようなそぶりを見せた後、軽く姉を診察をした。風邪のようだけど確かに症状がおかしいと言われ、即入院するから着替えを用意してほしいと言われた。

 父の部屋にも連れて行き、同じように診断してもらっている間、いわれたとおり大慌てで姉と父、そして自分も寝泊まりできるように着替えをかき集め、担がれて下山する二人と一緒に船に乗り込んだ。

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 はじめは症状を和らげることしか出来なかった病院が、何かきっかけをつかんだのか、父と姉の身の回りの世話のために来た私にも検査を繰り返してきた。

 注射という、刺されたときに少し痛いものを使って血を取って、それを詳しく調べているらしい。

 恐らく私も、姉と父、ほか多くの島民を苦しめる病気に感染していると思われているみたいだった。まだ症状は出てなかったけど、血を取られる以外の検査もたくさんした後、よくわからない薬を飲まされ、患者として入院になった。

 

 姉と父は、みんなは、この薬で治るんですか。聞きたくない情報だけど、聞かずにはいられなかった。

 

 病院の先生に聞いても、全力を尽くしますとしか返してくれなかった。

 

 助かるのなら『助かるよ』と言うだろうに、そういう返事をする意味を、必死に理解しないようにした。

 現に、症状が悪化し続けている島民が何人もいる。そのなかでも最初に発症した姉の容体は、どう見ても快方に向かっているようには見えず、もう会話も難しくなっていた。

 

 自分にあてがわれた病室を抜け出して真っ暗な病院の廊下を歩き、父の病室で寝顔を見てから、その後は姉の病室を目指した。

 

 荒く、けど浅く呼吸する姉は、まるでギリギリ命にしがみついているかのように苦しそうに目を閉じている。

 姉をはじめ重症の患者には看護師が横についていたけど、入室した私を見た看護師が少し会釈をして、姉妹二人きりになれるよう少し離れてくれた。

 

 一応患者扱いされている私が夜に病室を抜け出してても咎めず、姉と話すつもりなら時間を設けてくれること。

 空気感染する病気なら入室制限するべきなのに、こうして面会をさせてもらえること。

 

 病院側がこれらの判断をしている意味は何か。姉の症状の進行度合いの深刻さ。それと、病院側が把握したこの病気は、やっぱりただの風邪やインフルエンザなんかじゃなく、感染が空気、飛沫によらない別のもっと恐ろしい病気であること。

 

 私があの時、姉の症状を見て、自分も経験したインフルエンザや風邪だと判断してしまい、そのせいで対応が遅れてこんなことになってしまってること。

 

 それらを理解したくなくて、考えるのをやめて姉が眠る寝台に縋りついた。

 

 少しでも楽になれるならと思って、幼い頃に私の寝つきが悪かった冬の夜、姉がしてくれたあれこれを、記憶を呼び覚ましながら姉にもしてみる。

 あの頃の姉は、今の私と同じ12歳。自分も子供のくせに、こんなふうに私の頭をさすったり、肩とかお腹とかをさすってトントンと叩いたりしてくれてた気がする。

 

「茉莉……まつり、なの」

「うん……」

「だい、じょうぶ、なの」

「私は大丈夫。ととうは、さっき会った。今はまだ……でも、良くなると思う」

「しまの、みん、な、は」

「……。みんなも……きっと、良くなるよ」

「よ、よか、た」

 

 目を閉じていた姉が、顔を動かさず目だけ動かしてこちらを見た。

 患者衣越しに触れても分かるくらいに高熱に冒された姉は、意識が朦朧としているのか、浅い呼吸で話しにくいのか。口と舌を動かしにくそうに話す途切れ途切れの言葉は、病院の空調の音にかき消されそうだった。

 お願い、良くなって。私は、祈ることしかできない。

 違う。私たちは、私は、祈るべき時に祈れなかった。だからこうなった。

 

「ふふ……きもち、いいな。も、すこし、この、まま」

「……たくさん、やってあげる」

「ううん、やっぱり。それよりも。まつり、おいで」

「……」

「もっと、ちかく」

 

 姉は重そうに首を動かし、正面からこちらを見据えた。

 月明かりは真っ暗な病室まで降り注ぎ、いつかの海辺での語らいのように、姉の鼻の麓に影が出来ていた。

 

「あいは、なにも、できな、くて」

「……そんな」

「はーちゃ、かくれ、ちゃって。まつりに、ひどいこと、いって。おまつり、やりと、げられ、なく、て。こんな、ことになって。あいは、なん、だったんだろ」

「違う、違うの。私があの時……」

「いった、でしょ。まつり、わるく、ないよ。だから、まつりが、だいじょ、ぶそうで……よかった」

「なんで、なんでそんなこと言うの。またそうやって一人で抱えてさ……。それに、大丈夫だよ。たぶんインフルエンザだよ。薬も飲んだし去年の私みたいに寝たら治るよ。早く治って、私たちの島に戻ろ? 一緒に、頑張って……学校、建ててさ! 生物の先生になったり。そうでしょ!」

「おぼえ、て、くれ、てたんだ。あいの……夢」

「覚えてるよ。当たり前じゃん」

 

 ほんの少し、よく見ないと分からないくらいに、姉の口角が上がった。生気を失いゆく面影とは裏腹に、私を見る眼差しだけは、母を亡くした時よりも前に時間が巻き戻っていくかのようだった。

 

「あいに、とって。推小島には、たいせつなもの、いっぱいあった。でも、ほんとはね。ちょっとだけ、しまのおそとに、いきたいって、おもってた」

「……ずっといんねを見てた私が、分からなかったと思う?」

「ふふ……まつり。いま、いくつ?」

「12歳……」

「おっきく、なったね。あんなに、ちっちゃ、くて、ずっと、だっこ、でき、たのになぁ……。じゃーあ、あいが、12のとき。やくそく、おぼえ、てる?」

「え……? じゃあ、私が6歳の時? えっと……」

「推島、以外にも。いっしょに、そとの、せかい。いっぱい、いこう、って。さむい、よるに、はなした」

「……うん。うん! そうだよ!約束した! だから、早く治って……!」

 

 

「だからね。あいは、風の神様、になる」

 

 

 目を開くのもつらくなったのか、いつの間にか姉は瞼を閉じながら話していた。

 

 どうして。何を言ってるの。

 

 

「かみさま……? あははっいんねどうしたの? 神様だって。変……なの……」

 

 ほんの数週間前まで、元気だったのに。

 この病院に来てから、理解したくないことばっかり。

 聞きたくないのに、聞き漏らしたくないことばっかりだ。

 

「ここ、きて、から、かん、がえてたの。あいの、せいで。たぶん、もう、小島に、ひと、のこれない。だから、まつりは……好きな、ように。生きて。はーちゃ、ばんまも、巫女は、みんな。みずの、かみさまに、なるって。でも、あいは、かぜの、かみさま、になるよ」

 

「……」

 

 

「かぜの、かみさま、なら。鳥みたいに、とおくに、とんで、いける、から。まつりと、いっしょに。だから、あいを、つれ、てって」

 

 

「やめ、て……」

 

 

「それなら、わが、ままな。まつりとの、やくそく、まもれて」

 

 

「……」

 

 

「なきむしな、まつりも。そとの、せかいで。ないてる、ひまも、なくて」

 

 

「……」

 

 

「あまえんぼな、まつりの。……まつりの……そばに、いられる……」

 

 

「もう、やめて……」

 

 

「だから……かぜの、かみさまになって。ずっと……ずっと、まつりを、まもる、から。だい、じょうぶ。いんねは、なんだって、できるんだよ?」

 

 

「…………」

 

 

 

「ふぅ……ふぅ……さむい……こわい……し、ぬの……こわいよぉ……はー、ちゃ……ととう……どこ……ま、つ……」

 

 

「いんね、私はそばにいるよ。いるから……ずっと一緒に……」

 

 高熱に加え、異常なほど痙攣している姉の手を、その痙攣を抑え込むように両手で挟み包んだ。約束をした寒い夜とは逆の形で包んできた私の手に、姉は指を絡ませる力を残していなかった。

 だけどお互いの手が触れると、片時だけ、これまで寄せていた姉の眉間の皴が解かれ、苦しんでいたのが嘘のように、平静そのものの表情に戻った。

 訥々と話す声は、相変わらず凪いだ夜の海のように静かだったけど、途切れ途切れだった言葉は、病気を忘れたかのように昔のままの口調になった。

 

 

 でも窓の外の空は、あの日と違って、花曇じゃなかった。

 

 

「……温かい……茉莉は……あったかいなあ……。

 

 茉莉の命も、茉莉と私が会えたことも。私が祈ったから来てくれた、神様からのおくりものなんだよ?

 

 一緒にいれたこと。茉莉がくれたもの。黄泉に隠れても、私も神様になれるように、心の宝箱にしまっておくね。

 

 ……こんなに、温かいのに。それだけで、よかったのに。

 ずっと……ごめんね……」

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 姉と話せたのは、それが最後だった。

 あの夜の後、昏睡状態が続いて。

 そしてある日、姉のそばにお医者さんが集まるのを、病室の隅からただ見ていた。そんな自分を、まるで天井から別の自分が観察しているような、自分が自分で無くなるような感覚が続いた。

 

 今自分が立つこの世界が、姉と過ごした世界と繋がっているのか分からなくなった。本当に姉という人間がいた世界だったのか、分からなくなった。

 

 生きるのに必要なことだけをやって、それ以外は自分が今何をしているのか自覚が無かった。

 眠るのが怖くなって、少し前までのことを繰り返すように、深夜に廊下を歩いていた。

 ふと少し開いた扉から声が漏れ聞こえ我に返った時、自分は今、無人になった姉の病室を目指していたことに気が付いた。

 

「あーもうくたくたですよ……この島で勤務してこんな経験するなんて思わなかったです……」

 

「ああ、お疲れさん。着替え、取りに帰りたかったら行っていいぞ。コーヒー飲むか?」

 

「ありがとうございます。しっかしかわいそうなことになりましたね……特に最初に亡くなった彼女、まだ18歳ですよ。あんなに若いのに。今も亡くなる方が増えてますし……正直、脳の合併症を起こしている30人近い方は、もう……」

 

 暗い廊下に明かりが漏れている。深夜でも明るいなんて、確かに推島は便利な島だ。

 扉の向こうにお医者さんがいるのかな。こんな深夜に廊下を歩く患者なんていないと思っているのか、お仕事の話をしている様子だった。

 気付けば私は、開いた扉の脇に立って聞き耳を立てていた。

 

「ああ。あの子……私がこの病院に来た時の同期のお孫さんだと思う。高坂ってやつだったけど、小島の患者が退院する時に医者を辞めて、その人と一緒に小島に行ってさ」

 

「え? 院長の同期……? なんで小島にいったんです?」

 

「なんだったかな。あの小島、20年に一回、大切なお祭りをしているそうなんだが。そのお祭りが原因で心の病気になった女性が入院したんだ。高坂は精神科医じゃなかったけど、時々彼女と話をするようになって……あいつにだけは、彼女も心を開きつつあったな。そして彼女と共に過ごすうちに身の上を聞いて、そんな危ないおかしなお祭りをやめさせるって言って辞めてったよ」

 

「なんか急展開ですね……お祭りって何してたんです?」

 

「……私も誰にも言ったことないから、君も言うなよ。肉親の首を抑えつけて、無理やり眠らせて夢で神様に会うんだそうだ」

 

「ええ!? いや、なんで、何やって、はい!? ……初めて知りましたよ……」

 

「島民も口外してないからな。けど信仰が絡む以上、やめようとヨソモノが口で言っても島民は聞き入れてくれないだろうと。それで……病院にあった昔の吸気麻酔薬のジエチルエーテルを持っていって、それでもすぐ眠ることが出来ることを説明して、将来的に危ない儀式をやめさせるための橋渡しにしようとしてたらしい。三国志の『饅頭』の語源みたいに、最初は無害な代替手段で納得させようとしてたんだろうな」

 

「あの、それって、横領じゃ」

 

「まあな。ただ、あいつが辞めた1960年頃にはジエチルエーテルは引火性が問題視されてて、麻酔薬はハロタンとかにとってかわられようとしてた。もう処分しようとして在庫管理をしなくなってたエーテルを持って行ってたんだよ。

 あいつは同期の私にだけ色々話してくれた。ただモノがモノだけに、保管環境を整えないと消防法に抵触しかねないからやめとけって私も言ったけどな……」

 

 

 おうさまの知り合い……?

 中をこっそり覗き込むと、小島に来てくれた時に社まで案内した白髪で眼鏡の高齢男性と、30代くらいの男性が話し込んでいる。

 二人とも、話しながら時々あくびをしていた。この騒ぎでほとんど眠れていないのかもしれない。

 白髪の先生、院長先生だったんだ。おうさまの知り合いなのも、この先生の方かな。

 

 そのまま二人は、飲み物を片手に話し込み始めた。難しい言葉ばっかりで、全部を理解することは出来なかった。

 

 

「こんなことが起こるなんてな……もっと早く病気を特定できれば、ひょっとしたら助かったかもしれないのに……」

 

「そういえば院長、よくこの病気を特定できましたね。流石です」

 

「流石じゃない。遅すぎたくらいだ」

 

 

「いやだって……マラリアですよ!? まだ信じられませんよ!」

 

 

「島民を責めるわけじゃないが、恐らく最初は感冒(風邪)だと思ったんだろ。症状が似てるし、我々ですら初診はそう思った。刺されて10日くらいは症状が出ない潜伏期間だから気付けないしな。しかしよりにもよって一番悪性の熱帯熱マラリア……。発症してすぐ処置しないと手遅れになるのに、何日も寝かせたまま放置してしまった。肝細胞から赤血球にもメロゾイトが行って、血管が詰まって脳にも影響が出るともうかなり厳しい。マラリアだって分かっても薬なんてこの島には無いから、本土からヘリで持ってくるタイムラグすらもどかしかった」

 

「そうですね……。うーん、もちろん医師国家試験の時勉強はしてますけど。正直、外国の病気っていう印象が強くて……」

 

「確かにな。でも30年くらい前……1960年頃だったかな、それまで国内の症例があった。昔から日本でもある病気だったよ。例えばほら、この島に伝承がある源為朝を保元の乱で負かした平清盛っているだろ。彼の死因、平家物語に書かれた症状を信じるなら多分マラリアだ。

 ただ、医療だって20年もすれば世代交代する。国内感染したマラリアの治療を経験した医師なんてもういない。

 原因不明の重病だから、早い段階で私も海外の病気を疑いはしたんだよ。島民は外国なんて行ってるはずがない。あとは来島者名簿も見て、直近で小島に来ている人にも全員連絡した。結果誰も過去数年渡航歴が無くて、輸入した感染症の可能性を外してしまってた。

 君の言うとおり、今は渡航歴が無ければまずその可能性を考えないから……いや、言い訳だなこれは」

 

「それなのに分かったのはやっぱりすごいですよ。妙に血小板が減少しているとは言ってましたけど、それだけで分かったんですか?」

 

「最初に亡くなった……穴山茉白さんだったか、彼女を見ているうちに高坂を思い出してね。彼は沖縄本島出身と言ってたが、親戚は八重山諸島に住んでたらしくて。戦争中の強制疎開で西表島に住まわされて、みんなマラリアに罹患したそうだ。その話を何となく思い出して、今回の島民の状況と比べてまさかと思ったけど……マラリア特有の『高熱と快癒の反復』があったからありうるかと思った。それで血液を徹底的に顕微鏡で見たら、異常な赤血球が……。

 明治時代に北の島でコレラが流行った後の話、聞いたことあるだろ。だから今回の病気の顛末も医療界限りにして、世に伏せようと思う。神社まで連れて行ってくれた子が我々に連絡してくれたから、助かる命も多い。彼らが推島で好奇や差別の目に晒されないように……」

 

「……小島、やっぱりもう住めなくなるんですかね。私は行ったことないですけど……。東京から来てくれた応援、医師だけじゃなくて生物学のお偉いさんっぽい人もいたじゃないですか。何とか元に戻そうとするんでしょうか……」

 

「どうだろうな……原因がハマダラカなのは分かってるから、それを駆除すればいいんだろうが……殺虫剤のDDTはもう危ないから使えないらしいし、地道に他の殺虫剤も使って駆除していくしかないんじゃないか。

 成虫もそうだけどボウフラも。あの島は雨水をためて飲み水にしていたらしいけど、それが蚊の病気とイヤな噛み合わせになってる。ハマダラカはよく知るヤブ蚊と違って行動範囲が広いから、もう島中の水たまりで見つかったそうだ。だから各家の桶とかタライとかは壊したり、あと学校にあったデカい貯水槽は、撤去は大変だから差し当たってヒビ入れて水が溜まらないようにしたらしい」

 

「……。院長、分かってますよね。小島もここも、元々ハマダラカなんていない。唾液腺に原虫を持った個体なんてなおさら。誰かが持ち込んだってことですよね」

 

「こうなった以上、名簿に書かずにこっそり島に行ったやつが持ち込んだってことだろ。熱帯熱マラリアなら恐らくアフリカあたりが可能性高いな」

 

「そういうの、罪に問えないんですか!? 悪意はないでしょうけど、ハレーションが大きすぎる!」

 

「無理だろ。具体的に罪に問える法的、物的根拠は無い以上、警察も動けない。私も憤りは感じるが……。せめて、名簿に名前書いてくれていたら……海外に行ってた足取りを掴めてすぐにマラリアを疑えて、治療を始められたかもしれない。時間との勝負である以上、早ければ命も助かったかもしれないのに……」

 

 

 ……アフ……リカ……?

 アフリカから、持ち込まれた怖い病気……?

 

 それって、それって。

 

『そうだよ。これの直前にはアフリカ行ってた』

『俺だってアフリカで死にそうな目にあった』

 

 病気が流行ったタイミングと、今盗み聞きしたこと。

 

 重ねていくと、一つしかない。

 

 タケダ。

 

 あの人が、バクの鬼だった。

 

 あの人が、姉を、みんなを。

 

 せめて帰国直後に来るんじゃなくて、ちゃんと推小島の病院事情とかを調べてくれていれば。

 そしてなにより、最低限のルールを守って、名簿に名前を書いていれば。

 姉は、死ななかったかも、知れないってこと?

 

 

「しかし院長、いくら蚊の一匹か二匹来たとしても、こんなすぐ繁殖しますかね?」

 

「恐らく放たれた場所が良くなかった。山の神社の裏には池があって、あそこが一番ハマダラカとそのボウフラが繁殖していたらしい。水を抜こうとしたんだが、どうやら島民たちにとって大事な場所らしくて。代わりにボウフラをよく食べる金魚やメダカを放ったそうだ。

 元々島内で一番風が弱い山の神社は普通の蚊も多くて、他の場所は潮風が強くて蚊は生きにくい。最初の個体が放たれたのが山の上の池だったんだろ。最初の患者が山の神社の巫女なのも状況証拠になってる。

 どういう訳か、アフリカ帰りのそいつも山の上まで行った。つくづくいろんな不幸が重なってるな……」

 

 ……。

 

 あの人が来たから、島に病気が来た。

 あの人が山の上に来たから、恐ろしい病気が流行った。

 あの人が、皆を苦しめた。

 あの人が、皆を死なせた。

 

 あの人が、山の上に来たから……姉が最初に、病気にかかって……

 

 

 だから、あの人が、姉を、姉を──

 

 

【それでだな、夜のお祭りは撮らないから、今の明るいうちに君が言う『社』とか撮っていいか?】

 

【うん……山の上なんだけど、案内してあげる】

 

【私、いんね、撮ってみたい】

 

 

「う、うそ、やだ、やだ」

 

 

【ねえ。茉莉なら島民みんなのこと知ってるよね。知らない人は外の人だって分かるでしょ。お祭りがある時にマレビトを入れないようにしてるのに、よりにもよって巫女の妹がここまで連れてくるなんて何考えてんの】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あいがいんねを殺した。

 

 

 

「あ、あ、ああああ、ああぁぁあああ!

 やだ、やだ、いや、いや、いやああああああああああああああ!!!!!」

 

 

「な、なんだ!?」

「ッ……この子、例の最初に亡くなった子の妹さんか……!」

「お姉さんのことでショックで錯乱してるのかも……! 抗精神病薬、用意しますか!?」

「最悪使うかもしれないけど、とにかく応援呼べ! なんとか落ち着かせて……!」

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