淡い髪が揺れていた。
背を向けたまま、静かに地底の回廊を歩くパルスィ。その姿を、ユウスケは言葉もなく見送っていた。
心に残ったのは、あの小さな告白――彼女が言った「君が欲しい」という一言。
けれど、返事をするには、自分の立場があまりにも曖昧すぎた。
(好意を持ってくれるのは……嬉しい。でも……人と妖怪――それに、俺は……)
彼女の気持ちを否定する理由はなかった。ただ、受け止める資格があるかどうか、それだけが引っかかっていた。
ユウスケが目を伏せたその瞬間――背後から、誰かの声が落ちてきた。
「……行かせて良いのか?」
反射的に振り返ると、そこには見知らぬ少女が一人、まるで最初からそこにいたかのように佇んでいた。
年の頃はパルスィとそう変わらない。けれど、その目だけは異様だった。深く、暗く、冷たい。
あらゆる感情を呑み込んで、なお澄んだ水底のような目。
「……誰だ?」
警戒を滲ませた声に、少女は肩をすくめた。
「私か? そんなこと、どうだっていいだろ」
ユウスケは微かに眉をひそめた。相手の放つ雰囲気は、ただ者ではない。人間ではない。何より、気配があまりにも静かすぎる。
「いや、不法侵入だろ。ここは俺の……」
「外の世界のルールなんて、とうに忘れたよ」
少女――宮出口瑞霊と名乗るその存在は、ユウスケの言葉をあっさりと切り捨てると、くすりと笑った。
「どうしてあの女と付き合わない? 気がないわけじゃないだろ?」
ユウスケは答えに詰まった。言葉が喉に引っかかる。
彼女の目が、まるでその躊躇を見透かしたように細められる。
「……人間と妖怪だ。関係が深くなればなるほど、迷惑がかかる」
「ああ、確かに。人間は脆いし、妖怪は気紛れだ。だけど――」
瑞霊は指を立て、軽く振る。
「なら、お前が妖怪になればいい」
「なろうと思ってなれるもんじゃない」
「そうか? 地底に住んでる時点で、もう半分は“向こう側”の存在じゃないのか」
その瞬間、ユウスケは警戒の度を一気に深めた。
静かに一歩、距離を取る。
「……悪いが、話は終わりだ」
右手を差し出すと同時に、具現化が起こる。銃口が、彼女の額を正確に捉える。
「帰れ」
銃声が響く前に、空気が歪んだ。
瑞霊の姿が一瞬にしてユウスケの死角に入り、冷たい指が彼の頭に触れる。
「おっと、いきなりだな。もう少し話がしたかった」
瑞霊の顔が、すぐ間近にあった。吐息がかかるほどの距離。
それでもその瞳は、波一つ立たない湖のように静かだった。
「――まあ、安心しろ。目が覚めたときには、すべてが終わってる」
その囁きとともに、彼女の能力が発動した。
“心身全てを奪う程度の能力”――それは、魂も記憶も、身体さえも侵蝕する完全な支配。
ユウスケの意識が急速に薄れていく中で、瑞霊の声が最後に響いた。
「貸してもらうぞ、この器。少しの間だけな」
意識が戻る頃には、ユウスケはもうそこにはいなかった。
鏡に映るのは、いつもの自分の姿――だがその奥にある瞳は、まるで違う光を宿していた。
「ふう……。人間が一人で住んでると聞いた時は驚いたが、問題なく乗っ取れたな」
瑞霊は自分の指を見つめ、拳を握った。内部から滲む、まるで無限に湧き出すかのような“知識の具現”。
「この能力……『知識を具現化させる程度の能力』……面白い。これなら、地上に戻れるかもしれないな」
扉の外では、幻想郷の夜が、静かに進行していた。
ユウスケの家では、偽物のユウスケ――宮出口瑞霊が、その空間を悠々と歩いていた。
「なるほど……この家、結構便利だな。防御結界も張ってある。人間にしては気が利く」
冷蔵庫を開け、コンビニ弁当を取り出しては眺める。
自らの意思で次々に武器や物資を生成し、彼女はユウスケの能力を確かめていた。
「具現化の条件は“知っているもの”か。けど、曖昧なイメージでもある程度知っているものなら出せる……これは応用が効く」
それから暫くの時間が経過した。
瑞霊はテーブルに肘をつきながら、壁に掛けられた時計を見ていた。
「おおよそ48時間。ずいぶんしぶといな、ユウスケくん」
彼女の身体の主導権は握れている。しかし、時折ふっと浮かぶ“記憶の逆流”――懐かしい声や感情が、まるで手を引くように蘇ってくるのだ。
> (これは……私の意思を鈍らせる。時間が経てば、いずれ主導権が揺らぐ)
瑞霊は決断する。
「肉体に“絶対的な支配の証”を刻み込む。本人の意識が拒絶できないようにね」
そう呟くと、彼女はタンスを開け、ユウスケの古い日記帳を取り出した。
その最終ページに、静かに自分の文字で“名前”を書き加える。
「宮出口瑞霊、この身体を正式に受け継ぐ者として刻む。」
さらに、彼女はユウスケの脳へ強烈な疲労を与えるため、限界まで具現化を繰り返す。
「拳銃、ショットガン、MP5、マシンボウガン、ハンドアックス、コンロ、電灯、テント、薬――もっとだ」
脳に“出力限界”が近づくと、幻痛のような違和感が脳を刺激する。
それが、“中の意識”を削るのに最適と判断していた。
彼女は、次の手として、ユウスケの身体を過酷な場所へ置こうと決める。
「地熱区域――灼熱地獄の外縁部。意識を保てる温度じゃない。でも、身体は死なない」
「そこで数時間もいれば……自我は溶ける」
彼女は準備を始めた。リュックに最低限の物を詰め、具現化で遮熱装備も加えた。
「行こうか、ユウスケ。あなたの意思は、熱と疲労の中で静かに崩れていき肉体を完全に支配させて貰う。」
そして数時間後――
その足音を、誰かが尾行していた。
茂みの影から、パルスィが小声で呟く。
「……どうして、あなたがあんな場所へ? ユウスケ……様子がおかしい……」
嫉妬と不安が混ざった視線。
パルスィは、黙ってその後を追い始めた。