パルスィが湯呑みを盆にのせて部屋へ戻ってきた。笑顔は柔らかく、声色も落ち着いている。
「はい、お茶。熱くしすぎないようにしたから、飲みやすいと思うよ」
「……ありがとな、パルスィ」
ユウスケは、彼女の優しさにほっとしたように微笑んだ。差し出された湯呑みを受け取り、迷いなく口に運ぶ。
パルスィは、彼の反応をじっと見つめながら、静かに腰を下ろす。
ユウスケは数口、茶をすすりながら言う。
「……なんか、すごく落ち着くな。パルスィの淹れたお茶って、やっぱり優しい味する」
「そう……よかった」
パルスィの声は、ほんのわずかに震えていた。
やがて、ユウスケはまばたきを重ね、手の力が緩んで湯呑みが傾く。
「……あれ……なんか、すげぇ……眠い……」
「うん、いいの。寝てて」
ユウスケは抵抗らしい抵抗もできないまま、布団の上に倒れ込み、穏やかな寝息を立て始めた。
パルスィは、その寝顔をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ほら……やっぱり。警戒もしない。こんなに無防備じゃ、私が守らなきゃ、誰が守るっていうのよ……」
目に宿るのは、歪なまでの愛情。
彼女は静かに立ち上がり、ユウスケの体に縄を巻きつけると、細い体でそれを担ぎ上げた。驚くほど器用に、慎重に、足音も立てず。
家の奥、使われていなかった一つの扉の前まで来ると、パルスィは胸元から鍵を取り出す。
「ここなら、安心して眠れるわ。誰にも見つからない。誰にも奪わせない……」
カチリ、と鍵が回り、古びた扉が開かれる。
ひんやりとした空気が下から這い上がってくる。
「大丈夫よ、ユウスケ。あなたのこと、誰よりも大切にする。だから……ここにいようね」
そうして、パルスィは愛する人を抱えたまま、静かに地下室へと降りていった。
ユウスケは、目覚めとともに薄暗い天井を見つめた。
ひんやりとした空気、そしてどこか湿った石の匂い。木の床は固く、普段の部屋とは明らかに違う。
「……ここ、どこだ……?」
ゆっくりと上半身を起こすと、部屋の壁がむき出しの石造りであることに気づく。小さな窓は高い位置にあり、外の光はほとんど届いてこない。扉は分厚く重そうで、内側には鍵穴がない。
「パルスィ……?」
扉の向こうから、すぐに聞き慣れた足音が聞こえてきた。
「起きたのね、ユウスケ」
ギィ、と扉が開き、パルスィが紅茶の湯気を立てたマグカップを両手に抱えて現れた。微笑みながら、彼の前にしゃがみ込む。
「気分はどう? 寒くなかった?」
「……ここ、どこ? 何で鍵が……」
ユウスケの声には困惑と不安が混ざっていた。
パルスィは柔らかく微笑みながら、紅茶を差し出した。
「地下室よ。安全で、静か。誰にも邪魔されない場所」
「なんで俺が……こんな所に……」
「だって、ユウスケ、外にいたらまた誰かに狙われるかもしれないでしょ? 今度は私が間に合わないかもしれない。それは絶対に嫌」
彼女の目が揺れる。けれどその奥には、確固たる意志があった。
「大丈夫。ここにいれば、怖いことなんて何もない。私が、ちゃんと守るから」
「……でも、鍵までかけなくても……」
「ごめんね。でも、ね……ちょっとだけ、我慢して?」
パルスィの手が、ユウスケの頬に触れた。その触れ方は優しいのに、どこか逃げ場のない圧を伴っていた。
「ユウスケが出ていこうとしないなら、私は鍵なんて使わない。けど……」
その先を言わず、パルスィは立ち上がった。
「しばらくここでゆっくりして。ね?」
そして再び、重たい扉が閉じる。鍵の回る音が、静かに響いた。
ユウスケは一人、地下室に取り残されたまま、薄く冷めた紅茶を見つめていた。
「……確かに、監禁されてるんだよな」
そう思いながらも、彼は深くため息をついた。
二ヶ月前、自分はただの大学生で、キャンプに出かけた山の奥で不意にこの幻想郷という異世界に迷い込んだ。出会うのは妖怪ばかり。味方なんて、誰一人いない。最初は混乱し、次には絶望し、その果てに出会ったのが――パルスィだった。
助けられ、言葉を交わし、気づけば隣にいることが当たり前になっていた。
そして五日前、自宅で突如として現れた宮出口瑞霊に襲われ、右腕を失った。奪われ、乗っ取られ、必死に意識だけを保っていたあの数日間。パルスィが助けに来てくれなければ、今こうして生きていることすらなかった。
「……これでも、悪くないのかもな」
ここには敵はいない。扉には鍵がかかっているが、食事はある。話しかけてくれる相手もいる。
(むしろ、ここにいる方が外よりずっと安全だ)
そんなことを考えていると、ギィ……と扉が開いた。
「冷たい床でごめんね。今、布団持ってきた」
パルスィが重そうな布団を抱えて部屋に入ってくる。その表情には、どこか照れと誠意が同居していた。
何も言わず、布団を広げ始める彼女の動きを、ユウスケは黙って見ていた。
「……何も聞かないの? 理由はともかく、いきなり監禁したんだよ?」
手を止めたパルスィが、ふとこちらを見上げてそう言った。
ユウスケは少しだけ笑って、カップを置いた。
「始めは驚いたよ。でも……慣れてきた頃だったから、油断してた。自宅で瑞霊に襲われて、右腕を失った。安全なのは、もしかしたら――ここなのかもって」
しばらく沈黙が続いた。パルスィは目を伏せたまま、小さく「そっか」と呟く。
「もっと怒るかと思われた」と、ぽつり。
ユウスケは肩をすくめるようにして言った。
「早速で悪いけど、布団に入っていい? 瑞霊に操られてた時は、意識を保つので精一杯で、まともに寝られなかったんだ」
パルスィはすぐに「分かった。いいよ」と応じると、布団をきれいに整え、そっと掛けてくれた。
「ありがとう。安全な場所で、布団で、警戒せずに眠れる。地底1日目に比べたら――天国みたいな状況だな」
そう呟きながら、ユウスケは目を閉じた。
部屋は静かで、空気はどこか安心を含んでいた。パルスィが彼を見つめながら、しばし動かずにいたことに、ユウスケは気づくこともなく――深い眠りに落ちていった。