パルスィは両手に袋を下げ、街道を歩きながら振り返った。
「こっちよ、すぐそこ」
その後ろには古明地さとりと、彼女のペットである火焔猫燐の姿があった。
「案外、元気そうだといいのですが……人間の心は脆いものですからね」とさとりが小さく呟く。
「というか地下室ってだけで精神的に削れるのに、腕失って寝込んでるとか絶対気落ちしてるニャ……」とお燐も眉をひそめる。
そして、家に到着した。
パルスィは玄関の鍵を開けて案内しながら言う。
「ここの扉。開けるわよ」
さとりとお燐が後ろに並ぶ。ドアを押し開けたその先には――
「おかえり、パルスィ。それと、さとり、お燐も。久しぶりだな」
布団の上に腰かけたユウスケが、右手をひょいと上げて笑顔を見せた。
「……えっ?」
パルスィは思わず立ち止まり、まばたきを繰り返す。
「なんでそんなに機嫌いいのよ……そんなに、さとりたちが来てくれて嬉しかった?」
さとりの視線がユウスケの右腕に向く。
「……右腕。確かに、失ったはずですよね」
パルスィも続けて気付き、声をあげる。
「うそ……うそでしょ? ある……!」
お燐が信じられないといった様子でユウスケに駆け寄り、腕をそっと両手で掴む。
「ニャっ……!? これ、傷跡も何もない……普通の腕じゃんかニャ……!」
ユウスケは少しだけ照れ臭そうに頬をかくと、視線を逸らした。
「……なんとなく“生えろ”って思ったら、できた。どうやら身体にも反応するらしい」
さとりが頷く。
「具現化の対象が肉体にまで及ぶとは……想像以上ですね。危険性もありますが、可能性も無限大です」
お燐はもう一度そっと手を離し、目を丸くしたままぽつりと漏らした。
「マジで信じらんないニャ……腕、もと通りなんて……」
パルスィは買い物袋を無言で床に置いた。しばし何かを考えるような沈黙のあと、小さく口を開いた。
「……こっちはさ、落ち込んでると思って……どうやって慰めようかずっと考えてたのに……」
さとりがくすりと笑う。
「パルスィさん、心の中で“弱った男に優しくしたら、たぶんコロッと落ちる”って考えてたの、聞こえてましたよ」
パルスィはそばにあった小物を反射的に投げた。
「うるさいっ! これだから心を読んでくる妖怪は……っ!」
さとりはあっさり避けつつ、余裕の笑みを見せる。
そのやり取りを見ていたユウスケは、ふっと息を吐いてからパルスィのほうを見た。
彼女もそれに気づいて顔を向ける。そして、ほんの少し声を落として尋ねた。
「そのさ……腕、戻ったけど。……もう出ていくの?」
一瞬の沈黙。
ユウスケは右手を開いたまま、じっと見つめてからそっと答える。
「……分からない。でも、外よりここが安全なのは確かだよな」
その言葉に、パルスィの胸が少しだけ高鳴った。嬉しさと不安と、ほんの少しの――独占欲。
彼女はその感情を言葉にせず、ただ小さく微笑むだけだった。
さとりが少し間をおいて、口を開く。
「ですが……安全という点で考えるなら、この地底だけでなく、地上へ行くという選択肢も視野に入れるべきかと」
ユウスケはその言葉に驚いたように目を見開いた。
「地上? 行けるの?」
「ええ。ただし――あなたの元いた世界ではありません。幻想郷の地上、という意味です」
パルスィが、反射的に言葉を挟む。
「そ、そうよ! でもさ、見知らぬ地上より、今の地底の方が落ち着けるんじゃない? こっちの方が……知ってる人もいるし……」
さとりはそんな彼女に、じとっとした視線を向けた。
「……パルスィさん。今、心を読まなくても分かりますよ。その反応は」
パルスィは視線を逸らしながらも、声を張る。
「だって! 地上だって妖怪はいるでしょ!? それに、あそこはあそこできっと危ないのよ! ユウスケには……ここにいた方が安全なの!」
声が少しずつ上ずり始めている。
「ここなら私が守れる。だから……だから、他の場所なんて行かせるわけにいかない!」
言い切ったパルスィの肩が、ほんのわずかに震えていた。
ユウスケはその様子を黙って見つめる。
パルスィの“心配”という言葉の裏に、もっと複雑な感情が絡みついているのを、なんとなく察していた。
さとりはため息をついて、やや静かに言葉を続けた。
「……私はただ、選択肢を提示しただけです。最終的に決めるのは彼自身。強制はできません」
パルスィは唇を噛みしめたまま、俯いて何も言わなかった。
お燐が気まずそうに空気を読んで、ぽつりと呟く。
「なんか……愛が重たいニャ……」
さとりが軽く頭を下げて言った。
「それでは、失礼します……。帰りましょう、お燐」
「うん、さとり様」
ふたりは階段を上がって去っていった。
静寂が戻った地下室に、残されたのはパルスィとユウスケ。
その沈黙を破るように、パルスィがぽつりと問いかけた。
「やっぱり……地上、行きたいの?」
ユウスケは少し考えてから答える。
「気にはなる。知らない場所だからな。空のある場所も見てみたいって思うよ」
パルスィの瞳が微かに揺れる。
「そう……そうよね。当たり前よね。でも……」
彼女の声が低く、切実さを帯びていく。
「……ダメ。行かせたくない。あんな場所、優しさなんてない。私がここで、あなたを守れるのに……!」
ユウスケは困ったように笑った。
「でも、俺はまだ決めたわけじゃない。ただ、外の世界を知りたいだけで――」
「――ダメって言ってるの!」
その瞬間、パルスィが一歩踏み出し、彼を抱きしめた。細い腕が強く背中を掴み、震えていた。
「もう……どこにも行かないで……お願い……!」
その密着と同時に、パルスィの妖力がふっと広がる。彼女の嫉妬を操る能力――“嫉妬心を顕在化させる力”が、密かにユウスケへと作用する。
ユウスケの心の奥に眠る、過去に無関心だった者たちの態度、瑞霊に操られている間の孤独、喪失感……それらがわずかに刺激される。
そして、その孤独を癒してくれた存在――パルスィの姿が、心の内側で強く浮かび上がる。
ユウスケは知らぬうちに、彼女の体温を頼もしく思っていた。
「……パルスィ?」
ユウスケの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
それに気づいたパルスィの唇が微かに上がった。
「ふふ……よかった。少しは……私のほうを見てくれたね」
彼女の指先がそっとユウスケの頬に触れた。
「ねぇ、ユウスケ。もっともっと、私だけを見て。私は、あなたの全部を受け止められる。だから、他の誰かを見たり……どこかへ行こうなんて、もう考えないで……?」
甘く囁くその声には、愛と依存と支配が絡み合っていた。
ユウスケは何も言い返せず、ただその腕の中にいた。
――パルスィの抱擁と能力に包まれながら、彼の心は、静かに揺らぎ始めていた。