静寂の部屋に、ユウスケの声が響いた。
「生成《麻酔銃》」
その言葉と共に、空間にきらめく光。次の瞬間、彼の手には漆黒の麻酔銃が具現化されていた。無機質な銃口が、八雲藍へと向けられる。
藍はわずかに眉を動かすだけで、一歩も退かない。
「……今なら“ごめんなさい”で許してあげよう。命に関わる前にね」
皮肉とも、警告ともつかないその声に、部屋の空気は冷え込み、互いの視線が鋭く交差する。
互いに一歩も譲らない。あとは誰かが仕掛けるのを待つだけ――そんな緊迫した雰囲気を、唐突な音が破った。
ガチャリ。
部屋の扉が開く。全員の視線がそちらに向いた。
そこにいたのは、やや幼さを残した少女――藍の式神、橙だった。
額には猫耳、背に尾。小さな体に宿る霊力が波打っている。
「お前、藍様をいじめるなッ!!」
勢いよく叫んだかと思えば、橙はそのまま藍の方へと駆け出した。
「橙っ!? 待て、お前……!」
藍の顔が苦笑に歪む。明らかに計算外の登場だった。
「終わるまで出てくるなと、あれほど言っただろう……」
彼女の嘆きもどこ吹く風、橙は完全に“戦闘態勢”。敵意むき出しでユウスケを睨みつけている。
「藍様! この橙が今すぐ成敗して――!」
だが橙が跳ねるように飛びかかる前に、藍がそっと手をかざして制した。
「どうどう、落ち着こうな、橙。これはただの……ちょっとしたお話だよ。まだ喧嘩にはなってない、うん」
小さな肩を押さえながら藍は穏やかに微笑むが、その表情にはわずかな疲れが見えていた。
そのやり取りを見ていたユウスケは、静かに銃を下ろす。子どもを相手にする気など初めからなかった。
「……ったく、何なんだよここは」
麻酔銃を解き、床に腰を下ろす。もはや力を見せつける必要もなければ、気力も萎えていた。
藍が小さな橙をなだめているその傍ら――再び扉が静かに開いた。
何の前触れもなく、まるで舞うように優雅な足取りで入ってきたのは、ひと目でただ者ではないと分かる女性だった。
紫色の衣、扇子を手に、どこか眠たげな瞳。
八雲紫――幻想郷の境界を操る、最上級の妖怪。
「騒がしくてごめんなさいね。目覚めてすぐにこの騒ぎじゃ、困ったでしょう?」
その声には余裕と柔らかさがあり、しかし底が見えない不気味さも纏っていた。
ベッドに腰をかけたままのユウスケは、じっとその姿を見つめる。
「あなたは?」
「さっき、藍の説明にちょっと出てきたと思うけど――八雲紫。幻想郷の管理者よ。そして今、貴方を保護している者でもあるわ」
彼女はそう言うと、扇子の先を軽くユウスケへ向ける。
「あなたの名前は……」
「ユウスケです」
「ふふ、ユウスケ。覚えておくわ。外の世界から来て、地底で奇跡的に生き延びた――稀有な存在」
ユウスケは視線を逸らし、わずかに肩をすくめる。
「能力と運と……周囲に恵まれただけです。まあ、最後は連れ出されましたけどね」
紫は一瞬だけ口角を上げる。
「あら、皮肉? でもそれは誤解よ。あなたを連れ出したのは――地底が、あなたの思っている以上に危険な場所だから」
「実際、住んでましたよ。短い期間でしたけど」
「その結果はどう? 宮出口瑞霊に精神を乗っ取られ、あなたの能力を使われ。最悪、上手くやれば地底ごと崩壊してた可能性もあるのよ。幸いあの嫉妬深い橋姫が止めてくれたけど」
ユウスケは言葉を失ったまま黙り込む。反論できる余地は、たしかに少なかった。
紫は、まるで追い打ちをかけるように、目を細めた。
「幻想郷の管理者としてね、そんな規格外の能力をそのままにはしておけないのよ」
ユウスケは目を伏せ、静かに尋ねる。
「……これから、私はどうなるんですか?」
紫は軽く扇子を口元にあて、いたずらっぽく微笑んだ。
「そうねぇ……地下牢に放り込んで、一生監禁……」
その言葉に、ユウスケの視線が鋭くなる。露骨な軽蔑の色がこもっていた。
紫はすぐに笑いを含んだ声で続ける。
「……みたいに逃げ道を奪うような真似をすれば、あなた、何をするか分からないでしょ。冗談よ、冗談。そんな目で見ないでちょうだい」
一呼吸置いて、紫は真面目な口調へと戻る。
「私と、私の信頼できる者たちの管理下でなら――あなたは普通の生活をしていて構わない。外出も制限しないわ。まあ、時々おつかいを頼ませてもらえたら嬉しいけどね?」
ユウスケはわずかに目を細め、静かに頷いた。
「分かりました」
紫が少し驚いたように目を見開く。
「やけに素直ね」
「……さっき、あの狐――藍と対峙した時、一方的に殺される感覚がありました。あれは本能的に理解したんです。逆らっても無駄だなって」
紫は楽しげに扇子をぱたぱたとあおぎながら、隣の藍に目をやる。
「あら、藍ったらそんなに気合入れてたの?」
橙は腕を組んでぷいと顔を背ける。
「うん、藍様すごく怒ってたよ。麻酔銃なんか出されたって、手加減されてるって……」
ユウスケは少し苦笑しながら答える。
「殺したくなかっただけなんですがね」
紫は満足げに微笑んだ。
「それで十分よ。少なくとも、力を振るうだけの人間じゃないってわかったもの」
彼女はゆったりと身を翻し、部屋の出口に向かいながら振り返る。
「ようこそ、ユウスケ。ここからが、幻想郷での本当の生活よ。――よろしくね?」