屋敷に来てからというもの、ユウスケは静かな日々を過ごしていた。紫の豪奢な屋敷は不気味なほどに静かで、時折聞こえるのは廊下を駆ける橙の足音と、障子の向こうに漏れる風鈴のような音だけだった。
そんな日々の中、紫から唯一頻繁に頼まれたのは——煎餅だった。
「ねえユウスケ、そこの煎餅を持ってきてくれるかしら?この“ぱりっ”て音が好きなのよ」
そう言って紫は、いつものように座布団に寝そべるようにして扇子で口元を隠していた。
ユウスケは仕方なく台所へ足を運び、煎餅の入った缶を持って戻ってきた。差し出すと紫は嬉しそうに片目だけを細めて笑う。
「ありがとう。今日も良い音が鳴ったわ」
紫は時折そんな奇妙な言葉を口にしながら、満足げに一枚、また一枚と煎餅を口に運ぶ。日がな一日そんなやり取りが続いた。
が、数日後。
「あのな、ユウスケ」
藍がやって来たのは夕暮れ時だった。いつになく真剣な面持ちで言葉を継ぐ。
「紫様に毎回煎餅を持ってきてるようだが……控えてくれ」
ユウスケは眉をひそめた。「嫌がってたんですか?」
「いや、あの方が嫌がるわけないだろう。ただ……食事を取ってくれないんだよ。煎餅で満足して、食卓に全く座らない」
その言葉にユウスケは苦笑しながら首をすくめた。「そんな理由とは」
「煎餅で栄養が摂れると本気で思ってるんだ、あの人は」
それ以降、ユウスケは煎餅を渡す頻度を控えることにした。
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そんなある日のことだった。
長い廊下を橙が走ってくる足音が響いたかと思うと、部屋のふすまがすっと開き、使い魔の一人が小さく一礼する。
「紫様がお呼びです。居間へお越しください」
案内された部屋に入ると、紫はいつものように扇子を手に、にこやかにこちらを見ていた。
「来てくれて嬉しいわ。ちょっと、頼みたいことがあるのだけれど……おつかい、お願いできるかしら?」
「……分かりました」
即答するユウスケに、紫は目を細めて微笑む。
「素直ね。ねえ藍、説明お願い」
背後に控えていた藍が一歩前へ出て、淡々と事実を述べ始めた。
「少し前、紫様が外の世界より吸血鬼を幻想郷に招いた。しかし、その吸血鬼が幻想郷の支配を目論んでいる兆候がある。よって、対処して欲しい」
「……自分でリスクを招き入れてるって分かってるんですか? 本当に賢者なんですか?」
皮肉交じりのユウスケの疑問に、紫は軽く笑って肩をすくめた。
「バランスのためよ、バランス。幻想郷という世界は“均衡”で成り立っているの。時に危険をもって危険を制す、ということもあるわ」
「で、具体的にはどうすればいいんです?」
藍が言葉を引き継ぐ。
「最終目標は、吸血鬼が発生させている赤い霧の消滅。幻想郷を覆っている異常気象の原因だ。方法は任せるが……力でわからせるのが、幻想郷流だな」
紫が楽しげに笑いながら口を挟んだ。
「もちろん、一人で行けなんて言わないわ。博麗の巫女、博麗霊夢の元へ行ってちょうだい。彼女を死なせないようにね」
そう言って、紫は空間を指先で裂いた。
ひらりと現れたスキマの中には、外の空気と霧が混ざるような、どこか別世界の匂いがした。
「さあ、頼んだわよ、ユウスケ」
紫の言葉に背中を押され、ユウスケはスキマへと足を踏み出す――。
スキマを抜けた先、ユウスケの足が触れたのはよく掃き清められた木の床だった。目の前には、鬱蒼とした木立を背景に静かに佇む古びた神社。これが幻想郷における霊的中枢、博麗神社だった。
「……霊夢さん?」
神社の境内を見渡しながら名を呼ぶも、返事はない。鳥居をくぐり本殿を一周するが、人の気配はまるで感じられなかった。
「寝てるのか?」
そう呟いて建物の中に足を踏み入れ、畳の部屋の扉を開けてみる。だが、そこにも誰の姿もなかった。ただ香炉の香りだけが微かに残っている。
戸惑っていたその時、外から微かな足音が響いた。ユウスケはぱっと顔を上げ、足早に外へ出る。
「霊夢……さんですか?」
だがそこにいたのは、白と黒の服を着た少女だった。金色の髪に黒い帽子、肩に魔導書のようなものを携えている。
「ん?お前は……ああ、地底から連れ出したあのときの……」
少女はにっと笑うと手を腰に当てて名乗った。
「私は霧雨魔理沙。普通の魔法使いだぜ。覚えてないか?」
ユウスケは眉をひそめながら頭をかいた。
「……気を失っていたので、正直覚えてないんです。見たような、見てないような……」
「まあ、無理もないか。紫に預けた後のことは知らないけど、今は霊夢に会いに来たってわけか?」
「ええ。紫に言われて、あの紅い霧を霊夢さんと共に解決するように、と」
「なるほどね。奇遇だな、私も同じ理由で霊夢を探しに来たんだ。でも……ここにはいないみたいだぜ」
魔理沙は肩をすくめ、ひとつ息をつくと笑みを深めた。
「よし、それなら——博麗の巫女が不在の今、私とお前で異変を片付けに行くんだぜ!」
「……え? でも、紫には“霊夢と協力して”と……」
「関係ない関係ない。お前の目標は“異変を終わらせること”だろ?だったら私でもいいじゃないか。私は異変解決を何度もやってるプロだからな」
魔理沙はそう言うと、神社の柱に立てかけてあった自分の箒を拾い上げ、得意げにまたがった。
ユウスケは困惑を隠せないまま彼女を見上げる。
「……飛べるんですか、それで」
「お前、飛べないのか?」
「普通の人間は……まあ、無理だと思いますよ」
「ふむ。まあ、乗せていってやってもいいが……」
魔理沙は境内にあったもう一本の箒を指差した。
「あそこに神社の箒がある。それを持って、私の動きを真似してみろ。お前は知識を元に再現する力があるんだろ?」
言われるがままにユウスケは箒を取り、ぎこちなくまたがる。頭の中で浮かべたのは、かつて見た魔法映画の名場面。
「……イメージとしては、ハリーポッターか」
その瞬間、身体がふわりと浮いた。
「……浮いた……!」
「おお、やればできるじゃねぇか! よし、それじゃ紅魔館を目指して出発だぜ!」
そう叫びながら、魔理沙はぐんと宙へと飛び上がる。続くようにユウスケも、見慣れぬ景色の上空へと身を躍らせた。
空には、ゆるやかに赤い霧が流れていた——。