ユウスケを見送った紫は、しばし静かにスキマの向こうを見つめていた。
その横顔は、どこか楽しげで、同時に底知れぬ思惑を隠しているようでもある。
「――藍。」
呼ばれた名に応じて、九尾の狐がすぐに姿を現した。
整った動作で一礼する。
「どうされました、紫様?」
「少し人里まで行くわ。準備しなさい。」
「人里、ですか? 買い物……ではなさそうですね。」
紫は口元に手を当て、含み笑いをこぼした。
「昨日、幽々子と話していたの。例の彼――ユウスケのことよ。」
藍の耳がぴくりと動く。
「その件で何か?」
「面白いことが分かったの。あの子の“前世”の名字――“水橋”。」
藍の目がわずかに見開かれた。
「水橋……まさか、あの橋姫と同じ?」
「ええ。偶然にしては出来すぎていると思わない?
それに、橋姫――パルスィは彼を明確に好いていた。
まるで、かつての“誰か”を見ているように。」
「つまり、紫様は前世の夫婦関係だった可能性を?」
「確認が取れれば面白いと思ってね。
私の知る限り、橋姫には子はおらず、
人との縁も深くはなかったはず。
けれど、“記録にない結びつき”があったとしたら――興味深いじゃない。」
藍は腕を組み、少し困ったように溜息をつく。
「またそうやって、事実を弄んで楽しむ……。
で、どこを当たるおつもりで?」
「稗田家。あそこなら古い伝承にも“抜け落ちた家系”の記録がある。
あと、ワーハクタク――上白沢慧音にも話を聞いておきたいわね。」
「はぁ……。時間を潰すための調査、ですか。」
紫はくすりと笑う。
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。
あの子と橋姫の“縁”が偶然でないなら――
幻想郷の理すら揺らぐかもしれないもの。」
「理が揺らぐなら、まず紫様が直せばいい話では?」
「働きたくないのよ。だから確認だけ。」
藍は額を押さえ、小さくぼやいた。
「……働きたくないなら、せめて私を巻き込まないでください。」
紫は楽しげに笑いながら、スキマを開いた。
「はいはい。文句は後で聞いてあげるわ。
さ、行くわよ――藍。」
静まり返った書斎の中、古明地さとりは机に向かい考え込んでいた。
机の上には、彼女がまとめた観察記録と、一通の手紙が置かれている。
「……分からないの。」
その独り言に、隣で本を抱えていたお燐が首をかしげた。
「全てを見通すさとり様が、分からないことってあるんですか?」
「パルスィさんが、ユウスケさんを好いている理由よ。」
お燐は尻尾を揺らしながらあっけらかんと言う。
「好きだからじゃないですか? 実際、監禁してましたし。」
「“行動”としてはそう。でも“心の理由”が違う気がするの。」
さとりは静かに紫からの手紙を広げた。達筆な筆致で、こう書かれている。
> “ユウスケの前世の名字は『水橋』”
「紫からの報告よ。彼の前世は“水橋”という名を持っていたそうよ。」
「水橋って……まさか、パルスィの“水橋”ですか?」
「ええ。偶然にしては妙すぎるわ。」
お燐は少し考えて、ぽつりと呟く。
「前世で夫婦とか、そういう関係なんじゃないですか? 亡くなった旦那と来世で再会……ロマンチックですよ。」
「私もそう思いたいけれど、“宇治の橋姫”の伝承と食い違うの。」
お燐が身を乗り出す。
「ああ、知ってますよ。旦那を他の女に取られて、憎しみで鬼になって、
その女や親族を皆殺しにしたって話ですよね。」
「そう。それが本当なら、パルスィさんは“水橋”という名を憎んでいるはず。
ユウスケさんを好きになる道理がない。」
お燐は顎に手を当てて考える。
「じゃあ……子どもとか? 浮気の前にできてた子がいて、その生まれ変わりとか?」
さとりは静かにお燐を見つめた。
「お燐、あなた。パルスィさんから“子ども”の話を聞いたことがある?」
お燐は首を横に振る。
「私が彼女の心を読んだときも、子どもの存在は一切なかった。
つまり、パルスィと夫の間に子はなかった。」
「となると……ユウスケの前世は夫本人か、その血縁……ですかね。」
「そう推測できるわね。でも、“なぜ愛しているのか”が説明できない。」
さとりは目を閉じ、指を組んだ。
(殺した夫でも、愛していたから? ……違う。
そもそも、なぜパルスィさんの心には“宇治の橋姫”の記憶がないの?)
「ねえ、お燐。」
「なんですか、さとり様。」
「例え話だけど……もし、私やお空を殺した人がいたとしたら、どうする?」
「そりゃ、殺しますよ。許せません、そんな奴。」
「その後は?」
「……ぼーっとして、何もやることなくなって、全部どうでもよくなるんじゃないですかね。」
「やり方はともかく、もし記憶を消せるとしたら?」
お燐は少し黙り込み、やがて呟いた。
「……それは、全部忘れて、一から始めるんじゃないですか?」
さとりはその答えに静かに目を細めた。
まるで何か確信に近い答えを掴んだように。