白昼の人里。
稗田家の書庫には、巻物と古文書が山のように積まれている。
その中で、上白沢慧音は阿求を訪ねていた。
「あら、慧音先生がわざわざ尋ねてくるなんて珍しいですね」
「……阿礼。いや、今は阿求と呼ぶべきか。紫がここに来たか?」
阿求は静かに微笑み、机の上の一冊を取り上げた。
表紙には『宇治の橋姫』の文字。
「ええ、昨日いらっしゃいましたよ。
宇治の橋姫、それに“水橋ユウスケ”という人物について、いくつか尋ねられました。
まあ、無難な範囲で答えましたけど」
慧音は腕を組み、少しだけ眉をひそめる。
「そうか……しかし、“先生”呼びとは珍しいな」
阿求はくすりと笑った。
「敬意を込めて、ですよ。
なにせ『宇治の橋姫伝承』を書き残したのは、他ならぬあなた――慧音先生、ですから」
慧音はぴたりと動きを止めた。
「……何の話だ? 私はそんな記録を残してはいない」
「白を切りますか?」
阿求の声には、穏やかさの中に確信があった。
「紫さんに橋姫のことを聞かれたとき、私――“ある日記”を思い出したんです。
稗田阿礼の時代、記録者として共にいた“あなた”の日記ですよ」
慧音の瞳が鋭く細められる。
「……やはり。私は“歴史”を改変したのか」
阿求は頷く。
「日記そのものは、あなたの改編によって消失しています。
ですが、阿礼としての私の記憶には、断片だけが残っていました。
その反応……本当に、あなた自身、改変した事実を忘れていたんですね」
慧音はしばし沈黙し、静かに吐息を漏らす。
「おそらく当時の私、、今もだが、“歴史を操作するなど許されない”と考えたのだろう。
だからこそ、自分がそれをした記憶ごと……書き換えたのだ」
阿求は少し哀しげな笑みを浮かべた。
「あなたはいつだって、歴史を守る者でした。
だからこそ、何を思って自ら禁を破ったのか――それが私には分からないのです」
慧音は目を伏せ、かすかに拳を握る。
「思い出せない……だが確かに、“水橋パルスィ”と出会い、
何かを知り、何かを守るために歴史を変えた……そんな気がする」
「それで、私の日記には何が書かれていたのか――」
慧音が問うと、阿求は目を閉じて過去の記憶を探るように呟いた。
「……断片だけ。『橋姫は、復讐の後に“涙を流した”』と」
「涙……?」
「ええ。怒りでも勝利でもなく、“後悔の涙”。
その一文だけが、なぜか私の中に残っている。
もしかすると、それが――あなたが歴史を塗り替えた理由かもしれませんね」
慧音は深く息を吸い、そして吐いた。
その眼差しはどこか遠くを見つめていた。
地底・旧都の酒場。
酒の香りと笑い声が満ちる中、静かに暖簾をくぐる影が二つ――古明地さとりと、彼女の従者・火焔猫燐。
「珍しいもんだね」
盃を片手に、星熊勇儀が笑った。
「主自らがここへ来るなんて。呼んでくれれば、こっちから行ったのに」
「今回は、私たち個人の調査ですから」
さとりは席に着き、軽く頭を下げる。
「それで?」
勇儀は盃を置き、真っ直ぐさとりを見る。
「何を聞きたいんだい?」
「あなたの友人――水橋パルスィ。
……いえ、もっと正確に言うなら、“宇治の橋姫”について、です。
あなたなら何か知っているのでは?」
勇儀の瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐにいつもの笑顔へと戻る。
「……友達の過去を、ぺらぺら喋るのは筋が通らない。
だが、一つだけ言える。
私がパルスィと出会った時、彼女はもう“妖怪”だった。
そして――伝承は必ずしも真実じゃない。
それ以上は、話せないよ」
さとりは静かに目を伏せ、立ち上がる。
「……そうですか。貴重な時間を、ありがとうございました」
二人は頭を下げ、その場を後にした。
地底の石畳を歩きながら、お燐が口を開く。
「結局、収穫はなかったですね。
橋姫と一番深い関係にあるのが勇儀さんだと思ったんですが……」
「いいえ」
さとりはゆっくりと首を振る。
「勇儀さんは、何も“話さなかった”けれど……“教えてくれた”わ」
お燐は目を丸くする。
「読んだんですか? 心を」
「ええ」
さとりの表情は、いつになく厳しい。
「彼女の心の奥に、強い“思い出”があった。
――伝承とは違い、“宇治の橋姫”には生き残りがいたようね」
お燐の耳がぴくりと動く。
「生き残り……? ってことは、その子孫が……」
「そう。恐らく、“ユウスケ”」
さとりは地底の闇を見つめるように呟いた。
「そして――パルスィがその記憶を持たない理由。
それを知るのは、地上から来る“スキマ妖怪”……八雲紫の役目でしょうね」
お燐は口をすぼめ、少し怖気づいたように言った。
「また、厄介な話になりそうですねぇ……」
さとりは小さく微笑む。
「厄介なほど、真実に近いということよ」