地底の空気は湿っているのに、ユウスケの喉は妙に乾いていた。
パルスィの家を飛び出し、足が向かった先は地霊殿。
そこだけは、いまの感情を受け止めてくれる気がした。
廊下を歩く足音は重く、まとわりつくように響く。
その背中に、猫の声が追いかけてきた。
「おー、久しぶりじゃない。帰ってき――」
返事はない。
俯いたまま、足だけが前へ進む。
お燐は眉をひそめた。
「……あれは“何かあった顔”だねぇ」
ユウスケは迷うことなくさとりの部屋の扉を開ける。
ノックすら、思い浮かばなかった。
部屋の奥で本を閉じたさとりが、柔らかく微笑む。
「おかえりなさ――」
その声が終わる前に、ユウスケは飛びつくように手を掴んだ。
そして、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「パルスィに……嫌われた……」
普段の落ち着きは完全に崩れていた。
さとりは困惑しつつも、そっと彼の手を包む。
「ちょ、ちょっと落ち着いて。……読ませてもらうわね」
第三の眼が静かに開く。
ユウスケの脳裏の記憶が、さとりへと流れ込んでいく。
横でお燐がハンカチを差し出す。
「ほら、泣くのはいいけど服で拭ったら湿って気持ち悪いよ」
「ありがと……お燐……」
言葉にならない嗚咽が零れる。
やがてさとりは深く息を吐き、状況を整理し始めた。
「だいたい理解したわ」
涙の跡を残したまま、ユウスケが顔を上げる。
「何が……ダメだったんだ……?」
「パルスィさんは、あなたの帰還を素直に喜んでいた。
――前世の話をされるまでは」
心臓が跳ねる。
「でも俺は、真実を伝えないと……!」
「問題はそこ。
あなたが見た“西行妖の記憶”が真実だと仮定すると――」
お燐が首を傾げる。
「私らが調べた橋姫の話とズレてるって事かい?」
「そう。伝承では“裏切られた女が全てを殺した”とある。
けれどあなたの記憶では、彼女は殺したあと後悔している」
さとりの声が低くなる。
「――パルスィ本人が、その“後悔”を覚えていないのよ」
空気が止まった。
お燐がぽつりと呟く。
「……自分で後悔してたなら、嫉妬で狂った妖怪にならないはず、って事か」
ユウスケは唇を噛む。
「じゃあ……あれは……」
「橋姫自身が“記憶を失っている”
しかも、都合の悪い部分だけ」
その言葉は重く、逃げ道を塞ぐようだった。
「そして紫さんから言伝があります。
――“真実を知りたければ、稗田阿求と上白沢慧音に会え”と」
ユウスケの肩が跳ねる。
「紫……全部分かってて、俺を地底に放り込んだのか……」
お燐が肩をすくめる。
「見てたのかもねぇ。紫だし」
さとりは優しく言葉を添える。
「今日はここに泊って。
明日、人間の里へ行きといいわ。」
ユウスケは、絞り出すように返事をした。
「……はい」
その返事は震えていたが、
確かに前へ進む力だけは残っていた
翌日。
ユウスケは重い足取りで人里の奥まった屋敷へ向かった。
その門には――歴史を記録する家系、稗田の紋が刻まれている。
「貴方が水橋ユウスケさんですね?」
落ち着いた声音とともに現れた少女は、年齢に似つかわしくない気品をまとっていた。
「らしいですね。最近知ったところです」
淡々と返すユウスケを見て、少女は小さく微笑む。
「私は古来より記録を司る家系、稗田家の当主。稗田阿求と申します。
――どうぞ、こちらへ」
案内に従い廊下を歩く途中、ユウスケはふと違和感を口にした。
「稗田……どこかで聞いたことがあるような」
「外の世界の方でしたね。でしたら、“稗田阿礼”の方が馴染み深いでしょう?」
ぴたりと足が止まる。
「……教科書に載ってる人ですよね?
歴史を編纂した――」
「ええ。その方です。外の世界にも、まだ名が残っているのですね」
「でも、阿礼本人なら見た目が……年齢も……」
阿求は扇で口元を隠し、くすりと笑った。
「私は数百年ごとに転生します。記憶を継いだまま。
“忘れない存在”――それが稗田です」
そう言って襖を開けると、すでに一人の人物が座していた。
青い帽子、静かな眼差し――歴史を護る半獣、上白沢慧音。
「君が……例の人物か」
その声は、状況を飲み込む者の声音だった。
阿求が隣に座り、場が整う。
「早速ですが、何か分かりましたか?」
慧音は静かに頷き、ユウスケを真っ直ぐ見据える。
「――まず言っておく。
君は“歴史に存在しない”」
空気が震えた。
「……どういう、意味ですか?」
慧音は深く息を吐き、言葉を紡ぐ。
「存在していない理由は――私だ。
私は、かつて、、前世の君の“歴史を消した”故にその家系の者の名は私の中に存在しない。」
阿求が補足するように扇を畳む。
「慧音は許されざる行為と知りつつも、あなたの名を歴史から消したんです。
その痕跡は確かに残っています」
ユウスケの喉が乾く音が、聞こえるようだった。
「なぜ……そんなことを」
慧音は一瞬だけ目を伏せ、語り始める。
「まずは“作られた歴史”の確認からだ。
これが世に語られる宇治の橋姫だ」
声が淡々と響く。
「かつて都に水橋ユウスケという男がいた。
妻を持ち、幸せに暮らしていた。
しかし男は妻の前から姿を消し、別の女と交わり、家族を築いた。
――それに嫉妬した妻、水橋パルスィは
貴船神社にて神託を受け、宇治川へ身を投げ、鬼となった。
そして夫と浮気相手、親族を皆殺しにした」
阿求が扇で机を軽く叩く。
「これが現在流布している“宇治の橋姫”です。
ですが――これは慧音先生が創作した伝承」
ユウスケは息を呑む。
「じゃあ、本当の橋姫は……?」
阿求は目を細める。
「悲惨すぎるために、歴史そのものが変えられた。
水橋パルスィ自身も、真実を知らないように」
慧音が続ける。
「そして――君は、変えられた“本来の歴史”に属する者だ。
水橋ユウスケの転生体としてな」
沈黙の中、慧音の視線が刺さる。
「だが私には、なぜ歴史を改変したのか――記憶がない。
自分で封印したのだろう。
だから……君から見た“前世の記憶”を聞かせてほしい、幸い君が死んだのは私の歴史の改変前、前世の記憶は改変されていない。」
阿求が静かに頷く。
「貴方の証言が、封じられた真実を取り戻す鍵です」
ユウスケは拳を握る。
逃げられない。
ここで語らなければ――真実は分からない。
喉の奥で息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「……あの桜の下で、私が見たのは」
封じられた“本物の宇治の橋姫”の真実に触れだす。