ユウスケは息を整え、静かに告げ始めた。
「――西行妖に触れたとき、見えたんです。
過去の“俺”がパルスィに殺される記憶を。
別の女性と逃げていた俺が、追い詰められ……
そして、あの手で命を奪われた。それだけでした」
語り終えた瞬間、室内の空気は冬の底に沈んだように冷え込んだ。
慧音がゆっくりと目を閉じ、息を吐く。
「どうだ、阿求」
名を呼ばれた阿求は、筆の動きを止め、小さく頷く。
「断片的とはいえ、既存の調査と照合すると筋が通ります。
――状況は、ほぼ確定しましたね」
筆を置く音が、静寂の中で鋭く響く。
「かつて、水橋ユウスケと水橋パルスィは恋仲だった。
しかしユウスケは事故で記憶を失い、別の女性に救われ、そのまま惹かれ合ってしまった。
それを“裏切り”と誤解したパルスィは嫉妬に呑まれ、妖怪となって復讐を果たした。
――だが、すべてを終えた後に真実を知り、深く後悔した」
慧音が続ける。
「さらに、地底からの報告で判明したことがもうひとつある。
宇治の橋姫の惨劇には、生存者がいた」
ユウスケは思わず身を乗り出した。
「……生存者?」
「そうだ。君が前世で残した“子”だ。
記憶を失った後、共に生活していた女性との間に生まれた命だ」
ユウスケの思考が止まる。
なぜ、自分の血だと断言できるのか――理解が追いつかない。
「どうしてそれが、私の先祖だと分かるんですか」
慧音は表情を崩さないまま、淡々と告げた。
「歴史に存在しない者から、歴史は生まれない。
私はかつて“水橋ユウスケの血統”を歴史から抹消した。
それでも君が此処に存在するという事実は、
“歴史の外側で続いた血”がここに辿り着いた証拠だ」
阿求が補足する。
「つまり真実は隠されたが、血筋だけは生き残った。
その末裔が、転生を重ねて“今のあなた”になった――そう考えるべきなのです」
阿求は、さらに別の角度から問いかける。
「……ただし、一つ可能性があります。
パルスィとの間に子があった場合は?」
慧音は即答した。
「否定する。
もし橋姫に子がいたとなれば、歴史の消去には莫大な力が必要だった。
当時の私には不可能だ。
ゆえに、残された子は別の女性のものだ」
阿求は小さく息を吐いた。
「……これで全て辻褄が合います」
慧音は記憶の底を探るように語り始める。
「ユウスケが視た記憶には描かれていなかったのだろうが、
パルスィは真実を知った時点で壊れかけていたはずだ。
私はその姿を哀れに思い、歴史を書き換えた。
『夫に裏切られ、鬼と成り果てた女』という、単純な伝承へとな」
部屋の空気がさらに重く沈む。
ユウスケは唇を震わせながら問いかけた。
「じゃあ……戻せばいいじゃないですか。
真実を伝えれば、パルスィは――」
慧音は首を横に振る。
「戻すことはできる。
だが私達だけというのは無理で全員に共有される。真実を戻せば、彼女は“無実の一族を殺した鬼”としての記憶を取り戻す。
その苦しみを再び負わせることが――本当に救いだと思うのか?」
ユウスケは言葉を失った。
やがて阿求が静かに問いかける。
「あなたはどうしたいのですか。
真実を、彼女に渡したいのですか?」
ユウスケは迷わなかった。
その答えは、胸の奥に最初からあった。
「……いえ。知らなくていいんです。
パルスィは、浮気した夫を……殺しただけでいい。
真実なんて、知らずに生きればいい。
パルスィはもう――これ以上傷つかなくていい。」
慧音の瞳が、ほんのわずか緩む。
「そうか。
――やはり君は“水橋ユウスケ”だ。
前世と同じように、最後に守ろうとするのはいつもパルスィの心か」
その言葉に、ユウスケの肩が震えた。
暴かれた真実は、いま確かに形を持った。
だが――それを知る必要は、
もう水橋パルスィにだけには与えられていないのかもしれない。
稗田邸を後にしたユウスケは、地底へ戻ることなくそのまま外の冷たい風を浴び続けていた。
胸の奥に残ったものは、真実を知った安堵ではなく――重い、逃れられない現実。
パルスィは、“水橋ユウスケ”が記憶喪失であるという記憶を持たない。彼女にとっては自分を裏切った相手。
そして、ユウスケの前世がその男である以上――今の彼女にとって、自分は存在してはならない。
その答えに辿り着くのに、時間は必要なかった。
「歴史を戻さないと決めた以上……
パルスィの前からは消えよう。
彼女にとって、水橋ユウスケは――裏切り、憎んだ相手なんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。
しかし、それでも決断を曲げる理由にはならなかった。
ユウスケはスキマを開く。
向かった先は 地底・星熊勇儀の家。
薄暗い部屋は無人だった。
酒瓶が雑に並んだ棚と、部屋の奥に置かれた座布団だけが、彼女の生活感を残している。
「……いないか。飲み屋街だろうな。
でも、丁度いい」
人のいない静寂が、決別の言葉を書くには都合が良かった。
ユウスケは筆を取り、迷いなく紙へと文字を走らせる。
自分が“水橋ユウスケ”の生まれ変わりだと知りました。
パルスィをこれ以上傷つけないため、
彼女の前に現れることはもうありません。
地底にも戻りません。
短い間でしたが、お世話になりました。
止められると思うので、地霊殿への伝達もお願いします。
墨が紙に染み込み、乾いていく。
その過程がまるで、自分という存在が地底から薄れていく証のように思えて仕方なかった。
手紙を置き、最後に部屋を一瞥する。
「ありがとう、勇儀。
貴方の酒、もっと飲みたかったな……」
そしてユウスケは再びスキマを開き、地底を後にした。
どれほどの時間が経っただろうか。
酔いを引きずりながら帰ってきた星熊勇儀は、机の上の手紙に気づき、眉をひそめた。
読み進めるにつれ、無骨な指がわずかに震え始める。
「……何やってんだい、あの馬鹿。他にも方法はあったろうに」
最後の一行を読み終え、勇儀は深く息を吐いた。
静かに、しかし確かに笑う。
「私はかつてパルスィが歴史修正前に抱いていたお前の子としか会ってないが、ほんと……昔から優しいね、水橋ユウスケ」
その声は、地底の静寂に溶け、誰にも届かないまま消えていった。