一人、家の中で水橋パルスィは天井を見上げていた。
薄暗い部屋に、音はない。
けれど、胸の奥だけがやけに騒がしい。
(……なんで、あいつはまた私の前に現れたのよ)
記憶の奥を引っ掻くように、あの顔が浮かぶ。
地底から連れ出され、戻ってきて、
何もかもをひっくり返していった男。
(復讐? 懺悔? それとも、許しでも乞いに来たつもり?)
鼻で笑おうとして、できなかった。
(……私は、確かにあいつを愛してた)
それだけは否定できない。
だからこそ、裏切られたと思った。
だからこそ、殺した。
(なのに……)
思考が、そこで止まる。
(どうして、忘れたいはずの顔が消えないのよ)
嫉妬の妖怪としての力は、今も衰えていない。
誰かの幸せを見れば、胸が焼ける。
妬みは集まり、力になる。
それなのに。
(あいつがいた頃の方が……)
言葉にしようとして、飲み込んだ。
「……あーもう!」
布団を蹴飛ばし、勢いよく立ち上がる。
「考えてても仕方ないでしょ。外よ、外。気晴らし」
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旧都の通りは、相変わらずだった。
昼間から酒に潰れる妖怪。
肩を並べて歩くカップル。
笑い声。
それらを目にするたび、妬みは確かに湧く。
(……力は、増える)
でも。
(それだけ)
視線の先で、笑い合う二人組を見ながら、
ふと、どうでもいいことを考えた。
(……あんな風に、騒がなくてもよかったな)
ただ、同じ屋根の下で、
特別じゃない日々を過ごすだけで。
(……馬鹿みたい)
そう思った瞬間、聞き慣れた声がした。
「おう、パルスィ。珍しいね、外に出てるなんて」
振り向けば、星熊勇儀が立っていた。
「家にこもってたら、余計に気分が沈むから」
「それもそうか」
短い沈黙。
勇儀は何も言わず、隣に並ぶ。
「……ねえ、勇儀」
「ん?」
「ユウスケ、どこにいるか知らない?」
勇儀の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
「どうした?」
「……別に」
言いかけて、言葉を探す。
「話してなかったけどさ。
あいつの前世、私の夫だったのよ。水橋ユウスケ」
「……うん」
「知った時はさ、
浮気したあのクソ野郎が、なんでまた私の前にって思った」
視線を逸らす。
「でも……」
言葉が続かない。
「外に出て気づいたのよ。
妬みで力を得るより……」
止めた。
「……いや、いい」
勇儀は何も言わず、少しだけ笑った。
「で? あいつの居場所だけどさ」
パルスィは顔を上げる。
「ユウスケなら、地底から出てったぞ」
「……え?」
「前世でお前に酷いことをしたから、
これ以上傷つけたくないんだとさ」
一瞬、何も考えられなかった。
「……私、
“出てって”って言っただけなんだけど」
「そうだろうな」
勇儀は肩をすくめる。
「すれ違いってやつだ。
……昔のお前たちみたいにな」
「……何それ」
問い返したとき、勇儀はもう立ち上がっていた。
「なあ、パルスィ」
去り際に、ふと振り返る。
「昔の話だけどさ。
お前、どうして“水橋”の名字を捨てなかった?」
答えは、すぐには出なかった。
「……そんなの」
言いかけて、言葉が途切れる。
勇儀はそれ以上何も言わず、背を向けた。
「飲み足りない。次の店だ」
その背中を見送りながら、
パルスィは立ち尽くしたまま動けなかった。
(……どうして)
胸の奥に、言葉にならない違和感が残る。
(どうして、私は――)
“水橋”という名を、
今も捨てていないのか。