(理由は分からない。
けれど、確かに“そこにあった”はずの存在)
記憶にない。
それなのに、胸の奥が静かに痛む。
(そして……私自身の記憶が、決定的に欠けている)
伝承として残る宇治の橋姫。
妬み、怒り、殺し、鬼となった女。
だが、今触れたものは――
それだけではなかった。
(……恐らくだけど)
伝承と、真実は違う。
そう確信した瞬間、
パルスィは席を立った。
「水橋ユウスケが浮気したのは、きっと……何か理由がある」
声は、驚くほど落ち着いていた。
「それが何かは分からない。
けれど……私は、彼を信じる」
自分でも不思議だった。
妬みの妖怪である自分が、
こんな言葉を選ぶなど。
だが、それが今の本心だった。
向かった先は、地霊殿。
心を読む妖怪のもと。
重い扉の向こう。
静かな視線が向けられる。
「……どうされました」
その問いかけに、パルスィはわずかに笑った。
「心の読めるあんたが、わざわざ聞くなんて。
やっぱり都合が悪いのかしら」
一瞬の沈黙。
「結果から言えば……
あなたの過去について、調査はしました」
言葉が選ばれる。
「ですが、教えることは出来ません」
感情が、胸の奥でざわめいた。
「何よ。本人なんだから、いいじゃない」
「……出来ません」
理由はすぐに続いた。
「ユウスケさんの希望です。
“伝えないことが、優しさだ”と」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥が、ちくりと疼いた。
「……本人が、自分の過去を知ろうとしてるだけなのに。
それでも、ユウスケの意志を優先するの?」
しばらくして、答えが返る。
「……私も、その方がいいと判断しました」
その言葉を聞いたとき、
パルスィは――笑った。
それは、怒りでも嘲りでもない。
理解した者の、笑みだった。
「そこまで聞ければ、十分よ」
一歩、前に出る。
「その反応……
過去の私は、何か取り返しのつかない理由で間違いを犯した」
確信が、言葉になる。
「だから、私に知られないようにしてる。
……そうでしょう?」
沈黙。
そして、小さく。
「……はい。
どうやら私は、読むのは得意でも……隠すのは苦手なようです」
パルスィは、ゆっくりと息を吐いた。
「十分よ。
それで全部、分かった」
視線を上げる。
「ユウスケに、謝ってくる」
その瞬間、空気が張りつめる。
「――なりません」
声は、はっきりと拒絶していた。
「あなたは地底の妖怪。
地上へは、出られません」
だが、パルスィは止まらなかった。
「こちとら、妖怪として生まれた時から罪人よ」
静かな声。
「今さら、罪が一つ増えたところで……
何が変わるっていうの?」
その言葉は、
妬みではなく――覚悟だった。
もう、逃げない。
地底を抜けた瞬間、空気が変わった。
重く、湿り、閉じた世界。
それが当たり前だった身体に、
やけに軽く、広がりすぎた空間が突き刺さる。
「……なに、ここ」
頭上に広がる空。
遠くまで続く道。
行き交う妖怪や人間たち。
(これが……幻想郷)
初めて踏み入れる“地上”は、
想像していたよりも騒がしく、
想像していたよりも――生きていた。
「ちょっと、そこの人」
声をかけられ、反射的に身構える。
「地底の妖怪?
珍しい格好してるわね」
赤白の巫女服。
気怠げな視線。
(……博麗の巫女。
私のこと、覚えてないのかしら)
「迷ってるなら、案内するけど?」
言葉に、敵意はない。
むしろ、面倒そうにしながらも放っておけない、という顔。
「……探してる人がいるの」
「誰?」
一瞬、迷う。
けれど――
「……ユウスケ」
その名前を口にした瞬間、
胸の奥で何かが、はっきりと鳴った。
「ああ。
あの厄介なのね」
軽く肩をすくめる。
「最近、あちこち出歩いてるわよ。
マヨヒガの方にいるって話、聞いたけど」
マヨヒガ。
聞き覚えのある名。
地上にありながら、迷う者しか辿り着けない場所。
「行き方、分かる?」
首を横に振る。
「じゃあ、途中まで案内してあげる。
貸しにしとくから」
それだけ言って、背を向ける。
(……助けられてばかりね)
地上を歩きながら、
何度も立ち止まりそうになる。
人間。
妖怪。
楽しそうに笑う者たち。
妬みは、確かに湧く。
けれど――
(昔ほど、苦しくない)
それに気づいて、戸惑う。
(私……変わった?)
「ほら、あそこに」
その言葉に、心臓が強く打つ。
足が、勝手に動き出す。
木々の合間。
古びた屋敷。
見覚えのある背中。
(……いた)
迷い、ためらい、
それでも進む。
「……ユウスケ」
その名を呼んだ瞬間、
相手の身体が、はっきりと強張った。
振り返る。
目が合う。
「……パルスィ?」
驚き。
困惑。
そして、わずかな――安堵。
「……来たのか」
それだけで、
胸がいっぱいになる。
「勝手に消えるなんて……
相変わらず、卑怯ね」
声が、かすかに震える。
「……ごめん」
言葉は、それだけ。
でも、それで十分だった。
「話、あるの」
一歩、距離を詰める。
「私……全部は思い出してない。
でもね」
視線を逸らさず、続ける。
「それでも、ユウスケを信じたい」
沈黙。
風が、二人の間を抜ける。
「……ありがとう」
それは、拒絶でも許しでもない。
ただの――
再会の、第一歩だった。