「仮に慧音先生に原因があったとしても、もういいじゃ、、、」
ユウスケが言いかけた言葉は、途中で止まった。
隣のパルスィが、視線だけでそれを封じたからだ。
緑の瞳が、暗い地底の室内でわずかに光を帯びる。
怒りではない。だが、怒りよりずっと鋭い何かだった。
「……話してよ」
慧音は短く息を吐き、覚悟を決めたように頷いた。
「復讐が起きる前。君たちが夫婦として、まだ何の問題もなく過ごしていた頃……私は同じ都にいた」
平安の都。
人の声と車輪の音、紙と墨の匂い。
忙しなく動く人々の中で、慧音は一人苛立ちを噛み殺していた。
「まったく……宮廷の仕事にありつけたのはいいが、こう毎日仕事詰めだと嫌になるな」
抱えているのは束ねた資料。
落とせば終わりだ。紛失すれば責任問題。
胃の奥が常に重かった。
曲がり角に差し掛かった瞬間――誰かとぶつかった。
紙が舞う。
墨の匂いが散り、資料が床に散乱した。
「資料が……ああ、すまない!」
「こちらこそすみません。手伝います」
見上げると、若い男が膝をつき、迷いなく紙を拾い始めていた。
慌てる気配がない。焦りもない。
ただ真面目に、黙々と。
「……仕事のことを考えていてな。こちらこそ不注意だった」
「いえ、こちらも前を見ていませんでした」
「怪我はないか?」
「ええ、問題ありません。……紙が無事でよかったですね」
その言葉に、慧音は思わず苦笑した。
紙の価値を知っている。責任の重さを理解している。
そして、他人の損失を自分のことのように気にする。
「全くだ。……一枚でも無くしたら私が罰せられる」
数を数え、束を整え、ようやく胸を撫で下ろす。
「礼を言う。私は宮廷で書記をしている、上白沢慧音という者だ」
「宮廷で……それはまた。私は水橋ユウスケです」
「水橋……ということは橋の管理を?」
「ええ。宇治橋の管理をしているので、役職と共にこの名字で」
そこで慧音は、ふと思った。
“縁”という言葉は、こういう時に使うのだろうか、と。
「よければ甘味屋で話でもしないか」
「ええ。宇治橋の近くに、いい甘味屋があります。案内しますよ」
甘味と、くだらない話。
仕事の愚痴。都の噂。
気づけば慧音は笑っていた。
「……もうこんな時間か。夜更けだな」
「送りますよ」
「おっと、すまないな」
二人は宇治橋を渡った。
夜の川は黒く、静かで、どこか底が見えない。
その時――強い風が吹いた。
「しまった……!」
慧音の腕の中から、束ねたはずの紙が抜ける。
夜の風にあおられ、白い紙が舞い、川へ散っていく。
「書類が……!」
「大丈夫です。私がなんとかします!」
ユウスケは迷わず橋の縁へ身を乗り出した。
紙を掴んだ。
掴んだはずだった。
体勢が崩れる。
「……やべっ!」
「ユウスケ!」
落ちた。
水音が闇に吸い込まれる。
慧音は迷わず後を追った。
川下で追いついた時、ユウスケは意識を失っていた。
だが息はある。脈もある。
生きている。
「……なんとか追いついた。気を失っているが……息はある」
安堵と同時に、現実が襲いかかる。
書類はもう流された。
替えがきかない。
(私が罰せられるのはいい)
(だが、この男は私を助けようとしただけだ)
ユウスケの手は、まだ紙を掴もうとした形のままだった。
(正直者だ……)
(彼なら、責任を取ろうとする)
(私と会ったことを覚えていたら、“自分が落とした”と言いかねない)
慧音は決断した。
これは彼を守るための処置だ、と自分に言い聞かせた。
「……今日のことだけ、消す」
触れた額に、力を流す。
狙いは“自分と会った記憶”だけ。
――そのはずだった。
だが、冷たい水。夜の闇。焦り。罪悪感。
心の揺れが、能力の照準を狂わせた。
(消すのは……私のことだけだ)
(なのに――)
慧音の手のひらの下で、ユウスケの記憶が“ほどけて”いく感覚があった。
一本の糸ではない。
束になった糸が、まとめて抜け落ちていく。
(やめろ……!)
止めようとした時には、もう遅かった。
ユウスケの中から――
“水橋パルスィ”へ繋がる記憶が、抜け落ちた。
慧音は、その場で立ち尽くした。
自分が何をしたか、理解した瞬間、喉の奥が凍った。
(私は……取り返しのつかないことを……)
だが、そこへ足音が近づいてくる。
街道を歩く女性が、倒れているユウスケを見つけたのだ。
「そこの方……濡れていますが、大丈夫ですか?」
慧音は息を呑んだ。
説明すればいい。止めればいい。
けれど――恐怖が勝った。
自分がしたことが露見する恐怖。
責任を取らされる恐怖。
そして何より、“善意で始めたことが罪になった”現実への恐怖。
慧音は、逃げた。
ユウスケは女性に連れ帰られ、看病され、
やがて、恋をした。
パルスィの記憶がないまま。
そして、それを発見した水橋パルスィとのすれ違いが始まった。
探す者と、忘れた者。
愛していた者と、知らない者。
やがて、嫉妬は炎になり、
復讐は刃になり、
宇治の橋姫が生まれた。
悲劇の後、慧音は真実を知った。
自分が原因だったと、理解した。
その罪悪感の中で、慧音は“歴史”を変えた。
そして、橋姫から悲劇の記憶を奪い、
生き残った子を引き取り育てた。
回想が終わる。
慧音の声は震えていなかった。
だが、目だけが、疲れ切ったように揺れていた。
「……これが顛末だ。私に責任がある。最も思い出したのは数日前だが」
パルスィは、しばらく何も言わなかった。
怒りが爆発する気配もない。
ただ、胸の奥を確かめるように、ゆっくり呼吸していた。
「黙ってることもできたのに……どうして、わざわざ言いに来たの?」
慧音は目を伏せた。
「全部の責任を取りたかった」
そして、懐から小さな短刀を取り出し、床に置く。
刃は光を返し、静かにそこにあった。
「君が望むなら、これで私を好きにしてくれ」
「安心してくれ。地上のことは片付けてある。地底に私がいることは誰も知らない」
それは謝罪ではなく、
贖罪の形をした“許可”だった。
パルスィが、どう裁くか。
その答えだけを待つ覚悟だった。