それは夕暮れのことだった。前に伸びた長い影をぼうっと見つめて、手に持った買い物袋に視線を落とす、交互に確かめては今日の充実感を静かに蓄えていた。
八月の初め、おれは毎月のお小遣いをこの為に使おうと思っていた。部活を引退して余ってしまった猶予時間を、この買い物袋で満たすべく、わざわざ電車を乗り継いでまで大きめな製菓材料店に赴くというのが今日の昼。
部活仲間と遠出することは幾らかあったけれど、一人で趣味のための買い物をしに行ったのは、実は初めてかもしれない。
部活でもあるサッカーは趣味じゃないのかと言われたら、そうとも言えるし言えないし。確かに保育園の頃から打ち込んできたけれど、今となっては趣味よりも熱と義務感の入った習慣に近い。今日だって、まず初めに怪我の処置に使うあれこれを買い溜めるところから始まったものだ。部活を引退したから、きっと使い切るのは当分先だと言うのに、習慣に無駄使いをさせられてしまった。
無駄使いに気付いてもあんまり徒労感はなかった。それ以上に、目当てのものが立ち並ぶお店に出会ったことが嬉しかった。
これから駅に着いて。電車に揺られ、きっと眠気を感じながら歩む帰路に、やっぱり袋の重さを幸せに感じるんだ。
望郷と言えば大袈裟だけど。思いを馳せるのは至福だ。
ああ、思い返すとやはり充足感に満ちる。自分のペースで楽しめる初めての趣味へ、のびのびと羽を伸ばす夏休みを、疲れの残る夕景の下でも飽きずに空想する。
だから、初めにそれを見たときは、おれの思い違いや空想だと思った。
五時半の鐘が鳴る。よい子の皆は帰りましょう。大きな声で反響する。
夜はまだまだやってこないぞと、夕陽はニタニタ照りついている。
汗の伝う額がやけに冷たく感じてしまい、ぶるりと身体が震えてしまう。
赤い、紅い、夕景だった。
――子供が頭から血を流して、橙色に横たわっている。
「だっ――大丈夫!?」
悪寒で縮こまりそうなのを振り切るように走った。
シャカシャカ揺れまくる買い物袋が今だけはすごく鬱陶しい。でも、もしもそうだとしたら、これは絶対手放しちゃいけない。
子供は空き地の端っこで、ぐったりと横になっている。その脇には脛くらいまでの草っぱが茂っていて、これは確かに雑草で見つけにくいだろうけど、なんだってこの時間に放置されているんだ。この辺のことはあんまり詳しくないけれど、それにしたって怒りが先立つ。
近付いて、苦し気に動く顔を見てちょっと安心し、それから更に、血の気が引いた。
あ、だからなんだ――すぐに気付いてしまう自分の頭が、なによりも腹立たしかった。
「今、手当するからね。あっ……と、すぐに救急車も呼ぶから」
「――や」
おれはその子の血を止める為にしゃがみこんだ。すぐ傍に袋を降ろして、今日買った医療品を取り出そうと漁っていたものだから、少年のか細い声を掻き消してしまう。
訴えるような表情だったから、思わず手を止めて聞き返した。
「いや、だ。病院は……だめなんだよ」
「あ……」
横たわった少年の背中には、翼が生えていた。
それで空を仰げるのかと心配になるような、薄く広い緑の翼が、力なく倒れている。
だからだ。だから人は見ても素通りして、病院に連れても処置をしてもらえない。異種族は病院すら利用できないなんて眉唾だったけど、彼の表情は本当だ。嘆きの表れた顔は絶対に嘘じゃない、実体験を伴った絶望なんだ。
でも。
もう手は止まらない。自分の手、少年の額を消毒して、ガーゼで抑える。血の出方が激しい。このままじゃ。
手は止まらない。包帯を巻き付けようとして、割れ物よりも繊細に頭を動かす。悲痛に声を漏らす度、心がヒビわれていくような気がした。
泣かない。今泣くのは絶対に許されない、おれが許さない。この少年から涙を奪い去ったこの世界への反骨だ。絶対に泣いてなんかやるものか。
でも。
でもこのままじゃ。
「……っ、誰か! 誰かいませんか! 『人』が倒れてるんです!」
血が滲んでいく包帯が怖い。直視出来ない。逸らしたって捥げた羽毛が視界に入って嫌になる。
何か出来ないか、必死に地面を睨みつける事しか出来ない。
地面……石が転がってる。てのひらで握り込めるかどうかという石が。そんなもの、少年より遥かにしょうもない路傍の礫だ。
赤黒く染まっていなければ。
事故じゃないんだ。この少年は、少年は――!
「――誰がこんな」
眼球が怒りに包まれていく。体温が知覚できない。熱さも、寒さも。
「誰が、こんな、ことを…………!」
「…………たくない」
音に聞こえず、口の動きで少年の声を見た。
目に蓄えたそれは涙だった。
「死にたくない……」
「――っ!」
「つれてって、ほしいところがあるんだ」
こぼさないよう大きく開かれた瞳を、夕陽よりも強く焼き付けた。
『あの電波塔のちかくにスナックがあるの』
「大丈夫……大丈夫だよ」
揺らし過ぎないように、今出せる最速をもって走る。
空を焼いた橙色は彼方で手を振っている。代わりに幕を覆うのは深海のように暗い夜だ。
いつかの日、門限の過ぎた夜を思い出す。
その日は遊び足りなくて、友達の家を離れた後も公園に残った別の友達と遊んでいた。そのうちに家族が迎えに来て、一人になったおれは無性に寂しくて、這い寄っていた夜が怖くて、泣き出しそうになりながら家を目指していた。寒さの険しい冬を怯えながら疾走していたから、玄関を開けた時の温かさで涙があふれ出してしまったのを、覚えている。怒るより先に心配されて、埋め足りない寂しさの正体に気付かないまま、おれはしばらく、胸の痛みを伴う焦燥を忘れていた。
昔話に没入していること自体に、気付くのは遅かった。きっと状況が似ているから、しばしの間過去に囚われていたのだと思う。
これから駅に戻って電車に揺られマンションを目指す、一人で出掛けてると知っているから、流石に怒られるんだろう。でも、このことを知れば、叱った後に、褒めてくれるとも思う。
泣き笑いで伝えられるように、絶対死なせてはいけない。助けられたっていう笑い話でなくちゃいけない。
ひたすら走る。人一人分、翼の重みを知りながら。
目指すべき電波塔は地理に詳しくなくともすぐに分かった。電波塔の傍には小高い山が見えて、ひとけの少なさを遠めからでも察することが出来る。定期的に空を仰ぐようにして電波塔の方角を確認し、見知らぬ景色を突き抜けた。
背中がじっとりと暑い。暑いってことは生きている。ならやっぱり走るしかない。走ることしかできない。
スナックで何が待っているのか、少年を助けることが本当に出来るのか、全く見当がつかない。だからただ信じて、信じてくれたことをおれの希望にして、おれは……電波塔の傍に辿り着いた。
家がまばらで活気がない。街灯も見当たらない。生気の足りない街並みだと感じた。
「もうすぐだから、がんばって」
息を整えながら周囲を見渡した。その間も決して少年の身体を振ることのないように。
スナックって言っていた。幸い店らしい店は無くて、見紛うことはなさそうだ。でも今の時間からやってるんだろうか? もし普通の一軒家のようだったら見つけられる自信がない。どうしようここまで来て……!
「あっ……た! あったよ、着いた!」
丁度今、チカりと光る建物を見つけた。光ったのは建物自体ではない、『はらぐろ』と書かれたプレートが丸い電球を幾つも纏って手招いている。建物の外装は如何にも一軒家だ、看板が光ってなければ、この暗さで見つけられたか怪しい。
はらぐろの右上には小さくスナックと書かれていて、ここじゃなかったらもう店の人に聞くしかないと心を決める。
「あのっ、すいません! 人が……その、助けてください!」
おんぶで背負ってるから扉を叩けない。一度降ろして勝手に開けるのも選択なんだろうけど、何故だがそうするのは恐かった。
返事がない。一秒が一分に引き伸ばされているような、それでいて一秒の遅れが致命的なような気がして、運動量に関わらず息が激しくなる。
「あのっ!」
手首にぶら下がった袋で扉を叩く。なにも固いものは入っていなくて、むしろ中身が潰れてしまうこと兼ね合いだが、躊躇ってる余裕はない。必死なんだ、必死だから早く来てくれ。
ガチャ。
心臓が飛び跳ねた。知らない土地の知らない店で、恐怖はあったと思う。でもそれ以上に、少年が助かるのだという喜びに胸が躍った。
現れたのは予想外の風貌、おれと同じくらいの少年だった。
「なんだよガキが来るもんじゃ……」
「この子に言われてきたんだ、誰か、大人の人を!」
「いや……は? なんっ……」
言葉が詰まっているのは無理もない。額に包帯を巻いた少年をおぶったこれまた少年が、スナックを訪ねているのは、とても奇妙だろう。
説明してる暇はない。少年が指定した場所だ、きっと何かのアテがあると信じて、奥にいるであろう大人に期待する。
硬直している少年の脇を通って、玄関のタイルを踏む。
「あの、すいませーん!」
「おい待てよっ! お前、お前……ッ!」
肩が強い力で掴まれる。……緊急事態って分かってくれよ。
「見て分かるだろ、人がっ」
「
顔? 知ったこっちゃない、気遣いながらの全力疾走で疲れ果ててるんだ。どれだけ険しくとも、後ろの少年の方が何倍険しい状態だろう。
流石に状況をどうにかしてもらいたい、一縷の期待を込めて、柚希と呼ばれた少年に首を向けた。
おれの肩に頭を置いた、少年の目と合う。
いや。
いいや。
「――死んでんだぞ」
「……………………え」
どれだけ見つめても目が合わない。少年の瞳は凍り付いて動かない。
なんで、こんなに暖かい。
「うそ、だ」
「何があったんだよなんで柚希が、なんでここが分かった!? なんだよテメェは! どういうつもりだ――!?」
頭が揺れる。足腰から力が抜けていく。視界がぼやけていく。
そうか、夏だ。夏だからこんなにも暑くて、おれも――
「信じられるか、柚希は人間に殺されたんだ。アイツなんか放り出せばいいじゃねえか……なんだって死体を」
「アナタだって人間でしょう。悪く言う資格はまだないわ。それに、彼を邪険にするのは出来ないもの」
「なんでだよ、俺知らねえぞあんな奴」
男が二人、言い合っている。
一人の声は聞き覚えがあった。おれがさっきまで耳にしていた少し気性の荒い声だ。食って掛かるような声が頭に響いて、それから肌寒さを感じる。
「だって彼……柚希ちゃんのこと、『人』って言ってたのよ」
「っ、言葉の綾だろ。今でも人間基準の言葉使いは変わらないんだから」
もう一人はやけに艶やかな声だった。言い合うというより、彼が嗜めているように聞こえる。
少し寒くて、それに煩い。
「んん……」
「あら」
「チッ」
目を開けてみれば、暖色系の照明に照らされたテーブルが正面にある。おれにはブランケットが掛けられていたようで、半ば無意識に身へ寄せた。
寝ていた、気を失っていたようだ。頭がまだくらくらするような気がして、誰かいるのに話そうとは思えてない。
「今お水出すわね、沢山飲んで頂戴。今日暑かったから」
もう一回目を瞑ろうと思ったけど、どうやらそうもいかないみたいだ。
のっそりと身体を起こす時、一度大きく頭痛が走って呻いてしまう。
少し身体が跳ねた。ソファに寝かされていたらしい。やけに冷たい革張りをなんとなく触りながら艶やかな声の男性に視線を向けた。
「きっと暑くてまいっちゃったのよ」
円筒状のコップに八割くらい満たされたお水。喉の渇きはそうでもないし、少し肌寒いんだけれど、手渡しされては拒めまい。
おれは男性の頭から足元を、ぼんやり見つめて飲み始めた。
「やだ良い飲みっぷり。もう一杯いきましょ」
「……」
渇いてないとは身体のついた嘘らしい。一度喉に水が通ると忽ちとてつもなくほしくなる。続けざまもう一杯飲んで、おれはおずおずと、男性――角と尾の生えた、丸刈りの桃毛の男性を、見上げた。
「落ち着いてきたかしら。あっそれともアタシのせいで落ち着かない? やだ、罪な身体ね」
「いや……その」
男性を見て、それから周りの景色を見て、おれは気を失う前の出来事を思い出した。
ここはスナックのようで、ソファに座ったおれの前にはテーブルを挟んで男性が、その奥には煌びやかなビンやグラスが見える。スナックに入ったことはないけど、明らかにお酒を扱いそうなカウンターだ。
だから、少年の死と地続きなんだと知る。
死。
おれは死体を背負って、ずっと。
「――っ」
肌寒いのは冷房が当たってるからだ。それだけだ。薄気味悪いなんて、男性の前でそんな、彼を忌むようなこと思えない。だから気のせいだ。
「あ、あの子、は」
「……アタシのお友達が連れてったわ。今頃おめかししてるところよ」
「おめかし……?」
「そうよ、おめかし。こんなに暑いんだもの、アナタが連れてきてくれて、本当によかったわ」
言葉の意味するところが分からないでいると、男性の後ろ、カウンター席から少年の声が飛んで来る。文字通り暴力的な勢いだ。
「死に化粧ってことだよ」
「……んもう」
「あ――おれ、そっか。やっぱり、間に合わなかったんだ」
希望を瞳いっぱいに溜めた彼を裏切ってしまった。どんな気持ちだったんだろう、知らない人の背中に揺られて、痛みを感じながら、蒸し暑い夕方に沈んでいく気持ちは。
きっと最悪だろうな。
「ごめん……ごめんなさい、おれ、あの子に言われたのに。ここに来たいって、言われたのに! なのにおれ……」
「いいのよ、いいの。……柚希ちゃんとアナタに何があったか、よかったら教えて」
「よかったらじゃねーよ。言うまで返せるわけねえ」
「
「……」
楝と呼ばれた少年は黒髪の紫目、生えていると言ったら髪くらいのもので、柚希君や目の前の男性と共通点らしいものは感じない。だからこの場において、むしろ異質なものを感じさせる。
「ごめんなさいね。……お友達が知らないうちに大変なことになってて、困ってるのよ」
「や、ん……はい」
言い掛けた言葉を飲み込んだ。彼に何か言えることは、何もなかったからだ。
もしも真相が分かっていたら、おれだって少しは滞りなく喋れたけれど。でも柚希君についてよく知らないおれは一言目を絞り出すのに随分掛かった。
その分待ってくれた彼へ、どうにか誠実さで応えたくも思った。
「そう、大変だったのね。……柚希ちゃんね、人見知りなのよ。滅多にお願いをしない子。だからアタシ、アナタを信じるわ。お名前は?」
「
ほぼ呟くような名乗りだったが、男性はにんまりと、ピンクの口紅が似合う温かな笑みを見せた。肌が焼け気味なので元から映えてたものだが、やっぱり気持ちの良い笑みだと数段良く見える。
「そ、鳴島ちゃん。アタシは――」
男性の声を大きく遮って音が鳴る。心臓をわし掴みにされた思いだった。なにしろおれの着信音で、きっと今頃。
慌ててソファの隅に置いてある鞄を見た。どう説明したらいいものか、分からないまま携帯を取り出した。
やはり宛先は母親、時刻は午後八時を回っている。どうすれば心配かけないように状況を伝えられるか、叱られるよりもそれが恐ろしい。おれは何も危ない目に遭ってないけれど、でも、今の時期に強く心配させてしまうような話をしたくはない。
携帯を手にして電話に出ないおれを見かねたのか、男性はひょいと取り上げてしまう。予想外なもので、あえなく彼の手に渡った。
事情はすぐに察したらしい、軽く何度か頷くと、それからおれへ目線をやった。
「アタシに任せてちょうだい」
「え、あ……お願いします」
バチりとウィンクを決めてから、男性は堂々と電話に出た。
「あっ、もしもしー! 鳴島君のお母さんですよね、良かったーっ! …………えぇ、鳴島君に俺の息子がお世話になっちゃって! そう、助けてくれたんです。それでなんだけど、迷子にさせちゃったみたいで、今丁度携帯充電してたんですよ。あ、今変わります!」
父親にしてはエネルギッシュだなぁ。
「あ、母さん……」
『あ、じゃねぇわ早く連絡しろ! っとにもう……』
「ごめん……とにかく大丈夫、なんもないよ」
こっちもこっちでエネルギッシュの極まりだ。そろそろ四十台なはずだけど、雷に衰えは見せない。
『なんもないわけあるか、だから迎えにいこうか聞いたってのに。今どこ? 車出すから。家の人にも礼言わないとだし』
「何処ね、えっと……」
お店の中に何か、ここがどこなのか分かるものはないだろうか。迷子になっておいて、家の人に場所を聞いてないのはかなり怪しいぞ。
と、おれの慌てようを察するまでもなく、男性は一枚の紙にペンを走らしていた。そこは駅名だ、恐らく最寄り駅だと、今は信じるしかない。
駅の名前を口に出して、それから畳みかけてみる。
「スマホも充電出来たし、駅まで行けるから大丈夫だよ!」
『ん…………じゃあ、駅で待ってな。迎えに行くから』
「いや……」
『知らん場所で迷子になったんだろあんた。つべこべすんな』
ぐうの音も出ない。渋々頷く。言葉だけではなく身体も動かされるのが、この人の覇気というか、母は強しというか。
『じゃー、さっきの人と変わって?』
「え? うん」
お鉢が回ってくるとは思っていなかったのか(おれも回すとは思わなかった)彼は一度キョトンとしつつも、すぐに平静を取り戻して差し出された携帯を取った。
「もしもしー? はい。…………いいえ全然! ほんと、彼にはとっても助かっちゃいました。駅までは送ってあげられるんですけど、うちの子にお風呂とか入らせないとで……あいや、これくらいさせてくださいな。直接挨拶は出来ないですけど……はぁい、ほんとごめんなさい。ありがとうございました」
艶やかなのは元より、どことなく主婦っぽい。
そのまま通話は切れて携帯はおれの元に返された。朝から充電していなくて、残り充電が警告されている。家で充電させてもらったことに説得力が出てしまった。
「なんか……すんません」
「なに謝るのよ。迅ちゃんが悪いこと、一つもないわよ。さ、動ける? 約束しちゃったし駅までは送るわ」
ここで遠慮しても、正直駅まで帰れる気はしなかった。気は進まないものの頷き、おれは荷物を纏め始める。
カウンター席に座った黒髪の少年と言葉を交わしたい気持ちはあった。けれど傷心の彼に、初対面であるおれが何か言えるはずもなく。
謎多きスナックは開店早々臨時休業。本懐を見るまでもなく立ち去ることとなった。
「後ろ乗って。酔いとか大丈夫? 薬あるからね」
「大丈夫っす」
後部座席の窓ガラスがやけに黒い。母の車以外にも幾つか、部活仲間の親に乗せてもらったりはしたけれど、とびきりと黒い。道や建物の輪郭は分かるけど、色はすっかりそぎ落とされてしまっている。
シートベルトを締めたのを確認すれば、目の前の男性は車を進め始めた。
「名前、うやむやになっちゃったわね。このまま謎のダンディオカマでいこうかしら」
「いやいや。気になるっすよ。色々お世話になっちゃったっすもん」
「……」
車内は少し暗くて、鼻を鳴らした彼の表情は上手く読み取れない。
「荷物、勝手に見ちゃった。お買い物袋だけよ? ……お菓子作りが好きなのね」
「……変っすよね。あんま、似合わないとは思うっす」
「ん? あ、いいえ、特にそんな気はなかったわ。素敵な趣味よ。でもだから、そんな良い子に名前を教えるのも気が引けちゃうのよね。アタシダークでダーティなオカマだから。……そう、本当はただの人間はご禁制なのよ。あそこ」
ただの人間が、気取った言い方じゃないのは分かる。彼自身、側頭部から映えた一対の角や毛の生えていない細長い尾を携えた異種族なのだから。翼を生やした柚希君がここを望んだのも自然だ、縁の所在に事欠かないと思う。
だとしたら彼はいったいなんなのだろう。黒髪紫目の少年、楝と呼ばれた変哲の無い彼は。
「でも、あの人は?」
「楝ちゃんのこと? ……彼は、能力者なの。あんまり本人がいないところで言うのはよくないんだけどね。気にしてないようでいて、でも気にしてない子は……あそこには来ないもの」
「じゃあ、おれと一緒だ」
「え?」
「おれも一緒っす。能力……ここじゃ危ないけど、電気を出す能力なんす。おれ」
「…………そう。寂しく、なかった?」
その言葉だけは、艶めいた様子がないしんとした声だった。
おれよりもはるかに知っているんだろうな、この人は。ただの人と違うこと、それによって起こる孤立、能力者や異種族が対面するしんどさの始まりはきっと、寂しさだと思うから。
「おれは、恵まれてるっす。友達も多くて。でも……今日みたいなことが、あると、なんか物足りなくなるというか」
「物足りない?」
「上手くいえないんすけど。なんか……恵まれてるおれは、でも能力者で。あの子、柚希君もただ少し周りと違うだけで、少し違うのはおれも柚希君もそうなのに、なんでおれだけ幸せに生きちゃってるのか。なんで、おれ以外にも優しくしてくれないのか、って……思うっす」
「…………」
「そこだけは寂しいなって。でもだから、おれは……柚希君とも友達になってあげたかった。おれより寂しい人はもっといるはずだから、仲間になりたかった。…………おれよりしんどいのに、こんなこと――」
「いいえ」
力強い否定だった。食い気味に、運転中ずっと動かなかった頭が一度かぶりを振って、おれの言葉は中断された。
「誰かよりしんどいだなんて、考えなくていいのよ。そう思ってしまった貴方は、その分既に、誰かへ優しく出来ているの」
「……」
「もうすぐ着くわ。申し訳ないけど、アタシ貴方のお母さんとは会えないの。よろしくいっておいて?」
「……っす」
いいえ貴方もどうぞ人前へなんて、言えるわけがない。
羽毛の捥がれた少年を見て、言えるわけがなかった。
「きっと貴方の未来は明るいわ。貴方の持つ明かりは色んな人を照らしていける。人と違っても、その明るさを共有して、助け合える。だから今日のことは真夏の夢、寄り道に脇目を振らずに生きていける。…………でも、いつでも戻ってこれるわ。『人と違う誰か』ばかりがいる道を、貴方は選べてしまうの」
「……えっと、どういう」
「さ、着いたわよ! 降りて、お母さんにも連絡してあげなさい」
すっかり元の調子になってしまった。暗い車内に一輪、明るいトーンのお姉さんへと。
ドアが自動で開いて、いよいよ長居をさせてくれる雰囲気ではない。胸のつかえは降りないけれど、荷物を持って車を後にする。
出る時のように自動で閉まっていく。その光景に焦燥感が灯った。何か一言、そう思った矢先に窓が下がる。運転席の窓が小さな音と共に沈んでいく。
「要するに、貴方が望めば、誰だって貴方は手を繋ぎにいけるのよっ。バァイ、迅ちゃん」
「えあっ。ちょ! ――――ありがとうございました! っす!」
届いたかどうかは分からない。言い残してすぐに去ってしまった。
彼は言っていた、夢のようなものだと。だから届いていてもいなくても、この先きっと変わらない。言葉一つでは交われない、遠い道に居るのだろう。
それでも、と思うのは強欲だろうか。それでも求めずにはいられない。
あの男の子の事を、あの少年の事を、あの男性の事を。名前を呼び合えたらそれは、未だ知らない温かさを抱くのだと思うから。
「なんか入ってる……」
なんとなしに買い物袋へ視線を落とす。無我夢中だったから、使い掛けの医療用具が散乱している有様だ。袋内のあちこちに細々ばらまかれた物に紛れて、一つ見覚えのないカードらしきものを見つける。
手に取ってみると案外硬い。暗い紫色を基調として、上部……名刺のように横長に見て上部が黒く縁取られている。
スナック『はらぐろ』と書かれたカードは、住所と外国名が小さく隅に記載されていた。
「これって」
「おい迅!」
若々しい怒りが駅前に響き渡る。たった一言が鋭く放たれたもので、幸い周りは
「口酸っぱく言ったなぁ。大丈夫って言ってたよなぁ!」
「……ごめんなさい」
この晩、中学最後の大激怒を浴びる事となる。
春が始まった。恩師や部活の後輩に見送られた卒業式を二日前に済ませて、そろそろ余韻も去ろうかという頃だった。
ずっと家に居るのも落ち着かないけれど、おれは高校にサッカーを持ち込まないことに決めたから、友達を呼び出すためのこれといった口実もない。今じゃなくてもいい、という考えもある。
幼稚園からの幼馴染二人はおれと同じ高校に入学予定で、どうせ一ヶ月もしないでまた顔を突き合わせるのだ。二人はサッカーを続けるそうで、きっと遊ぶ頻度は思った以上に下がるけど、未来の解像度を高めるっていうのはそういう哀愁に付き合っていくものなんだろう。
それに今は、優先的に会っておきたい、仲を深めたい相手もいる。だから今日のところも彼に会いに行こうと思った。
昼夜問わずに誰かしら居る、スナック『はらぐろ』へ。
あの日貰ったお店の名刺はカードキーになっていて、表口にちゃっかり通すところが隠されている。インターホンの横側にそれを挟ませスライドすると扉の鍵が開いた。
二日前まで中学生のおれが日中にスナックへ、しかもカードキーを通す過程付き。VIP対応のようで毎度テンションが上がる。
毎度と言いながら、これで大体十回目くらいだが。
「どうもっす」
軽快なドアベルの音に被せながら、暖色系の照明が煌々と照らす店内に足を踏み入れる。
右手側にはカウンター席が五脚立ち並んでいて、左手にはテーブル席が三つ。一つはソファとなっていて、カウンターに立つ彼に身体を向ける形で配置されている。おれが寝かされてた場所だ。
窓はない。夜の夜景を思わせる煌びやかな暖色が包む店内は、時折時間を忘れさせる。
「あら迅ちゃん! 卒業式、どうだった?」
「ちゃんと後輩に泣いてもらったっす」
「良かったじゃない! 良いわねぇ、青春だわ。オレンジジュースでいいかしら」
頷いて、座る席を見定める。軽く見渡してみると彼はいた。左奥のテーブル席でこちらに背を向けている、黒髪の少年が。
「……なんでここに座んだよ」
「いいじゃん」
出会いが出会いだけに最初はかなり警戒されていたけど、今ではそんな素振りはない。愛想がいいとはとても言えないけど、人見知りなんだと聞いたらそこまで気にならない。
もし本当に嫌われてしまっていたら、その時だ。
程なくして店の主はオレンジジュースで満たされたグラスを運んで来る。あの日出された円筒状のガラスだ。
「はいどうぞ」
「ありがと、バロンさん」
ラブリーにウィンクを返すと、またバーカウンターの向こう側に行ってしまう。
桃色の丸刈り、張りのあるピンクの口紅をした悪魔の彼はバロン・クィンロウと言う。焼け気味の肌をしていて、身長は180cm台のおれよりも高い190cm半ば。とっても堂々としている、可愛らしくてカッコいい人だ。
構われない限り、彼はああしてカウンターの向こうにも一脚置いてある椅子に腰を降ろし、デスクワークのようにパソコンを扱っている。余裕のある大人だ。
「……で、なんだよ」
「いやぁ、ちょっと。励ましてもらいたいというか」
何バカな事を、そう言いたげなあきれ顔をされてしまう。
「心が決まってないなら来んな。半端な覚悟で来られちゃ迷惑なんだよ」
口調ほど怒りは感じない。ただ冷徹だった。
来るっていうのは『はらぐろ』のことでも、ましてや楝の正面席のことでもない。
楝のそれは軽口ではない明確な拒絶だ。覚悟の決まらないおれをバッサリ拒絶している。励ましてほしいっていうのはつまりそれだ、なぁなぁで決断するおれを、そうやって戒めてほしかった。
これからの選択で、おれは色んな人を足蹴にしてしまうのかもしれない。それでも。
叶えたい理想があるのなら、おれは動かずにいられない。
「……分かってる。――バロンさん!」
トパーズみたいに潤いのある黄色い瞳をチラりと寄越すと、バロンさんは少し表情に憂いを落とす。おれがその事に気付いた時には、すぐに笑顔に戻ったけれど。
席を立って、おれはバーカウンターに近付く。座りはせず、彼を見上げる形で目を張った。
今一度自分の心に問いかける。
おれは『はらぐろ』で人とは違う人と、手を繋ぎたいと思った。
楝が燃やす闘志に感化され、おれはその存在を知った。
白夜の月光で身体を
「――――おれも、
黒豹隊。異種族や能力者にとっての『理想郷』を理念とした組織。
仕事は多い。考え方の違う隊員も多い。
快楽の為に暴れる人、正義の為に騙す人、ただ隊長に殉じる人、黒豹隊をただ居場所に置いているだけの、バロンさんのような人も。
所謂受け皿なのだと思う。それが隊長の掲げているとされる『理想郷』なのかは分からないけれど。
この胸に理想を抱いたのなら、おれは踏み出したくてしょうがなかった。
勿論一度は止められた。迅ちゃんが思うほど綺麗な世界じゃないと。
おれは、美醜が分別の基準にはならなかった。もしも彼らと出会わなければ銀狼隊でもよかったのかもしれない、一番進学を検討していた学校は、夏の日まではそうだったから。
でも、おれが手が伸ばせるなら何処だっていいんだ。天国にいる父親だってきっとそう、仕事に関わらず人命を助けて死ぬ人だから。おれはそんな父親に負けたくなくて、見返したくて。
おれはこんなに人を護ったよって、笑って死にたいから。
「おい、ボケっとしてんな」
「……してない」
今日は初任務の日。夜の繁華街でとある団体を待っているのはおれと楝、他にも黒豹隊の先輩がもしもの為に待機している。バロンさんは含まれていない。大事な皆の居場所を経営してる人だ、荒事へ赴くわけにはいかないんだろう。
団体とはとある政治家とその取り巻き……は言い方悪いけど、まぁその人の仕事仲間。政治家は能力者であることを隠し、精神干渉の能力で不正を働いている悪党だ。おれが見聞きしたわけではなく楝の主観なんだけど、バロンさんに裏を取っても齟齬はないようだった。
本来取り締まるべき組織とも癒着していて、止める人は誰もいない。だからおれ達黒豹隊が罰するんだ。笑顔を奪うそんな男、到底許せはしない。
「来るぞ」
路地から顔を覗かせると、ターゲットは黒豹隊の偵察が割り出したルートをまんまと歩いている。愉しげな表情の壮年男性がそうで、若い女性が横で愛想笑いを浮かべている。その周りには無関心そうに、三人の男が辺りを見渡していた。
護衛が三人。萎縮はするけど、おれだって訓練を受けてきたんだ。
「段取り覚えてるな」
「おれが突っ込んで、楝が突っ込む」
「放電はさっさとやめろよ。俺まで感電させんな」
「分かってるよ、最初だけね」
あまり潜みすぎてても、近付いたら護衛の男が見つけてしまうかもしれない。幸い走力には自信がある、距離は速攻で詰めればいい。周りの被害もそこまで気にしなくてよさそうだ。黒豹隊が施した人払いが効いている。
楝がおれの胴体辺りで、遮る腕を伸ばす。
心臓を飼い馴らすことは出来ない、初夏の緊張は頬を伝って落ちていく。この際だから仕方がない。
飼い馴らすべきは恐怖、躊躇いだ。使命という鎖で、それら全てを躍動の糧にする。
腕が前へ伸びる。実行の時だ。
「――っ!」
雷音を迸らせ、おれは集団へ突撃する。流石護衛の反応は早い。全員の視線を一挙に集めて、護衛からは即席の敵意をも向けられる。
竦むものか。金で動く不正の守護者に、おれは同情も恐れも覚えやしないぞ。
おれの前では、逃げれないなら失態あるのみ。猛追する電気に触れた一人がけたたましく悲鳴をあげる。もう一人、振り上げた拳に立ち向かって突撃。
「ぐぁっ!」
強烈な一撃が頭を揺らす。頬に一撃が入った、護衛の引き締まった身体から放たれたフックがおれの身体を倒す。これで感電しているのだから、まともに戦った時の勝率を考えたくもない。
衝撃で放電が解けた。むしろ都合がいい。
さぁ、二人無力化したぞ。もう一人も触れたらアウトのおれに腰が引けている。
「……ナイス」
紫色の淡い光を纏った楝が見える。それは唐突に、その場へ瞬時に姿を現した。
彼も能力者、その能力は短距離ワープ。
右手には小型のナイフ。突発的に距離を詰めていく彼に追いつかず、唯一無事な護衛が出遅れた。
「行かせない……!」
脳が揺れた感覚が残響している。だからって甘えていい理由にはならない。初任務で辛抱できず、いつ命を懸けれるって言うんだ。
よろめきながら立ち上がったおれを、護衛は畏れた表情で見つめる。
「――自分の身が惜しいなら、人を傷付けるマネするなよ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出ていた。
次に繁華街の空気を揺らしたのは、政治家と護衛の絶叫だった。
回収は別の隊員が担当する。その後のことは知らないけれど、少なくとも癒着している警察へは届けられないんだろうとは思う。
……おれは初めて、明確に敵意をもって人を襲った。後からやってきた先輩に労われたけど、誇らしいとは、思わなかった。
「迅、最近楽しい?」
『はらぐろ』から帰った時のことだった。放課後も休日もよく黒豹隊の活動に励んでいるけど、母さんとのコミュニケーションを欠かしているつもりはない。むしろ気を付けているつもりだ、朝ごはんを一緒に食べ、たまには休日二人で買い出しに行ったりもする。小さい頃の記憶から変わらず、ずっとよく笑う人だ。
だから、妙に静かなその声のわけを、おれは測りかねていた。
窓にみぞれが当たる冬の日。ソファでくつろいだ母さんはテレビを見ながら虚空を見ている、タレントも景色もおれのことも、目には入ってないような。
「……うん。楽しいけど」
「そ。なら良いの」
手に持った煙草の灰を落とすと、それきり喋らなくなる。おれが台所で牛乳を注いでいると活発な笑い声が聞こえてきて、それでようやく緊張が解けた。
緊張。なんで信頼のおける人に、心臓を掴まれているような気がしていたんだろう。
翌日は土曜、母さんは昔の友達に会ってくるからと早くに寝た。
おれも任務が待っている、リビングで夜食をちょっとつまんでからさっさと布団にもぐり込んだ。その頃には空から雪が落ちていて、窓の外に聞こえる静寂にさっきの問いを重ねて、いつの間にか眠りについた。
「…………」
やけに長い夢を見た。その身を烈火に燃やす流星を見ていた。
おれが何処でそれを眺め、何を思っていたのか。既に朧となって去ってしまった。
一言で言うなら望郷とか、名残惜しさを抱えていたような気がするけれど、冷や水を浴びせた顔面にタオルを擦っていれば水気と共に持ってかれてしまう。
もう母さんは出たみたいで、水を止めると洗面台に音は消える。
夢の名残を追い駆けているつもりが、いつの間にか鏡に映った自分を虚ろに見つめていた。
「あれ……」
普段通りの茶色の眼。人が良さそうとたまに言われる、ただそれだけの瞳。だけどどうしてだろう、自分のパーツじゃないような気がしてくる。昨日だって歯を磨きながらぼんやり見つめていた、その前だって怪我の具合を確かめる為にジッと鏡を確かめていた。その時と何も変わっていないはずなのに、今日はどうして何かが違うと思うのだろう。
――最近楽しい?
嘘を吐いたつもりはない。気を遣ったつもりもない。
でもこの男の表情は――人生が楽しいという顔ではなかった。
もしそうでもやることは変わらない。特に今日は大規模な作戦に組み込まれているんだ。
白月街で暴動を起こす仲間のサポート、増援役。命を託されているのと同義ってものだろう。バロンさんも珍しく合流予定で、四方八方にバイクを走らせるらしい。なんとあの人は船舶も運転出来る、実は凄い人なのだった。
「今日は別の配置だけどな」
「うん?」
黒豹隊基地の一つ、『はらぐろ』よりも更に白月街へ近い基地で楝は言う。
作戦の最終確認が終わったところだった。
「ノルマもねえし、危険度はクソ高い……」
「……? うん」
言葉を詰まらせた黒髪の少年。初めて会った時から一年半が経って、切れ目は更に鋭くなった。その鋭い眼差しは宙を舞う、おれは苦笑を浮かべて相槌を打つのに徹した。
「銀狼の本拠地があるんだからな」
「うん」
「連携取りにくいし」
「うん……」
「…………」
「………………」
楝の眉が下がっていく。すごく不機嫌そうだ。
時間もあまり残されていない、他の仲間にも声を掛けてから出発したいのだけれど。
この場を離れることの許さない意思の強さ、それだけが楝から漂ってくる。流石に何か促そうと口を開いた辺りで、勢いの増した声が放たれた。切れ目を精一杯開いて、アメジストのように煌めく三白眼を一直線向けてくる。
「っ死ぬなよ」
「――おうっ、楝もね」
『ヘマすんな』『バカ晒してんな』『置いてくぞノロマ』『物好き単細胞』『見境持て』などなど、楝から叱咤は絶えない日々を過ごしてきた。
でもこれはそうではなく、初めておれに向ける心配だ。茶化す気持ちよりも、嬉しさが勝った。……柚希君に、面倒見のいい兄貴分がいたんだと、勝手に救われたような、そんな気もした。
それから作戦の皆に声を掛けて励まし合って、バロンさんとも話が出来た。彼は忙しそうだったから、本当に二言程度だったけれど。
業者トラックに偽装した運送車の中、今一度作戦内容を反芻する。
二ヶ月後に実行される大規模作戦を前に、銀狼隊の手の内をなるべく暴く戦い。そして削ぐ戦いでもある。
兎角強襲、腕のいい治療班は双方に備わっているから、戦力を削ぐというのは死ぬか殺すかの戦いを意味する。殺しの手はいつになっても鈍くなるおれと違って、楝は才能があった。自分の殺意を乗りこなす才能が。だからおれとは離れて、真っ向勝負する部隊に加わっている。
おれは機動力を活かして、単独強襲と戦力の一時助力を命じられた。とにかく仲間を助ける、そういう役目。
――出会った銀狼隊は、殺す。正義の宿る命はおれ達だって同じだから。
これが思った以上に動きにくい。夜から朝まで続いた降雪が足を鈍らせるし、銀狼隊はおろか民間人に見つかるのも芳しくない。警察を含め他の警備部隊は別の仲間が抑えているから、ひとまずその二種類に気を付ければいいだけではあるけれど。
表立った戦闘はむしろするなと釘を刺されている。具体的には多対多、或いは一対一の条件でなければ撤退しろと。
戦闘介入条件であるそれが――数十メートル先の公園で起こっている。マンションの敷地に備わった公園で広々と戦う仲間と銀狼隊。お互いに爆発した感情が交わっている、激闘の場だった。状況は均衡していて、おれ一人でも大きく傾く戦況差。
マンションの近くにいて、民間人は見当たらない。ここに来るまでもごく少数だった、休日と思えないくらいに。だから銀狼隊が逃がしたのだろう。見上げればマンションは一部が崩れていて、戦いの余波が更に波及するのも時間の問題だ。
だから――あの人らは、逃げ遅れなんだろう。
公園から離れて二人の人影が見える。片方がもう片方に庇われて歩いていることから、怪我人であることが分かる。そして、遠目からでも分かる頭頂部の角から、二人が同じ種族だということも。
仲間が押され始めた。こうしてる場合ではない、さっさと飛び出して助力しなければならないのに、おれは何故か民間人に視線を奪われたまま。いや――間もなく崩れかかった、真上のマンションに奪われたまま。
「…………っ」
瓦礫が――おれ達の横で派手に落下し飛散した。
「大丈夫っすか」
結論を下さないまま、いつしか身体は勝手に動いていた。
怪我をしているのは羊尾の女性、紫混じりの銀髪に、渦巻いた一対の角。肩から二の腕が血のにじんだ包帯で巻かれている。温厚そうな垂れ目は緊張感に満ちていて、酷く似合わないと思った。そんな彼女を支えるのは淡い氷のような青髪の女性。山羊めいた一対の角に、険しい吊り目でこちらを警戒している。姉妹か、親子か、雰囲気が全く違う二人の悪魔だけれど、漠然とそう思った。
銀狼隊としての活動に従事しているようには到底思えない。見られた場合にも殺していい、銀狼隊の目の前で殺るのは戦意を促すことを留意していれば、と。そう言われている。
でも。
「あぁ。ところで君は、銀狼隊か? 校舎で見かけたことのない顔だが」
「…………黒豹隊」
髪色のように冷たい声を放った女性は、怪我人を庇うように退かせた。ただの険しさでは漂わぬ圧倒的な敵意が、おれの身に強く集約されている。
すぐには動き出さないのは、単に臨戦態勢なのか、思うところがあるのか。おれには判別できなかった。
「そうか。それで――」
「襲うつもりはないっすよ。……学園のある山には近付かないよう言いつけられてるっす。逃げるなら、そっちに」
言い捨てて、公園の方へ踵を返す。向こうは音が少なくなってきた、どちらも戦力が減って来てるのだろう、まるでハイエナのようだが、おれが天秤を押し潰してやる。
「おい。君……」
「…………?」
振り返っても、呼び留めた青髪の悪魔は口を閉じた。それどころか、眉を上げて緊迫感のある表情で硬直する。
時間がないんだ、用がないなら声を掛けないでくれよ。内心で唱えて、再び歩き出す。
早く仲間を助けにいきたかった。この胸のわだかまりを考えたくなくて。
温厚そうな悪魔の――案ずるような眼差しの意味を、考えたくなくて。
なんなんだろう。人命を助けるなとは一言も言われていない、露ほども謀反にはならないのに言い訳をしたくなってる自分がいる。おれは分け隔てない世界にいたかっただけなのに、いつの間にか違いばかりを見て判断しているような気がして、もどかしさが大きく鎮座している。
走って。
走って。
走って。
誰も殺さず、救いが在ると信じて走って。
アスファルトの破片が浮いた泥水を踏み弾いて、足跡のなさに乾いた笑いが出た。
作戦の開始時に考えていたような余計なことは願うまでもなくさっさと飛んで、目の前のことしか考えられなくなってきた。感情が起伏を起こし過ぎて、段々と麻痺していく。きっと初めに見た脱落者に向けた感情を、そのまま今しがた倒れた人に向けることは出来ない。
伸ばせる手は二つしかないくせ、人を悼むのにも限りがある。そんなこと知らなかった、知らずにいれたら幸せだった。
――知りたくないと思わなかったのは、今も走る大きな理由だ。
赤らんだ空を他所に、通信機に激震が走る。
『
まだ空が青い頃、通信機を壊した人がいたと思い出す。
今日最後の役目は、銀狼隊隊長が来る前に――みんなへ伝令することだ。
もっと速く駆けろ。
稲光に恥じぬ迅速を求めろ。
仲間を探しているようでいて、おれは目先にある何かへ、辿り着こうとしている気持ちになる。
「鳴島っ!? 通信聞いてなかったのか。撤退だ、運び屋の合流地点はこっちだぞ!」
正面から一人の男がやってくる。切り傷に塗れた獅子めいた獣人だ。息を荒げ、目も焦点が曖昧になっている。
おれは速度を落とさず走る。彼も減速をせず、すれ違う瞬間に言葉を渡す形となった。
「おれは通信が届かない人らへ声掛けてきますっ!」
「なっ……」
水たまりを踏むような足音が常に響いてく。だから、後ろで彼が止まったのは分かった。
脇目を振らずに走って、おれはさっきまで見つめていた何かを再び目指し始める。
……期待、なのかもしれない。
自分の中にはまだ、こじ開けられる扉がある気がする。それを開けてみたくておれは――ついぞ今日の月が沈むまで、自らに渦巻く熱風の正体を知ることは無かった。
『お前まだいるのか!? もう残ってる奴は諦めろ、奴が――手負いの炎狼がやってきたら終わりだぞ!』
今度はきっと個別通信だ。楝の声、作戦に深く関わっていたはずだけど、鮮明に通る辺りどうやら撤退出来たらしい。
手負いの炎狼。それは銀狼隊隊長、屈指の実力者である望月朔兎のことだ。事前の晩に引き起こした事件を皮切りに、うちの精鋭が連戦をふっかけて時間稼ぎ――撃滅が目的だったろうけど、していた。
おれがもし黒豹隊の重役として、基地を開けなくてはならない間に銀狼隊が蹂躙していたら、きっと耐えられない。許し難い。生涯の怨敵にだって、してやれるかもしれない。
「――バロンさん、そっちいる?」
『…………ッ!』
息を呑む声がする。その反応が物語っているだろう、彼も縦横無尽に街を駆けまわるサポーター、通信機が破損する機会は幾らでもある。
「見つけるまで、帰らない」
『バカ! お前まで残ったら、残ったら……ッ』
「ごめんまた後で!」
銀狼隊の戦闘員と接敵――見つけ合うのはほぼ同時。
装備にホルスターはついているけど、見たところ何処にも武器は持っていない。疲弊しきった歩き姿はおれを認めると一気に臨戦態勢へ昇華した。両の拳を強く握りしめ、彼女は構える。
おれの一挙手一投足を見逃すまいと、疾駆止まらぬおれを視線で射抜く。瞬きを許さない一瞬の勝負を望んでいるのだ。分かっている、見抜いたところでお互い持久戦が不可能なことくらい分かっている。
だからこれは、絶対に効く……!
両手を開いて抱擁を待つように広げる。
音と衝撃を敏感に感じ取れ、勝負は一瞬。
この技も、一瞬。
「くっ――!?」
大きく柏手を響かせる。一鳴りの喝采は爆ぜ、閃光轟音が戦闘員の知覚に焼き付いていく。
掌の衝突と同時に放つ一際明るさに特化した放電。フラッシュバン・猫騙しが見開いた瞼を咎める。
綻びを突かれ崩壊した彼女の懐へ忍び、掌底を構える。掌には依然迸る雷が待ちわびていた。
小さく言葉を零し、少女は泥水に伏す。
手ごたえはある。この程度では死なないことも分かる。
でも、殺す理由はないし、殺す手間も惜しい。
笑いそうな膝に拳で激励して走るその時、倒れた少女の薄く開いた目に――赤い彗星を見た。
身震い。
五感全てと引き換えにした第六感が警鐘を鳴らす。デシベル最大で身体を乗っ取り、おれは足を止めて空を見た。
夕陽に焼かれた冬空に、一筋の烈火が弧を描いている。
夢を、重ねた。
「…………」
おれはそれを捉え、義務感に駆られて辺りを見渡した。
太い道路だ、脇には駐車場の広々としたコンビニがある。……問題はない。
まっすぐ線引かれた赫怒が迫る。
それは世界滅亡をもたらしそうな程壮大で。
それは放課後の口喧嘩みたく身近なもので。
降り立つまでの永き刹那、鮮烈に憧れを焼き付けた。
――赤雷だった。
轟く熱風が眼前で弾け荒ぶ。
身体が飛ばされる中で、雪解け水の悲鳴を聞いた。
「なァ――」
「…………!」
澄み渡った赤き瞳。噂に聞くは淀み混ざった半人半鬼の血統。
額の片隅に、つがいを無くした天衝く鬼牙。
炎狼――望月朔兎。計十五時間の戦闘を経て帰還する。
「覚悟、出来てんだろうな」
否――続行。
「迅ちゃん!?」
炎雷の視線を奪ったのは、桃色の頭に一対の角、血染み一つ見せない五体満足の男性。
バロン・クィンロウ。黒豹隊の
「……まだ残ってんのか」
「やっぱり残ってたんすね」
「やっぱりって……もう皆、いえ」
蒸気に包まった男の姿を見て、バロンさんは言葉を区切る。
おれの横に走り並んだ彼の息はかつてないほど上がっていた。それでも毅然に、炎狼を見つめている。
「銀狼隊隊長……アタシ達にもう戦う意思はない。ここは痛み分けってことで見逃して頂戴。さもなくば、そこで寝てる女の子は朝を見れないわ」
「させねェ」
噴流する火焔を足元に猛らせ、煌々と艶めく金属質の拳を握る。
これが最後と言わんばかりに、バロンさんは一層声を張る。
「なら――この子だけは見逃して」
「誰も――返さねェよ!」
爆裂。数える間もない流星に呼応し、身体全身に雷電を纏う。
どちらに接敵するか分からないなら、おれが前に出て選択を絞るまで。既に限界を超えた男の身体、望むがままに眠らせてやる。
猛る火焔。
迸る雷電。
呼び覚まされし――吼える魔人。
「ォルァァァァァアアアア!」
桃毛の生えた牛らしき両脚、肥大した猿人の両腕、見知らぬ伝承の番人らしき巨躯が、おれと炎狼の間に割って入る。
火焔の推進力に圧され、人間を悠に越す巨体が後退っていく。男の拳を受け止める魔人――バロンさんは、貌までも原始的霊長類に回帰している。
「な……め、んなァァァァアッ!」
剛力を乗せた膝蹴りが、水平に飛び殴っている炎狼の腹を穿つ。
「グァ……!」
「ハァッ……ハァッ……迅ちゃん!」
普段よりも野太い、野性みのある声だった。
宙に浮きあがって肩を揺らす炎狼、気高き焔に照らされた顔は一度もこちらを見ることはなかった。
「逃げなさい」
雪を思い出した。窓の外で降る、絶音の冷たさを言葉に聞いた。
「俺ァ――護んだよ、護らなきゃ、いけねェんだよ」
「アタシは彼を討つ。生涯百と五十、捨て置いた名を拾い直す時よ」
先走る使命の激突。
違うだろ、おれは、おれがそこに立つ為に……この手を汚してきたんじゃないのか!
「おれ、も……」
「迅ッ! ――アネキ!?」
紫の燐光を纏い、楝がやってくる。情報としては分かるのに、振り向く気すら起きない。
「連れていきなさい。楝」
「………………ッ」
「まて、まってよ……おれ、だって」
膝が崩れる。
本来立つべきはおれなのに。
汚れた手足を雪ぐのは、あの焔しかありえないというのに。
腕を掴まれる。振りほどく力すら、出ない。
「アタシ、迅ちゃんに会えちゃったこと、幸運だと思ってるのよ。迅ちゃんにとってそれは、不幸かもしれないのにね」
「いやだ、バロンさん……おれそんなこと、思ってなんか」
「楝。もう、大丈夫ね?」
「…………おう」
景色が飛ぶ。一回二回、絶え間なく。
楝の能力は日々の訓練で人を連れて空間を飛ぶことが出来るようになった。
なってしまった。
「銀狼隊隊長――望月朔兎」
「黒豹隊獄番――バロン・クィンロウ」
「時間はねぇ。一瞬で終わらせる」
「一世一代狂い咲きよ。アタシの全て、閻魔の膝下に――ひとひらだって残しゃあしないわッ!」
作戦は失敗だった。
泥水踏み散らしたあの日は無意味だった。
バロンさんが帰らぬまま二ヶ月経ち、万全な準備を整えたはずの革命は――銀狼隊に阻まれた。
今でも夢に見る。
世界の全てを見通したような
立ち上がりし手負いの炎狼が全てを焼き滅ぼした、正義の破壊を。
能力者としての頂きを、今でも夢想する。
「迅」
「あぁ……分かってる」
俺が黒豹隊へ入隊し、二年と半年が経とうとしている。
秋月には金色が宿る。高貴な月光が、行く末を見下していた。
楝はバロンさんが気に掛けていた、隊員に限らぬ仲間との縁を未だに全て取り持っている。口の悪い彼は、口の悪いまま暗がりに生きる者の心を抱擁した。
何も変わっていない。いつから変わってないかと言われても分からない。
生まれた時からこうだったような気もする。黒豹隊に入隊したからかもしれない。もう、守るべき自分は見失った。
守るべきは、俺の目に映る仲間全てだった。理想は変わらない――全ての人と手を繋げるような、そんな世界。
でも俺は、今のままでは叶わないことを知っている。
望月朔兎の手を、俺は――取れないから。
「しっかし、馬鹿正直に来るか? 来たとして……幹部が二人でトントンだ」
「来るよ。あの人は来る」
後ろの問いには言葉を詰まらせた。
でも、どう答えたって楝は俺に着いてくる。なら、打ち明けるしかない。
この際、何もかもを。
「俺はただ、知りたいんだ」
「……?」
「どうやったら、全てを照らす月明かりになれるのか。どうやったらあの人のように、強く成るのか。……その為には、幹部なんて邪魔だ」
「俺、てっきり……」
言葉尻がしぼんでいく。粗野な言葉使いは変わらなくとも、あの日以降対等な視線で関わってくれているような気がする。だからか、ずっと先に立っているような楝が、いつの間にかすぐそこに居た。
きっと俺はバロンさんの仇討ちをしたがっていると、思われている。
あの人の死はキツく胸に響いた。硬い心に杭が打たれたように、冷たい痛みが鋭く俺を苦しめた。
惜しんでいる。あの人とずっと笑っていたかったと思う。
だからと言って俺は。
「迅――来たぞ」
ススキの広がる真夜中の平野、赤く輝く流星一つ。
炎狼は、誘いを受けた。
「お前らが手紙の……」
ススキが揺れ動く。 ザワザワ笑うように揺れ動く。
流星は光を失い俺らの前に降り立った。現銀狼隊隊長、望月朔兎を前にして、俺の心は凪いでいた。
「やっぱり一人で来るんすね」
「一人で来いって言ったのはお前らだろ。…………! あの時の、か」
怪訝な敵意が明確な形を取り始める。一度驚きを見せた望月は、またも理解したように透徹な眼差しを向けてくる。
今宵の意味を知ったところで、楝が俺を腕で妨げた。
「お前が作った場だけど、俺にも聞きたいことがある」
頷くと、楝は研ぎ澄ました視線を望月へ突き立てた。
「アネキ……バロン・クィンロウは、何か言ってたか」
「――誇らしそうにしていた」
相棒は強く眉をしかめる。何を聞いてもきっとそうなるだろう、今にも掴みかかりそうな顔だ。
哀を見せる炎狼は、わずかに視線を落とすと続きを零す。
「俺を、憐れんでいた。怒りも悲しみも、アイツはぶつけてこなかった」
堂々と燃え盛る瞳が俺達を捉える。
さぁ次はお前らの番だ、と。夜が始まれば区切りはない、悔いを残さぬ問答は続く。
「舐めてるつもりはねぇが、俺が憎いなら――人手が足りねえんじゃねえか」
「憎くはない」
即答した。強がりではない。楝の服に『悪くはない』って言った時と、まるきり同じトーンだったと思う。
静まった脳裏が次々記憶を拾い上げていく。
初めは憤怒。人命を引き換えに命を落とした無力な父へと。
次いで悔恨。命火を委ねても尚絶やされた不幸な少年へと。
寂寞。親友への別離、母親との空疎。
歓喜。相棒への友情、危機での団結。
安堵。恩師への信頼、訓練後の団欒。
そしてそれら全てを焼き尽くし殲滅し、吹き荒ぶ炭の烈風の中一際輝いて見せる――憧憬。
「貴方を憎めない。仲間を殺されたのに、恨む気にはなれない」
「……」
「俺は――どうしたら、貴方のように、なれたかな」
幻視した。
そこは教室で、俺は扉から数多居る生徒のうち、学ランを羽織ったその男を見つける。
何か言いたい事を蓄えて、黒髪赤目の片角を笑顔で呼び掛けた。
その少年は責から解き放たれた年相応の喜びを薄く漏らし――
「知らねえよ」
「…………」
ただの平野だ。俺は相棒と、宿敵に向かい合っている。
仇はお互い様で、感情なんて押しつけがましい。
幻想でしかない。後戻りも分岐点も目の前にはなく、ただそこには星一つない夜を照らす、炎狼が一匹聳え立つ。
「――俺達は相容れない、分かってんだろ。俺もお前らも、お互いに仲間を殺した。裏切れねえもんを、背負ってんだよ」
「知ってたよ。あぁ、知ってた。……楝」
「おう」
群れの長は高らかと吠える。
「仲間の命全部、背負ってんだよ――ッ!」
爆炎が広がる。熱を咲かせた枯れ草が、乾燥した風に乗せ火を撒き散らす。
「俺だって同じだ、望月朔兎……ッ!」
妖艶な蛍火が楝に漂う。紫の粒子が可視化した熱を跳ね除けていく。
「………………」
雷鳴を身に落とす。俺にはこれしかない、未だこれしかない。
故にこそ今宵――月より遥かな稲光をもって、最強の銀狼を超えて見せる――!
正道描く赤き軌道が思うがままに牙を剥く。
対するは楝の能力。自分を中心とした万物の空間転移。
炎すらも食い千切り、吐き捨て、朧と消えた楝の右手には銀色閃く鋭刃が握られている。素早く背後を取っては、万全たる炎狼の並外れた反射神経が一蹴する。
既に、既に乖離が発生した。
剛力無双の回し蹴りを楝は危機感知の赴くままに転移で躱す。そこに反射神経に勝る道理性はない、精神を代償にした九死に一生でしかない。
相棒の精神が途切れないうちに、決め手となるのはこの雷鳴。
電撃との接触は半鬼でも痛手になるらしい。数度の格闘でようやく届いた電撃から、数段動きのキレが落ちる。
それでも対等にはなりえなかった。
楝はバロンさんの跡を継いだ。戦闘訓練の時間は、俺や望月の足元に及ばない。生来のセンスと一年間の軌跡が、辛うじて土俵に立たせているに過ぎない。
瓦解の始まりは早かった。
狼が朧を捉えだす。
「迅ッ!」
同時転移を可能とした楝の能力。しかし、自分に襲い掛かる転移を見て躱せる男が、転移先を見て牙を立てられない訳もなく。
二匹の黒豹を前にして瞬時に判断する。如何に鋭くともたかがナイフ、炎熱に並ぶ望月朔兎の一端――鉱化に刃は突き立てられまい。よしんば動脈を穿てども、すべからく貫通する電撃の方が厄介と、炎狼は断じた。
熱波で加速する拳が、俺の身体を吹き飛ばす。
たった一撃。
たった一撃モロに受けただけで、俺の肢体は言う事を聞かずに平野を転げまわり、振動に次ぐ振動を重ねた頭が闇夜に眩む。
憧れに突き放されたことを――最後の決別として。
あどけなさの残る女性の声だった。
艶やかに大人びた少女の声だった。
暗闇の中、仄かな輝きを薄い斜幕で遮った先に、その者はいた。
「貴方は星を覆い隠す」
顔も分からぬその人物が、俺を断定する。緊張感に囚われて返答が出来ない。
目の前にいるのは――黒豹隊の統領。一度だけ、顔も見せ合わずに俺らは会った。
焼き尽くされた記憶の、断片を夢見ていると分かった。
――星を?
「貴方を唆した悪魔は誤った。理想に瞬く星々に、貴方の姿はないのだから」
――あの人の事を言ってるなら、俺は間違ったとは思わない、会えて幸運と思っても。
「貴方がいるべきは、幻想ではない」
――――――。
「貴方の命は幻想弔う依り代の命。月光に届かず陽光を知らぬ、黒銀切り裂く爪牙の依り代」
――黒鉄切り裂く、爪牙。
「本気出してねえだろ、テメェ。――刀抜けよ」
「手は抜いてねえよ……そう見えるなら、いいぜ、これで相手してやる」
焔日の嘲笑を視界に収めながら、俺は二人を見つめている。
どれくらい意識を失っていたか分からない、そう長くはないようだけど。
望月は腰に下げた刀剣の柄に手を伸ばす。楝もまた、命を燃やしている。理想か、幻想か、過去への回帰なのかもしれない。それでも俺は、先を越されたくはなかった。
俺は既に何かを知っている。夢で、何かを伝えられたような気がする。
朧だ。跡形もなく消えている最中のものを掴み取ることは出来ない。
その代わりに抱いた、たった一つの答えを口に出した。
憧憬はもう、なかった。
――起源へ綻ぶ蒼の轟。
風が舞った。冷たくも熱くもないのは、俺を中心にして渦巻いているからだ。
身体を起こし、そうすべきと頭が叫ぶまま、右手の二本指を炎狼に指す。
視線が集まる。
――起源へ慄く赫の轟。
蒼電が纏わりつく。身体が戦慄を露わにしている。
星降る夜に立っているようだ、視界に閃光が散っては消えゆく。
半人半鬼は鞘走る。夜より昏き新月色の刃が、かくも自然に炎狼の手に収まった。
――黒く唸る夜の紛い。
爆裂の初速を、その時相棒は初めて追い越した。
執念の慟哭が狼へ襲い掛かる。群生し瞬く一等星が、命を燃やして炎狼を阻む。
星の輝きを奪い捨てる、覚悟をした。
――白金屠る銀の息吹。
鮮血。
血を吸った新月は、不吉に紅で弧を描く。
瞠目した炎狼は残る一匹の豹へ牙を剥く。
景色が分からなくなる。
幻想と現実の区別がなくなる。
異能の境界線がほどけ、雷撃が歪みをこじ開ける。
まるで世界を知った時――万雷の喝采が心臓で鳴り響いた。
「――マジか、お前……!」
『無類迅雷』
その男は笑っていた。ただそこには、悦びがあった。
つられて俺も笑ってしまった。
秘奥へ行き付いた。憧憬は期待に移り変わっている。
ススキも月もなく、俺達は豪風の目に浮かんでいた。熱風が宙にいる俺達を洗い回している間にも轟雷が雲霞の如く走り去る。
能力の本質。ここが俺の世界。
無作為に雷を打ち下ろす、星も月も天地もない世界。
永劫の刹那がここに在る。
轟音が、耳の傍で弾ける。
「ッ――アアァァァ!」
天地がなければ、天罰はない。気まぐれに、悪趣味な運命論を表わすように、雷が望月朔兎の身体へ吸い込まれていった。
俺も望月もずっと落ちていく。煙を上げながら落ちる奴を、俺は眺めている。
そんなものなのか。
俺が羨ましく思ったのは、こんな矮小な、自然一つ覆せやしない半端者だったか。
「いや――」
否。
宿縁を手繰り全てを背負う広大な背。
人と鬼を兼ね備えた万能の英雄。
闇夜を照らす月明かり。
「アンタを、越える……!」
「やってみろよ、迅――ッ!」
万象に逆らい灼熱が打ち上がる。熱帯びた黒剣を片手に、赫瞳は見定める。
能力者の見せる世界の転写は、絶対不変の法則がある。
壊せば壊れる世界の核が、存在する。
鳴島迅の世界の核は――
降り立った旋風に立つのは一人。
倒れ伏す、もう一人。
俺は肩口を押さえ祈った。この時、神か月か星か家族か、いったいどれに祈ったのか分からなかった。
ただそうであれと、幻想を信じた。
「…………」
「…………」
眼差しで充分だった。血に濡れていく赤い瞳に、殺意も憎悪もすりつぶされていた。
次第にもう一人も倒せ伏した。雲一つない暗黒を見上げて。
俺の手にはナイフが握られている。
奴の手には迅の血に濡れた黒剣が握られている。
動かぬ英雄へ、俺は。
「……アイツの理想は、全ての『人』と、手を繋ぐことだった」
「……」
「笑って死ぬことでも、あった」
「……」
炎狼の四肢は一度ピクりと動く。そして、沈黙した。
それこそが迅の残影だった。
刹那にすれ違った流星の、謙虚な痕跡だった。
「――あぁ、笑っていた」
『月明かりの下で』五周年おめでとうございます。
鳴島迅、彼がまっすぐと善なる正義を目指してくれるおかげで、よりこういった話が映えると思っています。
そして、彼を導く者の違いは如実に出ます。
日常として引き留めてくれる者、先だって栄光を焼き付ける者は、彼にとってとても重要でした。
きっと彼の持つ人類愛、包容力に甘えずにいられる人が誰かいれば、黒豹隊にいても未来は多岐に渡ったと思います。