気が付くとボクは学校の教室の椅子に座っていた。え?と困惑をしながらボクは慌てて周囲を見回す。さっきまで地面に倒れていたはずなのに……。この場所は箱庭学園の教室ではない。ボクの通っていた中学校の教室だった。それに、いつの間にか着ている制服も中学時代の学ランへと変化していた。
「これは一体……え?」
先ほどまで何もなかった背後の机の上に少女が出現していた。長い黒髪にボクと同じ中学の女子用の制服。そして、ボクでも一瞬見蕩れるほどに見目麗しい少女の姿があった。突然現れたその少女は机の上に足を組んで座っている。そして、ボクに向けて綺麗な笑みを浮かべ声を放つ。
「やあ、月見月くん。自己紹介は必要かな?」
「……いえ、思い出しましたよ。お久し振りです、安心院先輩」
「さすがに思い出してくれたか。だけど、僕のことは親しみを込めて安心院さんと呼びなさい」
ボクの言葉にいつもの台詞を返す安心院さん。彼女は中学時代、球磨川さんが生徒会長を務めていた頃に副会長をしていた生徒である。名前は安心院なじみ。同じく生徒会で働いていた仲だというのに、ボクはこれまで安心院さんに関するすべての記憶を失っていた。しかし、それは全く不思議なことではない。
「このスキルは『腑罪証明(アリバイブロック)』ですか。ということは、赤さんがボクを夢の中に送ってくれたんですね」
「そうだよ。きみに会うタイミングは今がベストだったからね。僕からきみのスキルについて教えておきたいことがあってさ」
「……悪いんですけど、今は安心院さんと悠長にお話していられる状況じゃないんですよ。早く戻らないと生徒会戦挙が終わってしまうので。それとも、やはり安心院さんはめだかちゃんのためにボクを足止めしようとしているんですか?」
低い確率だけど、ボクの邪魔をしようとしているのかも……。しかし、安心院さんは分かっているという風に頷くと、腰掛けていた机から床に足を下ろした。立ち上がって両手を左右に広げ、軽く肩をすくめる。
「まさか。ボクは平等なだけの人間だぜ。球磨川くんが勝とうが、めだかちゃんが勝とうが、どちらでも同じことなんだよ。それに、きみが行ったところで何の役にも立たないだろう?」
「やってみなくちゃ……!」
「分かるさ。僕の一京のスキルには世界からの補正、きみの言う運命を読むスキルもあってね。めだかちゃんは最終的に勝者になるように決定付けられていることは、僕も知っている。だから球磨川くんも、今のきみも、何をしようと無駄になるだけだぜ」
苦し紛れのボクの言葉は一蹴された。球磨川さんからも聞いたことがある。安心院さんの持つ一京のスキル。文字通り万能を越えた全能ともいえる隔絶した超越能力。その安心院さんに断言された以上、ボクの手助けは確かに無駄なのだろう。悔しさに思わず俯いて唇を噛み締めた。
「ふふっ、きみは僕を買いかぶりすぎだぜ。今の僕は、球磨川くんにスキルを封印されて文字通り無能になっているんだから。できることと言えば、せいぜいが他人の夢の中をうろちょろするくらいだよ。まったく……。球磨川くんの『却本作り(ブックメーカー)』は史上唯一、悪平等(ノットイコール)たる僕に有効なスキルだからね。天敵と言っていい。だけど、めだかちゃんに対しては天敵ではないんだよ」
「……」
「めだかちゃんの天敵なのはきみのスキルの方さ」
え?とボクは顔を上げる。思わず唖然とした表情で安心院さんを見詰めてしまった。
「きみの過負荷(マイナス)はまだスキルとして完成には至っていないんだよ。いや、過負荷(マイナス)じゃない。赤さんのスキルは聞いただろう?きみのスキルはそれと同じく、過負荷(マイナス)寄りの両面スキルに近いものがあるんだ。ま、あくまで精神的な話だけどね」
両面スキル?安心院さんの肩を掴んで詰め寄るボクに楽しそうな声で告げる。
「すでに球磨川くんの影響でマイナス性は十分なレベルに達していたんだけどね。人吉瞳ちゃんの治療のおかげで、それとさっきの善吉くんとの戦闘のおかげで、今のきみの正負は奇跡的なバランスで吊り合っているんだ。あと一歩できみのスキルは完成する。球磨川くんとは逆ベクトルで、その過負荷(マイナス)を改造すればいい」
「どうすればいいんですか!その、スキルを完成させるには!」
「認識することだよ。球磨川くんを頂点とした世界ではなく、特別な自分自身とそれ以外の有象無象へと。球磨川くんへの盲目(マイナス)の忠誠心はそのままに。人類を平等に俯瞰するように。――さながら、傲慢な神様が下界の人間を眺めるように」
すべてを聞き終わってボクは黙り込んだ。安心院さんが話した内容はまったく理解できていない。けれど、次に球磨川さんと黒神めだかに会えば理解できると確信していた。だったら、もうこの場所に用は無い。後ろへと振り向いたボクは教室の扉に手を掛ける。
「ありがとうございます。安心院さん。貴重な助言に感謝します」
「気にしなくていいぜ。めだかちゃんが球磨川くんの心を救ってくれること。それと同じくらい僕は、めだかちゃんの敗北を見てみたいんだよ。どちらに転んだとしても、フラスコ計画は次の段階に進むことができるんだからさ」
――目を開けると、まばゆいほどの青空が視界を埋め尽くしていた。
「起きたみたいね、月見月くん。ちょっと待ってなさい。いま病気を治してあげるから」
「…赤……さん?」
地面に寝かされていたボクに赤さんの抑揚の無い声が聞こえる。どうやらボクは赤さんに膝枕をされているようだった。慌てて飛び上がろうとしたボクだったけど、身体が全く言うことを聞かない。だけど、じっとしていると段々と身体の感覚が戻ってきた。寝転がりながら首を回し、周囲の様子を窺おうとしたボクの鼓膜を大音量の歓声が叩く。
「「黒神ぃいいいいいいい!そんなやつに負けてんじゃねぇぞおおおおお!」」
そこら中から聞こえてくる大声。動くようになった身体で見回すと、そこには二人の勝負を見守るように大勢の生徒たちが集まっていた。
「こ、これは……?」
「戦っていた生徒達が、二人の勝負を見届けるためにこの場に集まってきたのよ。学園の命運を決める正念場だと感じたんでしょう」
車椅子に乗った志布志やそれを押す蝶ヶ崎。五体満足な『裏の六人(プラスシックス)』の面々などマイナス十三組の生徒たちも声を張り上げているのが見えた。敵味方を超えて、熱狂の渦があの場を包んでいる。
「球磨川さん!頑張ってください!」
「お前を倒すのは俺なんだぜ!黒神ぃいいいいいい!」
おそらくは生き残った異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の全員がここで叫んでいた。近くの校舎に足を掛けて二階へと跳び上がり、人垣の中心に目をやるとそこには呆気に取られた表情で立ちすくむ黒神めだかと球磨川さんの姿があった。よかった……まだ決着はついていないみたいだ。だけど、この流れはマズイ……。
「何なのだ、これは……?おい、球磨川。今日は私と貴様だけの戦いではなかったのか?」
「ふぅ……そういえば、めだかちゃんは気付いてなかったんだね」
加速度的に増加していく周囲の人だかりに、胸を巨大なネジで貫かれた黒神めだかは困惑したような表情を浮かべている。球磨川さんは小さく溜息を吐いて首を左右に振った。
「この戦いは異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の総力戦だったんだよ。たぶん高貴ちゃん達が呼び出したのかな?今日は僕とめだかちゃんの決着をつける戦いであり、同時に僕の仲間達とめだかちゃんの仲間達との決着をつける戦いでもあったんだよ。ま、この様子じゃ結局、僕と君との勝敗がそのまま異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の勝負の結果になりそうだけどね」
取り囲む群衆の応援の声が一帯を覆いつくす中、二人は改めて向かい合った。先ほどまでの困惑した様子は鳴りを潜め、黒神めだかが決意を新たにした表情を見せる。同時に球磨川さんも、マイナス十三組のメンバーの喉が張り裂けるほどの応援を前に執念の滲むような必死の形相で立ち上がる。
「球磨川、ここで決めるぞ」
「そうだね。お互い、仲間達もみんな集まってきてるみたいだし。時間もないことだしね」
校舎に備え付けられている時計を見ると、すでに時間は午前八時。そろそろ生徒達が登校してきている頃だろう。勝者が生徒会長となり、この箱庭学園を支配するのだ。
「みんな!もしも僕が負けたら!マイナス十三組はこの学園から撤退する!」
球磨川さんがこの場の全員に聞こえるように天に向けて大声で言い放った。それは必勝の決意の発露。策でも何でもない、心からの叫びだった。ふぅと息を吐いた後、球磨川さんは正面に向き直る。
「めだかちゃんも仲間たちを代表して誓ってくれないか。この勝負で僕が勝ったら十三組は新生徒会に従うって。因縁はこの場で終わらせたい」
「それはできない」
「……負けたときの保険? らしくないね」
訝しげに顔を歪める球磨川さん。しかし、正面の彼女にはそんな様子は微塵も感じられない。
「そうじゃねーよ、球磨川」
「善吉ちゃん……」
「勘違いしてるみてーだけど、十三組の連中はめだかちゃんの仲間じゃねーんだよ。めだかちゃんの指示で動いてるわけじゃない」
割り込むようにして善吉くんの声が響き渡る。
「味方である俺達ならめだかちゃんに頼まれればその通りにするだろう。どうしてもと言われれば、俺だってこの場は引いてやってもいい。だけど、ここに集まっている連中は、ほとんどがめだかちゃんの敵だったんだよ」
「……っ!?」
「『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の連中は元より、他の十三組生だってかつてはめだかちゃんの命を狙っていた敵同士だ。わかるか?肉体も精神も技術も頭脳も才能も全く同じになって、それでもお前とめだかちゃんは違うんだ。味方になったわけでも仲間になったわけでもない。それでも――ピンチのときに敵が駆けつけてくれるのはめだかちゃんだけなんだ」
善吉くんの口上に球磨川さんの顔が苦々しげに歪んだ。わずかに憔悴したような表情が浮かぶ。しかし、その変化を敏感に感じ取ったマイナス十三組のみんなが球磨川さんへの応援の声を飛ばしていた。その声を聞いた球磨川さんは、必死に折れかけた心を持ち直して立ち上がってくれた。
「それでも、僕は負けるわけには……!」
「来い。球磨川」
悠然と佇み、しっかりと球磨川さんを見据える黒神めだか。その堂々たる態度に球磨川さんが一瞬ひるんだのを感じた。内心の不安を吹き飛ばすように叫びながら立ち向かう。
「あああああああっ!」
「勝たせてもらうぞ、球磨川。私は、味方のみならず、敵の思いも背負っている」
迎撃する構えを見せる黒神めだか。その所作からは勝利を確信したかのような自身が窺える。事実、これは完全に球磨川さん敗北の流れだ。この一撃を受ければ球磨川さんの心は完膚なきまでに折られてしまうだろう。
二人の激突を前にボクは静かに自分自身の心に意識を集中させた。視界が禍々しく変化していく。
「これじゃない。精神をもっとフラットにしないと……」
安心院さんの助言を思い出す。嫉妬、恨み、劣等感などのマイナスの感情では駄目だ。過負荷(マイナス)を発動させながらも精神は正負をゼロに。自分を世界から切り離していく。そこからさらに、自分以外の存在を俯瞰するように見下ろす。
「さながらケージの中のラットの群れを眺めるように……」
徐々に視界から色彩が消え去り、明暗のみに変化していく。ボクの視界は運命を観測するのみ。あの恒星のような光を発しているのが黒神めだか。あの一切光を発していない暗黒が球磨川さんか……。
すでにボクの目には人物を区別することはできず、ただ運命の強さだけが映っていた。運命とは幸運の凝縮された結晶体であり、上位概念でもある。懐かしいな、この世界は……。これは人吉先生と出会う前の、周囲が自分の幸運の供給源にしか見えなかった頃の視界だ。球磨川さんが心の中の最上位にいて、この景色を見ることができなくなっていただけで、これこそが本来のボクの世界。
――二つの対照的な明暗の光点の距離が縮まっていく
ボクの意識はフラットなまま、平等にすべての存在の運勢を感じ取っていた。運命をこれまで以上に認識できている。ボクはボードゲームの盤上を眺めるように二つの光点を視界に収めた。世界にボク一人しか存在しないかのような錯覚。まるで神が下界を覗いているように、プレイヤーが盤上の駒を見下ろしているように。安心院さんの言葉を完全に理解した。自分自身を特別視することが運命を掌握するための第一段階だったのだ。そして第二段階――
「球磨川さんを勝たせたい」
スキルを発動させる起爆剤として、ボクの気持ちを爆発させる。狂信的(マイナス)なまでの球磨川さんへの忠誠心を言葉にして、心に焼き付けた。それと同時にボクの熱情が核分裂を起こすように膨れ上がる。球磨川さん以外はどうなってもいい。そのマイナスな感情が全身に充満すると同時に、ボクはスキルを発動する手ごたえを感じていた。これが新たなる過負荷(マイナス)、いや、――完成型の過負荷(マイナス)
「これが最終段階。黒神めだかの運命を――奪い取る!」
一度だけ目を閉じると、恒星のように輝く光点へと意識を集中させた。そして目を開き、同時にその運命を奪い取る。以前は干渉不能だった圧倒的な運命。だけど、今なら干渉できると確信していた。
「――『壊運(クラックラック)』……いや!」
奪い取るだけでは足りない。マイナスな球磨川さんの運命を覆すにはそれ以上が要る。直前でこのスキルの真価が脳内に叩き込まれるのを感じた。運命を奪うんじゃない!改めるんだ!黒神めだかの運命を球磨川さんへ――移し替える!
「――『改運(クラックラック)』!」
黒神めだかの光が消失し、反対に球磨川さんの光が輝きを増していく。
――運命を指し示す輝きがこの瞬間逆転した。
「ぐぅぅぅ……!」
直後、ボクの全身を虚脱感とも喪失感とも言える感覚が襲い掛かった。思わず膝を着いてしまいそうになるのを気力だけで持ちこたえる。運命を操作するという前人未到の偉業にボクという存在自体が悲鳴を上げているのが分かる。これが運命を操る代償なのか。それをギリッと唇を噛み締めることで耐え続ける。永遠にも思える時間。そのたった数秒の間に、球磨川さんと黒神めだかは互いの拳を交差させていた。
「はあああああああああっ!」
「あああああああああああ!」
ゴッと鈍い音が響き渡る。一瞬の交錯。互いの拳が相手の顔面を打ち抜き、片方が地面へと倒れ伏す。長きに渡る因縁がここに決着し、群衆の歓声と怒号が大地を震わせた。
――立っていたのは球磨川さんだった
「うおおおおおっ!球磨川先輩!」
「やった!やったぜ!」
「球磨川くんが勝ったぁ~!」
鳴り止まぬ歓声の中、しばらくの間、呆然としていた球磨川さん。そして、ようやく勝利の実感を得たのか、天を仰いで満面の笑顔を見せた。
「そっか……僕は勝てたのか」
感慨深そうに呟く球磨川さんの声に、ボクの全身にも歓喜の感情が満ちる。よかった……球磨川さん、勝てたんですね。それを見てボクもほっと息を吐いてスキルを解除した。同時にどっと全身から力が抜け、ガクリと膝を着いてしまう。マイナス十三組の仲間たちは球磨川さんの元へと走り寄り、騒々しく賞賛の声を上げている。その中で球磨川さんは嬉しそうに笑い合っていた。その光景に感極まったボクの目尻には涙が浮かんでいた。一方、十三組の連中はというと、意気消沈したかのように俯いてしまっている。そして、善吉くん達は信じられないといった風に驚愕の表情を顔に張り付けたまま呆然としている。
「ごめん。ちょっとどいて」
そんな中、ひと段落すると球磨川さんは黒神めだかの方へと歩き出した。その行動を阻害するものは誰もいない。狂喜乱舞のマイナス十三組と沈黙した十三組の面々。球磨川さんが歩くにつれて、潮が引くように群衆が一斉に後ろへと下がっていく。海を割ったと伝えられるモーゼのように、二人の間に道が開けられた。ツカツカと歩く球磨川さんの顔には、見るものが凍えるような醜悪で歪んだ笑みが浮かんでいた。
「やあ、めだかちゃん。提案があるんだ」
意識はあるものの、ダメージで身体を動かすことはおろか声すらも出ない様子だった。その耳元で球磨川さんは何かを囁いた。その悪魔の囁きに苦渋を滲ませた表情で頷く黒神めだか。それを視界の片隅に収めながら、ボクの意識は暗転していった。
――始業式の鐘が鳴る