春の陽気はまだ遠く、冬の厳寒が和らぎつつも確かにそこにある、そんな晩冬の一日。
──2月14日、天気晴れ
もどかしさが朝露とともに街に降り注ぐ。
今日はバレンタインデー。元の風習がどうであったかはさておき、今では女性から男性へチョコレートを贈る日。
日常の中の甘酸っぱい特別な日。
それは勿論、この
昼下がりのダイニングキッチンからは甘い香りが漂う。思わず頬が緩んでしまうような魅惑的なチョコレートの香り。
キッチンの中ではニコとケイトが二人、微笑みながら作業をしている。『バニラエッセンスはこのくらい』『ラム酒を入れても美味しいかも』、そんな風に楽しげにチョコレート作りに勤しんでいる。
その一方でマリが何冊ものレシピ本と向き合い頭を悩ませているようだ。その眼差しはいつになく真剣でいつもの和やかな雰囲気が幾らか薄まっている。
彼女の料理の腕は子供の中では頭一つ抜けている。けれど
そんな甘美な香りが、中庭まで風に運ばれて漂って来た。そこには一人の男性と一人の少年がいた。
男性はイーゼルに立て掛けられたキャンバスに絵筆を這わせている。微風が柔らかな金の短髪を揺らして、その瞳は被写体を映して動かない。けれどその口角は楽しげに釣り上がっている。
もう一人、灰の髪を揺らす少年は不機嫌な様子で少し離れた位置に座り込んでいる。狼のような瞳孔が不満の色をはっきりと宿して、その視線が絵を描く男性に注がれる。
「どうかしたのかい、リィ。そんなに見つめられたら緊張して手元が狂ってしまうよ。」
優しく柔らかな声色で、しかし視線は一切動かさずに問い掛ける。けれど少年は沈黙を返すのみ。鼻を鳴らしてそっぽを向いては再び視線を向ける。
「何か僕の行動に至らない点があったかな。そうだとしたら、ごめんよ。でもそんなに不機嫌そうにしていたら折角の整った顔が勿体無いよ。高い鼻に綺麗な鼻筋、長い睫毛に
時折、少年の顔に視線を移しながら男性は諭す。けれどその表情は陰りを増していくばかり。
「──ネネムのそういうところが、気に食わないんだ。そうやって、マリにも同じような事を言ってるんだろ。」
仄暗い嫉妬の色が滲んだ静かな怒声。少しの間、沈黙がその場を満たす。男性も筆を止め、きょとんと呆然。
一拍置いて
「ぷっ──あはは、なるほどなるほど、そういうことか!これはこれは失礼したね。」
「なっ、何笑ってるんだよ!」
座り込んでいた少年が笑い死んでしまいそうな男性の元へ歩み寄る。自分よりも高い目線をしっかりと見つめて、言い放つ。
「──僕、負けないからな。」
男性は腰掛けていた椅子から転げ落ちる。抱腹絶倒を体現したように笑い転げている。その様子を見て不機嫌な表情は怒りへと変わりつつある。歯を食い縛り、少し長い犬歯を覗かせて怒声を放とうとしたところで、男性は起き上がりそれを制止する。
「いや、ごめんね。君にとっては真剣な話だ。けれど君があまりに可愛らしいことを言うものだから悶えてしまったよ。」
「な、何だよそれ。」
「ふふ、誓っても『君のお姫様を横取りしてしまおう』なんて思ってないよ。確かに彼女は魅力的だけれど気の合う友人以上でも以下でもないよ。そこから関係を変えたいとも思っていない。それはきっと彼女も同じはずだ。」
視線の色が不満から疑いへと変わる。目を細めてその疑念を包み隠さずに向けている。成人している男性の少し大きな手が柔らかな灰色の髪を撫でる。
「本当さ。きっと君は『マリからのチョコレートが誰に宛てられる物なのか』を気になっているから今日一日、僕に付いて回っているんだろう?」
痛いところを突かれた、というように気まずそうで気恥ずかしそうな表情を浮かべる。それを見た男性は少し顔を綻ばせる。
「これは秘密なんだけれど、その心配は必要ないと思うよ。ここ最近、彼女は製菓関連の本を沢山読んでいたし、そんな彼女から相談も受けていたからね。」
「相談?」
頭の上に疑問符を浮かべて傾げる。まだ少年には事情が上手く飲み込めていないようだ。
「『リィはどんな物が好きかしら』『リィは気に入ってくれるかしら』『そもそも上手くできるかしら』…挙げ始めたら際限ないくらいにね。僕が手伝おうかって提案したら『自分の手で作りたい』って言うものだから、かなり真剣みたいだね。」
少し悪戯っぽい笑顔を少年に向ける。すると瞬く間に少年の顔が林檎のように赤く熟れる。
「あ、今のは本当に秘密で頼むよ?彼女に知られたら何を言われるか分からないからね。」
そう念押しする言葉を今の少年の耳は拾うことができないようで、相変わらず視線を泳がせている。
「リィ、聞いて欲しいんだけど。本当に秘密で──」
「──あら、二人が一緒にいるなんて珍しいわね。」
和やかで柔和な声が二人に投げかけられる。少年は飛び上がるように、男性は少し気まずそうに、その少女の方へ振り返る。
「楽しそうに話していたみたいだけれど、何の話をしていたのかしら。」
「え、えっと、その…。」
動揺を隠せないどころかまともに顔も見れていない少年が言葉を捻り出そうとしている最中、男性が咳払いを挟む。
「いや、リィの関心事についてだよ。でももうすぐ解決しそうなんだ。」
若干の焦りを含んだ男性が簡潔に話題をまとめ上げる。少女は「あらそうなの。」と言うとリィの前へ歩み出て彼に視線を合わせる。
「ハッピーバレンタイン、リィ。良ければ受け取ってもらえないかしら。」
後ろ手に隠していた箱を少年に手渡す。けれど少年はそれを受け取ろうという素振りを見せない。
「……こんな僕で良いのかな。僕はマリに何もしてあげられてない。」
眉をひそめて、悲しそうな悔しそうな灰色の眼を少女に向けている。彼女もまた困ったように少年を見詰め返している。
するとわざとらしい咳払いが一つ。
「リィは僕に君を取られると思ってたみたいなんだ。まるで横恋慕だ、と言わんばかりの勢いでね。」
「なっ…!それはっ…!」
少年を除いた二人がくすくすと笑っている。先程までの少し重たい沈黙が和らいだ。少年は弁解のために言葉を並べようとしているが要領を得ない。
「あらあら、可愛らしいわね、
小声で男性の名前を恨めしそうに呟きながら、少年は眼鏡の少女の視線を、その言葉を真正面から受け止める。
「草花のことが分からなくても、ニコが困っていたら助けるでしょう。ニコがいなくて、ケイトが困っていたら手を取ってあげるでしょう。ペネとロペが寂しくないように、いつも気に掛けて遊んであげているでしょう。不器用だけれど誰よりも優しさと慈しみを持って他人に接する貴方の姿はとても素敵だと思うわ。そんな貴方だから受け取って欲しいのよ。」
柔らな抱擁のような言葉を受けて、ようやく少年の手はおずおずとその小さな箱へと伸びて、受け取った。それでも依然、少年の表情には雲が掛かっている。
「ここまで
柔らかな雪解けのような、それでいて温もりを帯びた感触が少年の額を襲う。そして優しくアッシュグレーの髪を撫でた。少年の瞳に光が灯る。
「──ありがとう、マリ。僕、頑張るよ。必ず、君に見合う人になってみせる。だから、待ってて。」
力強く決意を口にした後、笑みを浮かべる。その表情に陰りはなく、
──狼のような少年は夢と出会った。その夢に焦がれて、手を伸ばしたくて、それでも自分が不釣り合いな獣であると分かっていた。自分は相応しくないと、心に蓋をしていた。
けれどもう、その気持ちを遮るものはない。狼が月を見上げるように気高く在ろうと吠える。
きっと何時しか、夢は手が届く場所に来るだろう。それはきっと、まだ先の話。
そうしてまた、日常は流れていく──。
──子供達が奏でる音が静寂を揺らしている。
話し声や靴音、ピアノの奏で、草花のさざめき、ドアが開く音、階段の軋み、頁が捲れる音、絵筆が擦れる音。
此処に病氣の子供なんて一人もいない。怖い大人も、悲しい別れも、辛く苦しい決断も、何一つとして。
此処は
子供達が笑い、時に悲しみ、悩みながら大人になっていく場所──。
──本館の窓辺、