岸辺露伴は揺るがない『ハワイアンズ・ウォーターマーク』 作:甘草粥
何もかもが手遅れだ……
頭の片隅にあったはずの最悪のシナリオが現実味を帯びながら露伴の思考を侵していく。鬱然とした瞳で見つめる先、数秒前にガロアの頬に書き込んだ〈ボクは小説の持ち主だ〉という命令文には自身の肉体と同じように認識阻害の植物が覆い繁り、丁寧に
そこはかとない諦めの雰囲気が漂い始める中で、露伴は自分は全ての選択肢を誤ってしまったのだと過去の行動を悔いた。関わるべきではない相手に声を掛け、命令を下すべきではない相手に〈ヘブンズ・ドアー〉で書き込み、触れるべきではない本に〈溶岩〉を近付け、植物化が進行する前に〈本〉の真の所有者であるガロアにその所有権を認めさせることができなかった──。
認知の歪みが拡大した今、〈ヘブンズ・ドアー〉に備わった
失意に暮れる露伴を背後から衝撃が襲う。倒れ込んだ露伴の身体から鞄とスケッチブックが離れ、勢いに乗せられてベンチのある方へと滑っていく。手を伸ばして掴もうとする露伴の意思に反し、〈養分〉を吸い取られた身体は言うことを聞かず、反応が遅れたこともあり結局最後は空を掠めるに終わった。
露伴から離れたことで認知の歪みを抜け出し、再び可視状態となったそれらがガロアとネルズの前に放り出される。無から現れた落とし主不明の〈落とし物〉を前に、第一発見者である二人は顔を見合わせながら首を傾げた。二人が目線を外した隙を狙ったかのように鞄から〈溶岩〉が飛び出し、露伴が付けた植物の足跡へと落下する。
シュル
シュル シュル
イソギンチャクのように波打つ足跡に送り出され、露伴の元へと〈溶岩〉が
綻んだ雰囲気を引き締めるかのように、手足から伸びた根が地面に突き刺さり、露伴の身体を地面へと引き寄せる。引きちぎろうと踠く露伴の横を〈背後からの衝撃〉の正体が通りすぎる。
「確かに居たハズなんだよなあ……
〈落とし物〉に執心していたガロアたちと共に視線を移した先には、ガロアと接触した露伴を警戒してネルズと共に近寄ってきた先程の保安官が居た。
『認知の歪みが拡大している……』本にして開いた彼の左手には〈岸辺露伴に近寄らない〉の文字が消えることなく残っていた。
恐れていたことが現実になったと露伴は思った。この保安官の生まれが〈カウアイ島〉でないことは先の一件で既に調べが付いていた。ネルズと同様に命令を書き込んだにも関わらず、現時点においても〈守り神〉が現れていないことが、
『守り神』の宿主やカウアイ島の
住人だけでなくすべての
生き物から
〈近寄るな〉と突き放したはずの保安官が目の前で自分を探している。手を伸ばせば届く僅か数十センチの距離が果てしなく遠いものに感じると同時に、いつまでも彼の掌に残り続ける形骸化した〈命令文〉がある種の意趣返しのようだと露伴は思った。
仮に誰からも認知されなくなったとしても、手元から離れたものが他人から見えるのであれば〈漫画家〉として活動していくことは不可能では無い。その選択肢があったからこそ、露伴も当初は『最近完結したジャンプ作品にもそういうキャラがいたな』と、数ヵ月前に完結した作品を思い返しながら、それもまたそれで面白いかもしれないなどと気楽に考えていた。しかし、動かないのではなく
露伴は〈神〉になりたいわけではない。露伴が求めるものは地位でも金でも名誉でもなく、自身の漫画を手に取ってくれる〈読者〉の存在と、彼らを満足させる作品を仕上げるための〈リアリティ〉を得るところにある。
苦悩に喘ぐ露伴を他所に、訝しげに
「オマワリさんにこーゆー言い方すんのはアレだが……あんたどうも様子がおかしいぜェ?」
保安官は『待ってました!』と言わんばかりの含みを持った微笑を浮かべ、両手の指を弾いて甲高い音を奏でた。
「ちょこっとだけオレの愚痴聞いてくれるゥ?」
ちなみにさっきのは独り言ね
砂糖でコーティングされたカラフルな粒状のチョコレート菓子をガロアに渡しながら保安官は話を続ける。
「怪しい『日本人』が居たもんだからよお……
ちょこっとだけ部下に良いトコ見せちゃおっかなー!
つって車から降りたとこまでは良かったんだぜ?
だがどーもそっから記憶が無ェーんだよなああ~~
先輩風吹かして車停めさせといて
ちょこっとどころじゃなくカッコ悪ィしよォ~~ 」
ガロアは二人の会話に耳を立てるでもなく、保安官から貰ったチョコ菓子を手の甲で弾いて口でキャッチする遊びに興じている。
「その『日本人』って『岸辺露伴』だろ?割りと有名なマンガ
『でもあんたってそーゆーの読むタイプじゃあなさそうだよなァ』全身を見回しつつ値踏みするかのような物言いで話すネルズに先月初老を迎えたばかりの保安官が少し膨れた表情を見せながら言葉を返す。
「そんでェ?おたくはなに?ソイツの……あー……
キシベロハンってマンガ家の知り合いなワケ??」
「知り合いっつーかとにかく良いヤツでよォ──ッ!」
露伴は二人の会話に違和感を覚えた。ネルズに書き込んだ〈命令文〉には既に訂正が施されていたため、ネルズが露伴を知る
保安官の記憶から露伴の名前が既に消えていたように、二人に刻まれた〈岸辺露伴〉という文字は刻一刻と薄れつつあった。消しゴムをかけたかのように、露伴と関わった〈体験の記憶〉の輪郭が徐々にぼやけて消えていく。