岸辺露伴は揺るがない『ハワイアンズ・ウォーターマーク』 作:甘草粥
「ププッ!運転手ヲ本ニ変エタ『
「フッ……気が合うねェ。僕も同じことを考えていたよ」
運転手の開いたままの横顔に記された〈カウアイ島出身〉の一文を背中越しに見ながら露伴は心の中で悪態を吐いた。
だがそれは
むしろ限りなく
例え運転手に〈このバスを運転することはできない〉と書き込んだとしても、それは文字が消えるまでのほんの数分──或いはほんの数十秒しか効果を発揮することはない。それだけでなく、命令を書き込むことで運転手の〈
「二度あることは三度あるか…………フフ……」
俯きつつ笑みを浮かべた露伴にはいざとなれば禁じられた〈ヘブンズ・ドアー〉を抉じ開ける覚悟があった。しかし、ここへ来て揃った三度目の
「嫌なんだよ……こういうのは。自分を
「安売リィィイイ──??」
緑色の天を仰ぎながら〈ヘブンズ・ドアー〉を構えた露伴の要領を得ない言葉に〈地縛神〉たちが騒ぎ立てる。
「マーケットの端ッコデ売ラレテる萎ビタ野菜ミテェーなコト言っテンジゃア無ェーぞッ!!」
「問題なのは
「サッきカラ何言っテヤガる!」
「つイニ頭イカれチマッタぜコイツゥゥ──ッ!」
「理解不能!理解不能!理解不能!理解不能!」
バスが出発するまで残り〈二分〉を切っていた。腕を真上に伸ばしてストレッチをする運転手の頬のページがゆっくりと閉じていく。
「だがそんな悠長なこと言ってる状況でもなさそうだしな。ホラッ、遠慮せずに受け取れよ」
『僕からの直筆サインメッセージだ』露伴を縛り付けていた〈地縛神〉たちに書き込まれた〈岸辺露伴を攻撃できない〉の命令が遺憾無く効果を発揮する。人間が見ることのできない認知の歪みという同じ
「テ、テメェェえエぇえェェエエ────ッ!!」
露伴に〈アザ〉がある限り、書き込んだ命令は決して薄れることは無い。露伴の企みに気付いた〈地縛神〉の絶叫が車内に木霊する。
活力を失って垂れ下がった幹の拘束から抜け出して出口に向かう露伴を阻止しようと、開口部付近に陣取っていた〈地縛神〉たちが絡み合って進路に立ち塞がる。
「ひとりじゃ何もできないヤツって居るよなあ」
目にも止まらぬ速さで書き込まれる〈真上にふっ飛ぶ!〉の命令文。結び付いたことが逆に仇となり、露伴の行く手を阻んでいた緑の
「『カイルア・コナ』に行きたいんだけどもォ──このバスで合ってますかねええ?」
「何ィィ────ッ!?」
開口部を抜けた先に待ち構えていた杖をついた老齢の女性が露伴の脱出劇に待ったをかける。
「(
『今なら座席も選び放題ィー』運転手の言葉を受けてお婆さんが内開きのドアに取り付けられた手摺に手を掛ける。露伴は咄嗟に天井から垂れ下がった〈地縛神〉のツルを掴んだ。言うまでもなく正面衝突を防ぐためである。
精神よりも先に身体が動いていた。〈ヘブンズ・ドアー〉を使ってはならないという〈
彼女を突き飛ばすまいと昇降ステップの
(クソッ……
あまりに複雑に絡み合った〈地縛神〉たちの数百に近い
「残リ『
「トっトと死ンデ楽ニナリやガれッ!」
「ヤッタァアアー!仲間が増エルゾッ!」
「
「急イで歓迎会の準備ヲしナキゃ!!」
「コれニテ決着ゥゥ────ッ!!」
「このバスは……マーケットプレイス発
声高々に勝利を宣言する〈地縛神〉と戦いに敗れて座席に背を預ける露伴。体内に駆け巡る光の粒によって文字通り神々しく青めいた〈地縛神〉と敵の攻撃と細胞の再構築によって全身を赤く染める露伴。両者は対照的であった。
このバスが地獄行きであろうと天国行きであろうと露伴には関係なかった。戦うことも、考えることもやめた露伴には、そんなことは心底どうでもよかった。
精神力だけでなく体力さえ底を尽いたのか、露伴は抵抗する素振りすら見せずに植物の楽園に呑まれていく。〈アザ〉から発せられる「シュル」「シュル」という独立した音は、回転の加速に伴って「ギャルルルル」というひとつの連続した音となり、胸の辺りまで進行していた〈植物化〉は眼球まで到達しようかというところだった。
「オ、オレノ見間違イダト思うケドよォ……今コイツ
一番近くで露伴を見ていた〈地縛神〉が自信なさげに呟く。しかし、他のものたちが真偽を確認する間もなく、露伴の〈植物化〉は
「ねえパパァ~~このバスじゃないと思うよおお~~」
露伴が笑う一秒前に差し込まれた声は〈ガロア・ボルテックス〉のものだった。先に乗り込んだ父親の手を取り、降りるように促すガロアのもう片方の手には露伴の〈スケッチブック〉が握られている。
「ナンダッ!見エなイ壁ガアる!?」
「理解不能!理解不能!理解不能!理解不能!」
「岸辺ロハンに『触レナイ』ィィ──!!」
阿鼻叫喚となった〈地縛神〉たちが捌けていく露伴の胸ポケットの中で振動する〈溶岩〉が胸の鼓動と
確実に……間違いなくッ
「嬉しいねェ。待ってたよ……キミを」
『あっ!』満身創痍の状態で最後尾中央に座る露伴に気付いたガロアが〈スケッチブック〉を片手に車内を駆ける。
「ねえコレ、おじさんのでしょ?急にいなくなっちゃうんだもんなああ。それとさ……
『このマンガちょー面白かったよ」ガロアが開いたページには、溶岩調査の合間にハワイでの体験を漫画形式で簡素にまとめた〈取材メモ〉が描かれていた。文字の無い所謂〈サイレントマンガ〉の形式で描かれたその〈体験メモ〉は、まだ
商業的な色や飾り気の余白を残した研ぎ澄まされた絵のタッチが、ガロアの中で眠っていた創作物に対する〈敬意〉を呼び起こした。祖父から父、そしてガロアへと代々受け継がれてきた〈小説〉に対して静かに湧いた〈敬意〉が、
「こイツ
「触レナくナッタノハ露伴ガ『人間』に戻ッタかラだッ!」
「露伴ノカラダかラ『植物』ガ消エテいくッ!」
「止マラナイッ!ドンドン枯れテイくゾ──ッ!!」
〈植物化〉が癒えるにつれて露伴の身体から生えていた草花が枯れ落ちていく。シャツを染めていた血液も皮膚から浸透して
ガロアから受け取った〈スケッチブック〉を肩に掛けて入口へと進む露伴の胸の上で再び〈溶岩〉が振動する。〈溶岩〉が持つ不思議な力は〈スケッチブック〉ではなく、前を行く〈ガロア・ボルテックス〉に向いていた。
露伴にとって最も価値のあるものは〈読者〉である。時に奇人や変人とも称される変態的な取材も、自身の漫画を読んでくれた読者の期待を裏切りたくないという思考が行動として現れただけに過ぎない。
幼少期にふと目にした漫画や小説、映画といった作品から〈感動体験〉を得たように、いつか自分も誰かの心に熱を持たせるような作品を作りたいと幼いながらに当時の露伴は思った。承認欲求ともまた違う、利他的な創作意欲が露伴の行動原理の根底を支えていたのだ。
「オイ待て!行くンジャア無いッ!!」
「考え直ソ?ネッ?」
「永遠ノ命ガ手に入ルンダッ」
「お金ダッテ必要ナイ」
「好キナだケ遊んデ暮ラセルぜ?」
「オマエも『自然』ト『同化』スるんだよォ──ッ!」
全方位から擦り寄ってくる〈地縛神〉たちの誘いを〈ヘブンズ・ドアー〉で一蹴する。絶叫が閉じ込められた紙吹雪が舞う緑のトンネルを進む露伴の歩みを止められる者はもう誰もいなかった。
「ヤっパリ考え直ソ?ねッ?一緒ニ人間ヤメヨ?……ネッ?」
「……いい加減くどいぞ……本当に」
天井から垂れ下がるようにして生える
「キミたちの国じゃどうだか知らないが……日本じゃそーゆーの『マナー違反』だからな?」
長い舌に書き込まれた〈私語厳禁〉の四文字。見ることのできない
露伴の足音には〈怒り〉の感情があった。人間を超越し、曲がりなりにも神性を得た身でありながら、死は救済であると謳うだけに止まらず、死後は苦労も寿命も無い永遠の楽園であると
生まれ育った町の〈誇り〉と〈平和〉を取り戻すために共に戦った気高き魂を露伴は知っていた。当時六歳だった露伴を魔の手から救い、代わりに犠牲となった十六歳の少女──〈杉本
計り知れない成長性は
無限の可能性を秘めている
……あるいは『不条理』
選択の話でもある
この少年が小説を
『道』を切り開くだろう……
行動とは〈義務〉ではなく〈権利〉であり、誰かに強制されて意思を決定するのではなく、自分自身の頭で考え、選択する工程こそが重要である。例えその道が遠回りであったとしても、その道中で