「あ~全身軽くなった~」
「引き続きストレッチしっかりね」
「ありがとうございました~」
2月の終わり。部活が終わった私は家に帰る前にすっかり行きつけになった整骨院に寄って、月に1度のメンテナンスをしてもらった。どのスポーツに限らず大会でいい結果を出すには常に己の身体を万全な状態に保つことが大事になるけれど、特にグラム単位の体重変化で動きが鈍くなったりするほどシビアな体操競技においては定期的な整体は食事制限と並んで必須なのだ。
「蝶野さん、2750円です」
「はーい」
というお堅く真面目な体操競技の苦労話はこのくらいにして、この日もいつも通りに整体師の先生に毎日の練習でダメージが蓄積した身体をほぐしてもらって、軽くなった身体を足取りで確かめながらいつもみたいに受付へと足を進めて、いつもみたいに施術代を払っていた。
「…あ」「あ」
ふと横のほうから人がやってきた気配がしてつい振り向くと、ちょうど整体を終えたばかりの千夏先輩と鉢合わせした。どうしてこの人が?っていう驚きが一瞬だけ心の中で湧いたけれど、そういえば千夏先輩もここに通っていたことをすぐに思い出して、人知れず勝手に腑に落ちた。
「こんばんは」「こんばんは」
とりあえず見合ったので、お互いに軽くご挨拶。これと全く同じようなやり取りを梅雨入り前にも一回だけここで千夏先輩としたことを、私はまだはっきり覚えている。確かあのときは千夏先輩が先に受付でお金を払っていて、ちょうどいい機会だって思った私が大喜の株を上げるために話題を振ったんだっけ。
「……」
でもこのときは次に出てくる言葉が見つからず、一言だけ挨拶してすぐに視線を前に逸らしてそそくさと私は施術代を払った。
“…気まずい…”
はっきり言って、
「私、大喜に告白したんです」
だけど私は、千夏先輩に大喜が好きだっていう気持ちを伝えていた。自分の好きになった人が、いま目の前にいる人が好きだってことを知っていながらその気持ちを伝えてしまった。そんな経緯がある人といざ鉢合わせてしまったら、言葉が全く出なくなってただ気まずくて仕方ないって気持ちで心が埋め尽くされた。
「ありがとうございました」
気まずさで前に視線を逸らして、お釣りを受け取る。このまま何も言わないで出ていくのは何だか自分が露骨に千夏先輩のことを避けているみたいで嫌だから、振り返ったところで前みたいに本当に下らない
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。蝶野さん」
と心の中では思いながらも、結局は挨拶だけ交わすことしか出来ないまま私は行きつけの整骨院を出た。さりげなく千夏先輩の顔を伺ったけれど、特に私のことを気にしている素振りはなくて、いつも通りの千夏先輩だった。
「寒っ…」
外に出ると、まだ冬の気配を残した2月終わりの冷たい風が優しく刺さるように私の頬を撫でた。
「…はぁ」
風が通り過ぎると、次に身体から溜息が湧いて出てきた。気まずくて窮屈な空気から抜け出したことへの安堵と、大喜に告白したことを明かした
「ごめん……雛とは、付き合えない」
そんなの大喜に出会うまで恋がなんなのかも知らなくて、私が初めて好きになった人があいつだからって、そう結論づけてしまえば終わる程度の小さなこと……って終わった途端に割り切れるのが恋だとしたら、きっと私は大喜をあそこまで
「(これでいいんだ。だって、気まずいのは私じゃなくて千夏先輩のほうだから…)」
まだ冷たい外の空気を吸って、千夏先輩のためにもさっさと出て行って正解だったと自分に言い聞かせながら、私は家に向かって早歩きで足を進めた。考えてみればいま付き合っている人に勝手に片思いをした挙句に引っ掻き回すようなことをした人と鉢合わせた千夏先輩のほうが、立場的にもきっと気まずいはずだ。
「……」
少しだけ歩いたところで、足取りが重くなった。この身体に異変が起きたとかではないけれど、一歩進むたびに身体の
“…何してんだろう、私”
と、思い始めたら足が全く進まなくなった。
「難しいよな、どう接するかって正解のないことだから…もちろん配慮しないといけない相手はいるけど…そこがクリアできるなら友達に戻るのも、関わらないのも自由だと思う……ただ俺は、
言葉では分かっているし、私も一度フラれたからこそ叶わずに終わった初恋を思い出にしてもう一度
「初彼女、おめでとう!」
でもいざ千夏先輩と1対1で顔を合わせた瞬間に、一言じゃ言い表せない感情が一気に押し寄せて、どんな言葉を掛けたらいいのか分からなくなってしまった。思えば秋合宿が終わってから今の今まで千夏先輩とは話もしていなければ顔だって一度も合わせていなかったというか、私のほうからなるべく会わないように避けていた。相手がいる人の邪魔をするのは絶対にダメなことだから、私はずっと千夏先輩から遠ざかっていた。
だけど……あんなことを言っておきながら自分なりのけじめもつけないまま
「蝶野さーん!」
立ち止まってアスファルトのほうを向いていた視界と意識に、千夏先輩の呼ぶ声がハッと聞こえた。挨拶だけして逃げるようにそそくさと帰ったことを怒っているわけじゃなさそうなのは聞こえてきた声色で察せたけれど、そもそも千夏先輩のほうから名前を呼ばれること自体が少なかったせいか、内心では振り向くのも恐くて不安だった。
「千夏先輩、どうしたんですか?」
それでもどうにか平然を保って振り返ると、千夏先輩が右手に
「これ、蝶野さんのスマホだよね?」
「…あぁ!」
何を持っているかと思ったら、私のスマホだった。
「ありがとうございます…!でも、なんで千夏先輩が?」
「ちょうど整骨院出るときに先生が蝶野さんの名前を呼んで出てきたから、事情を聞いて私が代わりに届けようって」
「あれ?千夏先輩って私の家の場所知ってましたっけ?」
「商店街がある方向に歩いてくのが見えたからそのまま走ってきた」
「この距離でよく私のことがわかりましたね…(見失ってたらどうするつもりだったんだろう…)」
整骨院を出たら、ちょうど私の歩いている後ろ姿が見えたからここまで走って
「…本当にありがとうございます。千夏先輩」
“ごめんなさい”という言葉が出そうになったのをグッと堪えて、千夏先輩からスマホを受け取った私は届けてくれた感謝を告げた。千夏先輩に向かってその一言を言ってしまうと絶対に気を遣わせてしまうだろうから、どうにか耐えた。
「ううん。蝶野さんのスマホがすぐに戻って本当によかった」
平然を装って何とか取り繕う私に、千夏先輩はそう言って小さく笑った。相手に気を遣った表面上の笑みなんかじゃない、こっちに視線を向けられるだけで周りの空気が数度くらい暖かくなるような、嘘偽りのないヒロインの笑顔。
「それじゃ、帰り気をつけてね」
「はい…ありがとうございました」
忘れてきたスマホも手元に戻って、お互いに話すこともなくなって、千夏先輩がトートバッグを背負った右手で軽く手を振って、今度こそ解散。どうやら気まずいと感じていたのは私だけだったみたいで、いざ面と向かって話をしてみたらそこにいたのは優しくて可愛くて気配り上手でスポーツもできて
「……」
猪股家がある方向へ歩き出した千夏先輩を、私は背を向けることなく立ち尽くすように見ていた。大喜の
「…っ」
それでも、いま言わなかったらもう二度と千夏先輩へ
タッ_
私は千夏先輩に
「千夏先輩っ!」
気がつくと私は歩道を歩く千夏先輩のもとへ走って、呼び止めていた。いま振り返るとこのときの私は覚悟を決めたっていうより、つい魔が差したって言葉のほうが近かったかもしれない。
「…大喜から聞きました。千夏先輩と付き合うことになったってこと」
どうしたの?って様子で振り返った千夏先輩に、私はずっと伝えたかったことを伝えた。恋のライバル…なんて言うには烏滸がましすぎるぐらい振り返ると私の独りよがりだったけれど、大喜がこの人に抱いている想いに負けないくらい、私はあいつに好きという想いを抱いていたのは本当のことだから、逃げたくなんてなかった。
「あっ、もちろんこのことは誰にも言ってませんし絶対に内緒にするって約束します。ただ千夏先輩には話しておいたほうがいいかなって、本当にそれだけです」
できることなら、この言葉は大喜から打ち明けられた日のうちに伝えるべきだったのかもしれない。だけど15になってからの私の1年間にあまりにも色んな
「なので…もし大喜が千夏先輩を泣かせたり怒らせたりするようなことをしたら私に言ってください。
言い終えた瞬間、やっと言えたっていう達成感みたいな感情は不思議と湧いてこなくて、代わりに感じたのはたった10秒で終わるこの言葉をどうして私はずっと言えなかったのだろう…っていう気持ちだった。
「…大喜くんはいい友達を持ったよね」
伝えたかったことを伝えた私の目を真っ直ぐ見て、千夏先輩は呟くようにそう言ってまた笑った。今更ながら、よくもまあ一歩間違えれば関係を壊すような真似をした人にもこんな魅力的な笑顔を振りまくことができる心を持つ人に、私は勝負を挑んだものだ。
「ホントにそうですよ。何ならもっと感謝しろってくらい」
「ははっ、私からももっと感謝したら?って言っておこうかな」
「千夏先輩から言われたらきっと効果絶大ですよ」
何だかもの凄く久しぶりに、なんのわだかまりもなく千夏先輩と会話したような気がした。学年も部活も違うから普段から実はそんなに話す機会はなかったけれど、例えるなら大喜と千夏先輩が同居していることを知ってしまったあの日よりも前に、ようやく戻れたような気がした。
「じゃあ、これからも
千夏先輩にとっての私が“大喜のことが好きな人”から“大喜の友人A”に戻った瞬間、心の中が
「もちろんです」
別に誰かに話すほどのことじゃないけれど、飛鷹くんが蝶野家にやってくる
コンコン_
「飛鷹くーん。ご飯できたってさー」
夕飯ができても部屋から出てこない飛鷹くんを、2階の部屋に上がって呼びに行く。いつもはお母さんが“ご飯できたよ”って言うと必ず私より先に1階のリビングに降りて手伝いをしてる飛鷹くんが、今日は初めて降りてこなかった。
「(…これは聞こえてないパターンね)」
部屋の扉をノックしても、そこそこ大きな声で呼びかけても中から声は返ってこない。昨日と同じで聞こえてないパターンだと察して、飛鷹くんの部屋の扉を開ける。
「…寝てるし」
扉を開けると、勉強机に真新しい教科書とノートを広げたまま突っ伏して寝息を立てる飛鷹くんがいた。
「もー、こんなところで寝てると風邪ひくよー?」
寝顔を見たいがために起こさないように足音を立てないままそろりと近づいて、英語の勉強をしていた途中で寝落ちてしまった飛鷹くんに向けてギリギリ聞こえそうなくらいの声量で呼びかけてみるけど、起きる気配がない。これは中々に深い眠りに就いているとみた。
「(総当たり戦であれだけ張り切ったあとに勉強って、そりゃこうなるでしょ…)」
あれだけ身体全体を使うハードな試合を本番よりも短いインターバルで放課後にぶっ通しでやれば、家に帰って自分の部屋に戻ったら気が抜けてこんなふうに爆睡するのは無理もない。なのに家に帰ったらお父さんの琢朗さんから言われた文武両道の約束を律義に守って、英語の教科書とノートを広げて予習をしていた蝶野家にすっかり馴染む
「…今日は全部
今日の総当たり戦でライバルに勝ったことを私に直接言わないまま寝ている飛鷹くんへ、もう一度ギリギリ聞こえるくらいの声で呼びかける。新体操部が練習で使っているコートのところまで確かに聞こえた、大事な試合で勝ったぐらい感情が乗った雄叫び。あれだけ“絶対勝つ”と言っていたライバルの子に勝てたことが嬉しかったら、家に帰っても勉強なんてそっちのけでずっと有頂天に自慢してきそうだなって、まだ小さかった頃のイメージが頭の片隅に残っている私は勝手に想像してたけど、全然そんなことなかったな……って、5年も経って小学生から高校生になったんだから当たり前か。
「…Zzz」
でも……寝てるときに口が半開きになるところは、変わらないんだ…
「…しゃあ。また俺の勝ちだぁ」
勉強机に突っ伏したちょっとだけ間抜けな
「勝てるもんなら勝ってみやがれぃ……俺ぁ栄明の鷹だぁ」
「ぷっ……ぁはははははっ…!」
って一瞬考えたけど、二言目の寝言がツボにハマって思わず腹を抱えるくらい笑ってしまった。
「…雛姉?なんでいんの?」
「あはっ、ごめん。ご飯できたから呼びにきた」
「何で笑ってんの?」
「ううん何でもない」
声を上げて笑ったら、案の定机に突っ伏していた飛鷹くんはムクっと起き上がった。とりあえずいまの寝言はインパクトが強すぎて、しばらくは頭の中に残って思い出し笑いの種になりそうだ。
「…ってかめっちゃ爆睡してたわ俺」
起き上がって10秒くらいして、英語の勉強をしている途中で盛大に寝落ちたことに気付いてまだ微かに眠気が残っていそうな目をこすって自嘲気味に軽く笑う飛鷹くん。
「当たり前でしょ。総当たり戦であんなに動いたあとだよ?私だったら即ベッドにダイブしてるわ」
「ぶっちゃけ俺もそうするか悩んだわ」
「悩んだ末に英語の勉強を選んだってわけね」
「そう」
「でも結局寝ちゃったけどね」
「まさに
「え?」
「ん?」
こんなふうにふとズレた部分とか抜けた部分が出てきたりするところがやっぱりまだどこか子供っぽくてカワイイから、何気なく話しているだけで嫌なことも忘れられて元気になるって私は思っていたりする。
「…てかもう夕飯できてね!?」
「って言ってるんですけどねさっきから」
「面目ない…」
目標に向かって突き進む自分の前に立ちはだかるライバルに早くも出会った飛鷹くんには、これから始まっていく3年間の中で数えきれないくらいたくさんの出来事が積み重なっていくだろうけど、その中には胸が張り裂けそうになるくらい苦しくなる瞬間も、どこかで訪れるかもしれない。
「…好き」
そんな思いを経験しないまま普通にバドミントンで大活躍して、卒業して大人になっていくのもアリかもしれないけれど、飛鷹くんにはなるべく色んな思い出というものを全力で経験していって欲しいなって私は思う。たかが1学年だけ先輩のくせにって偉そうに聞こえるかもしれないけど、最初の1年で
「大丈夫だよ。もう俺は1人でも立てるから」
だから、
「そういえばまだ言ってなかったけど……俺、晴人に勝ったよ」
部屋の扉を開けて廊下に片足を踏み入れたタイミングで、飛鷹くんは思い出したようにライバルに勝ったことを私へ告げた。
「ありがとう。雛姉」
そして私が振り返ったところで、飛鷹くんは誇らしげな表情で笑いながら“ありがとう”と言った。意味を聞き返さずとも、私に伝えたいことはすぐに分かった。
“…全部君の実力だよ。飛鷹くん…”
本当は100パーセント自分の実力だって飛鷹くんも分かっているくせに、この目を見る表情があまりにも本気で私の送ったパワーのおかげだって信じていたのが純粋に嬉しくて、頭に浮かんだ言葉でそのまま返すつもりがついこっちも悪戯心が働いて違う言葉をかけてしまった。
「うん。どういたしまして」
もちろんこの
「言っとくけど飛鷹くんが勝ったのはとっくに知ってるよ。“しゃあ”って雄叫び上げてたのこっちにも聞こえたし」
「マジか」
「飛鷹くんって結構通る声してるからさ」
「確かにあの体育館って無駄に音響くからなー」
「そういう問題?」
これは、他の誰かに話すほどのことでもない、
何気に17話目にしてようやく喋った千夏先輩でした。今のところめっちゃ出番が少ないですが、主人公を晴人やあかりの代にしてしまったおかげで展開の都合上なかなか出番を増やせないってだけで避けているつもりは全くございませんので、どうかお許しください…
というわけで今回は、実質サイドストーリーにあたるお話でした。今後も節目節目でこういう幕間みたいな話を入れていこうと思います。