「最後の試合で俺が負けた理由、分かったかい?」
インハイ予選前の最後となる自主練習で、少し遅れて雨音が響く体育館のコートに姿を見せたお兄さんから求められた、宿題の答え。
「はい。自分なりに」
あの大接戦の試合映像を見て、中身は違えど欲が出て今まで自分が一度も勝てていなかった先輩に勝てたかもしれなかったチャンスを自ら捨てた自分のプレーを振り返り、辿り着いたひとつの答え。
「…自分の欲に負けたからだと、試合映像を見て思いました」
「欲っていうのは?」
自分なりの答えを言った俺へ、お兄さんは“欲”の中身を掘り下げた。
「俺の感覚ですけど、お兄さんの中で相手に勝ちたいっていう気持ちよりも、純粋にこの
はっきり言って、あの試合映像だけでお兄さんがどうして負けたのかなんて全部はわからなかった。ただ画面越しで俺が感じたことは、お兄さんはずっとこの試合を心の底から楽しんでいるように見えたということ。
「最後だって決めてた試合だから、心のどこかで“終わらなければいいのに”と思ってしまった……俺がお兄さんの立場であのコートに立っていたら、きっとそう思ってます」
決勝のフルセットを通じて明らかに相手に機会を与えるミスらしいミスはなく、決めるべきタイミングでしっかりとショットも決めていた。佐知川高校の相手選手も同じで、一進一退の攻防がフルセットに渡って続き、本当に僅かな差でお兄さんから勝利を奪い取った。だから俺の中でお兄さんが負けた理由が明確にあるとして頭に浮かんだのは、せいぜいこれぐらいだった。
「…いま羽鳥君の言った答えがもし
欲の中身を自分なりに答えると、お兄さんは逆に問いを投げた。
「一瞬たりとも油断しないで相手に勝つことを意識し続ける……ぐらいしか今は思いつかないです」
いきなり向けられた問いかけを前に、俺はありきたりな答えで返すことで精一杯だった。きっと違うだろうなというのは、準備運動をしながら頷くことも首を横に振ることもなく俺を見つめるお兄さんの“やっぱそう答えるよね~”と言わんばかりの表情を見て、一瞬で察した。
「なるほどね。確かにあのときの俺が相手に勝つことよりも最後の試合を終わらせたくないという思いのほうが強かったせいで負けたんだとしたら、羽鳥君がいま言った答えも正解かもしれない……だけどさ、どれだけ後出しの答えが浮かんできたとしてもあの試合の結果は覆らないんだよ」
俺が質問の本質に辿り着けていないことに気付いたお兄さんは、自分のラケットをバッグから取り出してクールに笑いながら答えを教えてくれた。
「スポーツに限らず、
「…その失敗って」
「わざわざ俺が教えなくとも、上には上がいる羽鳥君ならそう遠くないうちに分かるはずだよ」
ただし、お兄さんがインターハイの決勝で犯したという
「お、晴人じゃん」
1回戦を難なくストレートで勝ち、シード権を持つ針生先輩の2回戦の応援も終わり、次に備えて身体がクールダウンし過ぎないように軽くランニングをしようとコンコースから外へと出ると、俺と同じく2回戦を控える晴人がヒールトゥバットをしていた。
「何の用だ?」
「2回戦へ向けてちょっくらアップをしようかと」
「なら勝手にやってろよ」
「冷てえなあ俺らって一応同じ学校じゃん」
異なるバドへの価値観が故の毒を吐かれながら、隣に立って俺もランニングに向けた軽めの準備体操を始める。1回戦なんて前座も前座だっていうほど自惚れてはいないけれど、ぶっちゃけ全中経験者の俺にとっては思っていた以上に楽勝だったからまだまだ物足りないのが正直ないまの心境だ。
「晴人こそここで何してんの?」
「次の試合が始まる前に軽く走る」
「俺と一緒だ」
「そんなことだろうと思ったよ…」
これからランニングすることを告げると、わざとらしい溜息交じりの口ぶりとあからさまに不服な表情を浮かべて晴人は一瞥だけしてすぐに視線を前へ戻す。相も変わらずこの一匹狼は、俺に対しては輪に掛けて素っ気のない態度だ。
「せっかくだから一緒に走ろうぜ」
「競走はナシな」
「しないよ。ウォームアップでバテるぐらいダッシュしたら試合に響くし」
なんてことは一切気に留めず、準備体操を終わらせた俺は晴人と一緒に体育館の敷地内を走り始める。お互いにこの後も試合を控えているから、あくまで5割程度のペースで足を進めていく。どう考えてもいま思い出すことじゃないけれど、こうやって誰かと一緒に走っていると恵介と近所の山まで毎朝走っていたときの光景が頭の中を駆け巡って来そうになる。
「つーか今日めっちゃ天気いいよな晴人」
「……」
「やっぱ晴れてるとそれだけで気分とか上がんね?」
「……」
「いくら俺と話したくないからって無視は酷くない晴人くん?」
「うっせえ気が散る」
「やっと喋った」
恵介と一緒に走っていた3ヶ月前と同じような感覚で会話を振ってみるも、俺に対しては塩対応な晴人は是が非でも無視をし続け目を合わせるような素振りも見せずただ前を向いて同じペースで走り続ける。もちろん俺は、こいつのこういうところは
「(…よく見るとやっぱ似てるわ)」
横並びで走る一瞬、左を走る横顔を何気なく見る。右からの雑音を排除して前を向く横顔は、やっぱりお兄さんとそっくりだ。
「俺が強さに拘るのは、俺より先を歩く奴を全員ぶっ倒して
「なに見てんだよさっきから?」
その瓜二つというほどではないが誰もが見比べれば兄弟だとほぼ一発で見分けられるくらいには似た横顔にもう一度視線を投げると、ちょうど横目が合って怪訝な表情と言葉が返ってきた。
「いや、兄弟ってやっぱ顔見たら似てるもんだなってさ」
「
「どんだけ嫌ってんだよお兄さんのこと」
「他人の
素直に思ったことをそのまま告げたら、案の定と言わんばかりに晴人は冷たく言い返す。まあ確かに、兄弟の仲がどうこうの話は他人の俺には関係ないことだ。
「俺は一人っ子だからさぁ、兄弟とかがいる晴人とか千木良が羨ましいんだよね。絶対賑やかだし」
「世の中の兄弟姉妹が全員仲が良いと思ったら大間違いだぞ」
「ははっ、それも一理あるな」
「ったく笑い事じゃねえんだよこっちは」
ただ一緒にするなと言いながらも、晴人にとってバドで高みを目指す原動力がお兄さんだってことは、赤の他人な俺でさえも言葉の節々から感じ取れる。
「…邪魔なんだよ……1年先を行く
10歩分の間を空けて、視線を前に向け続けながら晴人がポツリと呼吸のリズムが乱れないように呟く。県大会で優勝した中3のときの自分を棚に上げるつもりはないが、少なくとも晴人は俺よりも多くの敗北と挫折をここに至るまでに味わっている。その悔しさが
「あとお前も」
「流れるようなディス」
贅沢な悩みだと言われたら言い返せる言葉なんてない。だけど俺は、晴人や千木良みたいに身の回りで自分より上を行く存在が常にいる環境にいた人が大変だと思うのと同じくらい、羨ましくも思う。
「…晴人。ひとつ聞いていいか?」
「柊仁の話は却下」
「あざっす」
「勝手にOKすな」
かつての自分を走りながら思い返していたら、自分より
「これは
ぶっちゃけこの後に試合を控える奴へこんなことを聞くのも癪だが、どうしても晴人の考えを参考までに聞いてみたくなった。
「…精神攻撃は効かんぞ俺には」
そんな俺に晴人は残念だったなと言わんばかりのスカした表情で返し、ここまでペースを乱さず動かしていた足をゆっくりと止めに入る。いつの間にか俺たちは、体育館の周りをちょうど一周してスタート地点に戻っていた。
「そんなこと考えたって時間の無駄だろ。現実に
呼吸を整え、晴人は俺のほうを向いてどこかの誰かさんと負けず劣らずのスカした表情を貫いたまま自分の中にある答えを明かした。虚栄心の強がりなんかじゃない自信が、堂々とした口ぶりとブレない眼つきに現れていた。
「これで満足か?」
返答を待たずに、晴人はわかりやすく切り上げようと話を終わらせにかかる。
「晴人は強いな」
「チッ、お前に言われても1ミリも嬉しくねえ」
嫌味でも皮肉でもない純粋な感想を告げると、晴人はわざとらしく舌打ちをして1ミリも嬉しくないと吐き捨てそのまま俺を置き去りにするように体育館の中へと足を進める。
「…ビビってんのか?」
去り際に、晴人がボソッと問いかける。当然ながら、俺はビビっているわけではない。
「いいや。ただ晴人だったら何て答えるか気になったってだけよ」
「…そうかよ」
そのことを伝えると、晴人はどっちつかずなリアクションを返して今度こそ足早な足取りで体育館へと戻って行く。
「(
晴人の背中が見えなくなったタイミングで、俺も同じ方向へ足を進める。“もしも”のことなんて考えたところで時間の無駄……と千木良兄も言っていたように、そう割り切れている時点で晴人のメンタリティーは俺よりも一歩先を行っている。今のところはどうにか晴人に対しては全勝でここまで来れているけれど、本番になって覚醒してそれが覆されることなんてバドに限らずスポーツでは幾らでもある話だ。
「(ていうか、その前に
とはいえ、晴人と同じコートで戦うには互いに準決まで勝ち上がらないといけない上、俺に至っては佐知川のエースに勝たないと駄目なのだが……ホントに俺が勝てるんか?去年の県3位に?いやいやそれは去年のことだから今は関係ないだろ、俺。
「(…この人…)」
と、初戦を突破した余韻が切れてほんのちょっとだけ不安が募り出した心に自分で喝を入れながらコンコースへ入ると、見覚えのある女の人がゆっくりとしたペースでちょうど目の前を歩いていた。
「……」
話したことはないものの栄明に通う
「お疲れ様です」
「お疲れさま」
ひとまずは後輩としてご挨拶をすると、千夏先輩は静かに笑みを浮かべて同じ言葉を返してきた。学校の中では何回かすれ違ってはいるが、こうやって直接話すのは俺にとっては何気に初めてだ。厳密に言えば体育祭で青組の円陣を組んだときに一瞬だけ目は合ったことがあるけれど。
「あぁ、俺はバド部1年の羽鳥飛鷹です」
とりあえずお前は誰だよって話になるからと、俺は無難に今更ながら千夏先輩へ自己紹介をする。
「知ってるよ。針生くんから“面白い1年生が入った”って羽鳥くんのことは聞いてるから」
「へぇ~マジですか」
話すのは初めてだからと名乗った俺に、立ち止まった千夏先輩は微笑みを崩さないまま針生先輩から聞いていることを明かす。というか針生先輩、俺のことそんなふうに思ってたんか。
「千夏先輩も応援に来たって感じですか?」
「うん。花恋っていう友達と一緒に」
「あの隣に座ってた人ですよね?」
「そうそう」
「うわ~いいっすよね友達と一緒に応援したい人を応援するって」
「ふふっ、そうだね」
西田先輩からの話によれば、モデルをやっている花恋さんという針生先輩の彼女さんに付き合う形で栄明の応援に来たという千夏先輩。こうして目を合わせて話してみると、あまりにも綺麗だから本人とちゃんと話せているはずなのに何だか現実感が湧いてこない。
「羽鳥くんも1回戦突破おめでとう」
「えっ見てくれたんすか!?」
「うん。良いプレーだったよ」
しかしながら、こんな朝ドラのヒロインをやっていても全く違和感がない超がつくほどの美人がただの高校生とか、ホントにどうなってんだ埼玉県。
「うわ、それはマジで嬉しいっす…」
でもそうだよな……俺以外の誰かにとっては雛姉もこんな感じに見えているってことだよな……
「一本っ」
てか今朝の雛姉、今までで一番可愛かったな……
『コールします。試合番号_』
我を忘れかけた意識を呼び戻すように、コンコースの向こうからやや籠った試合のコールが聞こえてきた。何だかよくわからないけれど、俺史上トップレベルでキモいことを一瞬だけ考えていたような気がした。
「戻ろっか」
「はい」
会話が一旦途切れた頃合いで、千夏先輩がそう言ってゆっくりと客席の方向へ左の足から踏み出す。
「あ、先輩。足は大丈夫なんですか?」
右足を少し庇いながら歩き出した千夏先輩を見て、怪我をしていることを思い出した俺は考える前に咄嗟で声を掛けた。
「ちゃんと固定してあるから大丈夫だよ」
「いやでもまだ痛むんじゃ?」
「ちょっとだけ痛むけど、もう歩く分には大丈夫だって病院から許可も貰ってるから」
「あぁ、そうすか…」
「これもリハビリだよ」
右足のスリッパの隙間から、サポーターでガッチリと固定された足首が見えた。堪らず怪我をした右足の心配をする俺の顔を見て、千夏先輩はリハビリだと気丈な素振りで微笑む。確かに1週間で松葉杖が要らなくなったってことは、本当にスポーツをやっていればたまにあるレベルの怪我だったということだろう。
ただ千夏先輩の場合は、たまに起こる怪我が最後のインターハイで起きてしまった。
「でも途中で痛みがひどくなったら言ってください。俺が席までおぶるんで」
「さすがにこの後試合に出る人におぶってもらうのは悪いよ」
「こういうときのために普段から鍛えてますし、試合に向けたいいアップにもなりますんで」
「そう?」
掛ける言葉が見つからず、だけれどせめて空気が重くならないようにと足の心配をしつつ明るく振る舞う俺とそれを暖かい表情で見つめる千夏先輩という、もはや謎でしかないツーショット。別に本人はもうウインターカップへ向けてチームを引っ張っているくらいだから気にしてもしょうがないとはいえ、いざ直面するとただ試合で自分が勝つことだけを考えている自分に罪悪感を感じてくる。
こんなときにふと思ってしまうのは、肝心なときに限って他人は他人、自分は自分と完全に割り切ることができなくなってしまう不器用な俺の弱さだ。
「…言っておくけど私は本当に大丈夫だよ」
心の内を察したのか、それともただの気遣いか、ゆっくりとした足取りで歩く千夏先輩がペースを合わせて隣を歩く俺へ視線を送る。
「ありがとね。羽鳥くん」
直接的な言葉で伝えているわけではなく、表情も変わらず穏やかなままだけど、向ける眼つきとほんの少しトーンが落ちた声が、“今は自分のことだけを考えろ”と言っているように感じた。
「いえ、こっちこそありがとうございます」
その通りだと、たった一言でハッとさせられた。俺が今ここにいるのは、インターハイへ行くという約束を果たすためだ。他人の心配なんかしている場合じゃない。
「何のこと?」
「今のは独り言なので聞き逃してくれると助かります」
些細なきっかけで思い悩んで、些細な一言で立ち直っていく繰り返し。本当に俺という奴は、バドを始めたときから単細胞なバカのままだ……だけどこの身体と心が強くなるやり方は、これ以外知らない。
『続いて女子シングルス2回戦の試合をコールします_』
「一本ーっ!」
「ファイトー!」
初戦が終わりクールダウンしかけていた心が女バスのエースが内に秘める強かさを垣間見たことで再び揺り起こされ、俺は隣を歩く千夏先輩の足元を気にしながらコールと応援の声が響き渡る客席へと戻った。
「…遊佐……オイ遊佐っ!」
「……?」
遠くのほうから俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきて、いつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
「いくら佐知川のエースとはいえ、試合が終わっても客席に戻らずこんなところで居眠りこくのは良いご身分過ぎないか?」
「寝てないよ。ここから決勝までのペース配分のことを考えていたらちょっと眠くなっただけ」
「寝てんじゃねえか結局」
スタジアムベンチの上で横にしていた身体を起こすと、名前を呼んだ同期の
「それより早く観に行くぞ。
そんなことなどもはやどうでもいいと言いたげに、望月はリフレッシュを終えたばかりの俺を急かす。まず栄明の
「こんなすぐに栄明の試合なんてあったっけ?あの猪股くんも2回戦はとっくに終わってるよね?」
「はぁ…ほんっとお前は他人に無関心な奴だな」
「猪股くんは他人だよ」
「そういう意味で言ってねえ」
察しが悪い恰好の俺が悪いのか、呆れ半分の溜息を望月は吐く。一緒に試合を観たいなら素直にそう言えば済むだけのことなのに、相変わらず卑屈な奴だ。
「この前の練習のとき土産持って挨拶に来た五百崎さんが俺たちに言ってただろ。栄明に
「長野の強豪でバドやってる従弟から聞いた話だけど……その1年生くん、全中に出たことのあるかなりの実力者らしいよ」
「…あー、そういうことか」
五百崎さんの名前を聞いた瞬間、やっと思い出した。佐知川に進んでいれば1年の代で一番上になれている程度の実力がある晴人ですら1セットも奪えていない、全中に出場したという長野県からやってきたらしい栄明の1年生。
「観るならさっさと来いよ。もう試合が始まる」
ただ俺はまだその人のことを人伝でしか聞いていないから、どのような選手でどれほど強いかなんて全く知らない。
だけどあの人がわざわざ佐知川に顔を出して俺たち後輩へ話していたのは、紛れもなく選手としての素質やプレーに
「(…どんな人なんだろう)」
コートで競い合う者としての微かな期待に胸を躍らせて、俺は2回戦の最終試合を観にスタンドへ向かった。
43話目にして、初めて飛鷹と千夏先輩がまともに話しました。
千夏派の人がいらっしゃいましたら、出番が少なくて本当にごめんなさいとしか言えません。