鷹と蝶   作:ナカイユウ

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初めてのライバル

 大喜と匡くん、にいなや菖蒲ちゃんと出会う前。私には()()()()()という友達がいた。

 

 

 「今日から新しく入るのってあそこにいる子?」

 「せんせーが言ってたけど“こうべ”ってところから来たらしいよ」

 「ゆうなのおかあさんはおにいさんも体操習ってるって言ってた」

 

 

 私が凛桜ちゃんと初めて会ったのは、小2の夏休みが終わり2学期に入ってすぐのことだった。兵庫県の神戸というところから親の仕事の都合で埼玉(こっち)に引っ越してきたという新しいクラブメイトに、みんながワクワクしていた。

 

 

 「神戸から来ました(あま)(つじ)()()です。新体操は4月に始めたばっかでこっちのことも全然わからんくて不安やけど、精一杯がんばります」

 

 

 第一印象は、雪原みたいに綺麗でふわりとした白銀色の髪とパッチリと大きく透き通った琥珀色の瞳をした、まるで天使みたいに浮世離れした雰囲気を纏った関西弁の女の子。

 

 

 「りおちゃんって言うんだ!今日からよろしくねっ!」

 「うん。よろしく」

 「あたしの叔父さん神戸の人だよ!」

 「ほんまに?」

 「そう!」

 「ちなみにウチは長田ってとこ」

 「叔父さんは()()()ってところ!」

 「芦屋は神戸ちゃうよ?」

 「そうなの!?」

 「ていうかゆうなテレビとユーチューブ以外で関西弁聞いたの初めて」

 「ほんまは()()()()()やけどね」

 

 

 “天使”と周りのみんなから言われる可憐な見た目に反した本人曰く“あくまで神戸弁”だというネイティブな関西弁とマイペースな振る舞いのギャップで、凛桜ちゃんはあっという間にクラブのみんなと仲良くなって馴染んでいった。

 

 

 「すごいじゃない天辻さん!開脚ジャンプ成功だよ!」

 

 

 そして何より凛桜ちゃんは、体操のセンスがめちゃくちゃ高かった。まだ始めてから半年も経っていないのに1年以上続けても滅多に成功できないような技をバンバンと攻略していって、演技練習になると上級生の先輩も顔負けするぐらいの演技を見せることもあって、あっという間にクラブのみんなから一目置かれるようになった。

 

 

 「雛ちゃん。どうやったら雛ちゃんみたいに真っ直ぐ足上げたまま回転できるようになるん?」

 「それはまだ凛桜ちゃんには難しいんじゃない?」

 「ウチも雛ちゃんのようにもっと上手なりたいんよ」

 

 

 類は友を呼ぶ。なんてことわざが当てはまるかは分からないけれど、みんなから持て囃されるようになった凛桜ちゃんの話し相手は自然と同じく周りから一目置かれていた1学年上の私になった。ジャンプの仕方やコツといった新体操の話から、休憩時間にそれぞれの家族のことや学校で起きたちょっとしたエピソードまでを色々と話すうちに、互いに末っ子同士という共通点もあって私と凛桜ちゃんは友達になった。

 

 

 「雛ちゃんとおるとほんまに新体操楽しいわ」

 

 

 日本代表だったお父さんの影響もあって学校でもクラブの中でも本音で話せる友達がいない中、私によく構ってくる凛桜ちゃんは初めてできた()()()()()で、大喜たちと出会う前の私にとっては新体操を楽しいと思える心の支えだった。

 

 

 「どうしたの凛桜ちゃん?」

 「…新体操嫌や」

 

 

 そんなある日、いつもと変わらず練習していたときに凛桜ちゃんが突然練習を抜け出そうとして軽い騒ぎになったことがあった。小3以下を対象にした大会を1週間後に控えたときのことだった。

 

 

 「あかんわ。本番で失敗したらどうしよって考えたら頭ん中ぐちゃぐちゃで…」

 

 

 コーチから“雛ちゃんと話したいって”と言われて練習を中断して、私は体育館の隅でうずくまるような姿勢で座り込んでいた凛桜ちゃんの隣に座って、心の内を聞いた。素質は飛び抜けているけれど緊張しいで繊細な一面もあった凛桜ちゃんはそれのせいで日によって好不調の差が大きいところもあって、特に大会まで1ヶ月を切った辺りからは調子を落としがちだった。

 

 

 「…どうやったら緊張せんと演技できる?」

 

 

 重圧と緊張からくる愚痴を一通り吐き出した後に出てきた大粒の涙と、助けを求める潤んだ瞳。こうなるまでに一体どれだけ自分を騙して溜め込んできたのか、()()()()()()()を持つ私は子供ながらに全部投げ出そうとした凛桜ちゃんの気持ちを理解した。

 

 

 「…本番で緊張しないで演技するなんて無理だよ」

 

 

 嫌いになる気持ちが分かったのは、私も大会の前だとか本番の前は同じくらい緊張するから。ただでさえミスなんて許されないところに日本代表のお父さんの存在もいるわけだから、緊張しないほうが無理って話だ。

 

 

 「雛ちゃんが無理って言うなら無理やん…」

 「だから、その緊張を味方にするの」

 「…どうやって?」

 

 

 それでも自分なりとはいえ、緊張を和らげて逆にそのプレッシャーを利用する方法は知っていた。

 

 

 「雛の一番尊敬してる人が教えてくれたんだけど、自分の手のひらに“人”っていう字を3回書いて飲み込むと緊張がイイ感じに減って最高のパフォーマンスができるようになるんだって」

 「…それって迷信ちゃうの?」

 「でも雛はこれやったら大会で勝てるようになったよ」

 

 

 一番尊敬している人……もといお父さんから教わった緊張を和らげるおまじない。これが単なる迷信かと思いきや実はちゃんと心理的な根拠があると知るのはまた別の話として、私はこのやり方でいつも本番前に緊張を解いていた。

 

 

 「信じないでガチガチのまま本番に挑むんだったら、騙されたと思ってやってみたら?」

 

 

 意外と疑ってかかる一面もあった凛桜ちゃんへ、私はいまの自分ができる範囲のアドバイスをした。

 

 

 「わかった。雛ちゃんを信じる」

 

 

 ここにいるみんなの中で誰よりも本音で話せる友達に言われたからなのか、沈んでいた凛桜ちゃんの表情からようやく笑みがこぼれた。このときはまだお父さんから教わったルーティンはただのおまじないとしか思っていなかったからアドバイスというよりも励ましって感覚だったけど、吹っ切れたような笑顔を見せて立ち上がり練習へ戻っていく凛桜ちゃんを見て、私もまた勇気づけられた。

 

 

 「というわけで改めて……蝶野さん優勝&天辻さん2位おめでとう!!」

 

 

 そうして迎えた小3以下の部の本番で凛桜ちゃんは見事に会心の演技をして、優勝した私に続く2位に輝いた。中学や高校で例えるなら地区予選レベルの大会だったけど、物心がついて間もないときからこの競技をやっていた私からすれば新体操を始めて1年と少ししか経っていない人が地区大会で2位になるのはとんでもないことだった。言ってしまえば凛桜ちゃんは、何年かに一度出てくるかってくらいの“天才少女”だった。

 

 

 「メダル取れたのは雛ちゃんのおかげや。ほんまありがと」

 

 

 彼女の成長と才能を友達として嬉しく思ったのと同時に、生まれて初めて自分の前に現れたライバルに()()()()()()というものを感じた。

 

 

 「雛のこと信じてよかったでしょ?」

 「…うんっ」

 

 

 初めての恐怖を感じて、私は新体操がますます好きになった。蝶野選手の娘だからって特別扱いされるのに少しずつ窮屈さを感じ始めていたときにやってきた、凄いスピードでこの背中に追いすがってくる存在(ライバル)

 

 

 

 もし凛桜ちゃんがいなかったら……私も()()()()()()()()()()()新体操をやめて、全く違う生き方をしていた未来もあったかもしれない。

 

 

 

 「雛ちゃん……ウチ、また神戸戻ることになった」

 

 

 

 クラブにやってきてから1年半後の12月。()()()()()()()()は家族の都合で再び神戸へと戻って行った。

 

 

 

 それから凛桜ちゃんと再会したのは6年後。全中大会の会場でチームメイトから県外のライバルになってからのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「いやぁ、1年ぶりのこの空気はなんと格別なことで」

 「随分余裕だね?」

 「だって楽しみで仕方ないもんっ」

 「今更だけど雛ってほんと強心臓だよね。インターハイなのに」

 「潜ってきた修羅場の数が違うのだよ私は」

 

 遠征先の練習場から乗ってきたバスを降り、年に一度の大舞台を前にした光景に心躍らせながら見つめる。今日からの2日間のために、私は1年間ずっと新体操を頑張ってきた。もちろん、自分が壊れない範囲内で精一杯。

 

 「って言いたいところだけど、あんなに行きたがってた全中もインターハイもいざ来てみたらいつも大会前の空気に圧倒されそうになるのよね」

 

 この後の競技開会式、そして明日の本番を前にいつもよりテンションが上がり気味な私を見て強心臓だと感心するにいなへ、本心を伝える。テンションが上がっているということは、それだけこの身体は緊張しやすい状態にいるということ。当たり前だ。いま私の視界に入っている人たちは全国から勝ち上がった選りすぐりの選手(ひと)たち。この中で“優勝候補”は片手で数えられるだけしかいないと言われているけど、この大会に出るための片道切符を手にしている時点で誰しもが1番になれる可能性を秘めているのだ。

 

  「こういうときこそ。楽しまないと」

 

 出場する選手の中でどれだけ実力が飛び抜けていようと、たった一つのミスで全てが崩れると言っても過言ではないほどシビアな新体操の世界……勝つために必要なのはどんな状況に陥りようとピンチさえも楽しむ心意気と、やり切る執念。

 

 「はとこくんみたいなこと言うね」

 

 隣で会場の体育館の前に集まる他校の人たちに視線を向けたまま、にいなが私に呟く。

 

 「あんなに真っ直ぐ好きなことを楽しんでる子と一緒に住んでたら、嫌でも影響受けちゃうよ」

 

 咄嗟に“そんなことないよ”と返そうとして、やっぱりやめて強がりはせず私は思ったことをそのまま言葉にする。インターハイの会場を前に緊張こそしているけれど、ここにいる私は1年前の自分(わたし)と比べてこの空気を楽しめている。去年はワクワクよりも僅差でドキドキが勝っていたのに、今年は真逆。果たしてこれは経験による自信なのか、それとも同い年になった親戚(はとこ)から貰ったパワーのおかげか。

 

 「久しぶりに先輩らしくカッコいいところ見せたいな…」

 

 

 

 ()()()()……

 

 

 

 「ねえ、あれ()(うら)高校じゃない?」

 

 開会式を待つ午後の晴れ空の下に、去年のインターハイでも見た覚えがある胸元に学校のロゴマークが描かれた赤一色のウインドブレーカーの集団が我ら栄明高校・新体操部の目に留まる。

 

 「やっぱり今年も上がってきたね」

 「ていうかオーラが他の学校よりある気がするんですが?」

 「さすがインターハイ最多優勝校なだけあるわね…」

 

 女子個人と団体で共に県1位という戦績を引っ提げて今年もこの舞台に上がってきた、兵庫県代表・日浦高校。女子の個人と団体で共にインターハイ最多優勝の実績を誇り、日本代表選手を何人も輩出してきた“関西随一の名門”と呼ばれ体操界隈では知らない人はいない新体操の強豪。ちなみに栄明(こっち)の新体操部は今年もインターハイに出場するのは私だけで、悲しいことに選手層やチーム全体の総合力では歴然の差がある。

 

 「それに今年は“スーパールーキー”って言われてる1年生もいるし」

 

 そんな全国的にも1,2を争う強豪の新体操部から“スーパールーキー”と評される1年生が同じ舞台に立つとあって、正直言うと私がいま置かれている状況は穏やかとは程遠いのが現実。

 

 「…雛」

 「大丈夫。負けるなんて1ミリも思ってないから」

 

 大会会場の入り口に集まる様々な色や模様のウインドブレーカーや学校名の入った練習着を纏う人たちの中で、ただ1人だけ浮世離れしたオーラを放つ1()()()へ無言で視線を送り続ける私へ心配そうに声を掛けたにいなの言葉を遮る勢いで、絶対勝つと同意義の気持ちを呟く。

 

 この視線の先には、周囲からチラチラと向けられる視線など気にする素振りさえ見せず同じ色をしたウインドブレーカーの人たちと楽しそうに話す、私にとって初めての友達(ライバル)

 

 「(いつかこういう日がくるのは前から覚悟してたのに、嫌でも思い出しちゃうな…)」

 

 彼女が私の背中を追いかけていたのは、お互いがそれぞれ小3と小2だった時の話。去年に全中の女子個人で優勝を果たし鳴り物入りで全国屈指の強豪へ進んだ彼女は、今やもう一番の脅威だ。私にとって初めてできた友達で、インターハイで優勝する為には絶対に勝たなければいけない最大のライバル。少なくとも同じクラブで一緒に練習していたときは、凛桜ちゃんとこんなふうに相対するなんて思いもしなかった。

 

 「…負けてたまるか。これ以上」

 

 

 

 

 

 

 「“あんなもん”って言われても、これが私の実力。もちろん4位って結果には満足してないし悔しさもあるけど、いまの実力を受け止めて次に生かすだけだよ」

 「これが実力なんて嘘……だって雛ちゃん、()()()()()()()やん」

 

 

 

 

 

 

 

 「…あ」

 

 同じ学校(チーム)の人たちと一緒に話の花を咲かせていた琥珀の瞳が、目測で20メートルほど離れている私の視線をバッと捉えて見開く。

 

 「……」

 

 目と目が合った次の瞬間、新体操では珍しいショートカットの髪を軽くなびかせながら凛桜ちゃんはライバル校の私たちのほうへと向かって歩き出す。

 

 「雛…?」

 

 一点を見つめながら颯爽と歩いてくる凛桜ちゃんに、私も目の前から放たれる只者じゃないオーラに導かれながら前へと足を進める。それまで各々の方向を向いていた視線が一歩進むごとに少しずつこっちへ向けられ始めていくのを、張り詰め出した空気で感じ取る。体操界のスターを父親に持つ私からすれば試合会場でこうやって注目されるのは慣れたことだから、どうってことはない。

 

 「……」

 

 それは今まさに体操の日本代表選手として活躍しているお兄さんを持つ凛桜ちゃんもまた同じみたいで、プレッシャーと化した周囲の視線をむしろ楽しむかのように“天使”は静かに微笑みながら歩みを進め、お互い握手ができるくらいの距離まで近づいたところで立ち止まる。自惚れているわけではないけれど、大会に出る度に必ず違う学校の誰かの話題になる私たちふたりは、やっぱり()()()()()だなって思う。

 

 「久しぶりやな。雛ちゃん」

 「うん。2年ぶり」

 

 開口一番、ひとまずのご挨拶。こうして彼女と面と向かうのは、私が4位に終わった2年前の全中以来。

 

 「ごめんなぁ。ウチがあと半年早う生まれとったら雛ちゃんとおんなじ学年になれて去年もインターハイ出れたのに」

 「ううん、仕方ないよ。生まれてくるタイミングなんて選べないから何にもできないし」

 「これぞ神様の悪戯やね」

 「その代わりちゃんと2年分だけ強くなってここに来たから」

 「ふふっ、やとしたら待った甲斐あったな」

 

 少し息が混じったウィスパーな声から出てくる、飛鷹くんがごくたまにノリでやる似非とは違うネイティブな関西弁。私より数センチほど大きな背丈とふわりとした白銀色の髪はそのままに、色白で可憐な顔立ちはクラブのみんなから“天使”と呼ばれていた小学生のときの可愛さを保ちながらもどこか儚げな雰囲気が加わり、2年前と比べてまた綺麗で大人っぽくなった。それでも口を開けば一瞬でこれが凛桜ちゃんだって本能が理解して、気まずさは吹き飛ぶ。

 

 「凛桜ー!そろそろ行くよー!」

 

 「おっと呼ばれてもうた。てことやから楽しみにしとるよ、明日」

 

 ただ今は久しぶりの再会に浸る時間ではなく、背後から先輩たちに声を掛けられ“てことやから”と言って凛桜ちゃんは話を終わらせる。表情こそ穏やかだけど、真っ直ぐに私の目を見て微笑む瞳から覗く静かなギラつきは明らかに私のことを友達ではなく()()()()()()()で視ている。

 

 「こちらこそ。明日はよろしく」

 

 相手の意思を汲み取り、私も同じ感情を瞳に乗せながら言葉を返す。本当はもっと色んなことを話したいのはお互い様だろうけど、あいにく今はインターハイ優勝を賭けた()()()。再会からの馴れ合いも今は最低限でいい。

 

 「ほなまたっ」

 

 最後に互いで明日への健闘を称え合い、凛桜ちゃんは軽く手を振りがてらにウインクを送り同じ学校のウインドブレーカーを着た人たちのところへスキップするような足どりで戻っていく。

 

 

 「あんまり他校の人に迷惑かけんといてな凛桜」

 「すみません友達がおったもので」

 

 

 戻るや否や、先輩らしき人から軽く叱られたのか頭を下げて、そのまま日浦高校の部員たちと一緒に体育館の中へと進んでいく凛桜ちゃんを、私は目で追う。彼女の姿を目にした瞬間からずっと頭の中で駆け巡り続けているのは、2年前の全中の記憶(ひとまく)。振り返り過ぎるとパフォーマンスに悪影響が出るからなるべく消したいけれど、本人を前にすると頭が勝手にフラッシュバックを起こして離れなくなって、無性にライバルを目で追ってしまう。

 

 「……」

 

 あぁ、嫌だなこの感じ。本番が近づけば近づくほど、自分が制御出来なくなっていきそうなこの感じ。2年前みたいな()()()()()に陥りそうな予感が今更プレッシャーとなって押し寄せてくる。

 

 

 

 「どうか雛姉が……いや、()()()がインターハイで優勝できますように…」

 

 

 

 そんな嫌な感覚でさえ……()()()()のおかげで私はいま最高に楽しめている。

 

 

 

 「雛。私たちもいくよ」

 

 凛桜ちゃんのことをずっと目で追っていた意識に、にいなの声がバッと入ってくる。これでも“大本命”の期待と共に今年もこの舞台に勝ち進んだから、いっちょ前に気持ちを一気に切り替えて、止めていた足を進める。

 

 「うん。行こう」

 

 

 

 ここから明日の本番が終わるまでは、ただひたすらに巻き起こることの()()を楽しむだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ただいま」

 

 夜の10時。バ先で頂いたまかないが入ったビニール袋を片手に誰もいないワンルームの鍵を開けて、少し疲れ気味の身体で“ただいま”と声を掛けて中に入る。もちろんこの部屋の住人は私一人だから、“おかえり”の四文字は返ってこない。

 

 パチッ_

 

 なるべく音を立てないように玄関のドアをゆっくりと閉めて靴を脱ぎ、カーテンから覗く微かな街灯りを頼りに短い暗闇を歩いて灯りをつけると、すっかり見慣れていよいよ何も感じなくなった自分だけの部屋(すみか)が目に映る。

 

 バサッ_

 

 ローテーブルにまかないの袋を置きながら、小さな本棚の隣に置いている高1のときに受験祝いで親から貰ったお小遣いで買ったアコースティックギターを特に意味なく見つめる。体操一家に生まれたにも関わらず、私の部屋に体操に纏わるものは一切置いていない。代わりにあるのは音楽に纏わる雑誌や資料と、高2から続けているバイトで貯めたお金で買った機材。

 

 「(…さすがにインターハイの会場にギターケースなんて持っていったら“何しに来たんだ”ってツッコまれるよね)」

 

 愛用のギターを見て、小さな溜息の中で独り言をつぶやく。新体操の試合を応援しに行くのにギターケースを背負ってる人がいたら、場違いも甚だしいって話だ。

 

 「どんな顔して行こう…」

 

 明日のことを考え出したら、独り言が出た。リモートで会話したことは何度かあったけど、何だかんだ言って雛と両親に直接会うのは蝶野家を出てこの部屋で暮らし始めてからは初めてのことだから、謎に緊張する。別に家族とギクシャクしてるわけではないし、何ならつい数か月前まで同じ屋根の下にいたはずなのに緊張していること自体おかしな話だけど。

 

 

 

 

 

 

 「新体操をやめたい?」

 「うん……新体操のことが嫌いになったわけじゃないんだけど、100パーセントの力で向き合えないまま続けるのはみんなに対しても新体操に対しても失礼だなってさ…」

 

 中3の春。私は家族に“新体操をやめたい”と打ち明けた。新体操自体は嫌いじゃなかったしむしろ好きだったけど、成長期で身体つきが変化して小学生のときみたいな感覚で思うがままの演技をすることが難しくなって成績が伸び悩み、モチベーションを保ち続けることが出来なくなっていた。一方で妹の雛は壁を越えられずに停滞する私とは対照的に、県どころか全国レベルの大会に進むほど新体操でめざましい活躍をするようになっていた。それを間近で見て、これ以上己を犠牲にしてまで競技には向き合えないという自分の気持ちに気付いて、嫌いになってしまう前にやめることにした。

 

 「麦なりに悩みぬいて出した答えだろうから、いい結果を出してこいなんてお父さんからは言えない。ただ自分の中で()()()をつけるなら、せめて悔いを残さないよう終わりまで真剣に新体操と向き合い続けること……これだけはちゃんと守るとみんなに約束して欲しい」

 

 “ 新体操をやめる”という私の選択を、両親は尊重してくれた。代わりにお父さんは、私に区切りをつけるなりの覚悟を求めた。曲がりなりにもここまで必死に続けてきたとはいえ、いま取り組んでいることを最後まで責任持ってやり遂げられない人が()()()()を追えるはずがないのは自分でも分かっていたから、最後の夏まではもう一度本気で体操と向き合った。

 

 

 

 そうして挑んだ中学最後の夏は、県予選10位の結果に終わった。出し惜しみなくやり切っての10位だから、悔いは全く残らなかった。

 

 

 

 

 

 

 「……」

 

 新体操をやめてからちょうど4年。私は新しく見つけた自分の夢を歩いている……なんて大それたことを言えるようになるまでの道程はまだまだ遠いのが現実で、学業の傍ら壁際に置いたギターを持って人より少しだけ自信がある声と独学で身に着けたソングライトをお供に日が暮れた街に出て音色を奏でるも、対価はせいぜいその日暮らし程度が精一杯。とてもって程ではないけれど、違う選択(みち)を進んだ先の現状がこれなのは私としてはやや気まずいものがある。

 

 特に、お父さんと同じように()()()()()()を歩み始めた雛は、いまの私をどう思っているのだろう……

 

 ピロンッ_

 

 虫の知らせか偶然か、ポケットに入れていたスマホが着信を告げる。画面を見ると、雛からのメッセージ。

 

 『明日は寝坊しないようにね!_』

 

 「ぷはっ、私なんかより自分の心配しなさいよ…」

 

 両親とは別行動で会場へ行く朝が苦手な私へ向けた、妹からの忠告と蝶がモチーフのキャラクターのスタンプ。とても明日にインターハイの本番を控えているとは思えない余裕さが、姉としては羨ましいような心配なような。

 

 『り_』

 『雛も明日に備えて早く寝てね_』

 『(fight)_』←※スタンプ

 

 『うん!おやすみ!_』

 

 

 

 新体操をやめて雛に全部を()()()()()()()()()私にできるのは、たった1人の姉として妹のことを精一杯に応援することぐらいだ。

 

 

 

 「(今日はもうさっさと寝よ…)」

 

 就寝時間に差し掛かっているであろう雛とのやり取りを手短に終わらせ、5時起きの私は明日に備えまかないを食べてシャワーと軽めのスキンケアを済ませてそのまま眠りに就いた。




雛にとって新体操のライバルとなる凛桜の外見は、私がアオのハコにハマる前に読んでいた『アクタージュ』という漫画に登場する百城千世子というキャラクターをモデルにしています。ちなみにモデルにしているのはあくまで外見だけです。

そしてラストでは雛の姉である麦が現在の時系列で初めて登場したわけですが、設定はあくまで私の独自解釈です。

それと凛桜が使っている関西弁(※神戸弁ベース)については違和感が起きないよう自分なりに調べて言い回しを考えて書いているのですが、私自身は関西出身でなければ関西に縁もゆかりもないのでもし“この言い回しはおかしい”という有識者がいらっしゃいましたら感想にてご指摘をお願いします。
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