「ほら準備してー練習始めるぞー」
インハイ明け最初の練習。代替わりのミーティングが終わって西田先輩から部長を引き継いだ笠原先輩の指示で、俺はコートの準備を始めた。
「(…晴人だ。しかも雛姉となんか話してるし)」
支柱を取りに行こうとしたら、ちょうど行こうとした先で晴人と雛姉が何かを話していた。
微妙に距離があったのと体育館に響き渡る残響のせいで会話の中身ははっきりとはわからなかったけど、世話を焼く後輩を叱りつけている雛姉の表情を見て何となく察した。どうせまた晴人が誤解されかねないこと言ったりして怒られているんだろうと。
「(ははっ、一周回って仲良いまであるなこの2人)」
晴人が雛姉から叱られている光景を見るのは初めてじゃなかったから、普通に微笑ましい感じでギリ目線が合わないくらいの距離感で見届けた。やり取りが終わったら晴人になんで怒られていたか軽く聞いてやろうくらいの気持ちで俺は見ていた。
「……」
暫しのやり取りを経て、雛姉はプンスカとした足取りで新体操部のコートへ戻って行った。戻っていく一瞬、雛姉の表情が見えた。相手が気を遣う必要のない人だからこそ向けることができる、雑に突き放す感じ。
初めてじゃないはずなのに、“2人ってこんなに仲良かったっけ?”と思った。
「仲良いじゃん雛姉と」
「いまの見てそう思えるか?」
「おう。息ピッタリだった」
「なんか
「晴人って雛姉と話せると嬉しいん?」
「そういう意味で言ってねえ!」
「それはさぞ悔しかろう」
「当然。1位じゃねえから」
何というか、今まで一度も負けたことのなかった相手に初めて負けた気分がした。勝負もなにもしてないし何かが起きたわけでもないのに、謎に胸の辺りが少しだけ痛くなった。
「お前って好きな人とかいんの?」
「ところで飛鷹くんはなんでラケバ背負ってるの?」
外灯が照らす海まで続く道の途中、雛姉が隣を歩く俺のラケバに視線を送って聞いてきた。
「着いたらそこで素振りやる予定」
「旅行のあいだくらいサボっても罰は当たらないと思うよ?」
「一応先輩たちには“素振りしてくる”って言ってあるからちゃんとやらないとでしょ」
「真面目か」
あくまで“理由付け”のために持ってきたラケットで本気で素振りするつもりの俺を、真面目かと雛姉が冷静にツッコむ。
「何だかさ、こうやってみんなのところから抜け出して夜の道を歩くのってちょっと不良になった気分にならない?」
「あぁ、言われてみりゃわかるかも」
一定の間隔を保ち道なりに照らす光の下で、今や家族と同じくらい見慣れた横顔がそう言いながら微笑む。日が暮れて、宿舎に戻ったあとにこっそり送ったメッセで抜け出す恰好となったはとこ同士。確かに夜に抜け出すのは、ちょっとだけ不良っぽいかもしれない。
「また何か話したくなった?」
海に着く手前あたりで、ここまで一言も聞いて来なかった呼び出した理由を問われる。
「話したいっていうより、ただ単に俺が雛姉と一緒に海を見たくなったって感じ」
雛姉を呼び出したのは、この前みたいに本音で話したいってわけじゃない。単純に、雛姉と2人だけで海に行きたくなったというだけ。
「一緒に海見るならさっきまで普通にそういう時間があったんじゃない?」
理由を言った俺に、雛姉は少し不思議そうな顔でこう返す。
「そうじゃなくて。なんつーか、今ならマジで2人じゃん」
そうじゃないってことを言おうとしたら、却ってそれっぽい言い方になってしまって軽く自爆する。
「いやほら、海って夜は夜で綺麗だし誰もいない分視界も広がるからさ。っていうシンプルな意味」
「ぷっ、なんでちょっとテンパってんのよ?」
「帰ったあとに西田先輩あたりから色々聞かれたときになんて返そうか考えてるけどこれって言い訳が思いつかんから」
さすがに自分でも軽くドン引くぐらいには表現を間違えたからと半端に釈明して、収集が付かなくなって締まらなくなる。
「そういや大喜先輩と岸さん?って人が作った砂の城ってまだ残ってっかな?」
「よく覚えてるね相手の名前」
「大喜先輩のライバルってことは俺にとってもライバルになるわけだから名前だけは覚えといたわ」
インハイのお疲れ旅行という思わぬ形で、バド部の参加できる面子や新体操部の島崎先輩もいるとはいえ俺は雛姉と初めて一緒に海へ行くことになった。
一緒にプールに行ったことがなかった俺からすれば、雛姉の水着姿を見るのは初めてだった。もちろんめちゃくちゃ似合っていて可愛かったけど、ほんのちょっとだけ恥ずかしかった。
「せっかくだから着いたら俺も作ろうかな。城」
「だったら何でラケバ持ってきたし」
恥ずかしかったのは水着姿の雛姉を見たからというわけじゃなく、学校で会うみんながいる前で蝶野家の中にいるときと同じ距離感で話すのが、俺にとってはちょっとだけ恥ずかしく感じることがある。
だから今みたいに雛姉と2人だけのときは逆にフラットに話せたりする。
「海じゃなくて山だったけど、小さいときこんな感じの景色のとこを雛姉と一緒に歩いたの思い出すわ」
「そうだね。けどまさかまたこんなふうに自然みたいなところを飛鷹くんと歩くとは思わなかった」
少なくとも雛姉への気持ちが
「それは俺も」
小5の夏に
地上に出た新芽を出迎えたのは、直視するにはあまりに眩しいくらいに照り付ける
「着いたっぽいわ」
視線を前へ向けると宿舎から続いていた一本道の突き当りが見え、その先には日中にも歩いた砂浜へと続く8段の階段。海はもう目と鼻の先だ。
「うわ…綺麗…」
階段を降りて砂浜に足を踏み入れた雛姉が、目の前に広がる海を見て呟く。
少しの雲が流れる夜空に浮かぶ満月が、周りに散らばる幾つもの星と共に穏やかに波打つ水平線を優しく照らす。呼び出した分際が思うのもあれだけど、夜の海がこんなに綺麗だなんて知らなかった。
「センスあるじゃん。飛鷹くん」
一歩分だけ前に出て振り向き、水平線と海辺を照らす月夜を背景に雛姉が嬉しそうに笑む。その笑みがまた綺麗すぎるから、心が焦って早とちりしそうになる。
「だろ?これを雛姉に見せたかった」
「君って地元ここじゃないでしょ?」
「おうよ」
「いや自信満々に言われても…」
とりあえずボケをかまして心の中の焦りを誤魔化しつつ、俺はここまで背負ってきたラケバを降ろしてラケットを取り出す。
「さてと、満月の夜空と海を眺めながら素振りでもすっか」
「ほんとにやるんだ?」
「世話になった先輩に嘘はつけないし」
「だから真面目か」
砂浜の上に立ち、左足を前に出して半身の体勢で構えて素振りを始める。
「海辺でバドミントンのラケット振る人初めて見た」
「多分日本だとやってるの俺ぐらいじゃね知らんけど」
「さすがに探せば3人くらいはいるんじゃない?ほら、大喜と対決してたあの人とか」
「それはあり得るかも」
それっぽい理由を返して砂浜の上で海に向かって空気を切る横で、雛姉は温かく見守るように笑って視線を海と空のほうへ向ける。
シュッ_
やっぱり、晴人と喋ってるときと違って俺と2人でいるときの雛姉は基本優しい。
シュッ_
もちろん
シュッ_
それでもこの人にとって俺は
シュッ_
そしてあの表情を思い出すたび、何だか自分がだんだんとめんどくさい奴に見えてきて、自己嫌悪じゃないけれど自分自身が恐く思えてくる。
シュッ_
心がこんなに焦っているのは、なぜ?
「力んでる」
20回くらいラケットを振ったところで、右側から呟く声が聞こえた。
「マジ?力んでた?」
「うん。腕のしなやかさがいつもより少ない感じ」
「雛姉ってわかるんだそーいうの?」
「体操競技ほど力加減が試される競技はないからね」
「さすがインハイ2位の人の言葉は説得力が違ぇ…」
“力んでる”と指摘されて半信半疑で聞く俺に、全国で2位になった実績をまざまざと見せつける説得力のある理由で返す雛姉。力んでいた理由は自分でも何となくはわかっている。
「やっぱり砂浜で素振りするのは無理があるんじゃない?」
「いや~そんなはずはないんだけどなぁ」
「絵面が」
「それは心ん中で思っても言うな」
見上げれば限りなく満天に近い
砂浜で素振りをしている俺が言うのもどうかとは思うけれど。
シュッ_
とりあえず頭の中が一旦冷静になったからと、再びラケットを構えて素振りを続ける。
シュッ_
冷静になったら、今度は月の光を目印にしてラケットを振りながら“わざわざ雛姉を呼び出して俺は何をしているんだ”とふと心が我に戻った。
やはり言い訳を成立させるためだけの練習じゃさすがの俺でもモチベは上がらない。今日はもう、あと10回やったら素振りをやめよう。
「…私も素振りやってみようかな」
「えっ」
素振りをする隣から思わぬひと声が聞こえて、俺は溜まらずラケットを振る手を止める。
「急にどうした?」
「バドも柔軟性や体幹が重要なスポーツでしょ?だから多少は新体操の役に立つかなって思って」
「そうなん?」
「やり過ぎるのはダメだけど、普段あまりやらない動きを取り入れることで筋肉や関節の可動域が広がるのは科学的に証明されてるし」
どういう風の吹き回しかとついツッコみそうになりながら訳を聞いてみれば、どうやら冗談半分くらいのノリとかではなくトレーニングの一環でやりたいらしい。
海だろうとお構いなしに素振りを始めた俺に触発されて、ということだろうか。
「…雛姉ってスポーツは詳しいよな?」
冗談も交えて、得意げな表情を浮かべる雛姉をほんのちょっとだけ揶揄ってみる。
「勉強が不得手でも、スポーツに纏わることぐらい知っとかないとアスリートはお話になりませんから」
「偉っ」
「君のほうが偉いよ。勉強も当たり前に出来るし夏休みの宿題も終わらせるの早いし」
「夏休みが短い長野の感覚がまだ残ってるだけだよ」
らしくもなく揶揄ってみた俺の心境を知ってか知らずか、雛姉はそう言って俺を横目に見ながらどこか悪戯な表情を浮かべる。
「変なところで謙虚なのも似てるのよね…」
それは私が勉強できないと言いたいのかな?_
晴人みたいに雛姉から怒られたいわけじゃないけれど、これぐらいは言い返してくるかと思った……そういう安易な考えのまま言葉を口にした自分が、酷く恥ずかしい。
「…え、何か言った?」
「飛鷹くんって意外に謙虚だよね」
「まあこれでも全中で伸び切ってた鼻折られてるからな」
雛姉が俺に何か言った気がして、意識を空から地上へと移す。気が付くと耽りながら、海の上に浮かび光る月を俺は見ていた。
「…俺が素振りしてるとき、“力んでる”って雛姉言ってくれたじゃん」
「うん」
隣にいるはとこの呟いた一言が、時間差で胸の奥底に刺さる。呟いた本人はきっと、意図なんて関係なく俺のフォームを見て純粋に“力んでる”と言った。
「あれのおかげで冷静になれたわ」
関係のない一言が、今日までの
こんなふうに雛姉の何気ない一言で心がハッとなるのは、もう何度目だろうか。
「俺、雛姉のインハイが終わってからずっと“雛姉の力になりたい”って、どこかで必要以上に突っ走ってたかもしれない……ってか、ぶっちゃけ焦ってた」
インハイから帰って来たときに仕掛けたサプライズで胃袋を掴むことには成功したものの、雛姉は最後まで俺の前では
「ほんっと優しいなぁ飛鷹くんは」
それでも雛姉は、こんな俺の無神経を全く気に留める様子を見せないばかりか“優しい”と笑顔で言ってくれた。優しさを通じて俺はこの人の強さをまたひとつ知って、まだ自分がこの人のことを理解できていないこともまたひとつ知った。
「何事もやっぱ、適度に肩の力を抜かないと駄目だな」
全国のトップレベルが集う場所で戦っている雛姉が抱えているものの重さを
全国で2番目になったことの悔しさを“わかる”と口にできるほど、俺はまだ偉くも強くもない。
「1番になることも大事だけど、つーかまず競技が違うけど……1番になる前に雛姉が持ってる新体操への“好き”の気持ちが
だから少しずつ。そして着実に。
「…よく分かんないけど、整理はついた?」
振り向き真っ直ぐ気持ちを伝えた俺に、相槌も打たず黙って最後まで聞いていた雛姉がそっと微笑んで問う。正直、気持ちに整理がついたか聞かれると、多分まだ完璧じゃない。
「一応俺ん中でひと段落はしたわ」
ただ、打ち上げ花火を観た帰り道からずっと人知れず抱えている雛姉への気持ちの向き合い方が、少しだけ見えてきた。俺にとって大事なのは身勝手なこの気持ちが伝わることではなくて、雛姉が笑顔でいること。
それがこの人を支えられるくらい強くなるために、
「そっか」
ひと段落したと言い切った俺に、問わない代わりに謎の自信みたいな何かがこもっていそうな相槌が返る。こういうときに全部をわかっているかのようなリアクションを返してくるところは、しっかりと姉譲り。
「それより早く私にバドの素振り教えてよ」
これ以上は考察させまいと言わんばかりに、雛姉は砂の上に置いた俺のラケバへ足を進めて中に入れてあった予備のラケットを漁って取り出す。
「マジで新体操にはあまり役に立たないけどいいん?」
「いいよ、
「そんなの決まってるじゃん。雛がやりたいから」
「…ぷはっ」
俺が予備で今も使っている中学から愛用のラケットを持った雛姉の一言に、つい小5のときの記憶が頭を巡って思わず笑ってしまった。
「?何かツボ刺激するようなこと言った?」
「ごめん、同じようなことが小5のときにもあったからさ」
「…あぁ、
喧嘩が原因で恵介と気まずくなって普段の元気がなかった俺に、雛姉が“バドをやりたい”と急に言ってきたお盆休みの夜。互いが高校生になってからはすっかり激レアになっていた雛姉の“雛呼び”も相まって、本当にあの日のデジャブを体感しているみたいでこっちも自然に笑みがこぼれる。
「ちょうど5年になるんだよな。これで」
「そっかぁ。どおりで君は大きくなったわけだ」
「それは雛姉もだろ」
「当然。ここからもっと羽ばたいてあの月と同じくらい私は体操選手として輝くんだからっ」
「ははっ、マジでそうなりそうなのが雛姉の凄いところだよな」
「君もいずれなるんでしょ?私と同じくらい強い人に」
「おう。簡単じゃねえけど、絶対」
あの夏から、ちょうど
「じゃあ雛姉にはオーバーヘッドストロークってやつを教えよう」
「オーバーヘッドストローク?」
「バドにおいて基本中の基本で一番重要なラケットの振り方だよ」
そして5年が経っても、俺と雛姉は変わらずバドミントンと新体操を続けている。互いに5年分だけ身長が伸びて心と身体が大人に近づいたのと、同じ家に住んで同じ学校に通って同じ
「利き足と利き腕を後ろに引いて半身になって、あの月に手をかざすイメージで左腕を上げてラケット持ってる右肘を前に出して_」
シュッ_
「っていう感じで振ると」
「うん」
「んでちょうど羽根を打つってタイミングになったら、手首を内側に回す感じでこう」
「右足と右腕後ろ、左手を上げてちょうど羽根が来たってところで手首を回して_」
シュッ_
「こんな感じ?」
「そうそう。やっぱインハイ選手なだけあって雛姉は飲み込みが早いわ」
「何だかめちゃくちゃ重いクラブを持ってるみたいねこれ」
バドにおいて一番基礎的かつ重要な振り方を教えたら、アスリートとしての素質の高さに加えて普段から手具というものを演技で使っているからか思っていた以上にコツを早く掴んであっという間にそれっぽい形でラケットを振れるようになる雛姉。
「でもこれ、ずっとやってると腕がムキムキになりそう」
「腕の筋力がなけりゃスマッシュもクリアも打てないからな」
「飛鷹くんって何気に教えるの上手いよね」
「マジ?これでも恵介から“お前はみんなを仕切るキャプテンより好き勝手やって背中で見せるエースのほうが向いてる”って言われるくらい人に教えるの下手なんだけどな俺」
「確かにキャプテンよりエースが向いてそうなのは分かるかも」
「だって俺、先輩で例えるなら匡先輩ってより大喜先輩みたいなタイプじゃん。バドバカ的な意味で」
「言っとくけど大喜はもっとバドバカだよ。むしろバドバカ通り越してただのバカ」
「ちょいちょい雛姉って大喜先輩に対して辛らつだよな」
「親友だからこそってやつよ」
「あ~親友だから雑に話せるってやつな知らんけど」
傍から見れば誰もいない夜の海辺で男女が2人揃ってラケットを持って素振りしながら他愛の無い話をしているというツッコミどころしかない光景だけれど、どう見られるかなんてどうでも良くなるくらい雛姉の明るい笑顔が横にあるこの瞬間が、俺は楽しくて幸せだ。
「つかめっちゃ出来てんじゃん雛姉!」
「もしかしたら私、バドの才能もあるかも」
「いやあるぞこれマジで」
あの日と同じように、楽しそうに雛姉は俺の隣でラケットを振っている。
気付いてしまった以上は“好き”の気持ちに嘘はつけない。でもこうやって俺が5年経ってもバドを続けていて、続けてきたおかげで雛姉にまた会えて、自分の中にある世界が広がって、自分なりに強くもなれた。
「腕の振りはいい感じだから次はフットワークもつけてやってみるか。あぁでも
「大丈夫。体幹は自信あるから」
こうやってラケット片手に今日を笑顔で楽しめているだけで、これ以上ないくらい最高だ。
「…わっ」
砂浜の感覚に慣れたところでフットワークも加えた素振りをしようと月に手を伸ばしたとき、右から気の抜けた雛姉の声が聞こえた。その声がした
「雛姉っ」
軸足が半端に浮き上がった体勢で後ろへ吸い寄せられ倒れていく雛姉が視界に入った瞬間、考える前に身体が動いた。このまま転んで演技に影響が出るような怪我なんてしたらという思いが頭を埋め尽くしていたから、砂の地面の上で転びそうになっている雛姉の姿が見えて自分のラケットを手放してからの数秒間は、全く覚えていない。
バッ_
気が付くと俺は、雛姉の身体を正面から抱き込むような
「…大丈夫?」
「うん。飛鷹くんが転ぶ前に受け止めてくれたからどこも痛めてない」
姿勢を保ったまま心配する俺に、どこも痛めてないと雛姉は気丈な口ぶりで言い切る。何が起きたか自分でもまだ理解できていないけれど、どこも怪我していないならよかった。
「そっか……よかった」
少し小さな身体を支える肌の感触を通じて伝わる暖かい体温と、動揺と安堵が入れ交じる息づかい。
華奢な見た目からは想像がつかない、10年以上の努力が詰まったしっかりとした背中。
「…もう離して大丈夫だよ」
「っ!」
真ん前から聞こえた声で我に返って、俺は抱き込んでいた身体から両手を離して3歩分だけ後ずさる。不可抗力があったとはいえ、俺は普通に雛姉のことを抱きしめていた。
「ごめんっ、俺…」
動揺が消えない口から、言い訳にすらならない言葉が反射的に飛び出る。
俺は何をやっているのか。自分に対する恥ずかしさと絶対雛姉に恐い思いをさせたという罪悪感で、日が昇るくらいまでどこかへ消えたい気分だ。
「言わなくても分かるよ。ただ私に怪我して欲しくなかったからってことくらい」
「おう…そっか」
「というかハグくらい普通でしょ。はとこなんだし」
「そうなん?」
「アメリカとかじゃ普通に家族とか友達同士でも挨拶代わりにハグするみたいにさ」
「あー、そういうね」
ごめんとしか言えない俺を見て、雛姉は全然気にしていないと言わんばかりの表情と口ぶりで“はとこなんだからこれぐらい普通だ”と優しく笑う。もちろん俺もそのつもりでいたいけど、いくら相手がはとこと言えど1学年上の女子なわけだから、どうしても距離感を気にしてしまう。
「とりあえず雛姉が怪我しなくてほんとに良かった…」
逆にもし俺が雛姉のことを単純に気の合う
「…ごめんね。心配かけた」
会話が少し止まったあと、雛姉はそう言って俺に謝った。せっかくの親戚水入らずの空気を壊さないように気を遣っているのか口元は笑っているけど、俺を真っ直ぐ見つめるパッチリした瞳には本当の感情が映る。
「雛姉」
身体の中で高鳴る音を立てる心から、“冷静”の二文字が崩れていく感覚がした。
「俺……雛姉が……」
夏の夜空の下、放たれる想い_