自覚こそしていなかったけど、俺はきっと小5の夏から雛姉のことが好きだった。
「飛鷹くんなら絶対大丈夫だよ……だってこの蝶野雛さまがついてるんだから」
どうして俺は、よりにもよってこの人を好きになってしまったんだろうか。
「誰かがピンチで泣いているときに現れる。それが私、蝶野雛さまぞ」
「……あんなに筋肉ついてるなんて知らなかった」
「あ……え、何て?」
「転びかけたの支えたとき思ったんだよ。雛姉って華奢に見えてアスリートらしく結構身体鍛えてんのな~ってさ。もちろん、アスリート的な意味で」
マジで危なかった。口が滑る本当にあと一歩手前で理性が生き返り、どうにか言葉は斜め上の方角になったもののちゃんと変換された。理性が働いたのはいいとしてリカバリーがなんかキモくなってしまったのは否めないが、何とか俺は耐えた。
「…ちゃんと努力してるんだな。雛姉も」
抱きしめる恰好で雛姉の身体を支えたときに感じた、シュッと引き締まった筋肉質な背中周り。華奢に見える身体であれだけ動けるわけだから鍛えられているのは当たり前だけれど、ここまで背中が逞しいのは知らなかった。
人前で頑張っているところを絶対に見せないこの人も、自分の目で見たことがないだけでちゃんと努力している。その証がしっかり形となって残っていた。
「努力なんてしてないよ。ただ周りのみんなより“好きなこと”と向き合ってきた時間がちょっとだけ長いってだけ」
人には普段見せない
「それより空がこんなに綺麗だから、いまぐらいは努力なんか忘れようよ」
「…おう」
雛姉の言葉に釣られて、俺も隣で仰向けになって同じ
「うわっ、マジで空しか見えねえ」
「仰向けで見てるから当然だよ」
「なんか久々に自然ってやつ感じるわ~」
砂の上に背中をつけると少しの雲と星々だけが目一杯に広がり、遠くのほうから聞こえる微かな波の音がBGMになって雛姉の話し声に混じって届く。
「…あれUFOじゃない?」
「え、マジで?」
「ほらあれ!……ごめん飛行機だった」
「まあUFOなんて滅多にお目に掛かれないしな」
「見たことあるの?」
「さすがにUFOはないけど宇宙ステーションが飛んでんのは見たことある」
「あれ見たことあるんだ」
「飛行機ぐらいのスピードで飛んでる流れ星って感じで面白かったわ」
隣から星の隙間を一定の早さで動く光をUFOだと勘違いした雛姉の明るい声色。UFOに見えたという飛行機を見て、小6のときに宇宙ステーションを見たことを俺は思い出した。
「俺は宇宙ステーションが飛んでるの見たとき、マジでUFOかと思った」
「見たことないけどなんか分かる気がする」
「次見れる機会が来たら一緒に見ようぜ」
「うん。楽しみにしてる」
飛行機とも、流れ星とも似ていない
「…宇宙ステーションに願い事したら叶うのかな?」
「んー、ある意味あれも流れ星みたいなもんだから案外叶うんじゃね?」
「そういうものなの?」
飛行機より速くて、流れ星より遅いスピードを保ったまま夜空を流れていく光。
飛行機みたいに点滅することはなく、流れ星みたいに一瞬で消えることもなく、空の隅まで一定のコントラストを放ち続ける光。
どの星とも、どの飛行物体とも違う。だけれどUFOとは違って、正体はちゃんと解明されている
「もしあの飛行機が流れ星だったら、飛鷹くんは何をお願いする?」
「…そうだなぁ…」
いま俺が抱え込んでいるこの人への気持ちに“あれ”以外の名前を強引に付けるとするなら……いつかの夜にUFOだと勘違いした“宇宙ステーション”のようなものかもしれない。
「…あったとしても言えないわ」
「どうして?」
「だって人に願い事教えたら叶わなくなるって雛姉言ってたろ」
「あははっ、神社の話まだ信じてたんだ」
夜空を飛ぶ飛行機を流れ星に例えた雛姉から願い事を聞かれたけれど、ちょうどいい
「ここは神社じゃないんだし、言ってもきっと効力は消えないと思うよ?」
「それでも言いたくねえ」
「まさか二度目の反抗期?」
「ってわけじゃねえけどさ」
そんなの、言葉にできるわけがない。そして名前を付けて願いを込めてしまったら、いまの
「なんか……深い意味はないけど特に大事にしてることは簡単に人には言いたくない。みたいな」
だから今は、俺の中で
雛姉が好きだ_
言いかけた本音を言わなかったのは逃げなんかじゃない。“今じゃない”ってだけで、伝えるべきときが来たときにしっかりと伝えるためだ。
こうやって今日も続いている幸せを、壊さないために。
「…私と一緒だ」
横で同じ空を見上げていた雛姉が、小さく呟いた。
「私も本当に大事にしている願い事は、誰にも言わないかな…」
空に向けた呟きが終わると、あまり途切れることがない会話が途切れて遠くでずっと聞こえる穏やかな波の音がほんの少しだけ大きくなる。視界の真上で光っていた飛行機はいつの間にか視界の外へと消えていた。
「…じゃあさ、俺と雛姉でそれぞれ2番目に大事にしてる願い事を言うってのはどう?」
点滅する光がいなくなった空を見たまま、仰向けの俺は自然の音だけになっていた沈黙を破る。
「2番目……って言われてもすぐには思いつかないよ」
「2番目が難しかったら1番以外でもいいよ」
「え~それはそれで迷うな~」
同じように仰向けになって空を見る雛姉が、何を言えばいいかわからない様子で言葉を返す。こっちから言い出しておいて難だが、いざ真剣に考え出すと俺も俺で願い事が纏まらない。
「…筋肉ムキムキの彼氏がほしい」
10秒くらい考え込んだあと、1番以外の願い事が右から聞こえた。
「いやそれもれなく身内の俺と彼女持ちの大喜先輩以外の男バド全員に可能性あるやつやんけ」
「なぜそうなる?」
「バド部なんて脱いだら筋肉の塊みたいなもんだから。マジで」
確かに
ていうか、男バドといったら最近……
「てか、最近晴人と仲良さげじゃん」
「全然。あれは後輩くんがたまにちょっかい掛けてくるのをあしらってるってだけで全然仲良くないから」
「速攻で全否定されたよ晴人のやつ…」
そういや晴人と仲が良い感じなのをふと思い出して流れで聞いてみたら、雛姉は俺の質問に被せる勢いで否定してきた。そりゃあ“栄明の雛様”にちょっかいを掛ける晴人が悪いのは言うまでもないとして、さすがに名前すら呼んでもらえないレベルで存在を認めて貰えていない現状にはちょっと同情するけど。
「まあほんのちょっとでいいから仲良くしてあげなよ。口悪くて気の遣い方も下手だけど真面目な奴だから」
「真面目なのは分かるけど欠点が大きすぎるのよ…」
「それはそう(悪い奴じゃないんだけどなぁ…)」
ただちょっと、雛姉が1ミリも晴人に靡いていないってことがわかってホッとした。
「飛鷹くんはどうなの?願い事」
とにかく晴人の
「俺かぁ…」
雛姉がそう来たからと、俺は再び頭の中でどれを選ぶか考えるも思っていた以上に“これ”という願いが思い浮かばなくて困る。
インハイで最後までバドを楽しみ尽くして優勝したい。
雛姉が新体操で大活躍して欲しい。
雛姉にずっと笑顔でいて欲しい。
雛姉のことを支えられる強さを手に入れたい。
名前を付けられないこの気持ちが……雛姉の人生において無くてはならない
「…やべえ多すぎて一つに絞れねえ」
「答えが出るまでいくらでも待つよ」
「ありがとう。雛姉は優しいな」
「その代わり決められませんでしたはナシで」
「うん。わかってる」
駄目だ。駆け巡ってる願いがどれも大きすぎて……言葉に出来ない。
「来年は一緒にインターハイ行こうよ。誰にも負けないくらい私も強くなるから」
「……“一緒にインターハイ行こう”って言った親友との約束を果たす」
悩みに悩みまくった末、雛姉以外の願い事という境地に行き着いて最初に出てきた願い事。自分で言っておきながら、雛姉のやつと比べると結局かなり真面目な願いになってしまった。
「それ1番じゃないんだ?」
「1番以外の願い事も俺にとっては全部大事ってことよ。ぶっちゃけすげえ悩んだわ」
案の定、雛姉は意外そうに聞いてきた。なんかもういっそ“スイーツを無限に食っても病気にならない身体が欲しい”とか思いっきりネタに走ったほうが良かったかもしれない。
「友達って長野にいる親友のこと?」
俺の口にした
「いや、今のは結のほう」
「“ゆい”……って千木良さんのことだよね?」
「おう。ていうかそうだ、ついこないだまで千木良って呼んでたわあいつのこと」
恵介ではなく結のことだと打ち明けるも、花火大会のときまで苗字呼びだった……というかその後もしばらくの間は名前呼びがしっくりこなくて雛姉の前だと普通に千木良って呼んでいたせいもあってすぐには思い出せなかった雛姉。
「どうして下の名前で呼ぶようになったの?」
「花火大会んときあいつが“下の名前で呼んで”って言ったから」
「ふ~ん」
「あいつ曰くそっちのほうが“親友っぽい”んだってさ」
「ははっ、なんだか千木良さんっぽい」
下の名前が出て来なかった雛姉に、俺が千木良のことを“結”と呼ぶようになった理由を教える。あのときは目の前の花火と普段と異なる装いも相まってエモーショナルな感じになっていたけど、それで今までと比べて何かが変わったかと言われたら何も変わらない。
「別に呼び方を変えても変えなくても親友なのは一緒なのに、大袈裟だよな」
俺があいつのことを下の名前で呼ぶようになったら、坂元と晴人以外のみんなはこぞって“変わった”みたいなことを言ってきた。こっちからすればただ呼び方を変えただけで何も変わっていないのに。
「…それ、本人に言っちゃ駄目だよ」
そんなふうに大袈裟だと冗談交じりで愚痴る俺を、雛姉は優しい口調のまま叱って仰向けになっていた身体を起こす。
「もちろん言うつもりはないよ」
「飛鷹くんにとっては大したことないかもだけど千木良さんにとっては重要なことかもしれないじゃん」
仰向けのままの俺を隣から見下ろす視線がジョークではなく本気だということに気付いて、俺は慌てて起き上がる。
「せっかくできた親友は大事にしないとだよ。飛鷹くん」
起き上がった俺に顔を向けて、雛姉は“親友を大事にしないと駄目だ”と優しく告げる。表情こそ穏やかだけど、大きな瞳だけは笑わず真剣な眼差しで俺の眼を見つめている。
「うん。肝に銘じる」
「分かればよろしい」
いま向けられている言葉が本気だと悟って頷いた俺を見て小さく微笑み、雛姉は徐に立ち上がって砂浜の上に置いたラケットを拾い上げる。
「そろそろ戻る?それとももうちょっとだけ素振りやったりこの辺散歩してみたりする?」
「雛姉はどうしたい?」
「君に任せる」
悪意とかそんなんじゃなくただ思っていることをそのまま口にしていたけど、確かに雛姉に話していたときの俺は、
「んー、戻るか。あんまり長くいると色々聞かれそうだし」
「うん。分かった」
これこそ大袈裟に思われるだろうけど、もし雛姉が言ってくれなかったらどこかのタイミングで恵介のときと同じ過ちを犯していたかもしれない。また誤解を招くような余計なことを言って、傷つけていたかもしれない。
「雛姉……言い訳になっちゃうけど結のことは悪い意味で言ったわけじゃないから」
すぐ近くに置いたラケバを見つけてラケットを片そうとする雛姉を呼び止めて、俺は言い訳という名前の真意を伝える。
本当に俺って奴は、周りの人たちに恵まれていると心底思う。
「結は絶対泣かさない」
だから、周りに助けられてばかりの人のままで終わりたくない。
「…ぷはっ、私は全然怒ってないし悪い意味で言ってないのは言われなくても分かるってば大袈裟だなぁ」
悪意がないのと結は結でちゃんと大事にしていることを伝えた俺の顔を見つめていた可憐な小顔が、“大袈裟だ”と言って穏やかに笑う。月に照らされた顔がこちらを直視すればするほどいちいち可愛いくて、また心が焦り出す。
「けどちゃんと言わないと正しい形で伝わんねえじゃん」
「ははっ、そうだね」
とにかく雛姉と夜の海を見れたし色々話せたし、今日はもう宿舎の男子部屋にさっさと戻って風呂に入ろう。
「千木良さん。いい
「…だといいな」
「“いいな”じゃなくてそうなるように君が頑張るんだよ」
「おう。当然」
これ以上ここにいると……今度こそ
「ラケット俺片すよ」
「うん、ありがと」
背中についた乾いた砂を払ってラケットを片付け、俺は雛姉と一緒に来た道を真っ直ぐ戻った。
「あっ、ひなっちおかえりー」
「ただいまー」
「ごめん先にお風呂入っちゃった」
「ううん全然」
部屋に戻ると、先にお風呂を済ませて敷いた布団の上でくつろいでいたにいなと菖蒲ちゃんが戻ってきた私に気付いて声を掛ける。
「飛鷹くんとの“水入らず”は楽しめた?」
「楽しむもなにも家にいるときと一緒だったよ」
「それは何よりなことで」
「にしてもあの子ったら、砂浜に行って何するかと思ったら背負ってたラケバからラケット取り出して素振りをし始めるからさすがの私もちょっとビックリした」
「ふふっ、なんかはとこくんらしいね」
「これはどっかの誰かさんみたいなバドバカになるわね」
「お姉さんとしては影響受けるのは良い部分だけにして欲しいところだけどね~」
戻って早速、話題は飛鷹くんのことになる。日に日に大喜のようなバドバカになっていく1学年下のはとこへの認識は、どうやらにいなも菖蒲ちゃんも共通らしい。
「というわけで雛さまは今からお風呂へ向かいます」
「行ってら~」
はとこトークはほどほどに、着替えを抱えてお風呂場へ足を進める。ほんとはこのまま話に参加したいところだけど、あんまりゆっくりしているとお風呂が閉まっちゃうから仕方ない。
「……ねえになにな」
「んー?」
部屋のドアが閉まる寸でで、会話の続きを始める声がチラッと耳に入った。
「飛鷹くんって_」
ガチャ_
「……」
この数ヶ月で恐らく一番口にしたであろう名前が聞こえて、思わず立ち止まる。その場で2人が待つドアの閉まった部屋のほうへ耳を澄ましてみるも、聞こえてくるのは廊下の空調の音だけ。
何だろう、聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような気分だ。
「…私が気にしてどうする」
すぐに我へと戻って、一旦聞こえなかったフリをして気持ち速めに足を進める。だいたい菖蒲ちゃんやにいなが飛鷹くんの話をしたって、何にも可笑しくなんてない。だから、私なんかが気にしたところでしょうがないって話だ。
「(……いや、少しは気にしたほうがいいのかな)」
と、いつもだったら割り切れるはずなのに、日ごとに大事な存在になっていくはとこの
「雛姉っ」
“雛姉と2人だけで海を見たい”とメッセを送ってきた飛鷹くんと2人でどういうわけか夜の砂浜で素振りをする流れになって、“バドにおいて基本中の基本”だという打ち方を教わって意外とすんなり形になったからとフットワークをつけたら、己の体幹を過信していきなり砂浜に足をとられた。
「大丈夫?」
利き手がラケットで塞がり、後ろ向きにバランスを崩して変な体勢で着地しようとしていた私の左手を飛鷹くんはそのまま引っ張り上げて、強く抱きかかえるように私の身体をギュッと支えてくれた。飛鷹くんのおかげで私はどこも身体を痛めないで済んだ。
「そっか……よかった」
“どこも痛めてない”と私が伝えると、暖かい暗闇の先から安堵と心配が半々ぐらいで混ざり合った
誰かと同じくらいの背丈と体躯。
誰かと同じくらいの高さの声。
誰かと同じくらい真っ直ぐで、
誰かと同じくらい不器用で、
誰かと同じくらい優しくて……
「…もう離して大丈夫だよ」
飛鷹くんに助けられた私は、
「ごめんっ、俺…」
家族同然の
「とりあえず雛姉が怪我しなくてほんとに良かった…」
でも、あんな表情をする飛鷹くんを見るのは初めてで、そこには悪意も故意もないことなんて分かっているのに……
「…ごめんね。心配かけた」
もしもいまここにいるのが、
「俺……雛姉が……」
「あ」
「あ」
遅くなった足取りのままお風呂場の入り口に着いたところで、同じく着替えを片手に持った飛鷹くんと鉢合わせた。
「これはまた偶然だね」
「俺の誕生日んときも似たようなことあったよな」
「あ~、あったあった思い出した」
飛鷹くんが16歳になった日の朝に同じように家の中で鉢合わせたことがあって、それを思い出して2人揃ってクスっと笑う。
「うわ、いま思い出したけど砂の城探すの完全に忘れてた」
「そういえば言ってたね飛鷹くん」
「これはアレだな。明日探せばいっかと思って朝起きたらまた忘れてるパターンだわ」
「ふふっ、あるあるだね」
初めて見せた
大喜が飛鷹くんになれないように、いま目の前にいる君があいつになることなんてあり得ない。
「飛鷹くん」
全然違うと分かっていても面影を思い浮かべてしまうのは……区切りを付けてまっさらにしたはずの心の中に、まだ
「また明日」
「…おう。また明日」
すっかり普段通りに戻ったはとこの様子に本日2回目の安堵と少しの罪悪感を心の中で浮かべつつ、私は飛鷹くんとさよならしてえんじ色の暖簾をくぐった。
原作では大喜への気持ちが吹っ切れていないことを雛が自覚するのはまだ先の話になりますが、こちらでは形は違えど飛鷹の存在が雛の中で大きくなってしまったが故に気付くタイミングが夏休みまで前倒しになってます。
てことで、“夏”はもう少しだけ続きます。