フローラル大陸の中央部を支配する王国、フローリア王国。
王国の中央にそびえる王城、フルール・ド・リス。
アヤメの名を冠するその城は、王国の象徴として皆に親しまれている。
その一角に併設されているのは礼拝堂。
静寂の中、一人の少女が祈りを捧げていた。
銀髪碧眼の彼女は、白を基調とした気品ある礼服を纏っていた。その衣には青と銀の繊細な刺繍が施され、見るものに清楚な印象を与えるだろう。
「……この王国、そしてこの大陸を守護せし大いなる女神フローラ様。どうかこの国、この大陸に加護を。そして安寧を」
小さく呟き、静かに目を閉じる。祈りは、静寂の中へと溶けていく。
礼拝堂に、再び静寂の時間が訪れる。
暫く時間が経った頃。
荘厳な礼拝堂に、静寂を破る声が響いた。
「……イリス様!もうそろそろ時間です!申し訳ありませんが準備をお願いします!」
イリス、と呼ばれた彼女は振り向いた。
そこには、彼女の専属メイド、エマの姿があった。
エマの金髪に緑の瞳は、この国ではよく見かける色だ。
「……もうそんな時間なのね。エマ、知らせてくれてありがとう」
彼女の名は、イリス・フィア・テア=ヴィオレット。
この国の第一王女にして、女王制であるこの国の、第一位王位継承権を保持している15歳の少女だ。
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私は城門の前に立ち、王都を見つめる。見慣れたはずの王都、フルールが、今日は少しだけ、いつもと違って見えた。
街のあちらこちらに建てられた塔には、フローラル王国の国旗であるアヤメとスミレの紋章が描かれた旗が掲揚されている。
私は礼拝用のシンプルなドレスを脱ぎ、青を基調に銀の差し色が映えるドレスへと袖を通した。
その姿のまま、第二位王位継承権を持つ最愛の妹、ローゼリア・フィア・テア=ヴィオレットと並び、王城の門の前に立つ。
その凛とした二人の姿は誰が見ても立派な王女だというだろう。
今日は、女王とその王配である母と父がドイトロミア・ムジーク帝国との会議に出発する日。
ドイトロミア・ムジーク帝国へはここから馬車でどんなに急いでも二週間はかかる。
しかも会議は長くなることが予想されるため、確実に1ヶ月半以上城を空けることになる。
「母さま、父さま!いってらっしゃい!ローズ、お姉様と一緒に待ってるね!」
ローズは、満点の笑顔を浮かべている。
まだ9歳。本当なら、もっと甘えたいはず。
それでも健気に笑う姿が、いっそう愛しく思えた。
――だからこそ、私は彼女を守らなくてはならない。
今日のティータイムはローズの好物のマカロンを用意しよう、と私は決めた。
「……イリス。ここは個人的な見送りの場。公的な送別会はさっき終わったから……遠慮しなくていいのよ」
「そうだぞイリス。自分たちが居ない間負担をかけることになるとは思うが……宰相も、大臣たちも、そして二人の兄もいるんだ。気負い過ぎは良くないぞ」
その言葉を受け、何を言うべきか暫し考える。
「……お母様、お父様、行ってらっしゃいませ。どうかお元気で」
本当はもっと言いたいことがあるけれど、その言葉しか出てこなかった。
「ああ、もちろん。元気で帰ってくるさ」
「……イリス。私達が居なくても、元気に過ごすのよ?私も元気に帰ってくるから」
名残惜しさを噛みしめながらも、運命の歯車は静かに動き出す。
さすがに、これ以上出発を遅らせることはできないようだ。
御者がこちらに走ってくるのが視界に映る。
護衛の騎士団は出発の準備を整え静かに待機している。
馬車に乗り込む両親を見ていると、胸の奥がざわめく。
しばらく会えなくなる――それだけのはずなのに。
それ以上の何かが迫っている。胸の奥がざわつくのは、ただの気のせいなのだろうか。
その日のティータイム。
私は決めたとおりマカロンを用意してローズが来るのを待っていた。
「……今日の茶葉は、確か……お父様の故郷、アザレア連合国の特産だったはず……」
いつもならすぐに出てくる名前が今日は出てこない。
思い出せない、とうなっているとそばに控えているエマがそっと教えてくれた。
「イリス様。記憶違いでなければ、銘柄はハピネス・クローバーだったと思います」
……そうだった。なぜ忘れてしまっていたんだろうか。
「……今日はエマに助けられてばかりね。ありがとう」
そう伝えると、エマは少し顔を赤くし、下を向いてしまった。
「……いえ……これが仕事、なので……でも、嬉しいです」
ハピネス・クローバーは王都周辺でマカロンにぴったりだと言われている茶葉だ。
今日のお菓子をマカロンにしたのだから、それに合うこの茶葉を選んだのだ。
もちろんミルクティにしても美味しい。
まだストレートで飲めないローズにぴったりと言っても差し支えないだろう。
辺りにティーポットの紅茶の香りが漂う中、静寂を破ったのは、誰でもないローズの声だった。
「今日のお菓子は……わあ!マカロンだ!ローズマカロン大好きだから嬉しい!お姉様、ありがとう!」
ニッコリと、満面の笑みを浮かべるローズ。
この笑顔を見るたびに、どんな苦難があっても乗り越えようと思える。
そばには、ローズの専属メイド、マリーもついている。
「ローゼリア様。嬉しいのはわかりますが、少し声を抑えたほうがよろしいかと。……響いておりますので」
ローズはしまった、と言わんばかりに口を抑える。
「……あ。ごめんなさい、お姉様。つい、嬉しくなっちゃった」
「……大丈夫。気持ちはわかるから。さ、淹れた紅茶が冷めちゃうわ。今日はマカロンに合うと評判の、お父様の故郷のアザレア連合国の特産の茶葉。ハピネスクローバーにしたわ。その分ちょっとクセがあるらしいのだけれど……ミルクティにしても美味しいらしいから大丈夫」
そう言って、エマが淹れてくれた紅茶とマカロンを一口。
少し赤みが強いその紅茶はいつも出されているものよりも少し苦みが強い。
けど……この苦みでマカロンの甘みが引き立つ。
これからマカロンを出す時はこの茶葉にしましょう。
ローズの方を見ると、ローズの専属メイド、マリーがミルクティにして出しているようだ。
少し苦かったのか、少し顔をしかめていたので砂糖を持ってこさせる。
ヤマト連盟特産の緑色のお茶の粉が練り込まれた……確かセイチャとか言っていた……マカロンを食べる。
紅茶とは違うお茶の味が口の中に広がる。
そこで紅茶を飲むと美味しさが際立つ。
あっという間に紅茶もマカロンもなくなった。
美味しい時間を過ごし、満足感を感じる。
今日のティータイムは、いつもよりも楽しかった気がした。
時は流れ、魔族の治めるドイトロミア・ムジーク帝国との会議から父と母……もとい、女王とその王配が帰ってくる日になった。
今日も礼拝堂で神に祈りを捧げる。
願いは一つ。
無事に両親が帰ってくることだ。
いつものようにエマに呼ばれ、礼拝堂を後にするとき。
【……この大陸に、大いなる災いが迫っています。朱に染まる空に、決して目を逸らしてはなりません――】
まるで風が囁くように、その声は耳の奥に響いた。
見送った日と同じように、王城の門の前に立つ。
久しぶりの再会だからか。
心なしか、気分が高揚する。
「お姉様、ほんとに母さまと父さま、今日帰ってくるんだよね?」
ローズが不安げに、けれど期待を秘めた声で尋ねてきた。
私と同じように久しぶりの再開にワクワクしているのだろうか、声がいつもよりも高い。
「ええ、きっと。何も起こらなければ、もうすぐ馬車が見えるはずよ」
そう会話している間に、二人の兄であるアッシュ・フィア・テア=ヴィオレットとエルム・フィア・テア=ヴィオレットが到着する。
「イリス、ローズ、すまん!少し遅れた!」
アッシュ兄さんはそう言って申し訳なさそうに手を合わせた。
「遅れた。すまん」
エルム兄さんは……うん。いつもどおりだ。
「アッシュ兄さんもエルム兄さんも……私は別に怒ってないので良いです。……それよりも、です。……馬車が一向に姿を見せません」
もうそろそろ馬車が見えてきても良いはずの時間。それなのに、どこにもその姿がない。
……何かあったのだろうか。
事故や暗殺の二文字が頭をよぎる。
「まあまあ、馬が疲れて休んでる、という可能性もあるだろ?心配しすぎだって。な、エルム」
「……そうだといいがな。さっきからなんだか嫌な予感がするんだ。アッシュ、お前もだろ?」
「やっぱエルム兄さんには隠せないか……そうだよ、悪いか?」
「別に悪いとは一言も言ってないが」
……私も、嫌な予感がする。
なぜなのか、目を逸らしたくなる。
___それが何なのか、本当は分かっているのに。
……遠く、地を揺るがすような馬蹄の音が響いた。
見るとそこには馬を駆る一人の騎士の姿があった。
相当急いでいたのか、息が上がっている。
それでも彼はこう言った。
「会議中、何者かの襲撃を受けました!魔王、コンチェルタ・ムジーク・カイゼリン皇帝及び我が国のダフネ女王陛下、シエル王配殿下が重傷を負い、現在ドイトロミア・ムジーク帝国にて治療を受けていますが3名ともまだ意識はない、とのことです!」
……女王陛下も、王配陛下も意識不明の重症……ならば私がすべきことはただ一つ――。
……私が決めなければ、誰が決めるのか。
国を守るため、ローズを守るため、私はもう、迷ってはいられない。……迷う、わけには行かない。
震えそうになる指をぎゅっと握りしめ、震える体を封じ込め、心を奮い立たせ、一歩前へ進み、決意を口に出す。
「っ、第一位王位継承権保持者、イリス・フィア・テア=ヴィオレットが女王陛下に代わり、今ここに緊急会議を開会することを宣言します!アッシュ兄さんとブラン兄さんは宰相や大臣を集めてください。ローズは……どうする?」
母も父も重症で意識がない、ということは私に一時的、とはいえ女王、及び王配の持つ全権限が移ったということ。
何があっても良いように一定の権限は与えられているし……この国の法律は、そうなっている。
だから、緊急会議を開いた。
まずやるべきなのは、混乱を抑え、上層部の意思を統一すること。
会議はそれができ、情報の共有もできるのでこの場で一番優れた手段なのだ。
「……ローズも参加する。ローズだって第二位王位継承権を保持してるもの。……それに、お姉様が頑張ってるからローズも頑張る」
こんなにも愛しい存在が、他にいるだろうか。
もうそろそろ集まった時刻だろうか、と考え懐中時計を確認する。
_その時。集めておいてほしい、と頼んでいた兄たちが帰ってきた。
「イリス、招集終わったよ。僕らも参加するよ。安心して」
「イリス、アッシュ。教えてくれたこの騎士も参加させるべき。情報は少しでも多いほうがいい」
確かにエルム兄さんの言う通りだ。
伝令役の騎士さん……ジャック、と言うらしい……も参加してもらうことになった。
会議室に移動し、皆が席に着いたことを確認してから座る。
「……では、王国の行く末を決める緊急会議を始めます」
王国の行く末を決める、というのは今は少し大げさかもしれない。
けれど、もしもあの声が神の御言葉ならば。
いずれはこの国……いいや、この大陸を大きく揺るがす事態に発展するかも知れない。
静寂の中、私は深く息を吸った。
王国の命運を賭けた決断が、今、始まる。