シェフィルの背後にいたのは、体長一メートルもないであろう一体の獣だった。
身体は丸々としたもの。胴体部分の体高は四十センチと体長の半分近くあり、ずんぐりむっくりという表現がこれ以上ないほど似合う。全身をもっさりとした、雪のような白さの長い毛が覆っており、抱き締めればさぞやフカフカして気持ちが良いであろう。足は体高よりも短いものが四本生えていて、足先には爪が見えたが、その爪は短くて可愛らしい。臀部(厳密には腹部末端と言うべきだろうが)からは短いながら尻尾が生え、左右にぴこぴこと動いている。
全身から『可愛さ』が溢れている。しかしこうした身体の特徴など、顔立ちに比べれば微々たるものだ。
丸い輪郭をした顔は無邪気さを演出し、その顔に嵌まる大きく発達した二つの単眼は無垢さを際立たせる。小さくて目立たない、左右に開く顎も、なんだか弱々しくて『可愛い』と思える要素だ。恐らく触角が変化したであろう頭の突起物……平たい三角形をしたそれが、何故かは分からないが妙に『獣の耳』のようだとシェフィルは感じる。それもまた極めて愛らしく思えた。
この生物の特徴を一言で纏めれば、兎にも角にも可愛らしい。少なくとも、家があった丘を余波だけで吹き飛ばすような『化け物』とは思えない程度には。
「ね、こ……?」
そしてアイシャがぽつりと、聞き慣れない言葉を漏らす。
シェフィルは知らない事だが、彼女達の背後に現れた生物は、地球生命の一種である『ネコ』に似ていた。三角形の触角は正にネコの耳の形であり、つぶらな瞳や四足、短くとも尻尾がある姿は極めてネコらしい。
ネコとの違いを挙げるなら、肉食動物であるネコは通常しなやかで俊敏な動きを可能とする、スタイリッシュな身体付きをしているのに対し……この生物は手足が短く、胴体が太いと、あまり素早い動きが得意な形をしていないところ。
それもその筈、と言うべきだろうか。この生物……シェフィルはとりあえず『マール』と名付ける。丸々とした身体なので……の口許にあったのは、トゲトゲボーだった。マールは美味しそうにむしゃむしゃと、トゲトゲボーを貪り食っている。どうやらトゲトゲボーを主食としている種のようだ。
トゲトゲボーは動かなくて簡単に捕まえられる生き物である。しかし危険な棘を持ち、頑強な身体繊維はちょっとやそっとでは分解出来ず、体液に含まれる毒素は致死的。食べ物として利用するには、繊維などものともしない強靭な消化酵素と、毒素を跡形もなく分解する解毒酵素が欠かせない。
するとその生産を行う器官が必要となる。ウゾウゾぐらい単純な生物なら、全身の細胞でそれを行うが……ある程度大型で、身体構造が高等な種なら発達した消化器官がその役割を担う方が効率的だ。だが発達した器官と言うのは、どうしても大きなものになってしまう。当然それが入っている身体は、大きく膨らんだものとなる。
だからトゲトゲボーを主な餌にしている種の身体は、丸々と太った、端的に言って動き難いものになりがちだ。要するに運動能力が低い身体付きであり、トゲトゲボー以外の生き物を捕まえようとしても逃げられる事が多くなってしまう。走り回るのにもエネルギーが必要だから、無駄な動きはしない方が適応的。よってトゲトゲボーを食べる生物は他の生き物を襲わない、穏やかな種となる傾向が強い。
見た目からして、自分達の背後に現れたマールの気質は大人しい筈だ。初めて目の当たりにした、恐らくこの地に生息していない生物種なので断言は出来ないが、これまでの生涯で培ったシェフィルの知識がその性質を導き出す。身体の大きさから考えても、警戒する必要はない。
理屈ではそう思うシェフィルなのだが……しかし本能は違う。
獰猛な捕食生物を前にした時さえも、比較にならないほどの恐怖が沸き立つ。何故これほど恐れと警戒心を抱くのか? その理由は、注意深く相手を観察すれば理解出来た。
その身体から放たれる電磁波。この総量が、単純に桁違いなのだ。
それこそ、マールの背後に現れた体長八メートル近い猛獣よりも。
「ひっ!?」
「あれは、モグモグ……!」
怯えるアイシャを抱き寄せつつ、シェフィルは現れた猛獣・モグモグに視線を移す。
モグモグは六本の足で大地を駆け回る、生粋の捕食生物だ。身体付きは細いものの、その体表面は頑強な甲殻で覆われ、防御力は極めて高い。翅や棘などの無駄なパーツがなく、頭と胸部と腹部の境目、足の可動部分を除けば柔軟な箇所もない。足先には三本の爪が生えているがこれは極めて鋭く、生半可な肉であれば容易く切り裂く。
そして頭部は、身体の大きさの割に小さい。だが細く長く伸びた触角と、大きく発達した二つの複眼から、高度な索敵能力を持つ事は窺える。更に長さ二十センチはあるだろう、巨大で鋭い、牙のような四つの大顎が自らの凶暴性を物語っていた。
モグモグは自分より小さな生き物なら、大抵なんでも襲って食べてしまう種だ。シェフィルも例外ではない。無論身体の大きさは決してハッタリの類でなく、大きさ相応の強さ……デカポンに次ぐ、桁違いの戦闘力を持つ。普段であれば遠目にでも見付け次第速やかに逃げねばならない相手だ。
恐ろしい事に、モグモグは歩き回って獲物を探すだけでなく、地中に潜って獲物を待ち伏せるような行動も取る。この時は気配をしっかり消していて、注意深く探っても簡単には気付けない。
今回突然現れたように思えたのは、恐らくこの地中に潜んでいた個体が跳び出したからだ。その証拠にモグモグの周りには、今し方吹き飛ばしたであろう砕けた岩の破片が舞っていた。
恐るべき生命体であるモグモグ。とはいえ自分の力に慢心し、正体不明の相手に無闇矢鱈と襲い掛かるような『愚か』な種ではない。この星の生物が持つ数学的思考に、見下すという感情は存在しないのだから。
「キュィイアアァアアッ!」
それでもこのモグモグがマールに襲い掛かったのは、腹側に張り付く大きな蛆虫型生物……幼体がいたからか。
モグモグは子育てをする生物だ。大型捕食者故に天敵が殆ど存在せず、大きく子供を育てた方が後の同種間競争で有利。胎生でこそないが、デカポンと同じ繁殖戦略が有効な生き方をしていた。
そして大切な子を守るため、危険を積極的に排除するという生態を持つ。
その生態が、この攻撃行動を引き起こしたのだろう。しかしマールは母親の行動を微笑ましく思って見逃すような、情緒というものを一切持ち合わせていない。そんなものをこの星の生物に求める方が間違っている。
「……ムギュ」
一瞥したマールの身体が、光る。
放たれる電磁波がシェフィルの身体を駆け抜けていく。まだ何もしていない、ただ『準備』をしているだけだと言うのに、シェフィルの身体は吐き気にも似た不調を覚えた。
「う、ぐえぇ……!?」
アイシャに至っては本当に吐いている。本能的直感による不快感ではない、強力過ぎる電磁波が体内の原子を揺さぶる事で生理機能に異常が生じたのだ。
それはモグモグも同じであろう。猛然と襲おうとしていた動きが止まり、僅かに身体がよろめく。不調に見舞われて攻撃どころでなくなったと思われる。
攻撃を止めたモグモグであるが、マールは今更見逃すつもりなんてないらしい。放たれる電磁波はどんどん、果てしなく高まっていき――――
「ムキャァッ!」
ちょっと強めに声を上げた、瞬間に
強力な電磁波により、シェフィルの視界が真っ白に染まる。次いで殴られたような衝撃が身体を突き抜けた。
衝撃波、ではない。この星に大気は存在せず、どれほどの熱源があろうと吹き飛んだ空気との衝突なんて発生しないのだ。無論地面に降り積もった雪が気化すればその限りではないが……今シェフィルの身体を襲ったそれは、熱により膨張しながら吹き飛ばされた『気体』ではない。
過去に母から教わったため、シェフィルは知っている。『光』であっても物体を押し出す力はあると。これは光圧または放射圧と呼ばれる物理現象であり、例えば彗星の動きなどに影響を与えている。とはいえこの力は恒星が放つ莫大な光エネルギーで、尚且つ空気抵抗がない宇宙空間だからこそ意味を持つ程度の微々たるもの。ちょっと眩しいぐらいの光を浴びたところで、シェフィルでも観測出来ない僅かな圧力しか生じない。
しかし言い換えれば、十分に強い『光』であれば相手を吹き飛ばすだけの威力を持つ。
そう、理屈の上ではそうなのだが……理屈は理屈だ。それを実現するには身体の構造や発射器官の耐久性、何より消費エネルギー量など様々な現実的問題が付き纏う。だからこそこの星の生物に、光で相手を吹っ飛ばすような種はいない、筈だった。
だが、マールはそれを為し遂げた。いとも容易く、見たところ大した苦労もなく。
「ぐぁっ……くっ!」
吹き飛ばされて背中を地面に打つも、シェフィルは後転するようにして立ち上がる。二本の足で踏ん張り、どうにか付近に留まった。ついでに、そのまま飛んでいきそうなアイシャの腕を咄嗟に掴んで引き留めておく。
これでも十メートルほど飛ばされたと言うべきか、それとも幸運にも十メートル程度で済んだと言うべきか……身体の九割、腹に張り付いていた幼体諸共消し飛んだモグモグを見れば、後者だとシェフィルは実感する。モグモグの高度な身体機能を鑑みれば、あそこまで損傷しては再生も儘ならないだろう。
モグモグがいた方角には、一直線に伸びる溝が大地に刻まれていた。幅数百メートルの雪が全て気化しており、大地の溝は数メートルもの深さまで抉れている。溝の底はぶくぶくと沸騰する赤い液体……溶けた岩石が溜まっていた。トゲトゲボーも根こそぎ消し飛ばされ、岩盤が剥き出しになっている。
自分達の家を吹き飛ばした爆風、それを生み出した閃光を発射したのは、やはりこのマールのようだった。
「ムッキュー」
恐るべき破壊、更に最強格の捕食生物を討ち滅ぼしたマールであるが、それを誇るどころか気にした素振りすらない。獰猛さや残虐さとも無縁だ。
シェフィルは息を飲みつつ、冷静に頭を働かせた。
モグモグを粉砕したマールであるが、その理由は簡単に推測出来た。自分に襲い掛かってきた……有害な敵だからであろう。自分に噛み付いてきた虫を、どうして優しく取り除く必要があるのか? バチンッと平手で叩き潰すのが普通である。マールの行いはそういう事だ。そもそも喜ぶなんて感情が、演算で思考する惑星シェフィルの生物にある訳もない。合理的に、淡々と事実を認識するだけ。
「ムキュ」
害虫を排除して安全確保したマールは、丸々とした身体からひょいっと取り出した ― どうやら脇腹辺りに『袋』があるらしい ― トゲトゲボーの破片を齧り始める。齧る姿は実に可愛らしく、何よりシェフィル達への敵意はない。
トゲトゲボーを食べる――――そこから予想した通り、気質としては穏やかな生き物なのだろう。圧倒的な力は脅威であるが、誰それ構わず殺すような凶悪さは感じられなかった。
「(本質的には、他の生き物と変わりませんね……合理的で、自分本位な気質。だからこそ対処は容易いです)」
桁違いの力を持っている存在が、それを闇雲に振るって何もかも破壊するのは『合理的』な行動か?
否である。強い力はエネルギー消費が激しく、身体への負担も大きい。加えて余波で自然を破壊すれば……今シェフィル達がいる荒野のように、食べ物が芽生える自然そのものを壊してしまう。どれほど優れた生命体であろうとも、食糧を生み出す生態系がなければ命を保てない。
不用意な破壊は自分自身を苦しめる。だから敵対さえしなければ、この『大人しい生き物』は攻撃してこない筈だ。不安そうに身体を震わせるアイシャに「大丈夫です」と一声掛けた後、シェフィルは彼女を抱き寄せて少しずつ後退り。マールからゆっくり、穏便に距離を取る。
このまま可能な限り遠くまで逃げれば大丈夫――――生き残る可能性が現実味を帯びてきて、シェフィルはほんの少しだけ緊張が和らぐ。
マールが再び肉薄してこなければ、そのまま一息も吐けただろうに。
「ひぅ」
「アイシャ、悲鳴は駄目です」
恐怖から叫ぼうとしたアイシャの口を、シェフィルは咄嗟に塞ぐ。何がマールを刺激するか分からない以上、大声なんて出させる訳にはいかない。
アイシャも叫ばない方が良いというのは理解しているようで、こくこくと頷いた。
「……ムキュキュ」
肉薄してきたマールはしきりに触角を動かし、シェフィル達の姿を観察している。
つぶらな瞳(のような単眼)でじっと見つめながら、耳のような触角をピコピコと動かす。恐ろしい破壊力の攻撃を目の当たりにして言うのも難だが、極めて可愛らしい仕草だ。シェフィルでさえ警戒していたのが馬鹿らしく思えてきて、アイシャに至ってはちょっと引き攣り気味ながら笑みを浮かべている。
しかし、どうしてマールは自分達に向けて触角を動かし、調べているのだろうか?
触角で調べるものが何かと言えば、勿論種によって様々だが、基本的には臭いである。気体などの浮遊物質を捉え、その濃淡から観測対象の居場所を推定するのだ。この星では通常の物質は全て凍り付いてしまうが、生物由来の物質……体臭の類は比較的凍り難く、空間を漂う事が多い。
マールの触角も、恐らく臭いを探っていると思われる。だとすると自分達の身体に、マールにとって気になる臭いがあるのだろうか? 疑問を抱いたシェフィルは思考を巡らせた。
答えに辿り着くのに数秒と掛からなかったのは、生存本能が働いたからか。
「(違う。コイツが嗅いでいるのは、私達の体臭じゃありません!)」
マールが嗅いでいるのは、恐らく『口臭』の方だとシェフィルは直感する。
口臭で何が分かるか? 流石に消化して何時間も経った後では何も分からないだろうが、食後すぐであれば、何を食べたかは分かる筈だ。
シェフィルとアイシャが先程まで食べていたのはデカポンの焼き内臓。しかしトゲトゲボーを食べる大人しい生き物と思しきマールにとって、デカポンの肉など興味もないだろう。香ばしい焼肉の香りも、それを食べない生き物からすれば変な臭いでしかない。
では、シェフィル達の口臭にマールの気を引くものはないのか?
否である。デカポンの肉以外にも、自分達はあるものを口にしていた。ほんの僅かな量であるが、ピリリとした心地良い刺激を与えてくれたもの。
トゲトゲボーの汁だ。
「(僅かでも、食べた事に違いはありません! 臭いを感じ取られても、不思議はないでしょう……!)」
マールにとってトゲトゲボーは食べ物である。
普段シェフィル達はトゲトゲボーなんて食べないし、今回食べた量もごく僅か。だがマールからすればそんな事は関係ない。
コイツらはトゲトゲボーを食べている、という事実だけが重要だ。
さて。マールから見たシェフィル達は今、どんな存在だろうか? 相手の生態が分からない以上、憶測に過ぎないが……『ライバル』、つまり同じ食べ物を巡る競争相手だと思われる。
トゲトゲボーの資源量は有限であり、それはトゲトゲボーを食べる生物の数が制限される事を意味する。もしも複数種で分け合ったなら、その分一種当たりの個体数は大きく減るだろう。即ち同じものを食べるライバルというのは、自分の子孫の個体数を強烈に抑え込む。時として、捕食者よりも遥かに強い個体数抑制要素だ。
このような状況下で、自分の子孫をより多く生き残らせるにはどうすれば良いのか? 答えはとても簡単である。
生態系が乱れて自分にも悪影響がある? そうかも知れない。だが生命において、繁栄するのは短期的に有利な形質だ。将来的に寒冷化する地域であっても、今生き残るのは今の温かな気候に適応したものであるのと同じように。
無論、通常そのような真似は出来ない。ライバルも大人しく殺される事はなく、反撃をしてくる。身体の大きさが互角ならば、戦闘能力も互角であるのが基本。返り討ちに遭う可能性も低くない。身体が小さければ繁殖力に優れ、進化も早いため駆除しきれない。戦いにコストを投じればその分繁殖力は落ち、生存競争に敗れやすくなる。戦わず、より環境に適応して個体数を増やすという普通のやり方が、最も子孫を残しやすいのだ。積極的に戦って滅ぼすというやり方はかなり無茶なのである。
しかし、その無茶が可能であれば?
……この星の生物に優しさや慈悲なんてものを期待してはならない。自分が繁栄するためなら比喩でなくなんでもする。他種を滅ぼす事に一片の罪悪もなく、大地を破壊し尽くす事になんの感傷も抱かない。その破壊の影響により、生態系を構成する生物種に異変が生じても、自分にとって不利益でなければ気にも留めない。
一番感情的な生物である
大体、マールは既に実行している。
「(デカポンを殺したのも、毒虫だらけになったのも、コイツの仕業……!)」
答えに辿り着いたシェフィルに対し、マールの返答は極めてシンプル。
その可愛らしい顔の前に、星の輝きよりも眩しい光を出現させるというものだ。