「母、さま……?」
突然、予期せぬ方角――――壁をすり抜けるように現れた存在を見て、シェフィルは思わずそう呼んでしまった。
とはいえこれは反射的な言動。よくよく観察すれば、そこにいる存在が母とは別個体だと分かる。例えば身体の輪郭や背の高さ、触手の太さなどが母と違っていた。
母ではない、母の一族。ハッキリ言って他人であり、シェフィルは思わずその個体の前で立ち尽くしてしまう。アイシャはシェフィルが棒立ちしている事に気付くと、おどおどとシェフィルの背後に隠れてしまう。
二人の人間が唖然としていたところ、母の一族が動き出し、やや距離を詰めてから話し掛けてきた。
【警告。この区画では保守管理者及び警備要員、許可を得た一部端末以外の進行を禁じています。ただちに立ち去りなさい】
尤も、話し掛けと呼ぶには些か無機質な言動だったが。
「えっ、あ、えっ?」
「アイシャ。こちらの方は母さまではありません」
「あっ。別個体なんだ……」
アイシャは母と見分けが付いていなかったようで、無機質な言葉に戸惑いを露わにする。シェフィルに説明され、いくらか冷静さを取り戻したが……他人となるとますますどうしたら良いのか分からなくなったのか。そのまま押し黙ってしまう。
シェフィルも同じだ。母以外の、母の一族とはろくに話した経験がない。強いて言うならシェフィルが幼少の頃、母の友人と面白半分に顔合わせしたぐらいである。それにあの時の会話も、ここまで無機質なものではなかった。相手の気質が読み難い。
「(出来るだけ穏便に会話を進めないと、命に掛かりますねぇ)」
下手な事を言えば、その瞬間跡形もなく消し飛ばされるかも知れない。母と同じ種族ならば、それを可能とするだけの力がある筈だ。
しかし見方を変えれば、基本的な思考パターンは母と同じだとも言える。
つまり合理的なものの考え方をするという事。会話でコミュニケーションは成り立ち、合理的な説明であればすんなり信じてくれる。逆に感情論は理解出来ず、非合理に疑いを抱く。そして互いの利益が一致していれば、拒むどころか積極的に協力してくれる筈。
「えっと……私達も地上に戻りたいのですが、帰り道が分からないんです。なので帰り道を教えてくれると嬉しいのですが」
だから正直に、自分達の立場と要望について話してみる。
母の一族の個体……とりあえず『地下さん』と呼んでおく……はシェフィル達を此処から追い出したい。シェフィル達は此処から出たい。これなら双方の利益は一致している。
それを伝えた上で、何をしてほしいか提案した。先程述べた利益と一致した要求は、こちらの話の真実味を強化するだろう。要望を拒んだり、無視したりすれば、地下さん側にとっても不都合だという事も伝わった筈だ。
シェフィルの要望を聞いた地下さんはしばし考え込むように停止。だが一人で悩んでいる訳ではないらしい。強力な電波をガンガン飛ばしており、誰かと(或いは複数人)と積極的に相談しているようだ。
ただ、その会話に聞き耳を立てる事は出来ない。
「ね、ねぇ、シェフィル……この、人? 何か話してるみたいだけど、何を言ってるの? なんか、全然聞き取れないわ」
「あー、これは暗号通信ですね。母さま達は他の生き物に聞かれたくない話をする時、特殊な電波を使うんです。暗号の解読方法は母さまから聞いてますけど……」
「聞いてるけど?」
「通信開始時に設定した、八桁と六十七桁の数値を用いるそうです。私はそれを知らないので、解読出来ません」
母から聞いた話によると、八桁の数値が六十七桁の数値を解読するための『暗号鍵』であり、
暗号化された通信は『読み込み開始』と複数の『コドン』、『読み込み終了』の三情報を幾つも繋げて構築される。コドンの組み合わせが『単語』となり、これを複数結合してようやく文章となる。六十七桁の数値がなければ、一つ一つのコドンすら読み解けず、読み解けても専用の暗号表(コドンをどう組み合わせて単語を作るのかの一覧)がなければ結局無意味な数値の羅列でしかない。
しかもこの暗号通信で作られた文章は、全てに意味がある訳ではない。読み込み開始がないため読まれない、無意味な繰り返し等のパターンも含まれる。その前提を知らなければ、『完全』な解読を試みて時間を浪費する……という罠だ。暗号通信の解読に使う暗号鍵と暗号表は一定周期で変更しているため、苦労して解読方法を習得した頃にはもう次の暗号で話が行われる。
力尽くで解く事も許さない、複雑怪奇な通信だ。
それほど難解な方法を用いて、一体何を話しているのか……何か重大な会話がされているのではないかと思ったのか、アイシャは怯えるようにシェフィルの背後に隠れた。シェフィルもアイシャを隠すように、手を広げ、意識を地下さんに集中させる。
……とはいえ、母達はしょうもない話題でも暗号通信を使う。具体的には「最近ペットを飼いました」程度の話でも。母は暗号通信について話す際、そんな裏事情まで教えてくれた。だからシェフィルは意識の集中こそしたが、警戒まではせず。
【把握しました。私があなた達を地上へと送還します。付いてきなさい】
命令口調ではあるが、地上まで送ってくれると地下さんは言ってくれた。
「わーい、ありがとうございます! やりましたねアイシャ! 地上に帰れますよ!」
「えっ。今の話信じるの!? なんか秘密の通信してて怪しかったじゃない! 騙して変なところに連れて行かれるんじゃ……」
「いやー、深い意味とかないと思いますよ。だって母さまの一族、嘘なんて必要ないぐらい強いですし」
仮に、地下さんがシェフィル達を何処かに連れ去ろうとしているとする。目的は始末でも捕獲でもなんでも良い。
それなら適当に捕縛すれば済む。何故なら母の一族は圧倒的に強く、シェフィル達では抵抗以前の問題だからだ。おまけに原種返りと違い、母達には優れた知能があり、長い歴史の中で幾度となく現れた原種返りとの戦いで得た経験まで備えている。
原種返り以上に勝ち目のない存在だ。それぐらい力の差があるのだから、言葉巧みに、なんて『面倒』をする必要はない。触手を目にも留まらぬ速さで伸ばしてぐるぐる巻にするか、問答の途中で電磁波ビームを射ち込めば良い。
そして母の一族は合理的で、効率的だ。あの母でさえ、同族の中では非合理な部類らしい。誰も彼もが非効率な行動を好まない。騙すなんて非効率なやり方はせず、故にこの言葉に偽りはないと信用出来る。
「そういう訳ですから、信じて良いと思いますよ」
「う、うん……」
シェフィルの説明に、納得はしたのだろう。しかし感情的には受け入れ難いのか、アイシャの表情は優れない。
尤も、合理的故に他者の気持ちなど一切考慮しないのが母の一族。地下さんは【話は終わりましたか? では同行しなさい】と伝えると、さっさと歩き出してしまう。
この調子だと、逸れたらそのまま置いていかれてしまいそうだ。シェフィルはアイシャの手を引き、先行する地下さんの後を急いで追った。
……道中の地下さんは言葉を掛けてくる事もなく、淡々と前に進むばかり。シェフィル達のいる方を振り向く事すらせず、ましてや声など掛けてはこない。その態度が不安なのか、シェフィルの手を握り締めるアイシャの力は少しずつ強くなっていく。
そしてシェフィルも沈黙は好まない。何故と言われても、なんとなく
「そういえば、此処はなんという場所なのです? 名前とかあるのでしょうか?」
シェフィルが地下さんに話し掛けると、地下さんは少し沈黙を挟んでから、感情の起伏がない声で答える。
【此処は未分離子体の外骨格部分です】
「みぶんりしたい? なんですか、それ」
【成体から分離する前の幼体の事を、我々はそのように呼称しています】
「えっと、つ、つまり此処はその生き物の外骨格、って事?」
内容が気になったのか、若干おどおどしながらアイシャも会話に参加する。
成体や幼体、そして外骨格。どれも生物に対して使う言葉だ。今まで通ってきた道が生き物の上だった――――と解釈するのは、妥当な考えだろう。
困惑しながらアイシャが投げ掛けた質問に、地下さんはシェフィルの時と変わらぬ調子で答えた。
【はい。厳密に言えば、生体組織からは分離していますが。役割としては連絡通路になります。幼体でも体長二千キロを超えますので、連絡通路がないと管理作業が困難ですから】
「ほへー? アイシャ、どういう事か分かります?」
地下さんの説明を聞いても、シェフィルにはよく分からず。アイシャには理解出来たかを問う。
が、アイシャは答えてくれない。
彼女は目を丸くして、足以外の動きが止まっていた。どうしたのだろう? と疑問に思いシェフィルはアイシャをしばし見つめ……やがて我に返ったようにアイシャはびくりと震えた後、地下さんを問い詰める。
「ちょ、ちょっと待って!? 連絡通路って……つまり、この道は人為的に用意したものなの!? なら……!」
【人為的ではありません。シェフィルが進化の過程で会得しました。我々が快適に通行出来る事が、管理・メンテナンスを行う上で適応的だったためです】
「ん、んん……? 進化で……? この通路を持っている生き物は、その、生物兵器が由来だったりしないの……?」
【いいえ。我々が把握している情報では、違います。我々は文明の手を介した存在ではありません。過去に自己解析の一環として研究・調査を行い、その結果シェフィルは自然発生した生物と結論付けられています】
淡々と、やはり感情の起伏なしに答える地下さん。アイシャはまたも首を傾げている。
どうやらアイシャは地下さんとの問答で、この巨大通路を持つ
ただ、先程考えていた『生物兵器説』がバッサリと否定され、ちょっと戸惑っているようだ。シェフィルとしてもこの星について新しい知識が得られるのは、生存に役立つのに加えて好奇心も疼く。困惑しているアイシャに代わり、自分が次の疑問をぶつけてみる事にした。
「はーい。私からも質問したいのですけど、構いませんか?」
【問題ありません。何を訊きたいのですか】
「でしたらこの星の生物の起源について教えてほしいです。以前母さま……あなたの同族から、原種は宇宙の彼方からやってきたと聞いています。もしかしてそれって、この大きな生き物に乗って、私達の祖先が来たって事なんでしょうか?」
質問の内容は、シェフィルなりに考えた仮説が正しいかどうか。
母から聞いた話と、地下の生物を関連付けた説だ。特に根拠もなく繋げたので、もしかすると頓珍漢な質問だったかも知れないと内心思っていたが。
【祖先という言葉の定義次第ではありますが、シェフィルによって異なります。現在我々が歩いているこのシェフィルについてはその通りであり、他のシェフィルについては誤りと言うべきです】
それに対する地下さんの答えは、全否定ではないがちょっとばかり複雑なもの。どうやら一言で説明出来るものではないらしい。
そーいうものかとシェフィルは思う。
今の言い方だと、まるで惑星シェフィルの生物の起源が
しかし疑問もある。地下さんはこの外骨格を持つ巨大生物も、地上の生物も、全て『シェフィル』と呼んでいる。起源が違うのなら、それらを纏めてシェフィルと呼ぶのは正しくないのではないか?
「んー? ちょっと難しくてよく分からなかったのですが。この星の生き物には二つの起源があるという事ですか?」
【それも定義次第なので、一概に肯定は出来ません。我々の中でも意見が分かれるところです。ですが私の認識としては、その解釈をしています】
「へぇ。具体的にはどんな起源なのですか?」
【第一に、我々が歩いているこの下にいる、根源たるシェフィル。彼女は自然発生した種族です。そして第二に、我々が生み出されたシェフィルとなります】
聞けばすらすらと、隠そうとする素振りもなく地下さんは答えてくれる。嘘も吐いてはいないだろう。
しかし、全く意味が分からない。
母もそうだが、自分の知っている事を相手も知っている前提で話す癖がある。知らないから質問しているというのに、相手の事を全く気遣わない。
種族全体が情報共有能力や優秀な情報処理能力を持つので、
が、そこにアイシャが割って入った。聞き捨てならないと言わんばかりの勢いで。
「う、生み出されたってどういう事!?」
【そのままの意味です。根源たるシェフィル以外のシェフィルは、全て根源たるシェフィルより生み出されました。表層に生息している個体群は形態的・遺伝子共に多様ですが、本質的には食料源として運用されています】
「食料!? 表層に生息してるって、まさか私達を食べるつもりなの……!?」
【生物の熱量がシェフィルの食料となっています。直接的な捕食は機能的には可能ですが、行う事は考慮されていません】
尋ねれば、地下さんはいくらでも答えてくれる。しかしその意味は、シェフィルには分からない。アイシャも困惑の表情を浮かべているので、何を言われているかは理解出来ていないだろう。
やはり、説明が下手過ぎる。一旦ちゃんと訊き方を考えた方が良い。そう思い、シェフィルは興奮するアイシャを宥めようとする。
【どうやら前提知識に差異があるように思われます。前提から話す方が、理解が早いでしょう】
その前に、地下さんは自分の話がシェフィル達に上手く伝わっていないとようやく理解したらしい。
地下さんは唐突に立ち止まると、シェフィル達に触手を伸ばしてきた。その速さは凄まじく、アイシャだけでなくシェフィルさえも触手が伸びてきた事に反応出来ない。
気付いた時、シェフィルとアイシャは胴体部分を触手によってぐるぐるに巻かれてしまった。手足は自由だが、これでは拘束されているも同然である。
「ひっ!? やっ、止め……!?」
「アイシャ、大丈夫ですよ。殺すつもりなら私達二人とも今頃くしゃっとされてますから」
身動きを封じられてアイシャの顔と声は恐怖で引き攣るが、シェフィルはそれを優しく宥める。
そう、殺すつもりなら自分達はとっくに死んでいる。母の一族にはそれを可能とする力があるのだ。
では、なんのためにシェフィル達を触手で縛り上げたのか?
【一度シェフィル中枢まで運びます。地上への連絡通路は、そこから伸びていますし、今の話をする上でも見せた方が早いでしょう】
どうやらシェフィル達の色々な要望を叶えるのに、一番手っ取り早いやり方を選んだらしい。
抵抗はこちらにとっても得にならない。不安そうにしているアイシャの手を強く握りつつ、シェフィルは大人しくしておく。
やがて、周りの景色が
恐らく、地下さんが量子ゲートワープを用いたのだろう。数百キロの距離を一瞬で移動出来る、母の一族が使う『高速移動』手段。果たしてどれだけの距離を移動したかは分からないが、かなり遠くまで来たとシェフィルは思う。
そう思うぐらい、周りの景色は今までのものから一変していた。
「ひっ!? な、何、此処……!?」
アイシャが慄く。シェフィルも身体が強張る。
更に胸がざわめく。
もう、そこは道と呼べる状態ではない。天井は遥か頭上であり、行動を妨げる壁は何処にも存在しなかった。床はどす黒い色合いに染まり、地平線が見えるぐらい彼方まで続いている。
天井からは血管のような、肉の管が無数に垂れ下がっている。その管は床と繋がっていて、脈拍のように規則正しく蠢き、何かを床へと送り込む。なんらかの揮発性物質の影響か、生臭さが充満しており、ただ此処にいるだけで不快感が込み上がってくる。
そして寒い。
尋常でない『寒さ』が身体を襲う。厳密に言うなら、猛烈な勢いで身体の熱が奪われる感覚だ。まるで冬が再来したかのような、抗えない強烈さ。
短期的には熱の生成量を増やす事で対処出来るが、あまり長くは続けられない。シェフィルといえどもいずれ凍り付く。極めて危険な環境と言えよう。
「あ、ぁ。うぅ……!」
では、アイシャがガタガタと震えているのはその寒さの所為か?
半分ぐらいは、その通りかも知れない。だがもう半分は違うと、シェフィルは確信を持って言える。何故ならシェフィルも、震えはしないが同じ気持ちだから。
恐怖。
原種返り相手に感じた、惑星シェフィルの生物ならば持ち得ない感情。それが今、シェフィルの胸の奥底で湧き出している。数学的情報処理により誤魔化しているが、していなければ身体の動きすら止めかねない強烈な衝動だ。
それほどの恐怖をシェフィルは
確証はない。だが確信はある。故にシェフィルは口を閉ざしていた。しかしシェフィル達を此処に連れてきた地下さんは、今まで散々話が通じなかったからか。改めて、丁寧に、教えてくれる。
【これが
全ての認識が覆ると予感させる、大前提を――――