崩れ落ちた岩からシェフィル達を助け出したのは、母だった。
母曰く、アイシャを標的とした攻撃命令は解除されたとの事。シェフィルの思惑通り、下級戦闘体はアイシャを見失った事を以て「排除完了」と判断したそうだ。しばらくは周囲をうろうろしていたが、やがて次の指示が出て撤退したらしい。
攻撃命令がなくなれば、直接助けても「敵の援護をした」とは認識されない。そのタイミングを待って母は岩の撤去を開始。崩れないよう丁寧かつ迅速に岩を退かしていき、その下にいたシェフィルとアイシャを救出したのだ。
後は触手でささっと二人を巻き、さっさと地上に通じる場所まで移動。量子ゲートワープを用い、一瞬にして地上へと戻った。かくしてシェフィルとアイシャは地上に無事帰還した。
これが凡そ四十時間前の出来事である。
「……はあぁぁぁ」
そして生還したシェフィルは、大きなため息を吐いていた。
原種返りが訪れる前から変わらず、トゲドゲボーが生い茂る大地。その中でもトゲドゲボーの密度が低く、居座っても身体が傷付かない場所にシェフィルは座り込んでいる。
本来こんな場所に座り込むのは極めて危険だ。トゲドゲボーに身を隠して接近する大型生物がいるかも知れず、また少し身体を動かすだけでトゲドゲボーの棘に刺さってしまう。休むにしてもこんなところではなく、安全な洞穴などが好ましい。かつての家のような場所だ。
しかしこれは今、ないものねだりである。
何しろ原種返りとの戦い(と呼べるようなものではなかったが。ほぼ蹂躙されていただけだ)によりシェフィルの『家』である洞穴は跡形もなく吹き飛ばされたのだから。しかもあの洞穴も偶々見付けた山に、シェフィル自身が掘り起こして作ったもの。山自体が希少なこの地で、新たな住処を探すのは一苦労だ。
長らく暮らしていた場所を失い、次の住処も見付からない。長らく一緒に暮らしていたペットも何処かに行ってしまった。色々な事があって精神的な負担はとても大きい……とはいえ数学的思考を持つシェフィルにとって、それぐらいの事は割とすぐに割り切れる。落ち込んだところで問題は解決しないのだから、別の事にエネルギーを費やす方が合理的というもの。
では何故シェフィルはため息を吐いているのか。
それは、アイシャが原因である。
「ねぇ、シェフィ」
「わきゃあぁああぁあっ!?」
背後からひょっこり現れたアイシャに呼び掛けられ、シェフィルは悲鳴染みた声を上げてしまう。
慌てて振り返れば、そこには身を縮こまらせているアイシャがいた。シェフィルが大声を出したので驚いているのだろう。
自分の失態だというのは、シェフィルも頭では理解している。アイシャを驚かせ、怯えさせるのもシェフィルにとっては本意ではない。すぐにでも謝らなければと、理性としては考えている。
ところが謝るための言葉が口から出てこない。
しかしそれは謝りたくない等という、くだらないプライドが邪魔しているからなんて理由ではない。そもそもそんな非合理的な感覚はシェフィルの中にはないのだ……今でもそんなものはない。言えないのは、身体の不調が原因だ。
どうしてか今のシェフィルは、アイシャの顔を見ると頬がかあっと熱くなってしまう。筋肉が張っているのか身体も動かず、声が出せなくなっていた。彼女に対しここまで『興奮』する合理的理由なんてない。だがどれだけ論理的に考えても身体の不調は収まらない。
そして動けもしないので、歩み寄るアイシャを躱す事も出来ず。
「あの、怪我はもう大丈夫なのかなって思って……」
アイシャの要件は、どうやら傷についての事。
下級戦闘体から逃れるための策で、シェフィルは大岩の下敷きとなった。この時に足など下半身の一部がぐちゃぐちゃに潰れている。腕の骨が折れるなど、上半身側も無傷とは言い難い。
とはいえあの程度の損傷ならば、シェフィルからすれば生命を脅かすほどのものではない。十分な栄養と休息を挟めば回復可能であり、実際今のシェフィルの身体は見た目だけならなんの傷も負っていない状態まで再生した。細かく見れば足の神経などが治りきっておらず、素早く動き回る事は出来ないが……しかしこれらの回復も着実に進んでいる。
不幸中の幸いと言うべきか、原種返りが暴れ回った事で大型生物は軒並みこの地域から離れている。危険な捕食者はおらず、家がなくともシェフィル達は安全に休む事が出来ていた。今なら回復に専念出来るため、遠からぬうちに全ての傷はさっぱり治るだろう。
という事はシェフィル自身分かっている。だから隠す必要はないし、むしろ現時点で足の状態が良くないという情報は共有するべきだ。
なのにどうしてか口が上手く動かず、喉も変に震えて声が出てこない。
「シェフィル……? やっぱり、何処か調子が」
返事をせず棒立ちしていたものだから、アイシャがぐっと近付く。
それと共に漂うアイシャの匂い。
途端、シェフィルは自分の心臓がバクバクと痛いぐらい波打つ。運動なんてしていないのに、危険なんてないのに、身体がどんどん興奮状態へと傾く。
加えて視線がアイシャの顔から逸らせない。可愛らしい顔だとは、初めて会った時から思っていたが……どうしてだろう。今は妙にキラキラして見える。視覚情報が極めて不正確で、ノイズ塗れではないか。
しかも見る事に意識が集中し、ろくすっぽ動けない。見る事は大事だが、それで動けなくなっては本末転倒ではないか――――等と冷静に思考しても、身体は全然言う事を聞いてくれない。アイシャが詰めてきても一歩と動けず、ただこちらを見てくるアイシャの瞳と向き合うばかり。
どうにか動かせた視線も、アイシャの唇ばかり見てしまう。
体液でしっとりと湿った、柔らかそうな唇。如何にも非力で、硬いものなんて食べられそうにない。生きるための逞しさに欠如しているが、どうしてか酷く魅力的に思えてならない。当然なんらかの能力なんかも持ち合わせていない筈だが、微かな吸引力も感じ
【シェフィル。何をしているのですか】
「みょあっ!?」
そこまで考えていたところ、不意に現れた母に声を掛けられてシェフィルは飛び跳ねる。あまりにも仰天して、そのままひっくり返ってしまった。
母の突然の出現はアイシャも驚かせたようで、アイシャは顔を赤くしながら後退り。アイシャとの距離が開いてシェフィルも落ち着きを取り戻す。
いや、落ち着いた、というのは正しくないかも知れない。
何故なら身体が動くようになった途端、シェフィルはこの場から離れたい猛烈な衝動に見舞われたのだから。しかもただ離れたいだけならまだしも、何故か動きたくないような、惜しさも感じてしまう。矛盾した感情が頭の中を行き交い、どのような行動をすべきなのか全く分からない。演算思考がループし、計算結果を算出出来ない。
とはいえこの混乱状態も長くは続かない。
「シェフィル? 本当に大丈夫……?」
アイシャがそう話し掛けてくるだけで、覚悟は一瞬で決まるのだ――――この場から全力全開で逃げ出すという覚悟が。
「わわ、わ、私、獲物狩ってきますぅー!」
「え、ちょ」
引き留めようとしたのか、アイシャが手を伸ばしてくるが……シェフィルの方が速い。アイシャの手を躱し、シェフィルは宛てもなく走り出す。
冷静に考えれば全く意味が分からない行動だ。大急ぎで獲物を狩りに行く必要はなく、そもそも原種返りの影響で
つまるところ、これは走り出した事に対する言い訳だ。言い訳なんて非合理で非効率なだけなのに、それをシェフィルはしている。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
息が荒くなる(この星の環境に適応したシェフィルに呼吸は必要ない。人間の本能で激しく呼吸をしてしまうほど疲れた証だ)まで走ったシェフィルは、やがて立ち止まる。
後ろを振り返ってみても、アイシャの姿は何処にも見られない。
どうやらアイシャは追い駆けてこなかったらしい。シェフィルの方が圧倒的に足が速いのだから、追ってこないのは極めて合理的な判断だ。捕まえられない存在を追ったところでエネルギーの無駄でしかないのだから。大体追われたら無意識に、全力で振り切っただろう。
そうだと分かっているのに。
「(追ってきてませんか……)」
アイシャが来ていない事に、胸の奥底でもやもやとした……端的に言って不愉快な気持ちが沸き立つ。
意味不明な心境だ。合理的選択なのだから結果の予測は容易い。大体アイシャの近くにいたかったのなら、走らなければ良かったのだ。そうすればずっと傍にいられた。
そもそもアイシャがどう行動しようと、それはアイシャの勝手である。協力して狩りをしているなら兎も角、シェフィルの意味不明な行動に付き合う必要はない。
「(分かっています。分かっていますが……納得出来ません)」
何に納得出来ないのか? シェフィルにも分からない。しかし胸の中で渦巻く、ストレス反応に近い感覚は、現状に納得出来ていない証だろう。
本当に、自分はどうしてしまったのだろうか。
やはり健康上の問題なのか。自分で分からない以上母かアイシャに訊くしかないだろう。しかし母は博識だが、人間の生態に詳しい訳ではないので知らない事も多い。ましてやこんな不合理な思考、惑星シェフィルに生息する生物由来のものとは考えられない
ならば訊くべき相手はアイシャなのだが……
それを考えるだけで、喉が詰まるような感覚に見舞われる。顔も熱くなる。こんな無意味な体温上昇、エネルギーの無駄遣いでしかないのに止められない。
ただ自分の不調について訊きたいだけなのに。それを考えるだけで、胸の内側がもやもやとしてくる。合理的説明が一切出来ず、それを解消する行動を心が拒んでしまう。
自分の身体が、心が、まるで理解出来ない。
「う、ううぅぅ……私、何がどうなっているんでしょうか……?」
その場にしゃがみ込み、もう一度頭を抱えてみても答えは出ず。顔と頭がどんどん熱くなり……そしてやたらと脳裏にアイシャの顔や思い出がちらつく始末。
この星の起源さえも知ったというのに、自分の気持ちという一番簡単な筈のものが分からなくなってしまうシェフィルなのだった。