「うん、冷静に考えるとアレはないわね。アレは」
浴びた熱波の影響で身体はホカホカになりつつ、頭だけは冷えたアイシャは一人頷いていた。
シェフィルは今、近くにはいない。放熱後、そのまま遠くまで逃げてしまった。
確かに、全然話を聞いてくれないシェフィルへの苛立ちはある。多少強引な手に出なければならないと今でも思う。しかしそれはそれとして、不意打ちして押し倒すのは普通に犯罪的だろう。この星に法も倫理もないが、現代人の感性としてやってはいけないラインだと思う。
挙句気分が乗ったという理由でキスを迫るのは、セクハラを通り越して性犯罪ではないか。女同士だから問題ない、なんて言い訳が(今の人類文明で)通じる訳がない。おまけにキスで止まれる自信もない。
相思相愛だとしても、やっていい事と駄目な事はある。
「(シェフィルが私に惚れてるとか言ってるけど、私なんて理性失うぐらい惹かれてるじゃん。どうにかするとか、どの口がほざいているんだか)」
自分の気持ちを勘定に入れないとは、策士策に溺れるとはこの事か――――「これはただの自爆でしょ」と頭の片隅にある理性が自己弁護にツッコミを入れる。
さて、これからどうしたものか。
思い付く作戦は一通りやった。最後の手段である怪我の振りも失敗している。シェフィルならば同じ手は二度と食わないと考えれば、もう策は一個も残っていない。いや、怪我についてはまた来てくれそうだが、あんまりやると流石に嫌われそうなのでやりたくない……それでも嫌わないでくれるだろうな、という打算が出てくる自分の思考が嫌になる。
思い詰めても妙案は閃かない。ならば軽い気持ちで考えてみたが、やはりなんの作戦も閃かない。
「(いっそ、シェフィルのお母さんに頼む?)」
母であればシェフィルが何をしても拘束は簡単だ。アイシャを驚かせた放熱にも難なく耐えるだろう。その拘束状態でたっぷり時間を掛けて話せば良い。
しかし問題が二つある。
一つは母が手伝ってくれるか分からない事。とはいえ、これについてはほぼ心配無用だろう。母も自分の遺伝子が後世に伝わる事を望んでいる。シェフィルの拘束(後にする会話)が子孫繁栄に繋がると理解すれば、積極的に手伝ってくれる筈だ。
だがもう一つの問題、母が近くにいない事はどうにもならない。こちらから呼ぼうにも、母が何処にいるかも分からない状況ではそれも無理である。
母の観測能力を鑑みれば、大声を出せば案外普通に聞こえる気もするが。だが母は立ち去り際、忙しいとも言っていた。聞こえたとしても当分は意図的に無視される可能性が高い。
「(あれ? そういえば、何時帰ってくるんだろう?)」
と、考えていたところでふと思う。
忙しいという情報を伝えた後、母はさっさと行ってしまったため詳しく聞けなかったが……あの言い方だと、しばらく帰ってこない可能性もある。
先日の原種返りに対応していた時のように何日か ― この星に暦はないので数十時間という言い方の方が正しいだろうが ― 待たねばならないかも知れない。もしかするともっと長期間、延々と待つ事になる可能性もある。何時捕食者に襲われ命を落とすか分からない環境で、そんな悠長に待ってなんていられない。
待つ、という選択肢はあまり良い結果に繋がりそうにない。いざとなれば、という考えは捨てた方が良さそうだ。なら、別の作戦を考えなければならない。
「(友達の一人でもいれば、相談とか出来たんだけど)」
友達どころか人間すらいない惑星で、人間の恋愛を相談出来る相手なんている訳もなく。腕を組み、改めて一人で考えてみる。今まで見てきた創作物、知人の恋バナを一生懸命思い返す。頭を抱えて悶えてもみる。無論、そんなもので浮かべば苦労はない。
苦しみ抜いて辛うじて閃いたのは「いっそ大きな声でこちらの言いたい事を一方的叫んでしまえば良いのでは」という策でもなんでもない考えだけ。こんなものなど論外だ。何故なら、と反射的に問題点を挙げようとして。
「……あれ?」
何が問題なのかと、疑問を抱いた。
落ち着いて考えてみる。そもそも何故自分はシェフィルを取っ捕まえようとしているのか。それはろくに会話が出来なくなったシェフィルを捕まえ、恋や愛についてあれこれ教えるためである。
つまりシェフィルにこの情報を伝えられるのであれば、やり方はなんだって良い。教える、という点が重要なのだ。普通に話し掛ける距離で逃げられてしまうのなら、逃げられない距離で話せば良いだけではないか。
人類文明でそんな事をすれば見ず知らずの誰かに聞かれるという猛烈に恥ずかしい経験をする羽目になるが、この星に自分達以外の人間はいない。よってどんな大声を出そうとも知らない
伝えてしまえばこっちのもの。そのまま愛を語らえば目出度くゴールインだ。
勿論、この作戦も絶対成功するとは限らない。シェフィルの羞恥心が想像以上で、一声掛けた瞬間全力で何百メートルも離れてしまう可能性は否定出来ない。或いは嬉しさと恥ずかしさで頭が真っ白になって言葉が頭に入ってこない、という事もあり得るだろう。だが失敗したからなんだというのだ。上手くいかなかったら次を考えれば良いだけの事。
「……よし」
覚悟を決めて、起き上がるアイシャ。早速大声で呼び掛けようと、シェフィルの姿を探す。全方位に届くぐらい叫ぶつもりだが、それでも直接呼び掛けたいとは思うのだ。
ところが軽く辺りを見回しても、シェフィルの姿は何処にもなかった。
こてんと、アイシャは首を傾げる。シェフィルは家の周りに茂るトゲトゲボーの森に隠れているが、こちらを観察するため、あまり奥深くにはいない。ある程度注意深く探せば、トゲトゲボー同士の隙間から覗き込む可愛らしい顔を確認出来る。
これまではそうだった。ところが今は何処にもシェフィルの姿が見られない。見落としたかもと何度も周囲を見渡すが、顔どころか手足や髪すら発見出来なかった。
「(食べ物でも探しに行ったのかしら?)」
考えられない事ではない。先程食べたミミミはそこそこ大きい生き物であるが、甲殻が分厚く、大きな消化器官も捨ててしまうので、見た目ほど可食部は多くない。
そして身体能力が普通の人間よりも優れているアイシャやシェフィルは、その分基礎代謝も高い。ただ生きるだけでも大量のエネルギーを消費するため、たくさんの食物……推定だが、常人の何倍ものカロリーが必要だ。身体能力や発熱量を考慮すれば数倍の食事量なんて異常なほど『少食』だが、普通の人間と比べれば尋常でなく多い事も間違いない。
今までなら食べ物探しに行くとシェフィルは一報を伝えてくれたが、今のシェフィルはアイシャとまともに話せない状態だ。ここ最近は勝手に食べ物探しに出向き、帰ってきた時だけ名前を呼ぶ……という流れになっている。
だから今、シェフィルがいない事はなんら不思議ではない。
不思議ではないのに、何故だろうか。無性に胸騒ぎを覚えてしまう。心臓が鼓動を強め、感情が不安で塗り潰されていく。この状況は初めてではないというのに、今回だけは悪い意味で特別なような気がしてならない。
これが虫の報せというやつだろうか。
「(今の自分でその感覚は、割と洒落にならないんだけど)」
シェフィルほどではないにしろ、アイシャもこの星で長く暮らした影響で諸々の感覚が鋭くなっている。文明に浸っていた頃と違い、今ならほんの小さな異変にも気付けるだろう。
その異変を今、感じ取ったのではないか。
そこまで考えて、しかしアイシャは自分の感覚をあまり信用出来なかった。ほんの一月かそこらで培った感覚に命を預けられるほど、アイシャは自分の力に自惚れてはいない。だから確実な確認、五感による状況把握を行う。ぐるりと辺りを見回し、微かな
結論をいえば、物音も姿も観測出来なかった。
これら小さな生き物は、決して無闇矢鱈に動き回る事はしないが、食事や繁殖などの活動はしている。一つ一つの音は疎らでも、総個体数が多ければ途切れる事はない。故に普段であれば、全方位から足音や咀嚼音がざわざと鳴り響いている。
ところが今、その音がぴたりと止んでいた。より厳密には、遠くの音は聞こえるが、近くが静まり返っている状態だ。
「(絶対ヤバいやつじゃん)」
アイシャはまだ、惑星シェフィルの生物に対する知見が十分とは言えない。季節が巡るだけで『新種』と出会うぐらい何も知らないのだから。
しかし地球の生物学を応用すれば、多少は想像が付く。
恐らく何か、大きな捕食者がいるのではないか。危険を察知した小型種は身を潜め、発見されないよう活動を止める筈だ。ここまで静まり返る理由なんて、他に考えられない。
ならば何処かに捕食者がいるに違いない。それも音のない領域が自分の周囲である事から、この近くにいると考えるべきだろう。そして一匹二匹どころでない、膨大な数の虫を黙らせる存在となれば相当強大な生命体と考えるのが妥当。
「(……でも、姿は全く見えない)」
ところがいくら探しても、強大な敵は見付からず。
油断せず、五分ほど警戒を続けたが……敵らしき生物は一向に姿を見せない。気配も感じられなかった。
単に感じ取れないだけなら、自分の気配察知が未熟なだけと思えた。
だが何時までも襲われない事が、違和感を掻き立てる。惑星シェフィルの生態系において自分がどれだけ貧弱かは、アイシャも自覚している。いくら警戒しても、この星の生物から見れば隙だらけだろう。仮に隙がなくとも、へなちょこには違いない。
相手がちゃんとした捕食者なら、今頃自分は襲われている。アイシャ自身そう思っている。ところが襲われる気配も、狙われている感覚もない。
自分の勘違いだろうか? そんな楽観的な考えがアイシャの脳裏を過るも、すぐに切り捨てる。この星で暮らした一月の間に、一体何度甘い考えで痛い目に遭ったか。
油断すれば喰われる。これがこの星の基本だ。安全かどうか、未熟な自分が判断すべきではない。それにシェフィルなら、この奇妙な状況について何か知っているかも知れない。
まずはシェフィルと合流。情報を共有し、これからどうすべきか話し合うとしよう。
「……シェフィル。シェフィルー」
近くにいる筈の、シェフィルの名前を呼んでみる。ところが返事は何時まで待っても返ってこない。
それ自体はシェフィルの状態を思えば想定通りだが、しかし物音一つしないのは妙である。名前を呼ばれた事に驚き、右往左往した挙句、トゲトゲボーの棘に刺さって悶えそうなものだ。
狩りに出ていて、近くにはいないのだろうか。だとすればシェフィルにこちらの声を届ける方法は二つしかない。
一つはこちらからシェフィルに近付く事。もう一つは、大きな声で広範囲に声を届ける事だ。現実的に考えて、大きな声を出す方が確実だろう。大きな声で呼べばとりあえずシェフィルの耳に入る筈であるし、何処にいるか分からないシェフィルを宛もなく探し回っても見付かりっこない。
しかし、嫌な予感がしている最中に大声を出すのは得策だろうか?
……この星を訪れたばかりの頃のアイシャなら、深く考えずに大声を出しただろう。されど何か異変が起きているかも知れない状況下で、わーわーと大きな声を出すのは愚行だと今のアイシャは思う。それぐらいには、アイシャも野生の世界に適応したのだ。
口を強く噤んだアイシャは、足でシェフィルを探す事にした。姿をハッキリと発見する必要はない。微かな痕跡を見付け、声が届くと確信したところで呼び掛けるのだ。
幸いと言うべきか、トゲトゲボーが不自然に傾いている場所がある。シェフィルが通った後だろう。
この先にシェフィルがいる。そう信じたアイシャはトゲトゲボーの森に立ち入るため、トゲトゲボーを掻き分けようと手を伸ばした
瞬間、ぞわりとした悪寒が走る。
「ひっ」
短い悲鳴と共にアイシャは手を引っ込める。
まだ何も起きてない。もしも此処が人類文明の勢力圏内で、今が肝試しの最中であれば、友人達から指を差されて嗤われていた。しかし今、この瞬間に関して言えばアイシャの判断が正解だ。
茂みの中から、黒く大きな影が跳び出してきたのだから――――