怒りのあまり白熱する視界を無視し、降谷零は激憤を逃すようにステアリングを握りしめた。
先ほどの電話を受け取った時、感情に任せて電話を切ってしまったのは酷い失態だった。
冷静に情報を引き出せていれば、ここまで危機的状況にならなかったかもしれないのに。
己への憤り、姿の見えぬ敵への怒りで激した感情を抑えることの、なんと難しいことか。
諸伏景光を名乗る人物は気安い態度で降谷へと話しかけてきた。
あの頃と同じ、思い出の中と寸分違わぬ声でもって降谷の感情を揺さぶってきたのだ。
だがそんなことあり得ないと、降谷自身が一番よくわかっている。
親友の救助のために爆炎に飛び込みたい気持ちを、ライの手前抑えざるを得なかった苦悩。
見捨てたと言う罪悪感に、TV報道で人のものらしき骨片が見つかったと聞いた時の、あの灰色の無力感。
セーフハウスが色を失い、沈黙の降りた部屋の中で、ただ組織からの電話だけが鳴り響いて。
「…………ッ」
近場の立体駐車場に車を停めて、そこからは徒歩だ。
待ち合わせの場所に辿り着けば、すでにそこには今回の件の相手と思しき人物が背を向けて空を見上げていた。
パーカーのフードで顔を隠した、体格的には男だろう人物だ。
怒りがごうごうと荒波のように打ち付ける。
ベルモット顔負けの変声術は用意できたが、本人そのものとも言えるような変装はできなかったのか。
だから顔を隠した?
───ふざけやがって。
気配を消して、そっと背後から忍び寄る。
路地裏だからだろうか、人影はない。
しかし建物一つ挟んだ向こう側には人のひしめく気配がして、あまり大ごとにはするべきでないと伝えている。
だからこそ、この短い時間を工面してサイレンサーだけは用意したわけだが。
多少いざこざがあっても、目撃者がいない以上音さえ控えめにすれば逃げ切れるだろう。
上着を被せて隠したまま、銃口をするりと男へと突きつける。
同時に、相手方も降谷の動きを察知していたのだろう。
銃を突きつけ合うのは同時だった。
「よお、ゼロ。随分な挨拶じゃないか」
「……ッ!!!」
逆上に視界が明滅する。
こいつは、この期に及んでこんな……!!
体を捻って全力の拳を顔面に叩き込んでしまったのは、ほぼ感情の暴走だった。
男が体を後ろに倒して威力を軽減したが、それでもクリーンヒットした威力にタタラを踏む。
そのまま相手の腕を捻って地面へと叩きつけ、馬乗りになれば、男は呻いたようだった。
その頭蓋に銃口を押し付ければ、男は素早く状況を把握したらしく、ぴたりと動きを止めた。
「ッテェ…!全力でやるやつがあるか!?」
「!」
そこで、降谷は正面から改めて男の顔を見た。
殴られた影響か、頬が赤黒く鬱血している。ゴムが剥がれた様子もなければ、化粧の跡もない。
それが完璧な人肌だと、降谷の理性は結論づけた。
ゆるゆると、己の拳を見る。
ラバーマスクではない?
再び確認した男の顔は、疑いようもなく己の知る諸伏景光のもので。
ヒュッと、己の息を呑む掠れた音がする。
変装ではない。ならば整形か?
いや、そんな面倒なことをするには動機が薄すぎるし利も少ない。
なら本当に?
そこまで考えて、降谷は凍りついたように動けなくなった。
あまりの恐ろしさに身動ぎすらできない。
ヒロが生きていた?そんなバカな。あり得ない。だって、だって。
フードから覗く顔は己の幼馴染そのものだ。
諸伏景光の似姿は、馬乗りになったままの降谷に笑いかけた。
「MI6の仕込みでな、色々便宜を図ってもらったんだ。ほら、ホームズのところに任務で潜り込んでただろ?そこであいつに随分気に入られてさ」
「………」
「それで、助けてもらった。今まで連絡できなくて悪かった。生きてまた会えて嬉しいよ、ゼロ」
指先が不随意に震える。
背筋がゾッと粟立って、息が苦しくてたまらない。
あり得なくはないのだと、理性が冷静に判断を下している。
記憶にこびり付いたあの時の現場を思い返せば、MI6の助けを借りてヒロが生き延びる道は確かにあった。
はっ、はっ、と、瞳孔が開いたまま荒い息を吐けば、余計に息が苦しくなる。
恐ろしい。信じるのが恐ろしい。
もしこれで何者かが降谷を陥れる為の奸計だったらと思うと、希望がもう一度崩れることを思うと。
恐ろしくて仕方がなかった。
まるで底無しの陥穽でも覗き込むように、降谷の喉を軋ませた。
「お前の初恋、女医さんだったってバレて散々揶揄われた時の話、したほうがいいか?」
「当時の関係者に、話を、聞いて」
「無理だろ。小学校高学年の時の話だぞ?こんなくだらない話、誰が覚えてるって言うんだ」
「………はは。そうだな」
涙でツンと目の前が歪んでくる。
銃を退けて、露わになった彼の顔には己が殴った痕が赤黒く残っている。
恐ろしい。嬉しい。恐ろしい、恐ろしい、全身が冷たくなるような戦慄がおさまらない。
その時。
「うん。君たちが無事に再会できて喜ばしい限りだ」
「ッ!」
素早く振り返れば、特徴的な黒と青のインバネスコートを羽織った若い男性が立っていた。
「改めて、エドウィン・ホームズだ。諸事情は信じてもらえたかな?」
「………ええ」
まだ恐怖に囚われたままの感情が、信じられぬと喚いている。
冷静な理性が親友の生存を認めて、かの世界的な名探偵の関与に納得している。
心が二つに裂けてしまったかのようだ。
それでも己を支配する理性が、ゆるゆると体を操って男の話に聞き入る態勢に入らせた。
「では本題に入ろう。きみにこうまで荒っぽい接触を図ったのは、こちらにも事情があったからだ。具体的には、これから起こる大規模テロへの対策───ということだが」
「つまり、僕の公安としての力が借りたい、と?それなら公安に問い合わせれば良かったのでは?」
そっけない返事は降谷の意図したものではない。
感情がぐちゃぐちゃで、理性だけがなんとか「公安」の皮をかぶって口を動かしているからだ。
諸伏景光を使って他国の人間が公安に接触したと考えたら、警戒を解く場面ではない。
本当に、本当の本当にヒロは生きているのか。
体が意識に反して立ち上がり、ヒロを解放した。
ヒロは多少咳き込んでから、「あー、死ぬかと思った」と気の抜けた声を出した。
ホームズが降谷をまっすぐに見ている。
「それでは間に合わない。黒川邸の放火に端を発する一連の事件は、おそらく今日、5月3日から5月4日にかけて結実するはずだからだ」
何故そう言い切れるのか、どこから問い詰めるべきか理性が冷静に思案する。
だが、この目の前の男の無機質な視線、結果を読み上げるような色のない瞳は、前に相見えたときと寸分違わぬ冷たい真実を映していた。
ヒロを助けたのがどのような意図なのかはわからない。
何か先の先を読んで手を打つため。
あるいは小間使いとして重宝するため、というごくくだらない理由で強大な力を振るったか。
降谷は立ち上がり、ホームズへと向き直った。
横で頬を押さえたままため息をつくヒロに、「……悪かった」と小声で謝る。
不意に泣きそうな気持ちに駆られて、必死でその感情の波を受け流す。
ヒロは内緒話でもするような悪戯な声で、「いいってことよ」と笑った。
「場所を変えましょう。ここはあまり話し合いには向きませんから」
「そうだね。向こうにおすすめの喫茶店がある。そこで構わないかな?」
「ええ。ですが、その前に言わせてください」
ゆっくりと、深く頭を下げる。
未だあまりにも多くの感情が乱れすぎて、内心を言葉にするのは難しい。
けれど。
「───諸伏景光を助けてくださって、ありがとうございました」
ボロボロと、涙が決壊する。
ああ、なんて失態。感情のまま涙を流すなんて酷い有様、人前で見せるべきじゃないのに。
後から後から涙が溢れて止まらない。
古傷が癒えるような柔らかな感覚に後押しされて、歓喜が涙を刺激する。
涙を拭い、それでも溢れるそれに情けなくて頭を上げられない。
頭上で名探偵、エドウィン・ホームズが優しく笑う気配がする。
「それはそれは。私も頑張った甲斐があったと言うものだよ」