自分以外の気配のない静まり返った部屋で、俺はただぐったりと肘掛け椅子に座り込んだまま天井を眺めていた。
時と共に俺と霊基たるシャーロック・ホームズの境界は甘くなり、侵食が進んできている。
それは俺が生まれた35年前から始まり、今では俺の人格にまで及んでいる。
特にここ5年で急速に侵食が進んでいる。
呑口議員を、一人の命を見捨てたというのに、俺の心は波風一つ立っていない。
それはシャーロック・ホームズの価値観、機械仕掛けの人非人の倫理そのものである。
今だって、この判断が間違いではないと思っているのだからタチが悪い。
カチリ、と大きなアンティークものの時計が秒針を刻む音が響く。
どれだけ保つのか、俺にもわからない。
少なくともどこかのタイミングで、俺は霊基に溶けて消える。
目を伏せると、霊基が無言のまま嘆息したような、ぶーぶーと不満を漏らすような気配がした。
ホームズの方はホームズの方で「便利な対外用人格が消えてしまうのは流石に惜しすぎる」と思っているようだ。
この事態は俺もホームズも、どちらも望んでいないこと。
だがいくら転生者として膨大な魂を持っていようと、デミ・サーヴァントとして英霊の力を使えばその魂が削られ続け、限界が来るのは仕方のないことだ。
なにせ本来、カルデアが莫大な資金と科学力と魔術とを総結集してなお、ごく短命なホムンクルスを一体作るのが関の山。
そんな無理難題がデミ・サーヴァントというものだ。
ものいいたげな霊基の視線が俺の魂を捉える。
───………。
ホームズの静謐な瞳を見てしまえば、言いたいことくらいこちらにもわかる。
「我が身の力を使わなければ、こんなことにはならなかっただろう」という意味だ。
だが、霊基の力を使わないということは、膨大な転生者の魂が脆弱な「幻霊シャーロック・ホームズ」の存在を押しつぶすということにもつながる。
それでは意味がないのだ。
俺とホームズ、どちらも死者であるのならば。
少しでも世の役に立つ方が現世に残るべきだ。
俺から流入した魂が「幻霊シャーロック・ホームズ」を補強し英霊へと押し上げ、その存在を確立する。
ただの一般人でしかない俺が第二の人生を得る意味があったというのなら、この英雄をもう一度世に現界させることにこそあったと言えるはずだろう。
違うか、正しさの化身。真実の写し身。
シャーロック・ホームズよ。
───……。
ホームズは、「馬鹿につける薬はない」というような困り顔で首を振った。
……。
まあ、俺だって好きで消えたいわけではないんだけどな。
でもさ。
誰だって、他人を犠牲にして生きていたくはないだろう?
緑川君が帰ってきたのは、夜も遅くになってからだった。
血塗れのまま怪我が奇妙に塞がった灰原さんは、失血が酷いらしくぐったりした様子だ。
慌ててMI6の伝手で医者を手配したが、向こうには何と説明すべきなのやら。
コナン君と緑川君は見たところ擦り傷だけのようだ。
医師が到着するのを待つ傍ら、緑川君がテキパキと救急箱を取り出してコナンくんと灰原さんの応急手当てを始める。
俺は暗い顔をするコナン君へと声をかけた。
「で、成果は?」
「……ピスコは殺されたよ。呑口議員も」
苦いものを噛み締めたような顔でコナン君が答える。
彼にしては不明瞭な、要領を得ない回答だ。
緑川君がそれを補足するように任務報告じみた口調で話を続ける。
「ピスコは呑口議員を殺害。その際失態を犯したようで、後ほど現れたジンに殺害された。俺たちはそのままジンと交戦、撤退した」
「顔は?」
「シェリー以外見られていない。が……」
にわかには信じがたい、という顔をした緑川君が未だ意識を失ったままの灰原さんに視線を向ける。
そういえば幼児化については緑川君にはきちんと説明していなかったな。
薄々気づいていたとは思うが、まさか本当に人間が幼児化するなんて、とでも考えているのか。
それでも聞いてこないあたり、公安の秘密主義的な在り方の片鱗を垣間見ることができた。
説明されていないということは、聞いてはならぬということだという暗黙の了解か。
緑川君が首を振った。
「いや。ともかく、銃撃戦になった。話は通しておくべきだと思う」
「わかった。公安には私の方から連絡を入れておこう。借りにはなるが、こちらも迷惑をかけたから仕方ないな」
「すまん。まさかジンのやつ、サイレンサー付きとはいえこんな都会のど真ん中でぶっ放してくるなんて」
「はは、彼の派手好きには困ったものだ」
油断したら戦闘ヘリで東都のランドマークを一斉掃射しかねない縦横無尽さだからな、あの組織って。
ふと見ると、コナン君が鋭い視線を緑川君に送っている。
緑川君は銃を携帯している上、ジンの性格を知っているかのような言動だ。
それにかすり傷で緑川君の変装マスクが少々破れてしまっている。
薄いゴムの下から皮膚がのぞいているのを見て、彼がベルモットさながらの変装をしていることがわかったのだろう。
「………緑川さんってさ」
「ん、何だ少年」
「いいや。頼りになるなって、思っただけ」
「そうか?そんなに褒められると照れるな」
コナンくんは小学生の皮をかぶってにっこりと笑い、緑川君もそんな疑念たっぷりの様子をあえて飲み込んで笑い返す。
正体がどうあれ、俺の下にいるという事実があれば信用はできる、ということなのだろう。
ま、緑川君は地味に灰原さんには逃げられてるんだけどな。
次は世紀末の魔術師。