――私の声とどいてる?ヒカル 楽しか────
オレは“あいつ“が嫌いだ…いつまでもあの日にオレの心を縛り付けるから
「ああ眠みぃ…」
ガタン、ガタタン…
規則正しいリズムで車体が揺れる。それに合わせて、近くの席のサラリーマンらしき男の頭も傾く。
こんな夜遅くまで会社で残業かな?自分も将来はああなるのかもしれない。
電車のシートで微睡んでいた少年──進藤ヒカルは漠然と考える。
先月購入した携帯電話で時刻を確認すれば、まだ21時過ぎ。このくらいであれば、バイトが長引いたと言えば両親を誤魔化せるだろう。
再び寝てしまわないよう姿勢を正した少年は向かいの窓にふと目を遣った。その先にあるのは星の無い夜空だけ。
車内を反映した窓には、暗黒を背景にして自分の虚像が薄っすらと浮かび上がっている。我ながら今にも掻き消えそうな頼りない姿だ。
出会ってから別れるまで二年半。別れてから今日まで二年半。
これからは、“あいつ“と一緒に過ごした月日よりも、別れてからの月日の方が長くなっていく。
あの頃のことは、今思えば何もかも夢だったような気さえする。あまりにも……本当にあまりにも楽し過ぎたから。
それとも今見ているのが悪い夢で、目を覚ませば“あいつ“がまた当たり前のように傍にいるのだろうか?「早く打ちましょうよヒカル!」なんて犬っころみたいに煩くはしゃぎながら。
もしそうならクソッタレにも程がある悪夢だ。
次の停車駅を告げるアナウンスが鳴り響き、ヒカルも面倒臭そうに降りる準備を始める。
高校に入ってからは、すっかり幼馴染とも疎遠になってしまった。別の高校に行ってしまったから。
いや、そんなの言い訳か。仮に同じ高校に行っていたとしても交流がめっきり途絶えていたはずだ。
日に日に荒んでいく自分が、心から親身になってくれる彼女に合わせる顔なんてあるはずもない。いつしか顔向けするのさえ苦痛になってしまったのだ。
そういえばまだ僅かばかり付き合いがあった頃、高校入学後に頑張って囲碁部を作り上げたとは聞いた。たまたま同じ学校に囲碁が強くて優しい先輩がいたらしく、その人が色々助けてくれたそうな。
そのことを報告してきた彼女の嬉しそうな顔を見て、久しぶりに少しだけ温かい気持ちになれた記憶がある。
電車の揺れが収まり、プシューと音を吐いて扉が開く。冷ややかな外気がわっと押し寄せてきた。
ヒカルは重たい足を一歩、階段へと踏み出す。
肌寒い夜、人気の無いホームに独りぽつんといると自分だけ世界に取り残されたような気分になる。何でもいいから喚きたくなるような衝動が湧いてくる。
ここは家からも高校からもそれなりに遠く離れた駅。目的地は駅近くのネットカフェ。
待ち合わせ場所には今日の
「ヒカルくん…で合ってるよね?写真よりもっとイケメンじゃん!」
「どうも…」
サイトで知り合った女がこちらに手を振っている。ニタニタと不愉快な笑みを顔に貼り付けながら。
名前は覚えていないが別にいいだろう。本名かも分からないし、どうせ二度と会うことも無い割り切った関係なのだから。
こんな
皮膚だけで笑って同じような毎日をこなして、内側が腐っていく日々。
オレがこんな風に腐り始めたのはいつ頃だったか、とヒカルは振り返る。
発端は中三の夏の事。院生だった頃の仲間の一人が自宅に入っていく所を偶然見かけた。おそらくオレのことを心配して訪ねてきてくれたのだろう。
そこでオレは逃げるように一日中当てもなく彷徨い続け、夜遅くの繁華街で見知らぬ女に誘われるがままに身を委ねた。その時は何もかもがどうでも良かったから。
本能のまま適当に欲を吐き出せばその瞬間だけは、余計なことを考えずに済む
空っぽの人間は同類同士で引き合うのだろうか?ヤりたいと言えば、誰かがすぐに引きずり込まれてくれる。トイレでも、カラオケの個室でも。
終わった後には虚しくなると分かっていても同じことを繰り返してしまう。
「あ、今日はお金の心配いらないよ?親の財布からちょっと抜いてきたの」
「ふーん」
どうでもいい情報に適当に相槌を打つ。今はそれよりも早く煙草が吸いたかった。
最近どうも喫煙家は肩身の狭い思いを味わされていて、「喫煙スペース」という物を一々気にしなければならない。
この店の喫煙所はパネルの仕切りで囲われており、天井までその高さが足りないからとダンボールを貼って強引に延長している。もう少しまともな場所を用意してくれてもバチは当たらないだろうに。
院生に入る際に背中を押してくれた将棋部のあの男なら、この考えに同意してくれるはずだ。奴も未成年のくせして煙草を吸っているような
ヒカルはそんな益体もないことを考えつつ、咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。もう一本取り出して火を点けようとしたが、結局断念した。
程々にしておかないと母親に匂いでバレてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けねばなるまい。
女の待つ個室へと向かうことにする。
「ヒカルくん、おそーい!」
「いやぁ悪りぃ、悪りぃ」
椅子に座ってバタバタと幼児のように足踏みする女。それをあやすようにヒカルは覆い被さる。
やっとだ、やっと獣になれる時が来たのだ。
人として在ることを苦痛に感じる少年にとって、刹那の安息の時だった……。
……暖房が効きすぎているせいか今しがたの行為のせいか、頭痛と目眩がする。
ヒカルは気怠い身体をすぐに動かす気にはなれず、パソコンでだらだらとネットを漁っていた。
ブゥゥゥッ…ブゥゥゥッ…
それが自分の携帯電話のバイブ音だと気付くのに一瞬遅れる。まだ持ち始めたばかりだからか毎回こうだ。
母親からの着信のようだが、後でちゃんとかけ直すとしよう。
そしてネットニュースの中に一つ目を引く題名の物があった。それは……
「囲碁名人戦、塔矢アキラ八段が史上最年少でタイトル獲得か?」
声に出して読み上げたのは先程の女だった。
「え!?」
「最近話題の塔矢くんってかっこいいよね!囲碁とか将棋とかそういうの全然分かんないけど」
女はヒカルの手からマウスを奪って記事を開く。
そこには塔矢アキラへのインタビューが掲載されていた。
こんなの読みたくない!絶対に読むわけにはいかない!
……でも、どうしても読まずにはいられなかった。
ヒカルは恐る恐る目を向ける。
どうやら内容としては、彼が名人戦の挑戦者として七番勝負の最終戦に臨む上での意気込みを問うた物らしい。
畑中名人を相手に三勝三敗の状態で、後一勝すれば晴れて名人なのだという。
『自信があるかと言われますと……この数年来どうにもここ一番という所で納得のいくような一手を打てる気がしないんです』
――同年代にライバルと言える方が存在しないほど圧倒的なご活躍の塔矢八段でも、そうしたことをおっしゃるとは意外です
『いえ、同年代というか同い年のライバルなら一人いますよ。本因坊秀策という江戸時代の棋士を参考にしたような打ち方をする人でして』
――え?そんな強い人が塔矢八段と同い年で誰かいたでしょうか?
『彼は今、表舞台から長らく姿を消していますので御存知無いのも無理ありません。でも、いつか絶対に戻って来ると信じています。私が今回のインタビューを受けたのも彼へのメッセージを送りたかったからで──』
その先は視界がぼやけて読めなかった……。
「なんかさぁ、あたし達とは別の世界の人間って感じだよねー」
「………ああ、そうだなホント」
お前が本当に打ちたかった相手はもういない。
オレが出しゃばって自分の手で打ってしまってたせいで。何もかもオレのせいなんだ。
塔矢、佐為………二人共ごめん。
一生何も起きないまま、何も見えないまま。
オレをあの日に置き去りにしたまま世界は進み続けていくんだろう。
……進藤ヒカルはこの時はまだ確かにそう思っていた。
本作においては2003年4月以降の昇段規定に則っているので、名人戦の挑戦者となった時点でアキラを八段としています。