ヒカルがもしも碁をやめたままだったら   作:カトタンバ

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第十話 初戦

 

 東京市ヶ谷に拠を構える日本棋院会館。

 

 

 普段はプロ棋士や院生の対局が行われる場所であるが、時期によっては棋士採用試験……即ちプロ試験も開催される。

 これまで棋院では予選のみが行われ、本戦は囲碁研修センターにて実施されていた。ところが、諸事情により研修センターの閉鎖が決まったため、今年からは本戦も棋院で行われることとなったのであった。

 

「……そういうことらしいから本戦は場所を間違えるなよ?庄司」

 

 やや天然パーマなボブカットの少年が注意を促す。

 

「言われなくても分かってるよ、岡」

 

 こちらは茶髪のメッシュが特徴の少年。

 

 

 この院生に所属する二人、岡と庄司はプロ試験期間中に棋院を訪れていた。

 とはいえ、別にこの日は彼らの対局が予定されているわけではなく他の用事で来ていたのだが。

 

「なんか最近の囲碁界って、いっぺんに色々変わることが多すぎてわけわかんねーよ」

 

「改革って言ったってここまでやる必要あるのかなぁ…」

 

 昨今の囲碁界は業界体質の抜本的な改善のため様々な制度が変更されつつある。

 プロの昇段制度などの改定もその一環だが、プロ試験に関しても例外ではない。

 プロ試験を受けられる年齢の上限が23歳未満へと引き下げられた他、合格枠の内の一枠については院生順位一位が実質的に試験無しでプロに採用されるようになったのだ。

 

 まず4~6月、院生順位一位が合格する夏期試験で一人が決まる。

 そして8〜11月、院生および外来の混合で行われる冬季試験で二人が決まる。

 冬季は最初に「外来予選」という外来のみでの総当たり戦が開かれ、「外来予選」を抜けた外来と院生の下位グループが「合同予選」で総当たり戦を行う。そこで勝ち抜いた者達に院生上位グループも加わって、「本戦」で競い合うのである。

 したがって、外来で受験する者にとってはプロセスが一つ増えたと言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱ懐かしいなぁ……ここは」

 

 一人の青年がしみじみと呟く。さながら馴染みの故郷に帰ってきた人間の如き面持ちだった。

 

 懐かしい……?

 通りすがりの岡と庄司は怪訝な目で一瞥するが、用事を済ませるべくその場を後にする。

 

 

「…あの、進藤ヒカルと言います。今日は外来予選を受けに来ました!」

 

 

 青年──進藤ヒカルは受付で手続きを済ませる。

 棋院の職員達の中には覚えのある顔もいた。とはいえ彼らの顔は一様に険しい。

 

「なぁ進藤くん、幾ら何でもプロ試験はサボらないよう頼むぞ?」

 

 事務員の坂巻は苦々しげに声をかける。彼はヒカルに再受験資格を与えることに最後まで反対していた職員の一人だった。

 

「は、はい…」

 

 ヒカルとしても身を縮こまらせて応じるしか無かった。このような扱いも致し方無いことだろう。

 

 

 

 

 

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 三ヶ月近く前、当初ヒカルが棋院に出向いた際は当然ながら職員達から厳しく詰め寄られたものだ。

 欠場届けさえも出さず年単位に渡って手合を休み、散々棋院を混乱させたことで除名処分が下された者が現れればそうなるのも仕方の無い話だった。

 その上、必死に謝罪を重ねて空気が幾分か和らいだ所で、彼は更に爆弾を落とした。………曰く、何でもするからプロに復帰させて欲しいと。

 無論そんな申し出が受け入れられるはずもなく、その日ヒカルは怒声と共に追い返されたのだった。

 

 プロの道を諦めることにしたヒカルは、アマチュアとして様々な大会に出場することを考える。

 プロも参加するような棋戦で勝ち抜けば、よりハイレベルな戦いに身を投じられるのはもちろんのこと将来的には賞金で生活していくことも不可能ではないからだ。

 特に阿含(あごん)桐山杯(きりやまはい)全日本早碁オープン戦という棋戦は優勝で1000万、準優勝でも500万という破格の賞金が用意される。そうした大会を目指すのも良い。

 

 

 ………そんなヒカルの処遇に待ったをかけたのがアキラだった。

 

 

「お願いです!どうか進藤にプロ復帰のチャンスを与えてやっては頂けないでしょうか?」

 

 棋院から帰ろうとしたヒカルを強引に引っ張り込み、アキラは職員に頼み込む。

 

「塔矢くんにそう言われようとも我々としては協議するまでもなく、進藤くんに復帰の道を与えるつもりは無いんだがね」

 

 渋い顔で応対する職員相手にアキラは譲らなかった。

 

「それならばボクは今後メディアの取材に一切応じないことにしますが、よろしいですね?」

 

「…え!?………いやいや!それは困るぞ!」

 

 現在の囲碁界において塔矢アキラは大きな希望だった。

 今や碁に興味の無い人間ですら当たり前のようにテレビなどで顔を見るほどの知名度となった彼は、囲碁界を盛り上げて競技人口を増やしていくための業界戦略の要と化していたのだ。

 もっとも当の本人からすれば、棋院からの度重なる要請で仕方無くメディアへの応対に臨んでいただけであり、雑事に日々煩わされるのを快く思っていなかった。

 

「いかがなさいますか?」

 

 あたかも対局の真っ最中のような真剣な表情が、これが決して虚仮威しではないことを物語っている。職員どころかヒカルまで恐怖に慄く。

 

 こいつ相変わらず(こえ)え……

 

 そこで職員会議が後日開かれることとなり、揉めに揉めた末ヒカルにプロ試験の再受験資格を与えることが決められたのであった。

 この決定は、アキラの脅し文句も然ることながら、碁を再開したヒカルに複数人のトップ棋士が期待を寄せていることも影響した。

 十段・碁聖の緒方精次、棋聖の倉田厚、そして本因坊の桑原仁……これら錚々たる面子の声は流石に無視することは出来なかったのである。一応、彼らの名誉のために注釈しておくと、決してアキラのように職員に直接圧をかけるような真似をしたわけではないが。

 

 

 

 

 

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「そろそろ時間が近いな。そんじゃ行くか」

 

 外来予選の第一局が始まろうとしていた。ヒカルは空っぽの缶コーヒーをゴミ箱に捨て入れ、対局場へと向かう。

 

 結果的に特別枠としてプロ試験を受け直す権利こそ認められたが、通常の受験者よりも厳しい条件を課せられている。

 それは予選・本戦問わず全ての対局で勝利する……即ち最初から最後まで無敗で勝ち抜くことだった。

 元プロである人間の復帰のために合格枠を一つ潰すわけにはいかないこと、そして一度はプロにまで登り詰めた人間の実力と覚悟を試す上で単に合格枠(二位以内)に入れるかどうかを見るだけでは不足だという意見が出たこと。これらの要素が此度の特別措置の草案を形作ったのである。

 

「進藤くん、棋院の職員さん達とは上手くやれてるかい?」

 

 たまたますれ違った院生師範の篠田が話しかけてきた。先月ヒカルが棋院に来た際、仲介に入って怒れる彼らを宥めてくれた恩がある。

 

「ええ、まあ……何とか」

 

 苦笑いを浮かべつつヒカルは再び歩き出す。

 

 

 さぁて、負けられない戦いの始まりだ!

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 用事を終えて帰り支度をする岡と庄司。

 

「結構時間かかっちゃったなぁ。……それはそうとプロ試験をまた受ける元プロの人ってどのくらい強いんだろうな?」

 

「プロになってからすぐに手合サボるようになったって聞いたぞ?どうせプロでやっていける自信が無かったからとかそんな感じの理由だろうし、別に大したことないんじゃないか?」

 

 そんな他愛無い会話をしながら歩いていると、棋院の玄関に人影が見える。

 どうやら先程の青年も帰るらしく、扉から外へと出て行った。

 

「え?あの人、外来っぽいけど対局もう終わったの?」

 

 まだ対局開始から1時間も経っていないはずだ。

 

「勝ったのか、負けたのか、どっちなんだろ?」

 

 気にはなったものの二人共それ以上の関心を彼に抱くことは無かった。───この時はまだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 とあるアパートの一室でのこと。

 

 

「ありません」

 

「………ありがとうございました。進藤…今日は本当にありがとう」

 

 

 万感の想いで感謝の言葉を伝えたのはヒカルの院生時代の仲間、伊角慎一郎だった。

 

 ヒカルの翌年にプロ試験に合格し、その後は三大リーグ入りを果たすなど華々しい戦果を挙げてきた彼だったが、一つ大きな心残りを引き摺っていた。

 己の心の弱さがもたらした、プロ試験でのハガシ(打ち直し)による反則負け──一流の棋士を志す者にあるまじき醜態を晒した忌々しい記憶をずっと胸の内に抱えていたのだ。

 

「こっちこそ伊角さんとあの時の続きがちゃんと打てて嬉しいよ」

 

 あの一件が苦い思い出として残っていたのはヒカルとて同じ。

 そもそも三年前の夏、伊角が家を訪ねている姿をたまたま目撃した時に逃げ出さなければ、ここまで遠回りせずに済んだのかもしれない……。

 

「今日やっとお互いの予定が合って伊角さんと進藤がじっくり打てたわけだ。でも伊角さんがあんなに進藤と打ちたがってたのには、こういう事情があったなんて知らなかったぜ…」

 

 アパートの部屋の主として対局場所を提供していた和谷は複雑な表情で呟く。

 プロ試験での強敵との一局の真っ只中、そこで冷静さを欠いて反則を犯してしまった伊角を笑うことなど出来ようはずもない。一歩間違えば、自分もどこかでパニックに陥り同じようなことをしていたのかもしれないのだから。

 それほどプロ試験というのは、心身共に過酷な戦いを強いられる謂わば生き地獄なのである。ただ棋力が高いだけでは、この生き地獄で己を見失わずに戦い抜くことなど至難の業。

 

「そういえば進藤は、今日の予選初日は勝ったんだろ?お疲れ様」

 

「ありがとう、伊角さん。ああいうピリピリした空気はホントに久しぶりだったね。どんなもんかすっかり忘れてた」

 

 ぼりぼり頭をかく、その子供っぽい仕草に伊角は懐かしさを覚える。身長が大分伸びて自分ともあまり変わらない背丈になっていたが、やはり進藤は進藤だ。

 

「まあ、進藤なら大丈夫だろうけどな。時間が合えば俺達が幾らでも特訓に付き合うよ」

 

「ああ、よろしく」

 

 この頼もしい先輩には頭が上がらない。

 

「進藤、今度はオレと打とうぜ!」

 

「フクと越智と本田さんがここ来るまで時間まだかかるんだっけ?じゃあ一局打つか!」

 

 和谷のアパートでは何年も研究会が開かれているが、ヒカルが参加するようになってからは特にメンバーの勉強熱心さに勢いが付いたと言える。

 かつて共に碁を学び、戦った仲間。碁を愛した仲間。みんな三年分しっかり大人になっていたが、そう派手に変わってはいなかった。

 彼らはヒカルが再び棋士の道を歩もうとするのを大なり小なり応援してくれた。ヒカルとしては感謝してもしきれない……こんなろくでもないオレをまた仲間として認めてくれるだなんて。

 

「ネットで打っても実際に打っても、オレはお前にずっと負けてばっかだ。今日こそは勝ってやる!」

 

 照れ隠しに憎まれ口を叩く。

 

「へっ…何年も打ってなかった奴に追い付かれてたまるかよ」

 

 囲碁はブランクがあっても腕が落ちにくい競技だと言われているが、それでも碁石を握ることすら拒絶していたヒカルの場合は深刻だった。

 プロ試験で全勝を目指すのならば、もっと鍛え直さなければ。

 

「お願いします」

 

「お願いします!」

 

 ヒカルは貪欲に打ち進める。

 

 

 集中しろ。石の流れを読み取るんだ、盤上の全てに意味はある。

 

 自分がどう打つか。相手がどう打つか。

 形勢はどちらへ傾いているのか。この碁はどこへ向かっているのか。

 答えは、盤上の石にある。

 

 ……そう、佐為が教えてくれた基本をただ実行に移すだけだ。

 

 

 

 

 




調べてみると、現実の囲碁界でも藤沢秀行名誉棋聖が1999年に除名処分を受けていたそうですね。
藤沢氏は2003年7月に日本棋院に復帰することを許されたとのことで、
ちょうどヒカルの碁が連載を終了した週刊少年ジャンプ2003年33号の発売と同じ時期だったのが驚きでした。
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