「つまり当分は、土日の午前中はバイトに来れないということか?」
「……はい、言い忘れててすみません」
外来予選一日目の夕方、ヒカルはラーメン屋の店長に厨房で何度も頭を下げていた。客入りがピークになる時間帯に備えて追加の出汁を仕込む店長の前で、寸胴鍋の中身のスープがグツグツ煮え滾っている。
この日は本来午前中から昼過ぎにかけてシフトが入っていたのだが、すっかり失念していた。前日になって慌てて電話で伝えて、時間をずらしてもらったのだ。
「まあ仕方ねえさ。でも囲碁のプロ試験ってのは確か平日にもやってるんじゃなかったか?」
「あ、それはプロ試験の制度とかが色々変わる前の話なんで」
プロ試験の手合が平日にもあったのは、ヒカルがかつて受験した頃の話。制度改定後は基本的に土日にしか行われていない。
椿さんはもっと後に生まれてたら会社辞めずに受験出来たのになぁ。………てかプロの夢を諦めた後は一体どうしてんのかなぁ。
懐かしい髭男の顔を思い出しながら、心の中で苦笑いを浮かべる。
「バイトの時間をずらすっていうのはまあいいんだが、それより俺がぶったまげたのは進藤くんが囲碁のプロになるってことの方だよ」
「あ、やっぱ驚きますよね…」
「ああ、最初は何の冗談かと思ったよ。しかも前に一度プロになったことがあるとか言われても、こっちはただただ呆然としたもんだ」
ヒカルは困惑する店長に詳しく事情を説明したつもりだったが、それが却って更なる混乱を招いてしまったようだ。
「えへへ……」
なんか最近はこんなことばっかりだな、と我ながら思う。
「……なあ、進藤くん」
と、そこで店長は改まったような雰囲気で口を開く。もうもうと湯気を吐き出す鍋からは目を離さぬまま。
「君が良かったらプロになってからでもこの店で働かんか?もちろん余裕のある時期だけ働いたんでいいから」
「………え?何でですか?」
突然の申し出。今度はヒカルが困惑する番だった。
「そうだな……。まず一つ聞きたいんだが、君が高校生になってから周りに碁を打てる子はどれだけいた?」
「え?うーん…、そういや全然いなかったかも……」
ヒカルは高校生になってからはろくに友人付き合いなどしていなかったものの、それでも周囲の同級生達が好む物などおおよそ分かる。
囲碁のことなんてせいぜい塔矢親子の名前くらいしか知らない者が大多数だろう。
「そうだろうな。俺だってお客さんと趣味の話をしてても碁を打てるだなんて話はほぼ聞いたことがない。スポーツが好きだのゲームが好きだの音楽が好きだの、そういう話はこっちがわざわざ探らなくても嫌と言うほど聞くというのにだ」
店長は鍋に蓋を置く。
「正直な話、囲碁界の将来って奴は本当に大丈夫なのかい?」
「そんなこと…………」
ヒカルは反論出来なかった。自分自身のことならいざ知らず、囲碁の世界そのものが今後どうなるかなんて答えられるはずも無い。そもそも考えてみたことも無かった。
下手をすれば世の中の多くの人々は、囲碁なんて年寄りの遊びくらいの認識しか持っていないのかもしれない。かく言う自分も佐為と出会うまではそんな認識だったではないか。
「いや、すまん。変なことを聞いちまったな」
気まずい空気が流れつつあったその時だった。
カランッ、カランッ…
店のドアに付けられたベルが鳴る。どうやら客が入ってきたらしい。
「じゃ、オレ行きますから!」
「ああ…」
ヒカルは声を張り上げて接客する。モヤモヤとした気分を塗り替えるように。
「いらっしゃいませ、お客様!一名様で……」
そこで彼の心臓は一瞬止まった。
「………三谷!お前三谷だよな!?また来てくれたのか!!!」
「…そうだよ。つーか声でけぇよ」
仏頂面で席に座るのは、かつての囲碁仲間・三谷祐輝。
彼にヒカルはガンガン詰め寄る。店長は静観してくれているが、もし他にも客がいたら間違いなくお叱りを受けていたことだろう。
「なあなあ三谷!オレお前に話したいことがあるんだよ。たーくさんありすぎて、どれから話すか迷ってるとこだ!」
「その前にまずは注文させてくんねーかな。オレは一応客なんだ」
「あ、ごめん…」
「ふんっ…」
うるさくて強引で厚かましい所は最初に出会った頃と同じだな。でもそれでこそ進藤だ。
「ごちそうさん」
三谷は注文したラーメンと炒飯を食べ終えた。
空になった食器を重ねて、テーブル上に散った汁もきっちり拭いている。
「あーあ…姉貴がこういうのにうるさいから、ついついやっちまってた」
そう言いつつ三谷は携帯電話を取り出し、気怠げにいじり始める。
「毎度あり!お客さん、前来た時は厄介な客を追い払ってくれたからね。お代は無しでいいよ」
店長は愛想良く声をかける。
「だから別にそういうのいいんで」
そう呟きつつも三谷は僅かに目線を上げる。その目は確かにヒカルを捉えていた。
「…じゃあ、そいつとちょっとだけ話させてもらっていいっすか?すぐ終わると思うんで」
「……いいだろう。もし他の客が来たら対応は俺がやっとくから、進藤くんと気兼ねせずに話すといい」
ヒカルは目を丸くする。
「ホントにいいんですか!?仕事中なのに?」
「おう!でも5分以内に済ませるんだぞ?」
「はいっ…!ありがとうございます」
二人は店の隅の席に座る。
「それで三谷、話したいことって?」
相変わらずケータイを操作したままの三谷にヒカルは問いかける。
「お前、あの碁会所覚えてるか?オレが賭け碁してた店」
「……ああ、覚えてる」
イカサマ交じりの碁で一万円を奪われた三谷のため、佐為と共に金を取り返してやったことも。
あの時の自分の行いが本当に正しかったのかどうかは今でもヒカルには分からない。人によっては、三谷にあそこまでしてやるのは良くないと感じるかもしれない。
でも、あのことがきっかけで三谷と囲碁部の仲間になれたこと、そして共に打倒海王を目指したことは、間違いなく一生の思い出の一つになるだろう。
「オレ、高校卒業したらあそこの店継ぐことになったから」
ヒカルは目を驚愕に見開く。
「マジで!?」
「ああ…」
にわかには信じがたかった。
「あそこのマスターの修さんがさ、もう歳で席亭を続けるの厳しいって言うんだよ。それで他に店継いでくれる人間もいないから、オレにあの碁会所を任せたいんだと」
「あの後もあそこ行ってたんだ?」
「いいや、あれっきり全く行かなくなっちまったよ。この前久しぶりに行ったんだ。ちょうどこのラーメン屋に来る前にな」
「そうだったのか…」
三谷は自嘲するように笑う。
「ホント笑える話だぜ。自分の店でイカサマしてたクソガキを後継者にするなんてさ」
「やっぱあの人はイカサマのこと知ってたのかな?」
「オレから一万取ったおっさんがいたろ?あれ実は、修さんがオレにお灸を据えるために雇ったもんなんだぜ?」
「あー、言われてみたらそれっぽい感じはしたかも…」
「おいたが過ぎると俺みたいなのが呼ばれるんだ」と下品に笑う姿が特徴的な男だったのは覚えている。
あの男の卑劣な手口はヒカルと佐為の怒りに火を点けるには十分だった。でも三谷にちゃんと向き合わずにあんなやり方をした修さんも、今思えば別の意味で卑怯者だったのではないかと少し大人になったヒカルは考えてしまう。
「……それでもまあ昔のことは水に流してくれて、オレに目をかけてくれてるわけさ。今はあそこで一緒に仕事しながらあれこれ学んでるとこだ」
「三谷…」
何というか一言では表せない関係なんだな。
「それでここからが本題だ」
三谷の声の調子が変わる。決して大きな声では無かったが、他に誰一人客のいない店内にはよく響いた。
「お前またプロになったら───あの碁会所に来いよ」
最後の一言は絞り出すように発せられた。
そのケータイをいじる指先はどこかぎこちないものだった……。
***
「三谷くんは何でヒカルがまたプロになること知ってたんだろ?」
あかりは楽しげに喋りながら打つ。
「筒井さんから聞いたらしいぜ」
「え?筒井さんから?」
「筒井さんは大学が休みの日によく碁会所巡りをしてるらしくて、たまたま三谷のとこにも行ったんだとさ。それでばったり出会った三谷にオレがプロ試験を受ける予定なのを教えたらしい」
「そうだったんだね……負けました」
「ありがとうございました。お前も結構強くなったな」
あかりの高校の囲碁部でヒカルは指導碁に励んでいた。
他の部員達も相手取ってヒカルは五面打ちをしていたが、その中でダントツに粘ったのがあかりだったのだ。
他の面々が6〜9個の置き石でもヒカルにすぐに負けてしまっていた中、彼女は四子でも粘り続けて時折ヒカルをヒヤッとさせたのだから別格と言えるだろう。
「部長としてこれくらいは出来ないとね」
あかりは、えっへんと胸を張る。
彼女は中学の卒業式でヒカルに宣言した。もし進学先の高校に囲碁部が無ければ、自分も筒井のようにゼロから創り上げると。
その目標が決して容易い物でないことは理解していたものの、実態は想像以上に険しい道のりであった。
来る日も来る日も、囲碁部に入ろうとする者が誰も現れない虚しい日々。入部希望者を待ち続け、放課後に一人で棋譜並べをしながら何度心折れそうになったことか。
それでも諦めずに歩み続けた時出会ったのが、………
「進藤、あかりちゃん…こっちも終わったわ。今日はこのくらいにしましょ?」
「だな」
「明日美さんも今日はありがとう!」
奈瀬明日美だった。
今日は彼女も同じ高校の卒業生として囲碁部の指導に来ていたのだった。
帰り道でもあかりはヒカルと奈瀬に感謝を伝える。
「この調子なら最後の大会でいい結果残せるかも!二人のおかげ!!」
「別にオレらは大したことしてねえって」
「あかりちゃんがいっぱい頑張ってるからよ」
夏休みの中頃に行われる囲碁部の大会が、あかりが部活を引退する前の最後の大舞台となる。
かつて筒井が葉瀬中囲碁部の部長として引退前最後の大会を迎えた時はどんな想いだったのだろうか?
「そういえば、そもそもオレと塔矢を打たせることを思い付いたのって加賀と筒井さんなんだっけ?」
「そうそう!それから筒井さんが私にも相談してきたの。塔矢くんをヒカルに会わせるいい方法は無いかって」
本当にどこまでも世話焼きな先輩達だぜ……あちこちに心配かけちまってたんだな、オレ。
「そして、お次はあかりちゃんが私に助けを求めて来た。更に今度は私が和谷達に協力を求めたってわけ。やっぱり持つべき物はコネよね」
奈瀬はいたずらっぽく笑う。
「そういうの何て言うんだ?芋づる式って奴?」
「うーん、合ってるような何か違うような……」
……日本語ってのは難しいな。
だけど、これだけは間違いない。皆が繋いでくれたおかげでオレが囲碁の世界についに戻ってこられたということだけは。
「じゃあオレは今からバイトがあるからこの辺で」
「バイトがんば〜」
「また打ってね、ヒカル!」
手を振りながらヒカルは夕日の下を駆け出す。
店長が囲碁界の未来を案じるのも確かに分かる。正直オレだって不安なことだらけだ。
でもそんなに暗い未来が待ち受けているとは思わない。
仲間達のおかげでオレに奇跡が起きたように………オレや塔矢、他にも大勢の情熱溢れる棋士の手で囲碁界に奇跡を引き起こせるような気がするから。
***
日の入り後、星が瞬き出した薄明の空。あかりは真上を見あげて嘆息する。
「ヒカルの出る新初段シリーズ、リアルタイムで見たいのになぁ。でも1月だからそんなことしてられる余裕無いんだよね……ホントやんなっちゃうなー」
「あかりちゃんは大学受験があるもんね…ドンマイ」
「明日美さんは気楽な立場でうらやましいな〜」
あかりは口を尖らせてぼやく。
すると明日美は突然足を止めた。あかりもつられて立ち止まる。
「明日美さん…?」
街灯の切れ間に立ち止まる彼女の表情は窺い知れない。
どうしたの?とあかりが訊こうとした矢先のこと………
「私、来年───プロ試験を受けることにしたから」
「え?え?……えええええええ!!??」
あかりは仰天する。寝耳に水にもほどがありすぎる。
「ホントに?…ホントのホント!?」
「ええ、ホントよ。だからお互い受験生ね」
明日美は再び足を進める。好戦的な笑みを浮かべた顔がはっきりと見える。
「そうなんだ!………お互い頑張ろうね!!」
「うん!」
健闘を誓い合った乙女達は肩を並べて帰路に就いたのだった。
「………あ、もしプロ試験に合格したら私あいつに告白しちゃおっかな」
「告白?あいつ?…………………告白する相手ってもしかしてヒカルなの!?」
「さてさて、どうなんでしょーねー」
「明日美さん!ふざけてないで教えて!!」
乙女達のもう一つの戦いがここに始まった……のかもしれない。
次回、完結となります。