ヒカルがもしも碁をやめたままだったら   作:カトタンバ

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第三話 持つ者と持たざる者

 

 駅から幾らか離れた住宅街。

 その一角には古ぼけた外観のアパートが建っている。

 賃貸物件としてお世辞にも魅力的とは言えないような条件の所だが、それでもどこか温かみのある雰囲気に惹かれてか全室が埋まっている。

 そんなアパートのとある一室、散らかった部屋でのこと。

 

 

 

 何故オレは、奈瀬に押し倒されなければならないんだろうか?

 自分に馬乗りにのしかかっている院生時代の仲間を見上げて、ヒカルは恐々とする。酔っ払ってベンチで寝ていた彼女の拙い道案内を頼りに家まで送り届けた結果がこれだ。

 ……というか2つしか歳が違わないはずだから、こいつ一応ギリ未成年じゃなかったっけ?高校生で煙草吸ってる身でとやかく言えたことじゃないけど。

 

 

 それはさておき、彼女は背丈こそ今の自分よりは低いが、雰囲気は少しばかり大人になったような気がする。

 院生だった頃よりも髪が若干長くなっていて、こちらの頬にゆらゆらと当たってくすぐったい。

 服装は仕事を終えた後そのまま着替えていないのかスーツ姿であり、メイクもばっちりしているようだ。透明感のあるアイシャドウが絶妙に色っぽい。

 

 これがあんな無防備な状態で野晒しになっていたら、いつ誰かに襲われていてもおかしくは無かった。ヒカルは一つため息をつく。

 何なら自分も、この状況で彼女の息があまりにも酒臭くさえ無ければ、不覚にも変な気を起こしていたかもしれない。奈瀬相手に癪だけど……。

 

 とりあえず話をしなければ。くれぐれも突然吐いたりはしないでくれよ?

 

「奈瀬…」

 

 ぽんぽん、と彼女の背中を叩く。

 奈瀬がビクッと体を震わせた。焦点の合わない瞳が大きく揺れる。

 

「どうしたんだよ?なんかあったのか?」

 

 室内に干してある女性物の下着を極力視界に入れないよう彼女の顔を凝視する。

 

「ぁ……あぁ………っ…」

 

 奈瀬は迷うように視線を惑わせて、大きく深呼吸をした。そして、

 

 

「う゛わ゛ぁぁぁっ……進藤ぅぅぅっ!!」

 

 

 思いっきり泣き叫んだ。

 

「!?」

 

 突然のことにヒカルは目を白黒させる。

 

「な゛んで!あんたは何でや゛めぢゃったのよぉっ……!」

 

「や、辞めたって何をだよ?」

 

 どうやらこちらに怒っているらしい。

 困惑しているヒカルに対し、奈瀬は声を一段と張り上げる。

 

「ぞんなの囲碁のプロに決まっでんでしょうがぁっ!!」

 

「………それは」

 

「わらじなんて最後までプロになれなかったのにィ!どうじであんたは投げ出したのよぉっっっっ!!」

 

「…………。」

 

「うう…ぐずっ……」

 

 ヒカルは何も言い返せなかった。

 

 

──ちょっとプロになる?棋士の高みを知っているのか!?忍耐・努力・辛酸・苦渋…………果ては絶望まで乗り越えてなお、その高みに届かなかった者さえいるんだぞ!──

 

 

 かつての塔矢アキラの言葉が昨日の光景のように脳裏に蘇る。

 まだ囲碁には欠片も興味が無く、碁石の持ち方すら知らなかった頃の自分の幼稚な発言。それに激怒した碁打ちの叫びだった。

 その後プロ試験の中で自分自身の目でも、苦悩の末にプロになることを諦めた者達を何人も見てきたはずなのにすっかり忘れてしまっていた。

 

 奈瀬もまた伊角や本田のように最後の歳まで院生に残り続けていた一人。

 それでも彼女は夢破れ、普通の社会人として生きていく決断を迫られたのである。

 たとえプロになれる可能性があるほど腕を上げたとしても、結局プロになれなければ囲碁好きのアマチュアに過ぎないのだ。

 囲碁を始めた日のこと、大会で優勝した日のこと、院生に入った日のこと、院生の一組に上がった日のこと、初めてプロ試験の予選を突破出来た日のこと……それら全てが彼女の中で苦い思い出へと変わってしまった。

 

「ごめん…」

 

 ヒカルには謝ることしか出来なかった。

 本来ならば別に謝るような義理は無いのかもしれない。でも今は罪悪感で胸がいっぱいだった。

 

「……オレは打っちゃいけないんだ。だから碁を続けるわけにはいかないんだよ」

 

 言っている意味が彼女には全くわからない。

 私なんかと違って、憎たらしいほどの才能の持ち主のくせに!

 

「打っちゃダメとか誰が言ったってのよ………あんたが打ちたいなら自由に打ちなさいよぉ!」

 

 奈瀬はヒカルの肩を強く握り締める。馬鹿にならない圧迫感だ。

 だが、今ヒカルが一番痛みを感じているのは胸の内だった。ズキズキと心身を蝕んでいく。

 

「…………。」

 

「…………。」

 

 互いに一言も発さないまま時が過ぎてゆく。……時計の音がやけに耳に響いた。

 

 

 でも、奈瀬もまたオレのように“どこか“で時間が止まっているのかもしれない。

 

 

 長く艶のある髪に涙が滴り落ち、そのままヒカルの頬へと伝う。

 先程までとは異なる姿。声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣く女性の姿がそこにはあった。

 彼女が泣き疲れて眠りに就くまでヒカルも動くことは無かった。まるで温もりに飢えているかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 (いて)えよな……お互い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻、遠く離れた別の街にて。

 

 

「……うわっ、風めっちゃ寒っ!もうこんな時間じゃバスも電車も無いよな…」

 

 そう呟いたのは、眼鏡をかけた温厚そうな青年。

 大学が休みだったので遠方まで碁会所巡りをしていたはいいが、他の用事も済ませて気が付けば真夜中。

 少々お金は勿体無いが、タクシーを呼ぶことにしよう。

 

 幸いにも電話で呼んだら割とすぐに来てくれた。

 運転手は顎髭が特徴的な強面の壮年男性だったので一瞬面食らったが、車内で意外な物を見つけたことですぐに打ち解けた。

 

「週刊碁を読んでるということは囲碁がお好きなんですか?」

 

「おうよ。お客さんも囲碁好きかい?」

 

「はい。中学の時に囲碁部を作って部長やってましたから!」

 

「へえ〜青春してるねぇ!」

 

 そのまま囲碁談義に花を咲かせていく。話題が尽きることは無かった。

 

 

「世の中にはなぁ、折角プロになれたってのに手合をずっと休み続けるような奴までいるんだから不思議なもんだぜ」

 

「あのぅ……それボクの囲碁部の後輩だった子のことかもしれません」

 

「何ぃっ!?お前さんも進藤を知ってるのか?」

 

 運転手は思わず大声で叫ぶ。それでも運転に一切乱れが無いのは流石本職。

 

「あ、……はいっ!進藤くんのことです!!」

 

 青年も負けず劣らずのボリュームで返答する。

 

「週刊碁をずっとチェックしてても不戦敗続きだったから心配してたんです」

 

「俺もずっと週刊碁を見てるが、いつまで待っても進藤の奴は復帰しねえ!本当にあいつは一体何を考えてやがるんだ!」

 

 苦々しい顔で憤慨する運転手の目元が車のミラーに映っていた。

 

「彼に何があったのかボクにも全く分かりません…」

 

「俺はあいつの頼みで広島の因島まで連れて行ってやったんだが、その直後から手合に出なくなったんだ」

 

「……そうなんですか」

 

「あいつ因島じゃあずっと落ち着きが無くてよ。まるで何かを必死に探してるみたいだったよ。全くどうしちまったのかねぇ…」

 

 本当に進藤くんはどうしてしまったんだろうか?

 

 ボクらが打倒海王に燃えていたあの頃、結局負けてしまったけれど、そもそも彼の頑張りが無ければ葉瀬中囲碁部は大会にすら出られなかった。

 何かボクには進藤くんにしてあげられることは無いのか……。

 

 

 

 

 

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