「若先生、またその一局を並べてるんですか?あまり根を詰めすぎないでください」
碁会所の常連客の一人、北島は心配そうに問いかけながら帰路に就く。
「………この先がどうしても気になってしまうものですから」
そう問われた棋士──塔矢アキラは盤面から片時も目を離さずに答える。
彼の父・塔矢行洋が経営する碁会所「囲碁サロン 紫水」は今日も賑わっていた。
先月の名人戦でこそ敗れてしまったものの、今や国内で知らぬ者のいない活躍を見せる塔矢アキラ八段の行きつけの碁会所とあって、新規客も続々と来るようになった。
この店によく来ることを彼自身がどこか公の場で喧伝したわけではないのだが、父親にして有名な棋士が経営する碁会所とあらば、息子もよく行くかもしれないと当たりを付ける人間がいても不思議ではないだろう。
「全く……まるで別れた恋人のことを忘れられない男みたいだな、君は」
そして今日はもう一人珍しい客がいた。
「アキラくんに対する進藤の手……ここから急に信じられないほど稚拙な打ち筋になっていってるな。一体どういうことだ?」
眼鏡の奥に鋭い眼光をたたえたスーツ姿の男だった。
彼の目から見れば、それまで油断ならない手を打っていた黒が突然自滅し始めたかのようにしか見えないのである。
「ええ、あの時はただ激怒しました。でも今のボクなら分かります。ここから進藤のやりたかったことが」
スーツの男は腕組みしながら眉を顰める。
「うーむ……残念ながら俺にはよく分からんが、しかしまあ進藤の奴のことは思い返す度に腹立つもんだ。この俺が院生試験に推薦してやったのにいざプロになったらサボり続けて除名処分とは」
そこで男は口の端を歪めて皮肉げに
「まあ、あいつがsaiと打たせてくれるなら全部水に流してやるんだがな」
「あはは…緒方さんはsaiに人一倍ご執心でしたからね」
「フンッ…ちょっと煙草吸ってくる」
緒方と呼ばれたその男は席を離れていった。今この部屋にはアキラしかいない。
「進藤、きっと君の中に………。確かめたいのに」
その呟きを聞いた者はいない。
***
今週で三学期も終わる。そうなれば春休みで、その後はついに三年生となる。
今日も今日とて高校の進路指導室に呼び出された。
進路指導室といっても、今は使われなくなった南館の一階の廊下の突き当たりにある教室だ。殺風景で、机とパソコンとちょっとした資料棚以外は何も無い。
「進藤くん、これはどういうことなんだね?」
そこで教師が突き出したのは、名前の欄に「2年A組 進藤ヒカル」とだけ書かれた実質白紙の進路希望調査票。
「え〜と……そんな遠い先の話なんか今する意味あるのかなーって思っちゃって」
人生の目標なんて、突然の幽霊との出会いであっという間に大きく変わることもある。
今のオレには来年の自分なんて思い描くことはとても出来ない……。
「一年後なんてすぐだぞ?君はいつまでも子供ではいられないんだ。もっと地に足をつけた考え方をしないと」
「…はい」
正論ではあると思う。もしも逆の立場なら同じことを言ったかもしれない。
「春にオープンキャンパスをやってる大学もあるから、時間があれば見てくるといい。考えがちょっとは変わるかもしれない」
そうして、スッと机の上を滑らせて資料を押し付けてきたのだった。
***
「進路希望かぁ……私も何も書かずに出して怒られたっけなぁ」
日が西に傾く。未だ暮れることのない空の青色が、季節が冬から春へ移り変わったことを教えてくれる。春のうららかな日差しと空気が絶妙に絡み合う花見日和だ。
そんな日に十代の男女が、花見スポットで有名な桜並木を歩いていた。
「大体人生なんて何十年もあるじゃない!なのに
女──奈瀬明日美は口を尖らせて呟く。
「ホントにな」
心の底から同意する男──進藤ヒカル。
仕事のストレスでしこたま飲んで酔っ払った奈瀬をヒカルが偶然介抱して以来、この二人は機会さえあれば何となく顔を合わせるようになっていた。
とは言っても二人は、別にデートと言えるような色気のあることは一切しないのだが。
「どれも満開だな…」
「まあ今が見頃の時期だからね」
風に吹かれて散っている花びらを見つめる奈瀬の顔に釣られるように、ヒカルも目を細めて桜を見上げる。
「桜の花って儚いよなぁ……何百年もかけてここまで木がデっカくなっても、暖かくなって花が咲いたと思えばすぐ散っちゃうんだもんな……」
佐為だってそうだった。
何百年と孤独を耐え忍び、虎次郎と巡り会っても……そしてオレと出会ってもあっという間に別れの時を迎えたんだ。
「そう言う進藤は、院生に入って一年もせずにめちゃくちゃ強くなってたわよね」
ヒカルが院生に入ったばかりの頃は、まだ奈瀬の方が遥かに強かった。当時2組下位の人間にすら何度も負けていたヒカルと1組中位だった奈瀬とでは全く比較にもならないだろう。
しかしヒカルは見る見る内に順位を上げていき、あっという間に奈瀬を超えてしまい、プロ試験予選前には1組7位になった。更に伊角を抜いて1位となっていた越智にすら勝利し、見事合格を決めたのだ。
「ま、オレらはもう碁をやってないんだから、お互いあの頃のことなんか何の意味も無いけどな」
ヒカルは苦笑する。碁に関わっていた時期のことをこうやって笑いながら誰かと話せるようになっただけでも彼にとっては大きな変化だった。
「てか奈瀬もプロ試験で本田さんに勝ってたのは凄いと思うんだけどな。オレはプロ試験の時に本田さんに負けてんだぜ?」
「たま〜にあんな碁が打てたから、プロになるのをずっとあきらめられなかったんだけどね」
「奈瀬の打ち方、オレ結構好きだったよ。ツボにハマった時なんかこっちの手薄い所を的確に攻めてきてヒヤヒヤしたし」
褒められた奈瀬はジト目で彼の顔を見上げる。
「やめてよ……勘違いさせて、また未練たらしくプロになる夢追いかけさせるつもり?」
「あ、いやそんなつもりじゃねえって……」
何やら会話の雲行きが怪しくなってきて、ヒカルは慌てふためく。そこにいきなり突風が吹き抜ける。
ビュウゥンッ!!
「きゃあっ!?」
奈瀬は思わず髪を押さえた。
二人の周りを数え切れないほどの桜の花びらが乱舞し、目まぐるしく幻想的な空間を創り上げる。
「うわっ!?……今のすげえな!これが桜吹雪って奴か!」
「本当に綺麗ね」
「ああ……まるでピンク色の
「あ、その喩えちょっと好きかも!」
二人揃って自然と笑顔になる。
こうして笑えたのは久しぶりだ。……ヒカルだけではなく、奈瀬にとっても。
院生最後の年でもプロ試験は不合格。
それでも割り切って就職したつもりだったが、新社会人として慣れない生活を続ける内にどうにも夢を追いかけていた頃のことが恋しくなってしまった。
何より大好きだった囲碁で生きていくつもりだったのにそれが叶わない辛さ、悔しさ、悲しさ。そうした感情を一生抱えて、この先ずっと生きて行かなければならない絶望。
とにもかくにも心がぐちゃぐちゃになりそうだった時に再会したのがヒカルだった。別に何か救われたわけではなくても、少しだけ変われた気はする。
この子も苦しんでいるのは分かるけれど、私ではどうにもならないけれど、この出会いには感謝したい。
「………ありがとうヒカル」
「え、奈瀬?今何て……?」
「気にしないで!行くわよ進藤!!」
女は誤魔化すように男の手を引いて歩き出した。
夕暮れの空を背景に桜の木々は輝く。
煌々と揺らめく夕日を受け、花びらは淡い金色を帯び、風が吹く度に光が舞い散っていた。
「あそこにいるのはヒカルと……明日美さん?」