「はぁ…?何でこの俺様がてめぇなんぞに将棋を教えてやらなきゃいけねえんだ?」
首を傾げながら仁王立ちする一人の男がいた。
その男の名は加賀鉄男……奨励会に入門してめきめきと頭角を現し、学生にして将棋のプロとなった人物だ。
デカデカと「王将」と書かれた扇子を広げ、椅子に座るヒカルを睨み付けている。
何故このような事態になったのか、その説明のためには時を幾許か遡らねばなるまい。
‐‐‐‐数時間前
「あーあ、一応先生に言われたから来てみたけど、やっぱ色々めんどくせぇなぁ」
ヒカルは関東のとある公立大学の構内をのろのろと歩いていた。同じ高校のクラスメイト達と列をなしながら。説明係らしき大学の職員が何かを言っていても、全て右から左へ聞き流す。
進路相談の後、教師にしつこく薦められて参加したオープンキャンパスだったが、彼は早くもオリエンテーションや模擬講義の数々に飽き始めていた。良かったことと言えば、学食の料理が意外に美味かったことだけ。
まあ学校の進学実績を少しでも嵩増ししたい教師の気持ちは分からなくもないが、こんな催しで進学意欲が湧く生徒などそう多くはないだろう。
そして、ようやく待ちに待った自由見学の時間が来た。
「さぁて、突撃しますかね」
ヒカルは一人で目的地へと向かう。
それを気に留める者は同級生にも誰もいない。高校生になってからの彼は、他者と新たな人間関係を築くことはやめてしまったから。
お目当ての教室──将棋部の部室には多少迷いつつもすぐに着いた。
入った教室は普段高校で使っているのとあまり変わらないような広さの部屋で、大きな講堂ばかり見学してきたヒカルには少し窮屈に感じられる。
教室の中は物がほとんど無く、ぱっと見て目に入るのは幾つかの長机とパイプ椅子だけだった。
長机とパイプ椅子のほとんどは黒板から離れた場所に等間隔に並べられており、席では部員達が思い思いに対局したり詰将棋を解いたりしている。
そして残り一セットは黒板の少し前。普通の教室ならば教壇があるような位置に置かれていて、そこには一人の青年が肘をついていびきをかいていた。
いびきをかく青年は、頭にサングラスを乗せつつ派手な柄のシャツを着ており、シャツの胸元からはネックレスを掛けているのが見える。
「柄が悪い」という言葉そのものな印象を与える人物だった。
そんな青年に微塵の遠慮も無く、ずかずかと近付くヒカル。
「おい、加賀ァ!!」
立ち止まったヒカルはニヤリと笑って大声で叫ぶ。同じ部屋にいた将棋部員達は目を見張る。
「……のわぁっ!?」
飛び起きた加賀は危うく椅子から転げ落ちそうになるが、何とか踏み止まる。
「人が寝てるとこにデカい声出したのはてめぇかぁ!?」
加賀はドスの効いた声で問い詰める。
憐れにも他の部員達は「ヒイィィィッ…!」と泣きそうな顔で竦み上がっている。
一方のヒカルは笑みを全く崩さないどころか手を振り上げて挨拶した。
「久しぶり!元気してた?」
成り行きを見守っていた将棋部員達は感心半分、呆れ半分といった様子だった。人呼んで「泣く子も黙る加賀」を相手にしているとは思えないような態度だと。
そして加賀の顔色が変わる。見る見る口角が上がっていく。
「お前まさか……進藤か?」
「やっと気付いたのかよ」
悪戯っ子のように得意気なヒカル。
次の瞬間ヒカルは加賀に凄まじい力でスリーパーホールドをかけられていた。
「おお!てめぇこそ意外に元気そうで安心したぜ!!」
「ぐぎぎぎっ……今死にそうなんだけどぉ…」
ヒカルはタップして加賀の拘束から逃れるのであった。
「で?お前がウチの将棋部に来て何の用なんだよ?」
将棋部が道具や資料を保管するために使用している倉庫に場所を移し、彼らは二人だけで話し合うことになった。
「いやぁ、オレがこの大学に入ったら将棋部に入ろうかなーなんて思ってさ」
ヒカルはあっけらかんと答える。気安い雰囲気を崩さないために。
「ふーん、まあ別にいいぜ。……そもそもお前がここの入試に合格したらの話だけどな」
「にしても驚いちゃったよ。この大学のパンフレット見たら将棋部の部長は加賀だし、加賀は将棋のプロになってるし。それで法学部なんだって?」
「ああ、弁護士にもなる予定なんでな」
加賀が弁護士なんて世も末だ……と口に出しかけたが、ヒカルは辛うじて呑み込む。
「じゃあ、オレがこの大学に入ったら加賀プロに将棋を教えてもらうってことで決ま…」
「おい、待て」
加賀はヒカルの言葉を遮る。
「俺がお前に何を教えるだって?」
「だーかーらぁ、オレに将棋を教えて欲しいんだってば!頼むよ!」
冗談を言っているようには見えない。
「はぁ…?何でこの俺様がてめぇなんぞに将棋を教えてやらなきゃいけねえんだ?」
加賀は立ち上がってヒカルを見下ろす。
「だって昔加賀が言ってたじゃん?もし将棋やるなら教えてくれるって」
「ああ、そうだったな…」
忘れもしない二人が初めて出会った時の記憶…葉瀬中の創立祭での出来事が加賀の脳裏に蘇る。
自分相手に物怖じせずに啖呵を切る小学生がいて、しかもその小学生が碁で信じられないような強さを見せたなど忘れられるはずも無い。
「……オレは今、自分が何か熱中出来るようなことが無いか探してるんだ。加賀が師匠になってくれたら将棋も楽しそうかなって」
ところが加賀はそれを鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿言ってんじゃねえ…俺様の大事な湯呑みを割ったてめぇを弟子にしろってか?」
「あ、あの件はちょっとしたハプニングということで……はは」
「と、まあこれは冗談だ。器物損壊罪の時効は三年だしな」
「そうそう、時効だよ時効!」
「だがな…」
ここで加賀は声を低くする。
「どの道、囲碁から逃げてきたような腰抜けに将棋を教えてやるほど俺は暇じゃねえんだよ」
「何だと!?」
今度はヒカルが立ち上がる番だった。
「だってそうだろ?筒井から聞いたぜ。プロになってから手合をずっと無断欠場してて、結局辞めさせられたってな。これは逃げてるとしか言いようがねーよ」
「それは……」
ヒカルは言い淀む。しかし、何も言い返せずにはいられなかった。
「……そう言うお前だって囲碁から逃げて将棋に来たくせに!」
かつて言い放ったのと同じ言葉が口を衝いて出てきた。もう将棋を教えてもらうことなどヒカルの頭の中には無い。
しかし、此度の加賀は涼しげな顔でその煽りを受け流す。
「確かに俺は囲碁から逃げて将棋に来た。でも将棋を心から愛する才能はあるつもりさ。てめぇにはそんなもん一切
「…………んなことはねーよ!」
返答するのが遅れてしまった。
「フンッ…もちろん部活自体はやるもやらんも勝手にすりゃいい。だが、碁に未練たらたらのくせに将棋で現実逃避しようとしてるような中途半端野郎に俺は教えねーよ」
「……ッ…!!………オレは碁に…未練なんか無い!」
加賀はせせら笑う。
「そうかよ、まあ俺も鬼じゃねえからな……もし、てめぇが」
そう言って加賀はシャツの胸ポケットから小さな何かを一つ左手で取り出した。それは将棋の歩の駒だった。
「これがどっちの手に入ってるのか当てられたら、考えてやらないこともねえぜ?」
加賀は両手を掲げて目まぐるしく動かす。駒は右手に左手に目にも留まらぬスピードで移動する。
突然その動きは止まり、ヒカルの目の前に両の拳が突き出された。
「さあ、どっちだ?」
ヒカルは勝ち誇って答える。同じ手を二度も食うはずが無い。
「どうせどっちの手にも無くて袖に隠してんだろ?オレが昔やられたことを忘れたとでも思ってんのか?」
「まあ、お前ならそう考えるよなぁ。さてさて正解は…」
加賀の手がゆっくり開かれる。何と彼の両手どちらにも駒が握られていた。
「ええ!?ちゃんと手に入ってる!しかも駒が二つ!?」
信じらんねえ…!どうなってんだ!?
ヒカルは先程の苦々しい感情も忘れて困惑する。彼には知り得ないことだが、加賀はこれ見よがしにポケットから左手で歩の駒を取り出す前に、右手にも駒を忍ばせていたのだ。
久しぶりに会った生意気な弟分をからかってやるために即興で考えたトリックだった。
「余計なこと考えず素直にどっちかの手を選んでりゃ、てめえの勝ちだったのによ」
頬を膨らませるヒカル。
「ぐぬぬ……」
相変わらずバカで面白くて可愛げのある奴だ、と加賀は腹の底で苦笑する。
「……お前が何を見失っちまったのかは知らねえ。だが目を向けてないだけで、こーんな風に意外なとこにあるかもしれねえぞ?」
「何も知らないくせに!もういいや!」
ヒカルは荒々しく部屋を後にした。将棋なんか一生やるもんかと心に誓いながら。
「おう、じゃあな!」
そんな態度を気にした風でも無く、加賀は笑顔で見送るのであった。
そしてヒカルがいなくなるなり携帯電話を取り出す。
「すまねぇ筒井、一つ話がある……」
もし本当に進藤が、あの頃の俺のように心の底から囲碁に見切りを付けたのであれば、将棋を教えてやるのも吝かでは無かった。
だが違う。何があったのかは分からないが、あいつの碁への情熱は消えてはいなさそうだ。打倒塔矢に死に物狂いだったあいつの熱意がそうそう消えるはずも無い。
筒井と話し込みながら、加賀は倉庫から今愛用している湯呑みを取り出す。……「栄寿司」と裏印が刻まれた湯呑みを。