「ふざけるなっ!!」
響き渡る怒声。この六畳程度の広さしかない静かな部屋に反響するには十分な声量だった。
「…………久しぶりだな、進藤。キミのお母さんに許可を得て、こちらの碁盤と碁石を拝借している」
もっとも怒鳴られた当人は正座のまま眉一つ動かさないどころか淡々と状況を説明する始末。
ヒカルの振り絞った声は怒りや嫌悪感ではなく、心細さと不安で形作られていた。
目の前のこいつが、百歩譲ってオレの家のオレの部屋にいるのは別にいい。
だが、何故碁盤にあの時の一局を勝手に並べているのか……。あの苦い思い出に満ちた一局を。
「なあ、オレの部屋に来たいって言い出したのは奈瀬だよな?これって奈瀬が仕組んだこと?」
「……ええ、そうよ」
奈瀬も表情一つ変えない。いや、正確に言うなら内心の焦りが表情に出てしまわないよう何とか押さえていた。
「ふーん……」
そこでヒカルは幼馴染にも問いかける。まるで何かに怯えているかのような微かに震えた声で。
「あかり…もしかしてお前もグルだったりする?」
ヒカルは弱々しく視線を移動させる。その先には罪悪感に満ちた顔付きの少女がいた。
「うん……詳しい経緯はまだ話せないけど」
彼女は正直に認めた。ヒカルに嘘を吐くなんてやっぱり嫌だから。
自分もヒカルのことを見届けたかったからわざわざ家まで着いてきたというのは秘密だけど。
「そっか…まあ、お前も碁には真剣な奴だもんな」
これについても彼は特に怒ったような素振りは見せず、むしろ優しげな声色で微苦笑を浮かべる。
「んで?お前は今更オレに何の用なんだ?」
ヒカルは眼前に座る人物を睨み付ける。
「塔矢!」
誰より追い付きたいライバル
近頃はニュースでも断片的な姿を目にすることはあったが、やはりその凛とした面影は三年前とほぼ変わらなかった。
強いて差異を挙げるとすれば、髪が少し長くなったことくらいか。
「そうだな。詳しく話すと長いが、ボクは今日………」
アキラは力強く睨み返す。
「キミにこの先の答えを聞きに来た!」
「……この先の答え?」
困惑したヒカルは盤面を読み取る。そこであることに気付く。
「これはまさかあの一手を打った瞬間の……!?」
盤上に広がっていた一局は紛れもなく、かつて中学囲碁部の大会でヒカルがアキラと対局した時のもの。
更に言えば、あの一戦でヒカルが初めて佐為の示す道筋ではなく、己の意思を込めた一手を打ち放った時のもの。
ジッと凝視していた盤上の交点のひとつが、淡く光って見えた気がしたのはよく覚えている。
「そうだ。黒を握っていたキミが11の八を選択したことで流れは一気に変わった」
当時アキラは人生の中で味わったこともないほどの緊張感と高揚感に身をやつしていた。
上手からトビつつケイマへと向かう流れが美しい進行…俗に言う「宇宙流」が盤上に顕現していたからだ。それも計り知れないほど高度な計算を伴って序盤から中央に大きな模様を構築し、アキラに重厚な圧力をかけてくる。
古来において、碁盤は宇宙、碁石は星に喩えられ、天文や暦易(占い)などに使われたものだ。「宇宙流」という呼称はその伝承に由来しているとも言われている。
とある棋士はこうした打ち方を「ブラックホール」と命名した。なるほど、天元に向かって吸い込まれていくイメージは確かにブラックホールに近いと言えるかもしれない。
まさしく宇宙空間のブラックホールのような吸引力を以て、敵ながらアキラの心を惹き付けてやまない一局だったのだ。
ところがそこでヒカルはオシとツケの中間のような手、ちょうど真ん中辺りに適当に打てば上下左右に効きそうと言わんばかりの安易な一手を打ってしまったのである。
その後は左下に大きく白の展開を許し、中央上部の黒を小さくしてしまった。何か深遠な思惑が隠されているのかと思いきや何のことは無い。自滅同然の形で劣勢に陥っただけだ。
アキラは冷めた。そして激しい怒りの炎が身を焦がす。
ボクは何故囲碁部に入って大勢の人々から疎まれ謗られてまで、こんな低レベルな奴のことを追いかけていたのだろうか?
対局に勝利したはずの自分まで悔し涙が止まらなかった。
神の一手は、進藤の掌の内になど無かったのだと悟った。
「………お前、あの時あんなにオレに失望してたじゃねえか。なのに何で今更…」
「そう、ボクはあの時ただただキミにガッカリした。だが、ボク自身があの頃より遥かに強くなったことで気付いた」
今のアキラの目にあの時のような落胆の色は無い。
「あの時キミには技量が追い付いていなかっただけで何か決して浅からぬ意図があったに違いない…それに気付いたんだ。だからこの先を今のキミと打ってみて答えが知りたい」
そこでアキラはニヤリと笑う。
「
………まったくこいつは相変わらずの身勝手ぶりだな。
「
一歩前に進み出たヒカルの顔は、後ろにいる二人からは見えなかった。しかし、その声は先程までとは打って変わって落ち着き払っていた。
「わかった。私達は帰ろうか、あかりちゃん」
「うん、そうだね」
もはや私達に踏み入る余地は無さそうだ。
***
季節は廻り、世界は表情を変えゆく。
風が優しくそよぐ中、鯉のぼりが気持ち良さそうに泳いでいる。
鯉のぼりは江戸時代の将軍家の風習にルーツがあるというのをご存知だろうか?
将軍家に男子が生まれると、家紋付きの「のぼり」を立てて、後継ぎの誕生をお祝いし、一家の繁栄を願う風習があったという。
後に武士の間でもその風習は広まり、江戸時代中期ともなれば、町民の間にも普及していったらしい。更にこの時期、とある町民が中国の故事「登竜門」に準えて、鯉のぼりを構想したのだそうだ。
竜門を登る鯉のように我が子が勇敢に逞しく育つように……という願いが鯉のぼりには込められているのである。
本因坊秀策──虎次郎もかつては青空の下、鯉のぼりを仰いでいたのかもしれない。
そして現代……鯉のぼりが見下ろす先を二人の女性が歩いている。
「あかりちゃん、今日は天気いいね!」
「………うん」
「本日は日本全国で洗濯日和となるでしょう!とか何とか天気予報で言ってたわ」
「………。」
進藤家を出てからというもの、明日美とあかりの間には繋がった会話が無い。
互いに気まずさを感じながらただ足を進める。普段はこんな空気にはならないはずなのに。
明日美とて決して人の気持ちに鈍感なわけではない。この可愛らしい後輩が自分に対してぎこちない態度を取る理由などおおよそ察している。
だがしかし、今足りないのはきっかけだ。本題に踏み込むきっかけをどうしても掴めずにいるのだ。
このままでは彼女を安心させてあげることが出来ない。
そこで明日美は苦し紛れの一手を打つ。
「あれ?こんなとこに公園なんかあったんだ?」
彼女が指差した先にあったのは何の変哲もない児童公園。
時刻が夕方前という事もあり、公園内は静かで、幼い子供とその母親らしき女性が砂場で遊んでいるだけだった。
公園の奥には、二人掛けのアンティークな雰囲気を帯びた木製のベンチがある。
「じっくり話したいし寄っていかない?」
何とか空気を変えなければ。そのためには形振りなんか構っていられない。
「………そうだね。私も明日美さんに聞きたいことがあったの」
あかりの返事に明日美はほっと胸を撫で下ろし、公園の奥へと向かう。
進路の傍らにはブランコがある。こういうの小さい頃はよく乗ってたけど、小学校を卒業する頃には乗ることなんて無くなるのよね……。
そんな他愛の無いことを考えつつも一直線でベンチへと歩を進めた。明日美は左側に座ると、あかりにも腰掛けるように促す。
座ってみると日の光が心地良く、一息つくにはピッタリな空間だった。
「この公園、私とヒカルが小さい頃によく遊んだ所なの。半年後には無くなっちゃうんだってさ」
「……そうなんだ」
それは少し悲しい。いい所なのに。
「いつからだったかな…私とヒカルがあんまり一緒に遊ばなくなったのって」
「ねえ…」
ここで敢えて空気を読まず、明日美は問いかける。少女の潤んだ目を真っ直ぐ捉えながら。
「………何?」
「あかりちゃんが私に聞きたいことっていうのは何なの?」
明日美は隣にいる後輩に向き直り、言葉を紡ぎ出すのを待つ。酷なようだが、今は遠慮をするわけにはいかない。
あかりが口を開いたのは、それより数瞬後のことだった。
「そう、それ、うん……。私が聞きたいことっていうのは…………」
辺りは静かだ。砂場で戯れていた親子はもういなくなっていた。
「明日美さんって、もしかしてヒカルと付き合ってたりする……?」
上目遣いで目の前の少女はそう問いかけてくる。
……明日美からすれば正直予想通りの質問だった。でもいざ言われてみると心臓はドキドキするし、上手く言葉が出ない。
さまざまな感情が心に姿を現す。
驚き。
戸惑い。
そして、
「かわいい!!!!」
ガバッ!という擬音が聞こえそうなほどの勢いで明日美はあかりに抱きつく。
「ちょ、ちょっと!?……………明日美さん????」
気恥ずかしさのあまり、あかりの頬は見る見るうちに赤く染まっていく。
もっとも明日美の目にはその姿さえも一種のスパイスだった。言うなれば小動物の愛らしい仕草を目にしてしまったような、そんな感覚。
「もう明日美さんったら…」
あかりもほんのりと口元を緩める。
……思えば最初に知り合った時からこんなお姉さんだったな。
進学した高校に囲碁部が無くて私が一から作ると決めた時、掲示した詰碁の問題を解いてきたのが明日美さんだった。
彼女は院生だったから囲碁部には入ってくれなかったけれど、それでも私を鍛えてくれたり部員集めを手伝ってくれたりしたものだ。
思うように部員が集まらなくて気持ちが沈んでた時も、明日美さんがこういうノリで慰めてくれたっけ。
「あ、私と進藤だけど付き合ってるとか全然無いからね?絶対ありえないから」
あまりにもあっけらかんとした否定にあかりは思わず苦笑する。
「そうなんだ…」
それなら一安心だ。でも………、
「あかりちゃんはやっぱり進藤のこと好きなの?」
「うん!」
だからこそ明日美がヒカルと交際しているのではないかと不安になってしまったのである。ヒカルが最近少し変わったのも彼女との恋愛の影響なのかもしれないとまで思ってしまった。
「……ヒカルのお母さんこの前言ってたの。ここ何ヶ月かのヒカルは、バイトが長引いたとか言って夜遅くまでどこかに行くことは無くなったし、服からほんのちょっとだけ臭ってた煙草の匂いもしなくなったって」
「へぇー、進藤も荒れてたのね」
「ヒカルがそういうことしなくなったのは明日美さんのおかげなのかもって思ったら、私嫉妬しちゃってた……ヒカルがちょっと元気になったのを喜ぶべきだったはずなのに」
ヒカルが変わりつつあったことを不思議に思っていた矢先、部活帰りに二人が一緒に桜並木を歩いている姿を偶然目撃したのであった。
明日美が院生という時点でヒカルと知り合いなのは察していたものの、いつの間にか二人きりで過ごすような仲になっているとは夢にも思わなかった。
最初にその光景を目撃した時には声をかけることすらも出来ず立ち尽くした記憶がある。大好きな二人が一緒にいる所を見ただけであそこまでショックを受けるだなんて我ながら皮肉な感覚だ。
「誤解させちゃってごめん。でも、あかりちゃんはどうして最近までずっと進藤との関係を私に教えてくれなかったの?」
明日美は頬を膨らませる。
「元囲碁プロの進藤ヒカルは幼馴染ですって、この前初めてあかりちゃんから聞いてぶったまげちゃったわよ」
問われたあかりはバツが悪そうにしながらもはっきりとした口調で答える。
「それは強いて言うなら、ヒカルをまだそっとしておいてあげて欲しいと思ったからかな」
「そっとしておいて欲しい?」
「明日美さんが凄く囲碁に熱心な人なのは分かってた。だからもし私がヒカルと幼馴染だって聞いたら、強引にでもヒカルを説得するために私に仲介役を頼み込んでくるかもって思っちゃって」
「……そんなことしないわよ」
「うーん……囲碁に熱心過ぎる人はちょっと怖い所があるって塔矢くんを見てて思ったから」
「塔矢はさすがに特別よ…」
塔矢アキラ執念の大追跡の概要は、囲碁部時代の思い出話を語るヒカルから明日美もおおよそ聞いていた。
当初は、実に恐ろしいまでの情熱と執着心だと絶句したような気がする。
既にプロ級の実力のあった彼が、ただ目当ての相手と打ちたいがため中学の囲碁部に入って大会に出るなど尋常ではない。
「私が高校で囲碁部を作ったのはもちろん私自身も碁が好きだからっていうのはあるんだけど、一番はね…ヒカルに碁の楽しさを思い出すきっかけにして欲しかったからなの」
「そうだったの?それも初めて聞いたんだけど」
あかりは今でも覚えている。中三の時の囲碁部の大会に碁を辞めたはずのヒカルが、こちらの頼み通りに来てくれていたことを。
海王の先生に呼びかけられて慌てて逃げ出してしまったみたいだけれど、それでも碁への熱意を失ったわけではないと希望を持ったのだった。
それなら自分が碁を頑張り続けていれば、ヒカルの心を動かすことが出来るかもしれないと一縷の望みにかけたのである。
「まあ結局意味無かったんだけどね」
そう言って力無く彼女は笑う。
「私より明日美さんの方がよっぽどヒカルを変えたのかも」
自嘲するあかり。しかし明日美は首を横に振る。
「ううん、そうじゃないかもよ」
「え?」
「家族でも無いのにそんな風に自分を深く想って頑張ってる人が身近にいるのって私からしたら羨ましいんだよね…」
明日美の表情は真剣そのもの。
「進藤もあかりちゃんが囲碁部として日々活躍してるのを聞いていく内、温かい気持ちになれたことはあったんじゃないかな。やっぱり身近に碁を頑張ってる人がいたら進藤も悪い気はしないと思う」
「……そうかな」
「きっとそうよ。だから、これはあかりちゃんの勝ちなのよ」
「勝ちとか負けとかそういう話じゃないと思うんだけど……」
あかりは呆れつつも明るくはにかむ。
本当に明日美の言った通りなのかどうかは自分には分からない。それでも自分なりに碁の道を歩み続けてきたことが“何か“に繋がっていると信じよう。
「ふふ…よしよし」
可愛い後輩の頭を撫でつつ明日美は立ち上がる。
「学校は明日も休みでしょ?今日ウチに泊まっていかない?」
「え?いいの?」
「ええ。久しぶりに何局も打ちまくるわよ!」
「望む所です!」
あかりも力強く先輩の後を追う。
いつしか暮れなずんでいた空の下、日差しは柔らかい赤みを帯びた光のカーテンと相成っていた。
そのカーテンに優しく包まれた鯉のぼりは、二人の碁打ちの行く先を──未来を静かに見守り続けるのであった。