掌の上の余白   作:都賀裏

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別れの瞬間、始まりの予感

 貧民街から少し外れた市場、そこでアデレードは一人の貴族と出会った。

 その男は、フィッツウィリアム家の若き伯爵であった。彼は産業革命の恩恵を受け、商業の発展によって地位を確立した人物で、冷静でありながらも、どこか野心的な男であった。人を引き付けるようなカリスマ性も確かにあった。決して人をすぐに信じることはなく、しかと対象を見定め、情報を得て、そして正しい関係を持つ。利用するだとか、利用されるだとか、そういうのではなく、健全にそして有益に関係を築く。そんな男だった。

 だが、その考えはアデレードに会った時初めて変わった。流れるような艶のある黒髪、しゃんと伸びた背筋、そして何よりも黄金の双眸。一目見た瞬間、彼は綺麗だと思った。そんな少女が少し汚れたドレスを見て、もしかして、と声をかけたのだ。彼の思惑は的中した。彼女は幼い頃に両親を亡くして、一人貧民街で育ったのだと語った。けれどそれを不幸だとは思っていないと、言った。

 

「不幸だと嘆いても、私を取り巻く環境は変わらないから。だから、前を向くんです」

 

 まだ十やそこらの少女がそんなことを言ってのけたことに、彼は息を呑んだ。この少女は強いと、そう思った。彼女は弱くはない。その身を嘆くこともせず、ただまっすぐ前を向いているのだ。自分と同じように野心を持つ者特有の孤独感を纏っていながら、決してそれに屈することはない強さを持っているのだと知った時、彼の興味はアデレードに向けられたのだった。

 

「会ったばかりで、こんなことを言うのは不躾かもしれないけれど、私の養子にならないかい?」

「どういうことですか?」

「そう、だな。今、貧しい場所にいても君はしっかりと立っていて、確かに生活できている。けれどそんな君が私の元で色々なことを学んだら、きっともっと、道が生まれると思うんだ」

「道、ですか」

 

 アデレードは怪訝そうに、その首を傾げる。だが、伯爵はそんな彼女の様子を見て微笑むだけだった。

 

「そう、道だよ。君は何かやりたいことはあるかな?」

 

 その問いに、アデレードは少し考えるように目を伏せる。そしてすぐにまた顔を上げて、彼はこう告げたのだ。

 

「やりたいことなんて、日々を生きるだけで精一杯です。でも、誰か他の人の力になれたら素敵だなって、思います」

 

 その言葉に、伯爵は満足げに頷いた。この少女はきっと立派な人になるだろう。そして将来必ず自分のように世界に役立つような人間となることだろう。男だとか女だとか、そういう狭い括りで彼女を評価するのは間違いだ。彼女は、きっと世界を変える。そしてそれは、自分の夢にもつながるだろう。

 

「私に家族はいないから、もちろんすぐにでもあなたの申し出を受けたい。……けど、その、私にも友人はいます。友人と別れを惜しむくらいの時間は、いただいてもいいですか?」

「もちろん。後日、正式に迎えに行こう」

 

 彼はそう言って笑った。アデレードもそれに微笑み返す。瞬間、彼女の黄金の瞳が妖しく光ったのを、伯爵は見逃さなかった。けれど、彼はそこにあえて触れないことを選んだのだ。そこに触れることによって、自分が容易に破滅してしまうことを、本能的に理解したからだ。

 

 

 フィッツウィリアム伯爵とそんな会話をした日、アデレードは機嫌よさげに薄灰色の路地裏を歩いていた。彼女の頭にあるのはこれからの貴族での世界のことと、これから別れを告げなければならないディオのことだ。ああ、先夜、淡い月明かりの下で彼と拙いダンスを踊ったのも楽しかった。彼は少しダンスが苦手で、でもそれを必死に隠そうとして、それがとても可愛かった。一足先に、この薄灰色の世界から抜け出してしまう、だがきっと彼なら、自分のように華やかな世界に来るだろう。だってディオだ。あれだけ美しい花を、世界が見逃すはずがない。運命が手を離すはずがない。

 

「――た、たた、らら、」

 

 そんな歌が零れるほど、アデレードは浮かれていた。だが、そんな浮ついた気分もすぐに打ち砕かれることとなる。灰色の路地裏で黄金色を見た時、ディオだと思って駆け寄った。彼は俯いていて、目尻には涙の痕があって、そしてアデレードがその肩に触れた瞬間。彼はその手をはじいて、まるで敵を見るようにこちらを睨みつけた。それは今までに一度も見たことがないような鋭い目だった。

 

「ディオ、どうしたの、ディオ。どうして泣いているの」

 

 アデレードは、彼のそんな様子に戸惑いながらもそう声をかけた。だが彼は何も答えず、ただその唇を強く噛んでいた。

 

「泣いてなんかいない」

 

 けれど、かすかに滲んだ涙の痕は消えず、睫毛に残る雫が彼の頬を伝っていた。アデレードはそんなディオを放っておけなかった。彼は友人だから。だから、アデレードはディオに手を伸ばした。彼の蜂蜜のような琥珀色の瞳が、太陽に当たって紅く輝いた。それが涙に濡れていて、とても綺麗だった。

 

「綺麗ね、ディオ」

「……泣いている人間に、どんな嫌味だ」

「泣いているって認めるのね。ふふ、可愛い。ねえディオ、私、貴族の子どもになるの。私を気に入った変わり者がいてね」

「……貴族?」

 

 ディオは、その言葉に弾かれたように顔を上げた。その黄金の瞳に、アデレードの姿が映る。彼女はいつものように微笑んでいた。

 

「ええ、そう。だから早くあなたも来て。この間も言ったけれど、あなたはこんな所で終わっていい人間じゃあないからね」

 

 アデレードは、そう言ってディオのあの金色の髪を撫でた。愛おしそうに、名残惜しそうに。

 

「きっとよ、きっと。絶対に私と同じところに来て、私の黄金(こがね)

 

 黄金の瞳がディオを強く刺した。それはまるで、アデレードの意志をそのまま表しているかのように見えた。そしてその瞳に見つめられたディオは喉を上下させた。

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