屋敷までの道のりは、まるで別世界へと連れて行かれるようだった。後日、アデレードはフィッツウィリアム伯爵の迎えの馬車に乗り、彼に連れられて屋敷までの道のりを馬車に揺られていた。貧民街とは比べるべくもない整理された石畳の道、並木道の葉が風にそよぎ、その木漏れ日はアデレードの髪を煌めかせた。フィッツウィリアム家の迎えの馬車は、彼女のこれまでの人生とは無縁の、豪奢で整えられた空間だった。
「お嬢様、揺れますのでお気をつけください」
同乗していた女性が、穏やかにそう声をかける。彼女はフィッツウィリアム家の侍女であり、今後アデレードの身の回りの世話をするメイベルという女性だった。アデレードは軽く微笑みながら頷いた。
「大丈夫よ」
彼女のその振る舞いに、メイベルの目がわずかに見開かれる。これが齢十二の少女が浮かべる笑顔か? と。アデレードはそんな視線に気づきながらも、それを知らぬふりして窓の外を眺めた。まるで貴族の娘として育てられてきたかのような落ち着きと品の良さ。フィッツウィリアム伯爵夫妻は、彼女の賢さを評価した上で養子に迎えたのだろうが、まさかここまでとは――。
馬車はほどなくして、広大な屋敷の前に到着した。門が開き、手入れの行き届いた庭園を抜け、玄関前に停まる。扉が開かれると、アデレードは裾を乱さぬように優雅に降り立った。その動作一つとっても完璧だった。屋敷の前では、フィッツウィリアム伯爵夫妻が待っていた。主人であるフレデリックはやhり威厳に満ちた男であり、夫人であるヘレナは気品ある美しい女性だった。
「ようこそ、アデレード。我が家へ」
フレデリックの言葉に、アデレードは一礼し、完璧な口調で答えた。
「この度は、私を養子に迎えてくださってありがとうございます」
その瞬間、夫妻は明らかに驚いた表情を見せた。まだ養子として迎え入れたばかりの少女に、何かしらの教育を施す必要があると考えていたのだろう。しかし、彼女の立ち居振る舞いには、一点の乱れもなかった。
「私こそ、君を迎え入れられて嬉しいよ。ああそうだ、私の妻を紹介しよう。ヘレナだ」
「ふふ、はじめましてアデレード。これからよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
フレデリックは満足げに頷く。そして彼は言った。
「さあ、長旅で疲れただろう? もう今日はゆっくり休むといい」
「お心遣いに感謝いたします」
アデレードはもう一度深くお辞儀をする。その仕草も完璧で、夫妻は満足そうに微笑んだ。そしてアデレードは伯爵夫妻に先んじることなく、しかし遅れもせず、まるで昔からこの家の人間であったかのように歩を進めた。その様子を見ていた使用人たちは、思わず小さく囁き合う。
「……まるで最初からここにいたみたいだ」
「本当に貧民街の出身なのか?」
アデレードは、そんな言葉には気づかぬふりをしたまま、静かに屋敷の奥へと歩んでいった。その日の夜、アデレードが始めて来た日ともあって豪勢な夕食が出された。夫妻はアデレードにマナーなんて気にせず、好きに食べるようにと告げたが、その気遣いが杞憂であるほどアデレードのテーブルマナーは完璧だった。ナプキンの扱い方、カトラリーの使い分け、グラスの持ち方さえも、彼女の動きには一点の乱れもない。貴族の子女として生まれ育った者たちと比べても、彼女の所作は異様なほどに完璧だった。
伯爵夫妻は、最初こそ彼女を気遣っていたものの、数日経つうちにその必要はないと悟った。彼女はすでに、どんな場においても堂々としていた。
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「アデレード」
ある日、ヘレナがアデレードに声をかけてきた。アデレードは足を止めて、微笑む。それは社交的な笑みだった。
「もうこの生活にも慣れたかしら?」
「ええ。おかげさまで、とても快適に過ごしております」
ヘレナはそんなアデレードの返事に、満足げに頷く。そして、彼女はふと思い出したように言ったのだ。ダンスや勉強も順調? と。アデレードはそれにも、はいと頷いた。やはり彼女は全てをそつなくこなしていた。しかし、ヘレナはそんなアデレードの答えに怪訝そうな顔をした。そして彼女は少し悩むような仕草をした後、こう続けた。それは純粋な疑問だった。
「ずっと思っていたのだけれど、いいかしら」
「はい、なんなりと」
「あなたは、私たちが思っているよりもずっと教養のある賢い子だったわ。誰かに習ったの?」
「……ええ。汚れた貧民街にも親切な方はいるんですよ」
「そうなのね。やはりあなたは恵まれた子なのね」
ヘレナはそう言って、アデレードの頭を撫でる。アデレードはそれに少し照れたように笑ったが、すぐにその表情はいつもの微笑みに隠されてしまった。ヘレナは少し残念そうな顔をする。そして一言「ごめんなさいね」とだけ告げて去っていったのだった。彼女もまた、与えられた自室へと戻っていく。
「親切な方……」
つい誤魔化すように出たそれらしい言葉。彼女の脳内に一人の女が思い浮かぶ。アデレードが貧民街でものを教えてくれた人間はごまんといた。けれど印象的だったのは、やはりあの女だろうか。おそらく元は貴族の女であっただろう、気品と教養のある美しい女性。
『あなたは賢い子ですね。アデレード。きっと天国に行けるわ』
天国、天国、天国……病的なまでに彼女から聞かされた言葉だった。彼女はアデレード以外の他者にも食料や学を分け与えていた。まさしく『聖女』であった。病的に神を信仰する、聖女。彼女の天国に行ける、という言葉を否定したことはない。神を信じる者に向かって「そんなもの、あるわけがない」と断じるほど愚かではない。けれどアデレードには必要ないのだ。そもそも神を信じていない人間が、天国だ、地獄だ、なんて。彼女が生まれ育った場所は、神の祝福など存在しない貧民街なのだ。生きるために必要なのは祈りではなく、己の才覚と立ち回りの上手さ。神など信じるだけ無駄だ。それに、彼女自身が「選ばれた」ように貴族の世界に引き上げられたのなら、なおさら神の存在を否定してしまうだろう。
そもそも彼女が求めるのは、天国ではない。彼女はこの地上で生きることに貪欲で、むしろ「地獄」すら手懐けてしまいそうな、そんな強さを秘めた女だった。
(ああ、けれど……彼女は確かに――)
美しい女ではあったな。アデレードはふと、そんなことを思った。