わんだふるぷりきゅあ!!~わんだふる♡わーるど~   作:重要大事

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第22話:嘲笑う虚無

 また、かなえは夢を見ていた。

 けれどそれは、ただの夢とは思えなかった。

 微かな風の匂い、湿った土の感触、耳をかすめる羽音の残響――

 すべてが現実のように、かなえの五感を確かに揺さぶっていた。

 気がつくと、鬱蒼とした森の中に立っていた。

 霧が立ち込め、陽光は曇り硝子のように鈍く、木々の間を縫って差し込んでいる。

 どこまでも静かで、どこまでも懐かしい。

「ここ……また、だ……」

 小さく呟いた声が、空虚な空間に吸い込まれる。

 前にも来た気がする。けれど、確かな記憶はない。

 それでも、足が自然と動いていた。導かれるように、森の奥へと。

 やがて視界が開けたその先は、燃える戦場だった。

 倒木と瓦礫が積み重なり、黒煙が空を覆っている。

 大地には深く亀裂が走り、そこから赤く爛れた瘴気が立ち昇る。

 中心にいたのは、一人の戦士。

 紅と黒を基調とした甲冑をまとい、背をまっすぐに伸ばして敵と向き合っている。

 肩に止まる一羽のタカ――白銀の羽毛が揺れ、燐光のような輝きを放っていた。

 その眼前には、形容しがたい影。

 幾重にも重なった黒い塊。手足のようなもの、口腔のようなもの、顔ともつかぬ何かが折り重なり、一つの“塊”としてそこにあった。

「追い詰めたぞ――理を乱す異形のもの、いや奈犠離。今日ここで貴様を終わらせる」

 鬼の形相で睥睨する戦士――賀茂清衡こと、鼎は矢を番え、静かに引き絞る。

 矢じりが仄かに光り、空気が震える。

 だが。

「アナタノ血ト涙デ癒シテ下サイ。コノ魂ノ渇キヲ……」

 放たれる寸前、奈犠離の影が牙を剥く。

 数多の手が地面を這い、四方から迫る。

 そのときだった。

 一羽のタカ――ミコトが、甲高く鳴いた。

 瞬間、彼女は翼を広げ、影の只中へと飛び込んだ。

「ミコト……っ!」

 鼎が叫ぶ声と同時に、黒い触手がミコトの身体を貫く。

 白銀の羽が舞い散る。

「あ!!」

 かなえは、息を呑んで立ち尽くした。

 それは、夢だとは思えないほど、あまりに鮮明だった。

 命を賭し、守るという行為――

 誰かのために自分を差し出すという選択――

 それが、なぜこんなにも胸を締めつけるのか。

 視界が黒く染まり、世界が崩れていく。

 崩れる前に、聞こえた。

 ナギリの声。

「貴方ガ味ワイ尽クスベキダッタノダ、鼎……ソレヲ拒ンダ代償ヲ――受ケナサイ」

 ――瞬間、かなえは、目を覚ました。

 

           *

 

9月中旬

フレンドリィ動物病院&サロン ドッグラン

 

「うぅ……」

 かなえは低く唸りながら目を覚ました。

 背もたれに寄りかかったままうたた寝していた身体が、微かに揺れる。

「ワンワン!」

 ここは――フレンドリィ動物病院のドッグラン。

 いつの間にか朝の陽が差し込み始め、まだ午前中だというのに、じっとしていても汗ばむほどの熱気が空気を包んでいた。

「かなえちゃん、汗でびっしょりだよ」

 隣でベンチに座っていたいろはが、額の汗を手の甲でぬぐいながら声をかけた。

 ふと顔を上げたかなえの頬にも、汗が一筋伝っていた。

 視線の先では、動物の姿になったこむぎがトリミング待ちの犬たちと追いかけっこをしている。ドッグランを縦横無尽に駆け回り、笑い声が遠くに響いていた。

 かなえは、目を細める。

 9月とは思えない暑さに眉をひそめながら、陽光の強さにどこか違和感を覚えた。

 太陽はまぶしいはずなのに、その輝きがなぜか色褪せて見える。

 世界がじわじわと白黒に沈んでいくような、そんな不穏な錯覚に襲われた。

「………………」

 言葉が出ない。出そうになった感情が、喉の奥でせき止められる。

 その様子に気づいたいろはが、少しだけ不安げに表情を曇らせた。

「かなえちゃん。前に言ってたよね。美しいものを美しいと当たり前のように思えることこそが、生きている証なんだって」

「いろは……?」

 その言葉に、かなえはゆっくりと顔を向けた。

「わたし、考えたこともなかったよ。今まで当然のようにできていたことができなくなることが、すごく怖いことだってことも。わたしやこむぎが、"ワンダフル"だと思えることだって、急にできなくなるって考えたら、かなえちゃんの気持ちがよくわかったの」

 少しうつむき気味に話すいろはの言葉に、かなえは目を伏せたまま小さく息を吐いた。

 やがて、ふと微笑みを浮かべて言う。

「……すまない。お前やこむぎには、感謝しているんだ」

 いろはは怪訝そうに首をかしげる。だが、かなえはむしろ晴れやかな顔で続けた。

「たしかに五感を失っていくことは怖い。せっかくのカレーも、以前と比べて楽しみが激減してしまったからな」

「かなえちゃん……」

「だがな、今は不思議と、そんな状況を受け入れている自分がいる。味覚や視覚、嗅覚が鈍化しても、それを補うように――新しい感覚があることに気づいたからな」

「新しい感覚? それっていったい……」

 いろはがそう尋ねようとしたまさにそのときだった。

「いろはちゃん、ちょっといい?」

 控えめな声が後方からかかる。振り返ると、悟が大福を連れて近づいてきていた。

 その顔には、いつになく真剣な色が浮かんでいる。

「悟くん、どうかしたの?」

「実は、前に話していた古座野博士から連絡があったんだ。ボクたちに見せたいものがあるから、今度の休みに家に来てくれないかって――」

 その言葉が、夏の空気を裂くように、重く静かに響いた。           

 

           ◇

 

アニマルタウン郊外 とある住宅街

 

 休日の午前。

 こむぎたちは照りつける日差しの中、スマホのマップを頼りに、古座野の自宅を目指していた。

「暑いぃ……」

 こむぎが、ぐでぇとした声を漏らす。

「しっかしどうなってやがるんだよ、この暑さは?」

 タオルで首を拭いながら、大福が苛立たしげにぼやく。

「早くエアコンの下で涼みたいわね……」

 ユキも日傘を差しつつ、額の汗をぬぐいながら同意する。

 こむぎたちは人間の姿になっていたが、その姿でも容赦のない残暑にぐったり気味だ。

 そんな中、いろはの肩に乗っていたニコが、軽やかに首をかしげた。

「ニコ、よく知らないけど、その古座野っていう人がアニマルタウンにある遺跡を調査してる考古学者さん、なんだよね?」

「うん……前に悟くんと大福ちゃんが訪ねたとき、ナギリや鼎っていう人のことについて話していたんです」

 いろはが答えると、まゆが悟の方へ顔を向ける。

「古座野博士は、ナギリのことを知ってるのかな?」

 しばし黙考した悟が、メガネを軽く押し上げながら口を開く。

「ナギリは元々が悪霊だって言ってたし、博士自身も鼎さんの子孫みたいだから……もしかしたら、あいつの正体が分かるかもしれない」

「……あれで曲がりなりにも考古学者だっていうのが、いまだに信じられねーけどな」

 大福がつぶやきながら、額から噴き出す汗をアスファルトの上に落とす。

 そのときだった。

 住宅街の静けさを破るように、突然けたたましい怒声が響き渡った。

「あんたはもォ~~~何回言ったらわかるのよォオオ!!」

「ひぃぃ~~~! ゆ、許して~!!!」

「!? ……ねぇ、今の何の音?」

 こむぎが足を止める。

「夫婦喧嘩じゃない?」

 ユキが眉をひそめる。

「ったく。こんなくそ暑い日に、どこのどいつだ……?」

 大福があきれ顔で振り返る。

 そして次の瞬間、不意に近くの玄関のドアが勢いよく開かれ、何かが勢いよく外へと転がり出てきた。

「どぁあああああ!!」

 砂煙が上がり、その中でひっくり返ったままもがく中年男性。

 悟は反射的に眼鏡を押し上げ、その顔を確認する。

「って!! 古座野博士!?」

 目を丸くするこむぎたち。

 いろはは思わずつぶやいた。

「えっと……これ、どういう状況?」

「あ!」

 まゆが何かを見つけたように指を差す。

 刹那、圧倒的な気配をまとった女性が姿を現した。

 その手には、なぜか立派なサスマタが握られている。

「ちょちょちょ、ちょっと待てって母さん!!」

 古座野が這うように声を上げる。

「なにが待ってじゃないわよこの人は!!」

 怒声をあげる女性――その姿は、まさしく“鬼嫁”の名にふさわしい迫力だった。

「暴力はいけないよ! 暴力は! お隣の下田さんに聞こえたらどうするのぉ!?」

「うっさいわね!! こちとら体裁気にするのも馬鹿らしいくらい怒ってるんだから!! ホントにもォ~!!」

 噴き出すような剣幕に、こむぎたちも思わず一歩後ずさる。

 目に見える怒気というものがあるのなら、それは今まさにこの女性から立ちのぼっていた。

 その様子を見て、悟がおそるおそる声をかける。

「えっと……いったい、何があったんですか?」

 すると、サスマタを振り回す妻の影におびえながら、涙目の古座野が縋るように悟へ近づく。

「ぐぅ……聞いてくれよ、西城レオンハルト君……」

 どこか陰に追いやられた野生動物のような哀れさをにじませながら、恨めしげに声を漏らす。

「実は、妻に内緒でこっそり買っていた『ゆるキャン△』のブルーレイボックスが見つかってしまったんじゃよ……!」

「いや、そんなことでブチ切れてたんのか!?」

 大福のツッコミが、住宅街の静寂にむなしく響いた。

 古座野が重度のアニメオタクであることは知っていたが、まさかその“熱意”がここまで直接的に夫婦の危機を招くとは。

 そして何より、古座野の妻がこれほどまでに恐妻家だったとは、誰一人として予想していなかった。

「って……! あらやだ~、もう~! あたしってば、子供がいる前で年甲斐もなく大声出しちゃって、恥ずかしいわもぉ~♪」

 するとその直後、豹変したような満面の笑みを浮かべ、ようやくこむぎたちの存在に気づいた妻は、急に優雅な口調で取り繕う。

「ごめんなさいね。今ちょっと立て込んでるから、日陰で待っていてくれる? すぐにお茶の用意するから♪」

「ひぃぃ~~~!! ま、待て母さん!! ワシを物みたいに扱わないでぇぇ~~~!!」

 情けない悲鳴をあげながら、古座野は妻に首根っこをつかまれたまま、ずるずると玄関の中へと引きずられていった。

 こむぎたちが茫然自失のまま呆けていると、扉が閉まると同時に――

 ドスン! と重たい何かが床に叩きつけられる音。そして――

「あれほど無駄遣いするなって言ってるのがどうしてわからないのよぉ!!! このアニメ馬鹿亭主!!!」

「ぎゃあああああああああ!!! ごめんなさいぃぃ!!! ゆるじでぇぇ~~~!!!」

 断末魔のような叫びが響き渡る。

 あまりにも凄惨な現場だった。

 その迫力に、こむぎたちは言葉を失い、青ざめた顔で顔を見合わせる。

「ニコ……あんなに怖い生き物がいるなんて知らなかったよ」

 いろはの肩に乗っていたニコもまた、知られざる“人間(おばさん)”の本性を前にして、声を震わせていた。

 

「あらためて、いらっしゃい♪ 少し散らかってるけど、ゆっくりしていってね♪」

 ひとしきりの怒号劇が終わると、古座野の妻はあたかも別人のように優雅な微笑みを浮かべ、こむぎたちを自宅に迎え入れた。

 室内は意外にも整然としており、洒落たインテリアと花柄のカーテンが柔らかい印象を与えている。

「それにしても、みんなほんとかわいいわねー♪ お飲み物は何がいいかしら? あ、頂き物のケーキがあるんだけど食べる!? あたしってかわいいものには目がないのよー♪」

「……あ、はい……どうかお構いなく……」

 悟が引きつった笑顔で返すが、その声には明らかな緊張がにじんでいた。

 先ほどまでサスマタを振り回していた女性とは到底思えないほどのフレンドリーさに、場の空気はどこか不穏に軋む。

 一同は、言葉にできない恐怖と戸惑いを抱えながら、リビングのソファに腰を下ろした。

 そのとき、妻の視線がふと、いろはの肩に止まった。

「! ……あらやだ何この子!! とんでもなくかわいい!!」

「あ、それは……!」

 いろはが止めようとしたが、すでにニコは妻の両手の中におさまっていた。

 ニコは咄嗟に“ぬいぐるみのふり”を選択。

 手足をぴたりと止めて無表情を装うが、明らかに体温が上昇している気配があった。

「まぁまぁ! サンリオにこんなかわいい子がいたなんて知らなかったわ! わたしね、キティちゃんとかけろっぴみたいなのがむかしから大好きなのよ!」

「えっと……ニコ様はその、サンリオキャラクターとかじゃないんです……」

 まゆが申し訳なさそうに訂正する。

「まぁそうなの!? だとしてもよくできてるわ……我が家にもほしいわー♪」

 目をきらきらと輝かせながら、妻はニコをあらゆる角度から眺め回す。

 その間、ニコは汗だくになりながらも口を開けないまま、真顔で耐えていた。

 ソファの背でぴくぴくと小さく震える様子は、まさに地獄の修行僧。

「けっ。自分だってワシのこと言えんくせに……」

 ソファの端でひっそり座っていた古座野が、不満げにぼそりと呟いた。

 その瞬間だった。

「――何か文句あるの?」

 妻の声が、まるで気温を数度下げるような冷気を帯びて響く。

 次の刹那、古座野の胸ぐらが掴み上げられ、リビングの空気が凍りつく。

 彼女の目は細く吊り上がり、蛇が獲物を睨むような鋭さを帯びていた。

 その顔には、どことなくアニメ『NARUTO』に登場する“あの人物”の気配すら漂っている。

「ぜ、ぜんぜんありませんお登勢さん……!」

「あぁ!? 誰が皺くちゃのクソバアアだってぇ!?」

「な、なにも言ってないよぉ~~~!!」

 全力で否定する古座野の声が、ふたたび住宅街の静けさにむなしく溶けていった。

 

 やがて――

 怒涛の“お説教”タイムを終えた古座野が、ようやくリビングに戻ってきた。

 髪はぼさぼさ、シャツの襟は引き裂かれ、サングラスも微妙に傾いている。

 何より、魂の抜けたようなその目が、先ほどまでの修羅場の激しさを物語っていた。

「お……おかえり……」

 こむぎが小声でそう言うと、古座野は首をわずかに縦に振った。

 そのタイミングで、悟が申し訳なさそうに声をかける。

「あの……お心苦しいことは重々承知なんですが、今日この場にボクたちを呼び寄せたわけを、聞かせてもらえますか?」

「……あ、ああ……そうじゃったな……やれやれ、まさかこんなことになるとは思いもよらなかったわい……」

 頭をがしがしと掻きながら、古座野は深いため息をつく。

 そして、ソファから重そうに立ち上がると、ようやく本題へと話を進めた。

「実はのう。発掘を続けているアニマルタウンの遺跡から、鼎に関する新しい発見があったんじゃよ」

「新しい……」

「発見だと!?」

 ユキとかなえが、同時に身を乗り出す。

 特にかなえは、普段にないほど反応が鋭く、瞳の奥に一瞬、光が宿った。

「うむ。今までも多くの副葬品や文字板、装飾品が見つかっとるんじゃが……その中に、特に奇妙なものがあってな」

 そう言うと、古座野は座卓の下からひとつの箱を取り出した。

 重厚な木箱で、蓋の上には緩衝材とともに黒い布が被せられている。

 それを慎重な手つきでそっとはがすと、中から古びた銅鏡が姿を現した。

「ずいぶん年代物の鏡だな……」

 大福が目を細めながら呟く。

「ただの鏡ではないぞ」

 古座野は唇の端を上げ、まるでこれから手品でも披露するかのように言った。

「すまんが兎山くん、カーテンを閉めてもらえるか?」

「あ、はい」

 悟が立ち上がり、言われた通りに窓辺のカーテンを引く。

 部屋の中が一気に薄暗くなる。

 その中で、古座野は鏡を手に持ち、そっと光源の角度を変えながら壁に反射させた。

 最初は何も映らなかったが――次の瞬間。

「うわああああ!」

「……これって……」

 こむぎといろはが、思わず声を漏らす。

 壁に浮かび上がったのは、一羽の鷹の絵だった。

 翼を広げ、大空を睥睨するかのような威厳と、どこか哀しげな眼差しを宿したその姿に、誰もが言葉を失う。

「魔鏡ですね」

 沈黙を破ったのは悟だった。声は静かだが、驚きは隠せない。

「その通り。よく知っておるな」

 古座野が満足げに頷く。

「えっと……魔鏡っていうのは?」

 まゆが控えめに尋ねる。

「簡単に言えば、鏡の裏側に細工を施してな、特定の角度から光を当てることで、模様が投影されるようになっとる。中国や日本でも古くから存在しとるが、これほど鮮明なものは滅多にお目にかかれん」

「……じゃあ、この鷹の絵も?」

 ユキが言いかけると、古座野は頷いた。

「うむ。間違いなく、鼎の相棒だった“ミコト”を象ったものじゃ」

「ミコト……」

 ふと、かなえが目を細めた。

 その名に、どこか懐かしさのような響きがある気がした。

「じゃが、あの遺跡には鼎が残したミコトを模した像があったという記録もあるんじゃが、肝心のその像だけが、未だに見つかっとらん」

 古座野は再び、重く長いため息をついた。

 その顔には、発見の高揚感と、深く静かな不安が複雑に入り混じっていた。

 そのときだった。

 ――ズキン。

 かなえの頭の奥に、鋭い痛みのようなものが走った。

 目の前の景色がぐにゃりと歪み、次の瞬間、心の底から何かが溢れ出すように――記憶が、流れ込んできた。

 

 

 彼女は、かつて空を翔ける鷹だった。

 戦場を駆け、隣に立ち、背を預けていた。

 あの青年の名は――鼎。

 かつて、命をかけて守ろうとした、大切なひと。

「…………っ」

 胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 理屈では説明できない、けれど確かな感覚だった。

 過去の自分と今の自分が、どこかで一つに重なっていく。

 そして――

「……思い出した……」

 かなえは、かすれるような声で呟いた。

 その頬を一筋、涙とも汗ともつかぬ雫が流れていた。

「かなえ?」

 こむぎが心配そうに顔を覗き込む。

「私は……“ミコト”だった」

「え!?」

 まゆが驚きの声を上げる。

「なんじゃと?」

 古座野の表情から、学者としての冷静さが剥がれ落ちていた。

「……あいつと、鼎と……一緒にいた……」

 その言葉に、一同の息が止まる。

 誰もが声を失い、ただ、彼女の言葉の先を待つしかなかった。

 リビングに落ちた静寂が、まるで時間をも凍らせたかのように重く伸びる。

 かなえは目を閉じる。

 脳裏に、あまりに鮮明すぎる映像が押し寄せていた。

 ――草原に立つ影、風に鳴る羽ばたき。

 ――呼ばれる名、交わした言葉。

 ――そして、あの夜。世界が終わる音。

 壊れたのは、世界か、自分か。

 忘れていたはずの痛みが、肌の内側からゆっくりと蘇ってくる。

 ――記憶は、まだ終わらない。

 あの夜、すべてが崩れ落ちた“あの瞬間”が、もう一度、彼女の中に流れ込もうとしていた。

 再び、視界がぐらりと揺れる。

 記憶と現実の境界が曖昧になり、かなえは静かに口を開いた。

「私は……鼎と一緒に日本各地を回った。魑魅魍魎や悪霊の類を祓い退ける。それが、私と鼎の使命だった」

 その声はどこか遠くから響いてくるようでありながら、重く、確かにこの場を貫いていた。

 誰一人言葉を差し挟むことなく、こむぎも、いろはも、悟も、ただ息を潜めて彼女を見つめていた。

「そして、あの夜…………私たちは奈犠離と戦った」

 その名が発せられた瞬間、部屋の空気がひやりと凍る。

 まるでその名自体が、記憶の封印を引き裂いたかのように。

「私は……鼎を守るために、この身を捧げた」

 かなえの瞳に、もはや涙はなかった。

 その声に込められた想いは、悔いでも誇りでもない――ただ、揺るぎない“真実”だった。

 その静かな言葉に、場の空気が沈み込む。

 まるで時間が一瞬止まったかのように、誰もが彼女の過去へと、無言のまま心を傾けていた。

「なぜ……なぜこんな大切なことを、今まで忘れていたんだ……?」

 震えるような声で、かなえは自分に問いかけた。

 記憶を失った理由などわからない。だが、その痛みだけは、今でも確かに胸の奥に残っていた。

「鷹目さん……」

 悟が静かに彼女の名を呼ぶ。

「なるほど。大体わかった。だとしたら、ナギリってのは――いわば、かなえにとっての“宿敵”ってことになるな」

 大福が腕を組み、鋭い視線で言う。

 その言葉に、まゆが古座野を見つめながら口を開いた。

「古座野博士は、鼎さんの子孫なんですね? ナギリのことについて、何かご存じありませんか?」

 古座野は顎に手を添え、しばし沈思の表情を浮かべた後、ゆっくりと口を開いた。

「うむ……。鼎の残した記録によれば――奈犠離とは、“進化の過程において、その行く手を阻まれたものたちの集合意志”……とでも呼べるものじゃと記されておる」

「進化の過程で……?」

 いろはが問い返す。眉根を寄せながら、その言葉の真意を探るように。

「水中から地上へ、そして空へ。生き物は強く望むことによって、自らを変え、命を繋いできた。そうして幾万年もの時を経て、生命は幾度も進化を遂げた。……じゃが、その陰で“消えていったもの”もおるのじゃ」

「適者生存、ということですか?」

 悟が言葉を挟む。

「なにそれ?」

 こむぎが小首をかしげる。

「環境に順応したものが生き残るってことよ」

 ユキがそっと補足した。

「もちろん、それもあるだろう」

 古座野は頷いた。

「じゃが――ここで重要なのはな、“生まれることさえ叶わなかった命”、つまり、“命にすらなれなかったもの”の存在も含まれている、ということじゃ」

「命にすらなれなかった……?」

 まゆが、ぽつりと繰り返す。

「奈犠離とは、そうした進化の過程で取り残された、“希望を持ちながら消えていった種”たちの、悲しみ、無念、妬み、怒り……そういった“行き場のない感情”が、気の遠くなるような時間の中で、歪んだ形を持ってしまった“存在”なのじゃ」

 その言葉に、誰もが息を呑む。

「消えていった生き物の……“闇の心”の集合体……」

 いろはが呟くように言った。

 その声には、想像を絶する存在への畏れと、どうしようもない哀しみが、ほんのわずかに滲んでいた。

「悪霊と呼ばれるものの多くは、元は命を持っていた生き物が、死の直前に強い負の感情を内包し、やがて歪んだ形でこの世に再び姿を現す」

 古座野の静かな説明に、部屋の空気がじわじわと冷えていく。

 その言葉に、こむぎの胸にある記憶がよみがえった。

 ――スバル。かつて、オオカミたちと心を通わせていた人間の青年。

 彼は、オオカミたちと“共にある”ことを誇りにしていた。

 だが、愛した者たちを理不尽な暴力で失ったとき――その心は壊れた。

 怒りと悲しみが、彼を変えた。

 スバルは己の名を捨て、“ガオウ”と名乗り、獣の力を借りて人を憎む存在へと変貌したのだ。

 “あれも……強い負の感情が、彼の姿を変えたのかもしれない”

 だから、古座野の話も、こむぎにはすっと腑に落ちた。

「しかし――奈犠離は違う」

 古座野の声音が低くなり、言葉の一つひとつが鋭さを帯びる。

「元より命を持たないがゆえに、その本質は存在すらしない。全くの“無”――ゼロ。虚無じゃ」

 一同が、息をのむ。

「脳というのは、不完全な情報を前にしたとき、“ないもの”を勝手に補ってしまう。視覚が捉えきれないものに、人は勝手に“形”を見てしまう。……奈犠離の姿というのは、そうして生まれた幻像にすぎんのかもしれん」

 そう言うと古座野は、座卓の下から和紙に包まれた細長い巻物を取り出し、ゆっくりと広げる。

 墨で描かれたその絵巻には、かつて悟と大福に見せたという記録が残されていた。

 戦場の中央には、甲冑をまとった戦士――鼎と、その隣に寄り添う一羽の鷹。

 そして――二人の正面に、ただ黒い墨をにじませたような、名状しがたいもやの塊。

「これじゃよ」

 古座野が指差したその絵には、輪郭も形状も定かではない“それ”が、まるで空間そのものを食らうように描かれていた。

「この墨の塊が……ナギリ?」

 些か信じがたい様子で、ユキが眉根をひそめる。

「うむ。“誰にも認識されぬはずの存在”が、なぜか伝承として残っている――それこそが、奈犠離の恐ろしさよ。この世に存在しないはずのものが、“姿を持った”時点で、すでに何かが壊れ始めているのかもしれんのじゃ……」

 静かに語られた古座野の言葉は、どこか遠い警鐘のように響いた。

 理解すればするほど、それは理屈の及ばぬところにいる存在だった。

 ――もはや“生命”ですらない。

 ――“生き物のふりをする虚無”。

 それこそが、この世界の底に潜み続けていた、真の黒幕。

 ナギリの正体を知ったその瞬間、こむぎたちは、肌で感じていた。

 自分たちは今、とてつもなく巨大で、根源的な何かを敵に回してしまったのだと。

 呼吸が浅くなる。

 汗が、理由もなく背中を伝っていく。

 言葉にはならなくとも、その場にいた誰もが同じことを思っていた。

 ――これは、ただの“戦い”では終わらない。

 

           *

 

 とき同じくして、アニマルタウンでは――

 不穏なことばかりが、連鎖するように起こっていた。

 

           ≡

 

アニマルタウン 市街地

 

 静かな住宅街に、突如として黒い影が舞い降りた。

 無数のカラスが電線に群がり、空を埋め尽くすように羽ばたき、濁った鳴き声が一帯を覆う。

「なんだ……カラス? いや、多すぎるだろ……」

「ちょ、やめてよ……こっち見てる……!」

 昼過ぎ、公園の池では、何の前触れもなく奇怪な泡が立ち始め、魚たちが一斉に姿を消した。

 池の周囲に集まっていた子どもたちは一様に沈黙し、その場にいた保護者の顔にも緊張が走る。

「ほら、もう行こう。こういうの、テレビで見たことある……」

「ねぇ、変だよこの町、変な音がする……」

 午後には、商店街の電灯が明滅を繰り返し始める。

 風もないのに、空は灰色に染まり、雲の形も流れも定まらない。まるで空そのものが腐っていくようだった。

 その異常のただなか――

 買い物袋を提げた陽子と剛が、足を止めて空を見上げた。

「なんなの、これ……?」

「何かの前触れか? にしては、洒落になっていないような……」

 さらに、倒れた街路樹。

 崩れた壁画。

 原因不明の通行止め。

 そしてそのどれもに、目撃者がいない。

「……今、誰かいなかった?」

「いや、誰も……けど、見た気がする。なんか黒い……」

「え? 何が? なんか変な音しない? 耳の奥、キーンって……」

 ただそこに“いたような気がする”。

 目に見えず、しかし誰もが確かに“何か”の存在を口にする。

 現場に残されるのは、異常な温度の変化、痕跡なき破壊、動物たちの異様な鳴き声。

 まるで世界そのものが軋みながら軌道を外れはじめたような、そんな違和感が街を侵食していく。

 それはもはや、ただの事件ではなかった。

 怪異だった。

 再現も記録もできない、“名前のない現象”の連続。

 アニマルタウンに漂い始めた、目に見えない“異質な気配”。

 それは確かに、日常の皮を食い破って、世界の底から這い上がろうとしていた。

 

           *

 

アニマルタウン 住宅街

 

 住宅街を包む空気が、明らかにおかしかった。

 風が止まり、空が曇っているわけでもないのに、世界が陰って見える。

 景色は灰色がかって色褪せ、空間そのものがどこかゆがんでいた。

 古座野の自宅から戻ったこむぎたちは、異様な雰囲気に包まれるアニマルタウンの光景に唖然とした。

「なんなの、これ?」

 ユキが眉をひそめ、重い空気をかき分けるように言葉を発する。

「いろは、なんだかすっごく……ざわざわする!」

 こむぎが落ち着かない様子で周囲を見回す。

「町の動物たちが……」

 いろはもまた異変を感じ取り、遠くから響く動物たちの不安げな鳴き声に耳を澄ませる。

「それだけじゃありません」

 ニコが真剣な表情で続けた。

「草木も、虫たちも、ありとあらゆる命がこの異常に震えています。まるで――“世界”が怯えているかのようです」

「いったい、何が起きてるの……?」

 まゆが不安げに尋ねたその時――

「みなさまー!!」

 声の主とともに、鮮やかなキラリンアニマルたちの群れが駆け寄ってきた。

 先頭に立つのは、メエメエだった。

「メエメエ!」

 視認するや、悟が声を発しこむぎたちとともに駆け寄る。

「おい、こりゃどうなってやがるんだ?」

 大福が警戒しながら周囲を見回す。

「わたくしにも正確なことは申し上げられません……しかしながら――この異常の根源、あれが関与しているとしか思えません!」

 その言葉に、場の空気が凍る。

「ナギリ……か」

 かなえが静かに呟いた瞬間だった。

 ――ザァアアア……

 音もなく、風も吹かず、空間の一部が黒く濁りはじめる。

 現実がねじれるようにして、暗黒のもやが立ち昇り、その中心から、“それ”は現れた。

 形を定めぬ影。

 感情を持たぬのに、あざ笑っているような気配。

 目の焦点を合わせようとすると、逆に脳が拒絶するような、“存在の不在”。

 ――ナギリ。

 それは、命なきものが命の皮をかぶった、異形の災厄。

 ただ“そこにある”だけで、空気が凍りつき、世界が息を潜める。

 さながら“歓迎の客”にでも応対するかのような、穏やかで無機質な声音が響く。

「フフフ……ようやく、すべての準備が整いました」

 こむぎたちが一斉に身構える。

 瞳を逸らすことすらできない――それが“ナギリ”だった。

「さあ、我々とともに来るのです。鷹目かなえ……」

 ナギリが手をおもむろに差し出す。

 だが、かなえは一歩も退かず、その手を睨み据えたまま、静かに、しかし強く言い放つ。

「断固拒否。お前は千年に渡る宿敵。前世の私と鼎が、身命を賭して封印した存在――今度こそ、二度と復活できないよう、引導を渡してやろう」

「ずいぶんと強気ですね」

 ナギリの口元が、不明瞭な“笑み”を浮かべる。

「我々と貴方は、同じ“怨みの種”から生まれた、いわば運命共同体のようなもの。なぜ、そこまで拒絶する必要があるのですか?」

「かなえちゃんは、あなたとは違うよ」

 間に割って入ったのはいろはだった。

 その声には震えがあったが、それ以上にまっすぐな信念が宿っていた。

「かなえちゃんには、“心”がある。だけど、あなたにはそれがない。一緒にしないで!」

「……心がない、ですか」

 ナギリが首をかしげるような仕草をする。

「たしかに。我々には、そのようなものは“組み込まれて”おりません。だとすれば――我々と貴方がたは、“友達”にはなれないのでしょうか?」

「当たり前よ。誰があなたみたいな、かわいくもなんともない悪霊と友達になんてなるのよ」

 ユキが鋭く言い返す。

「ナギリ、あなたの目的は何なの? どうして“フューザーガオガオーン”を使って街を壊すの? 一体何がしたいの?」

 まゆが一歩前に出て問いかける。

 ナギリは、わずかに顔を上げ、まるで詩でも語るように答えた。

「――『世界を味わう』ためです」

「なんだと……?」

 大福の眉が険しく寄る。

「なぜ、街を壊すことが“世界を味わう”ことなのですか!?」

 メエメエが声を張り上げる。

 その問いに対し、ナギリは微動だにせず、なおも静かに言葉を重ねる――。

「かつて――“在る”ことさえ許されなかった我々が、何かを求めたのは罪なのでしょうか?」

 その声は熱も怒りも持たない。

 ただ、底の見えない井戸のように、果てのない虚無が広がっていた。

「見たかった。聞きたかった。触れたかった。愛されたかった……。欲したことすら、我々には過ぎた願いだったのでしょうか?」

 わずかに頭を傾ける仕草が、どこか悲しげにすら映った。

 けれどその言葉には、共感では決して届かぬ冷たさがあった。

「この喉元を焼くような渇きこそ、生きたかった証なのです。我々は、ただ“生”という劇の舞台に立つことすら許されなかった――名もなき役者にすぎないのです」

 一瞬の沈黙。

 ナギリは、そこにいた全員の“命”を見つめているように、虚空に言葉を投げる。

「我々には、初めから目も耳もなかった。怨みを煮詰め、歪ませ、爆ぜさせる――それが我々にとっての“生命の模倣”です。“そうしてでも”しか、生きた実感を得られぬのです」

 その告白に、誰もが言葉を失った。

 ただの悪意ではない。

 “生にすらなれなかった者たちの、痛みの残響”――それがナギリだった。

 古座野が言っていた通りだった。

 ナギリは、誰よりも“生”に執着している。

 だからこそ、その実体は、何よりも冷たく、何よりも深い――虚無。

 そして――

 次の瞬間、柔らかな光が世界に差し込む。

 静かに、ニコの全身から神々しい輝きが放たれる。

 ふわり、と花弁が舞うような白光に包まれ、彼女は静かに、人の姿へと変わっていた。

 清らかな装束に身を包み、長く透き通る紫の髪を揺らしながら、まるで女神のような存在感を放つニコ。

 その瞳は、ナギリの深淵を真っ直ぐに見据えていた。

「……だからといって、奪っていい理由にはなりません」

 その声音は凛と澄み、怨念にも虚無にも染まらぬ透明な意志を宿していた。

「あなたが“生きたかった”のなら、なぜ他の命を踏みにじるのですか? なぜ、あなたは“破壊することでしか味わえない”と信じているのですか?」

 ナギリは答えない。だが、明らかにその姿が微かに揺れる。

「あなたが奪ってきたもの――それは、“世界そのものを味わう”ことではありません。それはただ、“命の感覚”をなぞっているだけです。本当に生きるということは、ただ感覚を得ることではありません。誰かと交わし、育て、重ねていくことです」

 ニコの言葉は、祈りではなかった。

 命ある者としての――意志の表明だった。

 しかし、それに返されたのは、理解でも共感でもなく、無機質な嗤いだった。

「やはや……さすがは“すべての生き物の頂点”に立つ方ともなれば、言葉の重みも一入です」

 ナギリは淡々と、しかしどこか挑発的に言葉を重ねる。

「――ですが、ダイヤモンドユニコーン。貴方も、イマイチわかっていらっしゃらないようですね。我々のような、命を持たぬ存在にとって、貴方の御高説は何一つ響きません。最初から論理が破綻しているのですよ」

「…………」

 ニコは言葉を返さない。ただ、眼差しだけは、静かに敵意を射抜いていた。

「ですが――そんな耐え難い空虚な時間も、もうすぐ終わります」

 ナギリが静かに手を広げる。

「鷹目かなえ。貴方という“奇跡”を取り込むことで、我々は命を得るのです!」

「どうして……どうして、かなえじゃないとダメなの!?」

 こむぎが叫ぶように問いかける。

「――鷹目かなえは、“怨みの種”を植え付けられた“モノ”でありながら、鏡石の力によって“人間”という実態を得た特異点。さらにプリキュアへと覚醒し、貴方たちと関わり合う中で、世界を“確かに味わうもの”へと変質しました。この世界で最も深く、“生”に触れたモノ……それが、彼女なのです」

「待て……!」

 かなえの声が低く、しかし鋭く割って入る。

「今、私が……“モノ”だと言ったか?」

「かなえちゃんはモノじゃないよ!」

 いろはが食い入るように叫ぶ。

「だって現にこうして、わたしたちと――!」

 だが、ナギリは動じない。

「……どうやら、貴方がたもまだ“知らない”ようですね」

 空気が一瞬、ざらりと揺れる。

「ならば――真実を、教えて差し上げましょう」

 ――その言葉が空気を裂いた瞬間、世界の色彩が僅かに歪んだ。

 

 空が、静かに沈む。

 音もなく、空間が軋むように軋み、足元の大地が黒く滲み始める。

 ナギリの周囲から立ちのぼる影が、水面に投げ込まれた墨のごとく広がり、やがてそれは――“映像”となって空間に映し出された。

 最初に現れたのは、深い山中の斜面に建てられた小さな社殿。

 木々に守られ、静けさに包まれたその社殿の傍らには、古びた鷹の像が安置されていた。

「あれは……」

 まゆが思わず息を呑む。

「かつて、鼎が我々を封じるために建立した社です」

 ナギリが静かに語る。

「亡き友を想い、その姿を石に刻み、祀った祠――。それが、貴方の“はじまり”です」

 突如として映像の空がかき曇る。

 轟音とともに山肌が崩れ、土砂が社を押し流していく。

 社はなす術もなく破壊され、鷹の像も地に伏せ、亀裂が走った。

 そしてそのとき――

 黒い霧が、どこからともなく現れる。

 それは怨念そのもの。

 ナギリが撒いた“種”だった。

「この地に封じられていた我々の怨みの残滓。悠久の時を超え、深く、深く根を張り……朽ちた像の中に宿った」

 画面が暗転し、時が流れる。

 場面は現代のアニマルタウン――その地下に眠る像に、ある瞬間に反応する。

「やがて――我々が作り出した“オオカミワシガオガオーン”の目覚め。この地に再び“怨み”が蠢いたそのとき、鏡石が呼応した」

 突如、祠の跡地に鏡石が放たれた光が降り注ぐ。

 そこには、砕けた鷹の像の残骸が、いまだ静かに眠っていた。

 そして――

 その光の中から、“かなえ”が生まれた。

 無垢な表情。まだ言葉も、名前も持たぬ少女。

 しかし、その瞳の奥には、どこか懐かしいような、深い孤独が宿っていた。

「それが“貴方”です、鷹目かなえ。鏡石の光が、我々の種を“命として昇華させた”奇跡。貴方は生まれながらにして、怨みと祈りの両方を宿した存在なのです」

 画面の中で、かなえが目を覚まし、空を見上げる。

 その瞬間、彼女の身体がほんの一瞬、プリキュアの姿――キュアシャスールの輪郭と重なって見えた。

「そして、プリキュアとして目覚めた今こそが、我々にとって最大の好機」

 ナギリが淡々と告げる。

「貴方を取り込むことで、我々は初めて“命”となるのです」

 ――映像が闇に吸い込まれるようにして消えていく。

 

 

 沈黙。

 世界が元に戻ったはずなのに、誰もがその場に縫いつけられたように動けなかった。

 喉を動かすことすら忘れたかのように、空気が、時間が、止まっていた。

 映像が消えたあとも、誰の耳にもこびりついていた言葉――“貴方を取り込むことで、我々は初めて命となるのです”。

 その意味を、かなえは知っていた。

 いや、知りかけていた。

 プリキュアとして戦う中で、彼女の身体には確かに変化が起きていたのだ。

 フューザーガオガオーンとの戦いのたびに、彼らから分離した怨念の破片が、まるで吸い寄せられるように彼女の中へと流れ込んでいた。

 祈りと怨みが拮抗する器として生まれたかなえは、当初、命なき存在を倒すことにためらいを持たなかった。

 フューザーガオガオーンは、命を持たず、痛みも祈りも知らない“物の怪”――供養の対象ですらない。彼女はそう断じ、ただ狩人としての務めを果たしてきた。

 だが、戦いを重ねる中で、その中に宿る怨念の声が、微かに“何か”を訴えていることに気づいた。

 それが誰かの無念であるならば、受け止めて昇華することこそ、自分に課された役目なのではないか。

 無意識のうちにそう信じたときから、かなえはそれを“救い”と呼び、受け入れるようになった――その身体が“命を還す器”であることを、いつしか自覚しながら。

 だが――

 それは同時に、彼女が“モノ”へと還っていく過程でもあった。

 怨みを蓄えすぎれば、祈りの光は翳る。

 今、彼女の奥底では確かに、“命”という定義が揺らぎはじめていた。

 ナギリと同じ、“命を持たない存在”へと。

「……私が……モノ……?」

 ぽつりと、かなえが呟いた。

 その声は、自分自身の奥底に触れたような、震えをはらんでいた。

「かなえ……」

 こむぎが一歩近づこうと手を伸ばす。だが、彼女の表情は曇っていた。

 ナギリが、悠然と冷ややかに言い放つ。

「これで納得しましたか? 貴方と我々は、“本質的に同じ”なのです。怨みから生まれ、形を与えられただけの、生命の“模倣”。それ以上でも、それ以下でもない」

 その瞬間――

「――ちがう……ちがう、チガウ、違う!!」

 声が、弾けた。

「私はモノじゃない!! 私は……」

 強く、明確に、自らを指差すように叫ぶ。

「人間だぁ!!!」

 風が吹いた。

 彼女の中の迷いが、すべて叫びとともに消し飛び、確かな決意に変わった。

「ウイングホークパクト!!」

 ――手が、ウイングホークパクトを強く握る。

「プリキュア・マイ・エボリューション!」

 放たれた光が、彼女の身体を包む。

 千年を超える怨みの種が生んだ存在。

 だが、今ここにいるのは、それを乗り越えた、“人間”としての彼女――

「うおおおおおおお!!」

 迸るエネルギー、舞い散る羽、空へと駆ける光の軌跡。

 キュアシャスールの姿が光の中から浮かび上がる。

「シャスール!!」

 悟の目が見開かれ、思わず叫ぶ。

 ナギリの黒い霧の中に、凛然と立つ空の戦士。

 その瞳には、もう迷いはなかった。

「お前の思い通りにはさせない……! 私は、ひとりの人間として――この世界を、そして、命を守る!!」

 シャスールが叫ぶと同時に、タロンボウガンが展開する。

 煌めく矢が空を裂き、一直線にナギリを射抜こうと放たれる。

 だが、次の刹那。

 当たらない。

 矢は確かに放たれたはずなのに、ナギリの“姿”をすり抜け、ただ空を裂いて飛び去っていく。

「くっ……! うおおおおおおお!!」

 シャスールが吼え、タロンボウガンをタロンハチェットへと変形させ、接近戦へ移行。

 銀翼のような双斧を振るい、全身で斬り込む。

 だが――届かない。

 ナギリはそこに“いる”はずなのに、攻撃が当たらない。

 距離が合わない。タイミングがずれる。

 明らかに目前にあるはずなのに、“触れられない”。

 さらにその動きは、不規則の極みだった。

 ユラユラと揺れるその輪郭は、熱の蜃気楼のように歪み、身体の軸も手足の角度も一定せず、酔拳のような奇怪な動きで斬撃をいなす。

 狙いを定めた瞬間にはもう動きがずれている――そんな感覚。

「どうなってるの!?」

 こむぎが声を上げる。

「まるで……攻撃が通じてない……!」

 ユキも呆然と呟いた。

「あれは“本来、そこにいないもの”です」

 すると、ニコが悟ったように静かに言った。

「私たちの頭が、認識できないものを“強引に理解しようとした結果”として、仮の形を描いているにすぎません」

「えっ……どういう、こと……?」

 いろはが思わず聞き返す。

「古座野博士の言葉を思い出してください。ナギリは、“姿”を持ってなどいないのです。その本質は“虚無”。“無”に対して、“有るように見ている”のが私たちです。ですから……いかなる攻撃も、当たるわけがないのです」

 言葉の意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。

 だが――事実は目の前にある。

 シャスールの猛攻が、ただの一撃も触れられずに終わっていくという現実が。

 ナギリはただ、そこに“いるように見える”だけの、存在の幻影。

 ――“嘲笑う虚無”が、静かに、そして確実にキュアシャスールを追い詰めていく。

「フフフ……」

 笑うでもなく、語るでもなく、ただ“機械的に音を再現したような声”が虚空に響く。

 その背後から、にじむようにして黒いもやが溢れ出す――

 それは、蛇のような形をした影。

 だが、それはただの形ではない。

 見る者の記憶と恐怖が混ざり合って勝手にそう見えてしまっているだけの、“形を持たない悪意”。

 影は音もなく空間を滑り、シャスールに襲いかかる。

「ぐああああああッ!!」

 鋭く、重い衝撃。

 シャスールの身体が吹き飛ばされ、地面に転がる。

「がっ……!」

 彼女は苦悶の声を漏らしながらも、すぐに体勢を立て直す。

 しかし――

 おかしい。

 自分の攻撃は、ナギリに一切通じなかったのに。

 ナギリの攻撃は、確実に彼女を“触れて”くる。

「……なんて、理不尽……ッ」

 世界のバランスが崩れたような感覚。

 彼女だけが、重力の方向を間違えて立っているような錯覚。

 “命ある者”と“存在しない者”の違いが、ここまで大きな壁になるとは――。

「シャスールがヤベー!」

 大福が焦燥を露わにする。

「みんな、シャスールを助けよう!!」

 こむぎが叫ぶ。

 その声がきっかけだった。

 いろは、ユキ、まゆ、悟、大福――全員の心が同時に決意に染まる。

「「「「「プリキュア・マイ・エボリューション!」」」」

 光が疾る。祈りが重なる。

 こむぎたちが次々に変身し、光の戦士たちが揃う。

「一気に決めよう」

 フレンディが静かに言うと同時に、六人は【ミラーストーンスタイル】へと変身した。

 その姿は、光と祈りの結晶。

 鏡石に映る真実の力をまとった者たちが、再び“虚無”へと挑む。

 刹那。

 鏡石の光が呼応するように、六人の周囲に円環の輝きが広がった。

 それは命の軌道をなぞるように、空間そのものを穏やかな光で満たしていく。

「「「「「「プリキュア――!」」」」」」

 六人が手を取り合い、円陣を組む。

「「「「「「サークルオブライフ!!」」」」」」

 空間を切り裂くように六色の光が放たれ、弧を描く。

 それはやがて巨大な輪となり、命の輝きが循環の象徴として、あらゆる方向へと拡がっていく。

 まるで森の呼吸そのもののように――優しく、力強く、世界を包む光。

 その中心にいたナギリに、光が到達した――しかし。

「――フフフ……」

 何も、起こらなかった。

 ナギリはそこに立ったまま、微動だにしていない。

 その黒くゆらぐ身体は、一切のダメージを受けた気配すら見せず、逆に光に嘲笑を返すかのように輪郭を歪ませていた。

「そんな!!」

 リリアンが目を見開く。

「聞いてないっ……!」

 ワンダフルの声にも、動揺が混じる。

 ナギリはゆっくりと顔を上げ、静かに、しかし明確な優越感を滲ませて語った。

「お忘れですか? 我々の内には――ダイヤモンドユニコーンから簒奪した、ニコダイヤの力が取り込まれているのです」

 空間がうねる。

 彼の背後に、幾何学的な禍々しい模様が一瞬浮かぶ。

「加えて、我々は元より“命の循環”の外にある存在。その理に属さぬ我々に、生命の技は通用しない――当然のことです」

 彼の言葉には、冷然とした真理が宿っていた。

 命あるものたちを包含する集合があるとするならば、ニコはその頂点に立つ全集合――あらゆる命の総和に等しい、神域に最も近い存在である。

 対してナギリは、その全集合のいかなる部分集合にも属さぬ異形。

 空集合。

 命という定義の外に弾かれ、初めから「在る」ことを許されぬ、理そのものに拒絶された“欠落”の概念。

 次の刹那。

 ナギリの背から、巨大な影が滲み出る。

 それは一本、また一本と蛇のような幻影を生み出し、空間を埋め尽くしていった。

 数は十ではない。百でもない。

 黒の奔流が、怒涛のように六人へと襲いかかる。

「なっ……!」

 ワンダフルが反応するよりも早く、光の結界が砕け散った。

「「「「「「うああああああっ!!」」」」」」

 凄まじい衝撃が空間を裂き、六人のプリキュアが吹き飛ばされる。

 地に叩きつけられ、転がり、呻く声が重なる。

「プリキュアのみんなーっ!」

 キラリンウサギが叫ぶ。

「ああ、なんということでしょう……!」

 メエメエも悲鳴混じりに声を上げる。

 この“常識を逸した異形”の存在に、畏怖の色を隠しきれなかった。

 わんぷりメンバーは、わずかな時間で満身創痍と化していた。

 その光景の中、ただ一人、シャスールが立ち上がる。

 傷だらけの身体に、なおも闘志の炎が灯っていた。

「くっ……こうなったら――肉を切らせて骨を断つまで」

 呻きながら立ち上がる彼女を、倒れたワンダフルが見上げる。

「な、なにするつもり……シャスール……?」

 不安と困惑が混ざった問いに、シャスールは静かに、だが確固たる眼差しで仲間たちを見渡した。

「お前たち……いざとなったら。ナギリと……私ごと、殺してくれ」

 場が凍りつく。

「え……?」

 フレンディの声が震える。

「ちょっと、それどういうことよ!?」

 ニャミーが声を荒げる。

「お前まさか……!」

 大福が、獣の勘で直感した。

 そして次の瞬間――

「ウオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 シャスールの身体から、黒い影が爆発的に解き放たれる。

 それは、かつて自らの内に封じたはずの“獣”。

 人間であろうとする意志で抑え込んだ、忌まわしき“存在の片鱗”。

 ガオガオーンの力――

 それが今、主の命を削って目覚める。

 理性を失い、怒りと痛みを燃料にして再起動するその力は、幾多の獣の怨嗟が絡み合うように変質し、やがて――

 『鵺ガオガオーン』が姿を現す。

「ウオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 風を巻き、地を揺らし、空気が悲鳴を上げる。

 それは虎の脚、猿の胴体、蛇の尾、そして鳥の翼を備えた異形の獣。

 多種の命が混ざり合いながらも、どれにも属さない“統合された呪い”。

「ナギリ!! 刺シ違エテデモ、私ハオ前ヲ倒ス!!」

 鵺ガオガオーンの咆哮が響いた。

 声というよりも、魂そのものが爆ぜるような、言葉を超えた衝動の音だった。

 ――それは、もう人間としての叫びではない。

 命と意志を削ってでも、“虚無”に触れようとする者の、捨て身の咆哮だった。

 シャスールは、右手に握りしめたタロンハチェットを構え、獣の脚力でナギリへと突進する。

 空が割れ、地が裂けるような衝突。

 刹那、光と闇と黒煙の爆発が辺りを呑み込む。

 その激突の中――

 鵺ガオガオーンの姿が吹き飛ばされる。

 力を振り絞った最後の一撃は、ナギリの“虚無”には届かなかった。

 そして、砕けた鵺の仮面が剥がれ落ち、かなえは元の姿へと強制的に引き戻される。

 地に伏す。

 血と傷にまみれた身体が、もう動かない。

 呼吸すら浅く、今にも消えそうな命の火。

 それでも、彼女は――笑っていた。

 口元が、苦しみの中にありながらも、勝ち誇ったように吊り上がる。

「……ナギリ……私はお前に……勝てなかった。だがお前も、私に勝てなかったな……!」

 その声は掠れていたが、確かに届いた。

 そして、彼女は右手からタロンハチェットを落とす。

 カラン……という乾いた音が、静まり返った空間に響いた。

「……なんですって?」

 ナギリがわずかに首を傾ける。

 かなえは、もう一度、微笑んだ。

 それは命を燃やし尽くす者の、最後の意志。

「私は……私は、“わんだふる”を手に入れた……フフ……フハハ……ハハハハ……!」

 それは――虚無には絶対に手に入らないものを得た者の宣言だった。

 たとえ敗れても、たとえ存在が消えても、“人として誰かを想い、誰かと生きた”という証がある限り、ナギリには届かない高みにいる――

 ナギリの“瞳”が、音を立てずに揺れた。

 そこには怒声も罵声もなかった。

 ただ、静かな怒気。

 否、怒りという名を借りた、“理解できないものへの絶対的な拒絶”。

 そして――

 ナギリの背後から、巨大な蛇の口が開いた。

「ッ……!!」

 誰もが動けなかった。

 叫ぶことすら、ただの風にしかならないとわかっていた。

 蛇の口が、ゆっくりと、かなえを包み込む。

「かなえぇぇぇええええッ!!!!」

 ワンダフルの絶叫が空を引き裂いた。

 音が消える。

 世界が止まった。

 その瞬間、命と意志で“虚無”に挑んだ少女の姿が、完全に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 

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