わんだふるぷりきゅあ!!~わんだふる♡わーるど~ 作:重要大事
かつて私は、翼を持っていた。
天(そら)を裂き、風を抱き、雲の上を渡る。
眼下に広がる大地は、すべてが私のもので、遥かに霞む山々でさえ、私の訪れを拒まぬ舞台だった。
そう、私はタカだった。
獲物を狩り、空を支配する者。
群れず、馴れず、ただ空と風とだけ交わり、生きていた。
私は飛ぶことが好きだった。
それだけで満たされていた。
胸に風がぶつかり、羽の先を突き抜けてゆくとき、私は確かに、世界とひとつになれた。
けれど、それはある日、唐突に終わりを告げた。
獣の罠だった。
地上に舞い降りた一瞬、気配を読み損ねた。
鉄と縄の匂いに気づいたときには、すでに足に鈍い痛みが走っていた。
私はもがいた。
羽ばたこうとするたび、罠は深く喰い込み、血が滲んだ。
やがて空は遠のき、私は岩と泥の中に落ちた。
空が恋しかった。
風が、光が、ただ欲しかった。
それでも、翼はもう動かず、傷口から体温が抜けていく。
私は思った。
ここで朽ちるなら、名もないままがよかったと。
そのときだった。
焚き火の香に混じって、土を踏みしめる足音が近づいた。
やがて視界に現れたのは、黒き狩衣に身を包んだ、一人の男。
「……孤影悄然(こえいしょうぜん)。風を失えば、翼あるものも地に堕ちる」
その眼は、夜の湖のように深く静かで、その手は、氷のように冷たく、だが確かに命を探していた。
「だが、お前はまだ、生きようとしている」
男は膝をつき、私の脚から罠をほどいた。
傷口は深く、血に濡れていた。
だが男は焦る様子もなく、細く裂いた布を取り出すと、私の脚にそっと巻きつけ、包帯を締めていった。
触れる指先は、あまりにも丁寧で――私は目を逸らせなかった。
男は黙したまま、もう片方の脚を軽く持ち上げ、傷に染みないよう湯を注ぎ、薬草を滲ませた布で静かに拭ってくれた。
熱した水に沈んだ香草の匂いが、ほのかに鼻先をくすぐる。
警戒心が解けたわけではなかった。それでも、男の所作には不思議な静けさがあった
焚き火の揺らめきに照らされた彼の横顔は、まるで石像のようだった。
表情も声音も変わらない。ただ、無駄がなく、どこまでも“見ている”眼をしていた。
私という命を。
しばしの沈黙ののち、男はふと小さく息を吐くように言った。
「……これほど傷ついてなお、目を閉じぬとは。獣ではなく、言葉を持たぬ人のようだ。名も持たず、語らず、されど生きようとする……不思議なものよ」
彼は指先で包帯の端をきゅっと締めると、まっすぐに私の眼を見つめた。
「ならば――名を与えよう。誰にも呼ばれずに果てる命など、あまりに虚しい。たとえ言葉を交わせずとも、その名は魂に刻まれる……お前の名は、“命(ミコト)”。」
その声は、焚き火のぱちりと弾ける音にも負けないほど、静かだった。
だがその静けさは、確かに私の胸の奥底へと届いた。
あの瞬間、私は変わったのだ。
傷が癒えるまで、空は夢の中にしかなかった。
空に焦がれ、風を夢に見る日々のなかで、私はただ、彼のそばにいた。
それでも不思議と、満たされていた。
風を渡る翼よりも、名を呼ばれることで私の命は軽くなった。
飛ぶために生きるのではなく、誰かと在るために生きる――そんな日々を、私は初めて知った。
戦場に立ち、魑魅魍魎に相対し、世のために命を削る。
その男の名は――鼎。
私に“名前”という魂の灯を与えてくれた、最初で最後の人間。
*
あの夜の出会いののち、私は彼の傍に在り続けた。
飛翔できるようになるまでの間も、そしてその後も、私は離れなかった。
それは恩義でも服従でもなかった。
ただ、彼と在ることが、風に乗るのと同じくらい自然なことに思えたのだ。
鼎――真名を賀茂清衡(かものきよひら)は、不思議な男だった。
陰陽道の名門・賀茂氏の出でありながら、政治にも儀礼にも興味を示さず、幼くして神通力を発現させながらも、陰陽寮を早々に離れた。
人の中にいるよりも、魑魅魍魎の棲む境界に立つことを好んだ。
「清衡」としては朝廷に籍を残していたが、戦場に立つとき、彼はいつも「鼎」の名を名乗った。
「名とは内に在る願いの縮図だ。吾は清らかなる衡(はかり)などではない。煮えたぎる罪を煮詰めて飲む鼎こそ、我が性(さが)よ」
そんな言葉を、彼は涼しげに口にする。
旅の途中、彼は動物たちと語らっていた。
狐、梟、野犬、山猫――どんな獣であれ、彼の前では牙を収め、静かに耳を傾けた。
彼の力は、式神でも呪でもない。
“動物の魂と通わせ、その命を束の間、借り受ける”という異能。
目を見つめ、息を合わせ、その命の記憶に触れ、力を繋ぐ。
だから彼の祓いは強い。
それでいて優しい。
殺さずに鎮め、祓うときも、魂を弔うように祈る。
「畏きは理(ことわり)なり。畏れぬは慢(おごり)なり。理に還すのみ――これ、即ち帰命」
彼はそう言って、怨霊すら責めることはなかった。
人里離れた村で、ひととき身を休めていたときのこと。
ひとりの村人が彼に訊いた。
「そのタカは、なぜ名を持っているのです? ただの鳥では……」
彼は焚き火を見ながら、短く答えた。
「名とは願いだ。生きることを赦されぬ者にこそ、与えるべきものだと思わぬか。孤魂野鬼(ここんやき)を恐れるのは、人が名を持つからだ。ならば、名無き命にこそ、名は必要だろう」
村人は何も言えず、ただ俯いた。
私には、彼が少しだけ笑ったように見えた。
彼は孤独だった。
誰よりも人の命を知っていたが、人の世界には馴染めなかった。
理を超える力を持ちながら、理から外れることを選んだ男。
だから私は、彼の右腕でありたかった。
眼と翼で彼の歩みを支え、風となって彼の命に寄り添いたかった。
それが――私という“命”が選んだ、生きる意味だった。
*
あの日、彼は呼ばれた。
朝廷からの直々の召集――朱漆(しゅうるし)の文筒に納められた勅命には、ただ一言、命が記されていた。
【急ぎ、東方へ向かわれよ。天地乱れ、悪鬼群れ集いて理を蝕む。早急の祓除を要す】
珍しく、彼はその命に従った。
否、従うふりをしただけだろう。
その眼には、すでに“気配”が見えていたのだ。
封じられしものの胎動。
言葉も祈りも拒み、ただ存在そのものが呪いである――そんな“何か”。
その“気配”は、底なしの奈落を思わせた。祈りも届かず、命はただ供犠のように奪われる――かつて誰も、その名を口にしたことすらない、“何か”。
東方――。
日の昇る方角の彼方に、霧と瘴気に覆われた地があった。
古き結界が破れ、神域が汚れた場所。
草木は枯れ、獣は狂い、水は淀み、空気さえも腐っていた。
人が忘れた地。
それが、“それ”の棲み処だった。
そこは“厭離(えんり)”の地――人が忌み、神が離れ、理すら足を踏み入れぬ、名もなき地。
朝廷は、国に名を知られしすべての陰陽師たちに討伐の命を下した。
賀茂、安倍、吉備、壬生――名だたる家系の若き使い手たちが集められ、各々が式神を従え、数百枚の呪符を携えて、その地へ向かった。
そして、静かに姿を現したのが――鼎だった。
黒の狩衣に身を包み、腰には穢れなき白刃の太刀、背には霊木より削り出された神弓を負い、ただ静かに私――ミコトを伴っていた。
彼は誰とも言葉を交わさず、荒れた大地を一瞥し、静かに呟いた。
「……これは、封じられていたのではない。見ようとしなかっただけ。知らぬふりをして、上に蓋を置いたのだ」
夜が訪れる前に、大規模な祓陣が組まれた。
五方を結界で囲み、中央に清壇を据え、呪文を唱え、香を焚く。
この世とあの世のあわいに境を引き、穢れを祓うための最大級の術式。
だが――
最初の咆哮が響いたその瞬間、結界は音もなく崩れ落ちた。
空が裂け、地が反転した。
式神たちは叫びを上げ、術者を襲った。
呪(しゅ)は裏返り、印は砕け、音も色も狂い始めた。
誰かが叫んだ。
「逃げろ! あれは“理”の外に――」
けれど、その声もすぐに呑まれた。
声の発する“意味”そのものが、あれには届かなかったのだ。
そこに、“それ”が現れた。
漆黒のもや。
凝縮し、沈殿し、すべてを穢すような密度の黒。
だが、眼を向けた瞬間、すべての感覚が狂い始めた。
“そこ”にいるはずなのに、距離が合わない。
術を放てば、狙いがずれる。印を結べば、術が散る。
間合いを詰めても、攻撃は空を裂くだけ。
さながら、“世界の法が届いていない領域”に、それは佇んでいた。
触れようとすれば逸れ、祓おうとすれば砕ける。あたかも“数”にも“言”にも還らぬ、非存在の塊――そう見えた。
輪郭は熱気に揺れる蜃気楼のように歪み、腕のようなものが伸びたかと思えば、捩じれ、戻る。
脚とも尾ともつかぬ影が滑り、躱し、翻る。
その動きには起点も終点もなかった。
まるで、概念そのものが酔っていた。
「……剣が、届かぬ……!」
誰かが叫んだ。太刀を振るった陰陽師の声だった。
「否……届いておるのに、斬れていない……!」
もう一人が呆然と呟く。
呪符が焼け、式神が暴れ、誰もが術の意味を失っていた。
「……混沌無極……」
不意に、鼎がかすれた声で呟いた。
「形が、ない……声も、ない。なのに――こちらを、見ている……」
それは視線でも光でもない。
ただ、存在の輪郭すらない“それ”から、こちらへ向けられる確かな“意志”だけがあった。
私は一瞬、耳を疑った。
あの男が、“怯え”に似たものを口にするなど、考えたこともなかった。
鼎は、あらゆる獣たちと心を通わせ、霊と語らい、神通をもって魑魅魍魎を祓う異能の祓い師だった。
名だたる陰陽師たちが地に伏す中、ただ一人、列島を行脚し続けてなお、一度たりとも遅れを取ったことがない。
そんな男の口から、あの震え――それは、私にとってこの異形がいかなる存在であるかを、何よりも雄弁に物語っていた。
それでも鼎の眼は、逸らさず、それを見つめていた。
「……これは、“理”に名を借りて、縛れるものではない」
鼎の声は低く、押し殺すようだった。
畏れを認めてなどいない。ただ、何かを必死に言葉に繋ぎとめようとしていた。
「だが――名がなければ、刃も術も届かぬ」
言葉にすることで、かろうじて“それ”を外の世界に引きずり出そうとしているようだった。
それは祓い師としての本能に近かった。
「……底なき奈落に堕ちし、祈りも届かぬ供犠が、この現世より厭われて隔たれたし存在。“犠牲”と“奈落”と“厭離”の果てにあるもの――“奈犠離(ナギリ)”。名を持たぬものには、名で挑むしかあるまい」
それは定義でも命名でもなかった。
意味を与えるのではなく、こちら側がそれに抗うための“縁”を作る行為。
鼎はそれを、ただ当然のように言い切った。
そのとき、私はかすかに聞いてしまった。
鼎の声に、震えがあった。
あの男の声が、震えるなど――あってはならぬことだった。
夜は来なかった。
いや、夜という概念そのものが剥ぎ取られていた。
空は黒く、風は止み、時さえも狂いはじめた。
私は、翼で風を掴みながら感じていた。
これは“奈犠離”という名の、無そのものの胎動。
存在というものすべてを否定する、喪われた者たちの帰還だったのだ。
祓陣はすでに崩壊していた。
あれだけの術者を集めながら、結界は一瞬で引き裂かれ、式神は主人を見失って暴走し、仲間たちは次々と“それ”の気配に触れた瞬間、ただ崩れるように命を断たれていった。
「莫迦な……我々の力が、届かぬなど!」
「印が、利かぬ!」
「助け……」
叫びは断ち切られるたびに意味を失い、ただ音だけが宙を舞った。
誰の術も届かず、誰の刃も刺さらず、目の前の“影”はただ、こちらを見ていた。
淡々と。黙々と。
あらゆる希望が否定され、すべてが喰われていった。
そして残ったのは――鼎と、私だけだった。
私たちは、なお空を見上げていた。
焼けただれた大地に、血と煙と命の残骸が撒き散らされる中、彼は立ち上がっていた。
剣を抜き、弓を構え、怯まず“それ”と向き合っていた。
私も、彼の肩に降り立った。
それが最後の“始まり”だった。
≒
現代――
アニマルタウン 住宅街
白銀の光が、呑まれた。
かなえの姿は、影の濁流に溶けるようにして消えた――いや、“消された”のだ。
あたかも、初めから存在しなかったかのように。
虚無の口――ナギリの“蛇”が口蓋を閉じると同時に、周囲の空気は音も熱も持たぬまま凝固した。
ただ一つ、そこに残されたもの。
それは、“音の残像”だった。
「かなえぇぇぇええええッ!!!!」
ワンダフルの絶叫は、音波ではなかった。
祈りであり、怒りであり、否定だった。
誰かが奪われるという理不尽に対する、無力な存在からの最後の抗いだった。
だが、ナギリは応えない。
その躯は、飲み込んだものを一切の音もなく、ただ呑み下す。
咽喉を通り、深淵へ落ちるそれは、もはや“存在”と呼べぬほど静かに消えていった。
記憶も、想いも、存在の痕跡すら――“なかったこと”として、虚無へと収斂していく。
空が震えた。
風が反転し、すべてが“後戻り”し始める。
この世界が、ひとりの少女の犠牲すら記録できない場所に成り果てようとしている。
ワンダフルの目から、涙が溢れた。
だが、それは悲しみではない。
激しすぎるほどの“怒り”だった。
その目が、ナギリを睨む。
涙越しに揺れる、まっすぐな怒気。
――それは、かつて鼎がナギリを名付けたときに向けた、あの“命の眼差し”と同じものだった。
「うぅぅ……返してよ……」
ワンダフルが絞り出すように唸る。
その声に、フレンディの胸がかすかに軋んだ。
フレンディは知らなかった。こむぎが、こんなにも強く怒ることがあるなんて。
いつだって、こむぎは元気で、明るくて、みんなの太陽のような子だった。
お散歩とクッキーが大好きで、元気いっぱいで、たとえ敵対するガルガルやスバルにすら、「一緒にあそぼ!」と無邪気に笑いかけていた。
それは強さではなく、優しさのかたちだった。争うより、笑い合うことを選び続けてきた少女。
そんなこむぎが、今――怒っていた。
ただ怒っているのではない。
燃えるような怒気の奥には、引き裂かれるほどの悲しみが渦巻いていた。
目の前で、大切な存在が“消された”ことを、心が受け入れられず、ただ震えている。
フレンディだけではない。ニャミーも、リリアンも、悟も、大福も、ニコも、メエメエも――そこにいるすべての者が、ワンダフルの心の震えを、全身で感じ取っていた。
それは、ただの怒りではない。誰かを責めるだけの感情ではない。
こむぎは――この世から何かが「奪われた」ことに、心の底から怒っていたのだ。
「返して……かなえを返してよぉおおお!!!」
叫びは、空を裂く雷鳴のように響いた。
その眼差しは、もはや少女のものではなかった。
命を守るために戦う者の、祈りにも似た憤怒――
その怒りは、虚無そのものたるナギリにすら届くはずの、“魂の抗議”だった。
だが――現実は、あまりにも非情だった。
彼女の慟哭も、涙も、怒りも、ナギリには一切届かない。
彼は、いや“それ”は、人の感情を“意味”として受け取る機能を持たない。
哀しみも、憎しみも、祈りすらも――虚無には無力だった。
「ああ……感じます。これが、命というものなのですね」
ナギリは、ワンダフルの言葉になど目もくれなかった。
それどころか、自らの内に取り込んだかなえの“命の波動”に、ただ陶然と浸っていた。
「素晴らしい……素晴らしいィ、素晴らしいィィ! やはり、あなたこそ我々の希望です!」
それは歓喜ではなく、歪んだ讃歌だった。
“味わう”という言葉がこれほど禍々しく響いたことはかつてなかった。
「これで……ようやく世界を、味わえます……!!」
ナギリは、かなえから得た命を媒介に、別個に封じていた“ニコダイヤ”の力をゆっくりと解放していく。
それは慈しみでも救済でもなかった。
ただ、渇いた魂が――この世を喰らうための、冷たい歓喜だった。
刹那。
ナギリの両眼が、不気味に紅を灯す。
その瞳孔が歪み、異形の光を放った次の瞬間――天空へ向けて、凄絶なエネルギーが解き放たれた。
黒と赤が絡み合い、稲妻のような奔流が空を引き裂く。
地響きのような波動が空間を震わせ、閃光の柱が雲を穿つ。
やがて、解き放たれた禍々しい波は大気の上層で渦を巻き、その中心から、暗い光がじわじわと地上へ降り注ぎはじめた。
アニマルタウンの空が、不気味に染まる。
それはやがて、東の空を越え、西の都市をも蝕む兆しと化し、各地の空へ、波のように拡がっていった。
『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします。政府は首都圏全域に非常事態宣言を発令しました――』
テレビの緊急放送が、ざらついたノイズの向こうから響く。
けれど、その放送を受け止める余裕など、誰にもなかった。
だが――その異常を、ただ一人、別の角度から見つめていた者がいた。
白衣の裾を翻し、通信映像の前で眉をひそめる男。
古座野玄武。現代に残る賀茂の末裔にして、数少ない本物の“理の使い手”だった。
「……ああ……なんということじゃ」
彼は画面に映る空の異変を見て、思わず立ち上がった。
どこかから絞り出すような声で、震える唇が言葉を紡ぐ。
「よもや、あれが……千年の時を隔て、蘇ったというのか……!」
彼の脳裏に甦ったのは、書物でしか知るはずのなかった忌まわしき名。
“奈犠離”。
かつて、賀茂清――すなわち先祖である“鼎”が命を懸けて封じた、名もなき呪いの胎動。
世界の理を拒み、命そのものを否定する“存在してはならぬもの”。
それが、再びこの地に還ってきたのだ。
「我々は命を得て、世界を味わうのです!!」
ナギリの声は、いつになく昂揚していた。
かなえという、決して手に入るはずのなかった“命”をその身に取り込み、ナギリは今、陶酔していた。感情というものに疎かったはずの存在が、初めて知った“歓喜”に震えていた。
だが、それは生命への賛歌ではない。
ただ、飢えた魂が貪欲に咀嚼する、“味わう”という名の冷酷な快楽にすぎなかった。
ナギリは、禍々しい赤黒の光を全身に帯びながら、天空を仰ぎ見た。そこには、さきほど放った邪悪な波動が渦を巻き、空の高みで脈動している。さながら世界そのものの理を狂わせる、終末の胎動のごとく。
「素晴らしい……これが命……これが世界……!」
狂気に震える声を残し、ナギリは地を蹴った。
影のように滲み、空へと跳ね上がる。
そして――
解き放った渦の中心に、黒き雷鳴のような軌跡を残しながら、身を投げた。
瞬間、渦が蠢く。
空が悲鳴を上げるように軋み、雷雲が破裂した。
その只中から現れたのは――八つの首、蛇の胴体、黒曜石のような鱗に覆われた、ヤマタノオロチを思わせる巨獣。
ナギリは、かなえから得た“命”の波動と、ニコダイヤから奪った力を融合させ、ついに自らを「完全なる災厄」へと進化させたのだ。
その巨体は雲を突き抜け、眼下のアニマルタウンを、いやこの世界すべてを喰らわんとする“災いの神”と化していた。
空を覆うようにして出現した、禍々しい巨影。
八つの首を持ち、黒曜の鱗に覆われた異形の大蛇が、空を這いながら世界を睥睨していた。
「な、なんなの……あの八つの首のあるヘビは……?」
ニャミーの声が、かすれる。
彼女は猫であるがゆえに、もとより蛇に強い警戒心を抱いていた。
だが、ナギリの変貌を遂げたこの“それ”は、もはや地球のどんな蛇とも異なる。
それなのに――いや、だからこそ、本能が告げていた。「これは絶対に近づいてはならないものだ」と。
呼吸が浅くなる。プリキュアの姿にもかかわらず、毛皮の内側まで汗が滲むようだった。
「まるで……ヤマタノオロチだ。日本神話に出てくる、スサノオノミコトが退治した――災いの化身」
悟が言葉を搾り出すように呟いた。
「ですがっ……あれはいくらなんでも反則ですよぉー!」
メエメエが悲鳴を上げる。
ニコがガオガオーン化した時でさえ、確かに巨大ではあったものの、ここまでの威圧感はなかった。
街の地平を覆うような巨体、空気を震わせるだけで破砕するビル群。
そして、その異形は――八つの目を赤く光らせた。
ドォンッ――!
その巨体が動いた瞬間、衝撃波が街に響く。
ナギリの巨大な蛇体は、ビルを次々と薙ぎ倒し、倒壊した建物を丸ごと喰らった。
鋼鉄の梁も、コンクリートも、骨も血も区別なく。
本能が欲するままに、貪り尽くす。
「ビルを……食ってやがる……!」
大福が呻く。
勇敢なはずの彼でさえ、足元が震えていた。
「こわくない……こわく、ない……」
リリアンの声も、どこか震えていた。
本当は怖がりな彼女が、プリキュアとしての誇りで恐怖を抑え込もうとする姿が痛々しいほどだった。
ナギリの巨体が空を舞うたび、風景が歪み、世界が変わっていくようだった。
「ナギリは……かなえの命を媒介にして、わたくしから奪ったニコダイヤの力を最大限に引き出しているのです」
ニコが、冷や汗を浮かべながらも冷静に分析する。
「ってことは、あの姿が――その力の完成形ってこと!?」
フレンディが目を見開く。
その問いに、誰も答えられなかった。
「……かなえ……」
ワンダフルが、絞り出すように呟いた。
その声に、怒りと哀しみ、そして“祈り”が込められていた。
――時刻は午後一七時一三分。
各地に発令されていた非常事態宣言を受け、日本政府はついに決断を下した。
自衛隊、全方面からの総攻撃開始。
衛星通信を通じてアニマルタウン一帯に戦車部隊、航空支援、長距離ミサイルが配備され、さながら“戦争”そのものの様相を呈していた。
「攻撃開始ッ!」
号令と同時に、戦車の砲口が一斉に火を噴く。
空にはF-35が旋回し、対地ミサイルが閃光とともに地上へと奔った。
音速を超える衝撃波、爆炎、火柱――大地が穿たれ、空気が爆ぜる。
「全弾命中確認! ……いや、待て、まだ動いて――!」
だが。
――煙の向こう、揺るがぬ“影”が、そこにいた。
無傷だった。
禍々しき八つの首が、煙の帳を抜けてゆらりと現れる。
“それ”は、何の反応も示さず、ただ冷たい目で、上空を旋回する戦闘機を見上げた。
やがて、地が鳴る。
「距離をとれ、再編成――」
直後。通信が、切れた。
次の瞬間、ナギリの首の一つが不規則に蠢き、赤黒い光の奔流を吐き出した。
それは熱でも雷でもない、“概念”すら灼く呪的な波動だった。
命中した戦闘機は、一切の爆発音も残さず、ただ霧散した。
金属も、燃料も、人も、機械も――等しく、“存在”ごと抹消される。
「ッ――なっ、なんだと……!?」
地上から見守る指揮官の声が震える。
次々に空から姿を消していく飛行編隊。
次いで、地上の90式戦車の隊列が蛇の巨体の一閃で薙ぎ払われ、残骸さえ残らなかった。
そして――ナギリは“それ”らの破壊された兵器を、まるで見せつけるかのように、八つの口で咀嚼することなく、丸呑みにした。
戦車砲もミサイルも、無力だった。
火力ではない。
「理」が通じないのだ。
彼らの用いたすべての武器は、「存在する相手に作用するためのもの」だった。
だが、ナギリはその前提すら拒絶していた。
“斃す”という意味そのものが、届かない。
「まるで……悪夢だ……」
誰かが、そう呟いた。
いや、それは悪夢ですら語り得ぬ“呪い”だった。
人智の全てを込めた総攻撃が、指一本触れることもなく潰された――その絶望が、アニマルタウンを覆っていた。
しかし、それはアニマルタウンに留まらなかった。
厄災は、東京中の都市を飲み込む。
黒雲が首都圏の空を覆い、太陽の輪郭が掻き消える。
街は夜のように暗くなり、駅前の大型モニターには緊急避難命令が繰り返し表示された。
「速やかに避難してください!!」
「近くの地下へ避難を……」
人々の悲鳴、クラクション、走る足音――それらすべてが、命の音を奏でているようだった。
だが、“それ”は突然やって来た。
上空でうねる黒い渦から、ナギリの八首のうちの一つが、ゆらりと都心へと垂れ下がった。
蛇のような“首”は無音のまま、交差点に降り立つ。
瞬間。
世界が、静止した。
「……え?」
誰かがそう口にした、その刹那だった。
バチバチッ……ザザ……!
空気が軋み、周囲の人間の肌がざわめく。
電光掲示板が明滅し、携帯端末が一斉に悲鳴を上げるように異音を放つ。
そして次の瞬間、街頭に立っていた一人の青年の身体が、ゴリ……と鈍い音を立てて硬直した。
「……あっ……あれ……?」
近くにいた女性が気づいたときには、青年は、石になっていた。
恐怖に絶叫する彼女も、逃げ出す間もなく――
ザリ……ザリ……ッ
皮膚が灰色に変わり、表情がそのまま固まり、石像となって、沈黙した。
それは伝染だった。
見た者、近づいた者、恐怖した者――“命の反応”を示した人間から順に、石へと変わっていく。
「早く逃げろ! こっちだ! こっちに――」
走る消防隊員の声が途切れた。
彼もまた、一歩踏み出した瞬間、首元から石化が広がり、声ごと飲み込まれた。
子どもを抱いた母親、横断歩道を渡っていた老人、日常の一瞬を生きていた人々が、次々と“像”となっていく。
それは人だけにとどまらなかった。
駅前の植え込みで鳴いていた鳩が、空に飛び立とうと羽ばたいた瞬間、空中で羽ごと固まり、音もなく地面へ落ちた。
ペットの犬が必死に吠えながら飼い主を引っ張るが、突如前脚から灰色に変色し、悲鳴のような鳴き声を最後に動きを止めた。
公園の木の枝にいたリス、逃げ惑う猫、動物園の檻の中で騒ぐサルまでも――その命の反応が“世界”に拒絶された瞬間、次々と無言の石像へと変わっていった。
その様は、“神の怒りによって沈黙させられた都市”だった。
“ナギリ”は、すでに意思すら必要としていなかった。
ただそこに“在る”というだけで、世界が拒絶されていく。
渋谷、新宿、池袋――活気の象徴だった都市が、死の彫像の群れで満たされていく。
もはや、逃げ場などなかった。
地割れは広がり、建物は骨のように折れ、かつて笑顔と動物たちで満ちていたアニマルタウンは、今や見る影もなかった。
倒壊したモール、崩れた駅舎、ねじれた街灯――そしてそこに並ぶ“像”となった人々の姿。
その全てが、冷酷に、確かに現実だった。
わんぷりメンバーは、ただその光景に立ち尽くした。
言葉も、涙も、すぐには出てこなかった。
世界は、既に一度“終わって”しまっているのかと錯覚させるほどの、徹底した破壊と沈黙がそこにあった。
そして――。
「……っ!」
フレンディが、崩れた通りの先に何かを見つけた。
目を見開き、駆け寄る。
その視線の先にあったのは、石となった剛と陽子の姿だった。
買い物袋を手に持ったまま、剛は娘の名を叫ぶように片手を伸ばしていた。陽子はその隣で、恐怖に顔を歪めたまま、声にならない悲鳴をあげるように――そのまま固まっていた。
「お父さん……!! お母さん……!!」
フレンディは変身を解除するや、もつれる足取りのまま駆け寄り、石となった両親の前に膝をついた。
震える手でそっと触れる――だが、その肌は冷たく、硬く、命の気配が最初からなかったかのようだった。
肩に触れても、指を握っても、二人は何一つ反応しない。助けを求めるように伸ばされた父の腕も、恐怖に引きつった母の表情も、断末魔の瞬間を刻んだまま、凍りついていた。
その現実を、手触りで理解した瞬間――いろはは、声を上げて泣き崩れた。
「うぅぅ…あああああ!! ああああああああ!!」
どんなに泣こうとも、石像は応えない。世界に取り残された声だけが、ただ空へと吸われていく。
すぐ近くで、まゆの声が割れるように響いた。
「パパー!! ママー!!」
振り返れば、そこには、すみれと貴行の姿もあった。
貴行は、すみれを背後に庇うように腕を広げ、今まさに迫る何かから守ろうとした姿のまま、石となっていた。
すみれもまた、夫の背にすがるように立ち尽くし、目を見開いたまま、時を止められていた。
何気ない一瞬を切り取ったかがごとく――だが、それは永遠の静止だった。
「うぅぅぅ!! どうして!! どうしてこんなことに……!!」
まゆの悲鳴が、凍った街に響いた。
「まゆ……」
ユキは、寄り添うようにそっと手を伸ばした。けれど、その声も指先も、泣き崩れる彼女の痛みを和らげるには、あまりにか細かった。ユキ自身もまた、声を殺しながら涙をこぼしていた。
「いろは……泣かないで……」
こむぎはそっと手を伸ばし、いろはの背に触れた。無理に励ますことはしなかった。ただ、主人の深い悲しみに静かに寄り添おうとした。その手は小さくとも、震える彼女の心を支えたいという、まっすぐな温もりに満ちていた。
「ごめんごむぎ……でも今度ばっかりは無理だよ……」
いろはは顔を伏せ、堰を切ったように涙を流した。こむぎの優しさが心に染みるほど、耐えていた感情があふれ出してしまったのだ。守れなかった無力さと、奪われたものの重さに、少女の肩は細かく震えていた。
誰もが泣いていた。
涙をこらえる術すらなかった。
ナギリによって奪われたのは、命だけではない。
何気ない“日常”そのものだった。
――その光景を、悟は黙って見つめていた。
こむぎにすがるいろはの肩は、小さな風にも砕けそうなほど弱々しく揺れていた。
普段、誰よりも優しく、誰よりも強くあろうとする彼女の、その崩れ落ちた姿に、悟の胸は張り裂けそうだった。
「……こんなはずじゃなかったのに」
小さく、誰にも聞こえないほどの声でつぶやいた。
「……ああ……ほんと情けないよな」
その隣で、大福もまた目を伏せ、低く唸るように呼吸を整えていた。
状況は最悪だ。
街は壊滅し、家族は奪われ、ナギリは神にも等しい力を得た。
けれど――何か、まだできることはないのか。
そんな思案の最中だった。
「おぉ!! そこにいるのは――君たちか!!」
ざっ、と瓦礫を踏みしめる足音とともに、ひとりの男が駆け寄ってきた。
白衣の裾をなびかせ、額には汗。
だがその眼は、確かな意志と使命に燃えていた。
「古座野……博士!?」
悟が目を見開く。
「ふぅ、間に合ってよかった……無事だったんじゃな」
古座野は肩で息をしながら言ったが、その声音にはほっとした安堵が滲んでいた。
彼の白衣にはほこりとすすがつき、腕には細かい擦過傷があった。それでも――生きていた。
その姿を見たニコは、心のどこかでひっかかるものを感じていた。
古座野は、確かにナギリの石化波動が襲った首都圏の只中、自宅にいたはずだ。
自分たちは現場から一時的に離れていたから助かった。だが、彼はなぜ……?
「……あなた、なぜ石にならなかったのですか?」
ニコが静かに問いかける。疑いではない。だが、それは鋭い観察に基づいた率直な疑問だった。
古座野はその問いに、少しだけ視線を遠くに泳がせた。
「ワシにも、はっきりした理由はわからん。ただ――」
そのときだった。
悟がふと、古座野の腰に佩かれた一振りの太刀に目を向けた。
鞘は黒漆に包まれ、柄にはどこか古雅な紋様。
それがただの骨董ではないことは、見る者にもすぐにわかった。
「博士……その刀……」
悟の視線が鋭くなる。
古座野は小さく頷きながら、その太刀に手を添えた。
「これは、我が家に代々伝わる“退魔”の力を宿した刀でな。千年前、賀茂清衡――鼎が奈犠離を封じる際に所持していたと伝わるものじゃ。腐ってもワシは、賀茂の血を引く者……先祖たちが、守ってくれたのじゃよ」
そう言って、古座野はかすかに目を細め、鞘に包まれた刀身を見つめた。
それは言葉では説明しきれぬ、血と縁によって繋がれた防御の結界――あるいは、ナギリの力に唯一抗える“理”の残滓だったのかもしれない。
「なにはともあれ、まずは避難じゃ。このままではいつ二次被害にあうかわからん。ワシと一緒に逃げるんじゃ」
古座野が周囲を見渡しながら言ったそのとき、ぴしゃりと静かな声が飛んだ。
「おじさん……こむぎは逃げないよ」
こむぎの目は、どこまでも澄んでいた。
悲しみや恐怖がないわけではない。けれどそれらすべてを飲み込んだ先に、確かな“決意”だけが、静かに光っていた。
「……何を言うとるのじゃ?」
古座野が目を見開く。
「逃げたら、もう二度とかなえと会えない。こむぎは――かなえやみんなをナギリから取り戻したい」
その声に、誰よりも真剣な覚悟が宿っていた。
「こむぎ……」
ユキが、静かに彼女を見つめた。
「みんな、もう一度戦おう!」
こむぎが振り返り、仲間たちに呼びかける。
「ナギリから、わたしたちの“わんだふる”を取り返そうよ!!」
その言葉が、閉ざされていた仲間たちの心に火を灯した。
「そうだね……こんなところで泣いていても、何も変わらない」
いろはがそっと涙を拭う。
「正直、ナギリに勝てるかどうかもわからないし、こわくて今も震えるけど……」
まゆは拳を握りしめながらも、前を向く。
「ボクたちが戦わないと、二度とアニマルタウンに平和な日常は戻らない」
悟が強く言い切った。
「それに、負けっぱなしは性分じゃねーしな」
大福がニッと笑いながら前に出る。
古座野はその光景を見て、ぽかんと口を開けた。
「只者ではないと思っとったが……君たちは、いったい何者なんじゃ?」
すると、こむぎが胸を張って、皆の前に一歩出る。
その目にはもう、迷いも涙もなかった。
「わたしたちは――『わんだふるぷりきゅあ』だよ!」
言うと、こむぎが腰に帯びたワンダフルパクトを手に取り、いろはたちもそれに倣ってパクトを握りしめる。
「「「「プリキュア・マイ・エボリューション!」」」」
その声が放たれた瞬間、柔らかな光が四人の身体を包み込む。
一拍の静寂。
そして、まるで大気が震えるように、光はそれぞれの輝きを持って弾け飛ぶ。
そのきらめきは、まるで心の奥からあふれ出す“決意”を映すかのように、美しく、強く、彼女たちを彩っていった。
「みんな大好き素敵な世界! キュアワンダフル! 一緒に遊ぼ♪」
「みんなの笑顔で彩る世界! キュアフレンディ! あなたの声をきかせて」
「気高くかわいくきらめく世界! キュアニャミー! 仕方ない、構ってあげる」
「結んで紡いでつながる世界! キュアリリアン! こわくない、こわくない」
輝きはやがて収束し、彼女たちはプリキュアへの変身を遂げた。
そして、その光の余韻の中に――鏡石の加護を受けて変身した悟と大福の姿もあった。
プリキュアの名こそ持たぬ彼らだったが、その心の強さは、誰よりもまっすぐで力強かった。
六人の手がつながり、ひとつの円を描いたとき、そこにはもはや「ヒーロー」と「支える者」の境などなかった。
想いをひとつにした者たちが、今ここに並び立っていた。
「みんな一緒に!」
その中心で、ワンダフルが手を差し伸べる。
すぐに、フレンディ、ニャミー、リリアン、悟、そして大福がその手に応え、指を絡めるようにしてしっかりと繋いだ。
「せーの!」
フレンディの明るい声が響き、六人は息を合わせて叫んだ。
「「「「「「わんだふるぷりきゅあ!」」」」」」
その言葉が空に響き渡ると同時に、彼女たちの周囲に新たなエネルギーが満ち溢れる。輝きは瞬時に夜明けのような希望の光となり、周囲の瘴気を払いのけていった。
「うっひょーーー!!!! こりゃぶっ魂消たわいィ!!! ま、まさか……この目で美少女戦士セー◯ー◯ーンを見られる日が来ようとはぁ!!!」
緊迫した空気が、一瞬にして吹き飛んだ。
古座野のテンション全開の発言に、場の温度が一気にズレを起こす。
わんぷりメンバーはギャグ漫画のように全員でコケた。地面に転がりながら、あまりの場違いな発言にしばし言葉を失う。
「おっさん!! こんなときくらい空気読んでくれよ!!」
大福が額に青筋を浮かべて叫ぶ。
「名前は聞いたことありますけど、正直その世代の子供じゃないのでよくわかりません!!」
リリアンが眉をひそめて正論を放つ。
二人がかりで全員と視聴者の気持ちを代弁した格好になり、現場には苦笑と脱力の波が走る。
「いやー、年甲斐もなくついはしゃいでしまったわい。ならば……せめてもの餞別じゃ」
そう言うと、古座野は咳払い一つ。さきほどまでのオタク丸出しの口調を切り替え、サングラスの奥の目に一気に真剣な光を宿す。
そしておもむろに、右手を高く掲げた。
「――鎮魂鎮厄清浄結界成就。禍根根絶滅障祓除。理定一剣破闇破障。照帰命守――」
低く、だがどこまでも響き渡る声で祝詞を唱えながら、古座野が手を振ると、プリキュアたちの身体に淡く神々しい膜が張られていった。
「なんだろう……温かい……」
不思議な感覚を覚えながら、フレンディが静かに呟いた。
「古座野博士、今のは?」
悟が驚きを含んだ目で問いかける。
「腐っても、ワシも陰陽師。鼎の血筋じゃ。老いた身だが、これくらいのことはできる。ナギリの暴走を食い止められるのは、この世界で君たちを置いて他にはおらん。あのかなえというお嬢ちゃんがナギリに囚われているのは薄々は感じ取っていた」
「わーい! ありがとう、おじさん!!」
ワンダフルが満面の笑顔で応える。
「この度は本当になんとお礼を申し上げたらよいか」
ニコが深く頭を下げる。
「なーに気にすることはない! ところで……」
と、突然声色と話題を変えた古座野が、ちらりと人の姿のニコへ目を向ける。
「LINEのIDを教えてくれたら、おじさんがお小遣いあげちゃうよん♪」
「はい?」
「ニコ様をナンパしちゃダメェ~~!!」
「ほんとに緊張がないわね」
怒鳴るメエメエの横で、ニャミーが冷めた声で呟いた。
張り詰めた空気は、いつの間にか不思議と温かいものに変わっていた。
だが、時は満ちている。
ナギリの巨影が、空の向こうでゆっくりとこちらへと動き始めていた。
あらゆるものを呑み込む混沌の象徴――その気配を受けて、少女たちは再び顔を上げる。
決戦の準備は整った。
キラリンスワンの加護を受けた翼が、四人の背に展開する。
輝く羽根が風をはらみ、空へと舞い上がる。
「みんな、行こう!!」
ワンダフルの声に、誰も迷わず頷いた。
「「「うん(ええ)(ああ)」」」
掛け声とともに、四人のプリキュアが一斉に飛び立つ。
その後を追うように、悟と大福が助走をつけて大きく跳躍した。
「行くよ、大福!」
「おう!」
二人の姿は、光の残滓を追うように空へと舞い上がっていく。
「みなさーん! どうかご無事でー!」
地上から、メエメエが涙ぐみながら手を振った。
「がんばるキラー!」
「ぜったい勝ってキラー!」
キラリンアニマルたちも一斉に声を上げてエールを送る。
ニコはその光景を黙って見上げていた。
その隣で、古座野も静かに目を細める。
「プリキュアのみんな……どうかご無事で」
「ワシらにはあの子らを信じ、見送ることしかできん。未来は――君たちの手にかかっておる」
その言葉が風に溶けたとき、六つの光が夜空を裂いて疾駆した。
先頭に立つワンダフルを中心に、フレンディ、ニャミー、リリアン、悟、大福――彼らは一直線にナギリの元へと飛翔する。
だが、それはまさしく“神域への突入”だった。
彼女たちの目前に、ナギリの巨大な身が、天に聳える黒い嵐のごとく立ちはだかる。
その胴体から生える八つの蛇首が、にわかに空気を震わせ、同時に蠢いた。
刹那、世界が白く閃いた。
「来るよ――!!」
ワンダフルの叫びと同時に、八つの口腔から放たれた“無”の光線が、直線状に空間を抉った。
音すら奪うその奔流は、大気を真空に変えながら迫る。
「ッ、分散して!」
フレンディが声を飛ばし、六人は四方に散開。
ワンダフルとニャミーは咄嗟に急旋回し、放たれた光の軌跡を寸前でかわす。
リリアンは展開したリリアンネットで直撃を受け止め、悟と大福は咄嗟の反応で空中に舞い上がることで死角に滑り込んだ。
だが、攻撃は終わらない。
ナギリの胴体から生える無数の蛇状の触手が、まるで生きた鞭のように空を縦横に走った。
「ッわ、わわっ……ッ!!」
ワンダフルが叫ぶと同時に、一本の触手が唸りを上げて襲いかかる。
その動きはあまりにも不規則で、重力も慣性もまるで無視していた。
上下左右の概念すら通用しない。もはやこれは、物理法則にすら背く“異界の動き”だった。
「なんて攻撃だ!」
悟が歯を食いしばりながら叫ぶ。
刀剣状態のコンコードフレーテを振るって迫る蛇状の触手の軌道を必死に逸らしていた。
だが、斬っても斬っても湧き出すその数は、まるで際限がない。
軌道を変えるのがやっとで、真正面からの迎撃などとても追いつかない。
「これじゃ近づけねー!」
大福も同様にコンコードフレーテを構えていたが、振るうたびに刃が焼けつくような圧力に襲われ、狙いをつける暇すら与えられなかった。
触手の数も速度も異常だった。
一振りで三本、かわして五本、それでも十本がすぐに追いついてくる――そんな感覚だった。
「ヘビのゴリ押しなんてごめんよ!」
ニャミーが叫びながら、ニャミーシールドを必死に展開。
強固な盾が前面に張り巡らされ、目前の触手群をいったんは弾き返す。
だが、その背後からさらに何本もの蛇影が、“点滴”のように音もなく絶え間なく押し寄せてくる。
気づけば、視界の半分は蛇のうねりで埋め尽くされていた。
言わば、全方位から襲いかかる罰のような暴力。
わんぷりメンバーの眉間に汗がにじむ。
あまりにも多すぎる。これはもう、裁いているのではなく、ただ“耐えている”だけだ。
だが、そこへ追い打ちが入る。
「熱っ……! 何!?」
フレンディの叫びと同時に、空の彼方から火球が雨のように降り注ぎ始めた。
赤黒い彗星のような火球は、見た目こそ炎だが、熱とともに“怨”をまとっていた。
炸裂すれば瘴気が霧のように広がり、飛行を阻害し、視界を奪う。
防御すれば衝撃と腐蝕が同時に襲いかかる――まさに逃げても守っても不利になる、戦場そのものを侵食する攻撃だった。
「避けられない…………っ」
ワンダフルは目を見開いた。
迫り来る火球は、もはや“炎”ではなかった。
質量を持ち、圧倒的な速度と呪的な圧力を伴って空間ごと焼き潰そうとしている。
逃げ場も、撃ち落とす隙もない。誰の回避も間に合わない。
だからこそ、六人は――立ち止まった。
「みんなの力を合わせよう!」
「「「「「うん(ええ)(ああ)!」」」」」
全員の声がひとつになる。
四人のプリキュアが円陣を組むように並び、悟と大福も左右に立った。
各々が自らの力を込めて、一枚の防御障壁を展開する。
張られたバリアは、七重八重に輝く光の膜となり、彼女たちを包み込んだ。
それは、信じる者たちの祈りの盾――だが。
火球が接触した瞬間、音もなく世界が反転した。
バリアがきしみ、唸り、火花を撒き散らしながら、じわじわと押し込まれていく。
重圧は空間を歪ませ、地面ごと抉りながら、彼女たちを容赦なく地表へ叩きつけようとしていた。
「うぅぅぅ!!!」
フレンディが歯を食いしばり、結界の強度を最大まで引き上げる。
「もう、持たない……っ!!」
リリアンの紡いだ光の糸が、限界を迎えて軋んだ。
そして――轟音と共にバリアが割れた。
「「「「「「うあああああああ!!」」」」」」
六人の身体は重力に逆らえず、地上へと落ち、激しく地面に叩きつけられる。
土煙が巻き上がり、視界が灰色に染まる。
やがて、風に巻かれた光が薄れていった。
崩れた瓦礫の中で、ゆっくりと起き上がったのは――変身が解除された、犬の姿のこむぎだった。
「う……っ」
かすれた声を漏らしながら、こむぎは顔を上げる。
もふりとした前足が土に埋もれ、尻尾が小さく震えていた。
その隣では、ユキが猫の姿でうずくまり、大福もまた元のうさぎの姿で、倒れ伏していた。
悟とまゆ、いろはも同様に人間の姿に戻り、息を整えるのがやっとだった。
それでも――誰一人、意識を失ってはいなかった。
護っていたのだ。
この一撃すら耐え抜く、“加護”が確かに彼らの命を包んでいた。
あの時、古座野が唱えた祝詞――それが、今なお彼らを守っていた。
ナギリが、天を震わせるように咆哮した。
その咆哮は、音というよりも威圧そのものだった。
地が震え、空気が裂け、空そのものが縮むかのように。
それは、力を持たぬ者に「近づくな」と叩きつける絶対の拒絶だった。
地に伏す六人を見下ろしながら、ナギリは八つの首をゆらりと揺らす。
その動きは、嘲り、侮蔑し、すべてを“愚か”と断じる無言の嗤いに他ならなかった。
遠く、丘の上。
ニコたちとともに戦況を見ていた古座野は、望遠鏡のように両手で影を遮りながら、その光景を睨んでいた。
風が止まり、鼓動が凍る。
彼の心を、激しい焦燥が締めつける。
「……くそッ、あんなにも子どもたちが懸命に戦っているのに、何も……できんのか、ワシは……ッ!」
指は震え、膝は地に着きそうだった。
自分は見送るしかできないと言った――だが、こんな結末を見届けるために残ったのではない。
助けたい。
守りたい。
彼らの“勇気”に、報いたい。
その一心が、魂の奥からあふれ出した瞬間だった。
――アニマルタウンの中心に眠る、鏡石が光った。
風もないのに、花が揺れた。
空も曇っていないのに、大気が波打った。
そして次の瞬間――神秘の光が、古座野の身体に降り注いだ。
「これは!?」
思わず、ニコの声が上ずる。
「なんと!!」
メエメエが度肝を抜き、目を見開いた。
まばゆい光が、古座野の全身を包み込んでいた。
それはただの光ではなかった。温もりと同時に、圧倒的な“意志”が込められた何か――
「うおおっ……!」
思わず目を覆った古座野の瞼の裏側まで、眩しさが貫いた。
まるで魂ごと照らされるような感覚。
そしてその瞬間、彼の意識は――肉体を離れ、静かなる“記憶の深奥”へと導かれていった。
そこは、静謐な闇の中。
霧のような時の層を越えて、彼の前に一つの影が浮かび上がる。
黒き狩衣。穢れなき白刃。背に霊弓。
その佇まいは、確かに古座野の血脈に連なる者だった。
「……お主は…………」
影は、微かに頷いた。
その顔には厳しさもあったが、それ以上に、温かい眼差しがあった。
「ああ――共にゆこう……!」
そう呟いたとき、光が再び波紋のように広がる。
千年の時を越えて、魂が繋がった瞬間だった。
地に伏し、動けないこむぎたち。
変身も解け、命の灯がかすかに瞬くだけ――その姿を、ナギリが見逃すはずもなかった。
八つの首が、滑るように動き出す。
空気が重くねじれ、毒と呪が混じった瘴気が周囲に広がる。
「こ、こっちに……来る……っ」
いろはが息を呑み、震える声を絞り出す。
それは“捕食”ではない。
完全な“否定”。
命も、記憶も、想いも、存在そのものを飲み込み、無に還す八つの顎が、今まさに彼女たちの頭上に迫ろうとしていた。
「うぅっ!」
こむぎが、震える足を踏み出そうとした、その瞬間だった。
――ズシャァン!!
雷鳴にも似た風切り音。
続くのは、凄まじい斬撃の衝撃波。そして、血飛沫すら生じない異様な“切断音”。
ナギリの八つの首のうち、三本が――一瞬にして宙を舞っていた。
「な、なに……!?」
「いまのは?」
ユキが声を上げ、まゆの声が思わず上ずった。
切断された首は黒いもやを撒き散らしながら地に落ちる。
ナギリの全身がびくりと仰け反り、残る五本の首が鋭く警戒の気配を放った。
その時、一人の男が、風とともに降り立った。
黒き狩衣。
腰には穢れなき白刃。
背には霊木より削り出された神弓。
その姿は、今の時代には到底そぐわぬ、いにしえの装束。
目を見開いたこむぎが、呆然と呟いた。
「……あれは……誰ワン?」
男は、静かに剣を下ろしたまま、なおも構えを解かぬナギリを真っ直ぐに睨み据える。
そして、低く、だが凛と響く声で告げた。
「――破邪顕正。理を乱す異形のものよ。千年振りにうつし世に蘇ってみれば……よもや、これほどまでに強大な災厄と化したか」
その声音は、古座野のものではなかった。
深く、太く、そしてどこか懐かしい。
こむぎたちの背筋に、ひやりとした風が通り抜けた。
それは、かつて封じられし“何か”と向き合い、命を賭して挑んだ男の声。
千年前に奈犠離と対峙し、命を削ってそれを封じた祓い師、賀茂清衡。
今、現代に生きる古座野を依代として、“鼎”が還ってきたのだった。
その目が、鋭くナギリを射抜く。
「貴様の中に――ミコトの気配を感じる」
声に滲むのは怒りではない。
深い悲しみと、奪われたものへの静かな祈りだった。
ナギリはぐにゃりと歪みながら反応する。
その巨躯の奥から、何かを封じ込めたかのような不穏な“鼓動”が響く。
明らかに、ミコトの魂が――かなえが、その中で抑圧され、歪められていた。
「……返してもらうぞ」
そう告げると、鼎はゆっくりと懐から一枚の符を取り出した。
それは、式神を降ろす依代。かつて命をかけて打ち立てた、死者を呼び戻すための禁呪であった。
空気が張りつめる。
彼は印を結び、低く、そしてはっきりと口寄せの詞(ことば)を唱える。
「魂を継ぎしものよ、命を果てしものよ……されど未だ、果たせぬ想いを胸に残すものたちよ――今ひとたび、我が声に応え、現世へと還れ」
符が焔のように光を放ち、空へと舞い上がる。
次の瞬間、空間がきしみ、四つの光が現れた。
一つは、人間の青年――スバル。
残る三つは、狼のガオウ、トラメ、ザクロ。
かつて怨念と化し、こむぎたちによって成仏を遂げた者たちが、今ここに霊として再臨したのだった。
その眼差しは澄みきり、もはや迷いはなかった。
呼び出した者が誰か、彼らは本能で理解していた。
そして、彼らもまた――ミコトを奪った存在が誰かを知っていた。
風が止まり、光が揺らめく。
かつての死者と、未来を託された者たちと、千年の時を超えて還った祓い師。
それぞれの想いが交差し、再び奈犠離との決戦の刻が近づいていた。