わんだふるぷりきゅあ!!~わんだふる♡わーるど~   作:重要大事

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第4話:生き抜いた意味

四月某日

アニマルタウン 犬飼家

 

 夜8時。いろはの部屋。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、壁に淡い影を落としていた。

 机の上には開いたままのノート。

 ペンも添えられているが、いろはの視線はそこに向けられることなく、ただ静かにベッドの上で体育座りをしていた。

「…………」

 膝を抱えたまま、物思いに沈んでいる。

 一方、こむぎは犬の姿で床で丸くなっていたが、いろはが何も言わないまま時間が過ぎていくのを感じ、ぴくりと耳を動かした。

 何度か視線を向けたが、彼女は微動だにしない。

 やがて、こむぎは小さく伸びをすると、ゆっくりとベッドのそばへ寄る。

「……ねえ、いろは。さっきからどうしたワン?」

 いろはは顔を上げず、ぽつりと呟いた。

「こむぎ、かなえちゃんのこと……どう思う?」

 こむぎはしっぽを軽く振りながら、いろはを見上げた。

「わたしたちとは、考え方が違うみたい」

 いろはの言葉には、どこか思い悩むような響きがあった。

 これまでの戦いの記憶が脳裏をよぎる。

「でも、ガオガオーンとの戦いでピンチの時……かなえ、何度も助けてくれたよ」

 こむぎの言葉に、いろはは小さく頷いたものの、何か引っかかるように視線を落とす。

「それはそうなんだけど……」

 言葉を濁しながら、いろははシーツの端をそっと握った。

 指先に感じる柔らかな布の感触とは裏腹に、胸の奥にはざらりとした違和感がこびりついている。

 頭の中に浮かぶのは、キュアシャスールに変身し、迷いなく戦うかなえの姿。

 敵を前にすれば、彼女は一瞬たりともためらわない。

 振るわれる一撃は鋭く、容赦なく、まるでそれが“正しさ”であると疑う余地すらないかのように。

 

 ──弱いモノは食われる。

 

 あの時、かなえが口にした言葉が、耳の奥にこびりついていた。

 非暴力でフューザーガオガオーンに挑む自分たちを、どこか冷たく戒めるような声音。

 その言葉を真正面から受け止められなかった自分が、今もなお心の中で引っかかっている。

「……かなえちゃんは……動物がきらいなのかな?」

 ぽつりと漏れたその言葉は、自分自身にも問いかけるような響きを持っていた。

 かなえの戦い方を思い出すと、そう思わずにはいられなかった。

 まるで、感情を伴わず、ただ合理的に“処理”しているように見えたから。

「たとえ意志がない相手だとしても、相手を傷つけていい事だとはわたしには思えないよ……」

 小さな声が、部屋の静けさに溶けていく。

 こむぎは何も言わず、ただじっといろはを見つめていた。

 彼女の胸の内で揺れ動くものに、まだ答えは見つかっていない。

 

           *

 

同時刻──

アニマルタウン 鏡石前

 

 静寂の夜。

 アニマルタウンの環状交差点、その中心に鎮座する鏡石。

 ニコガーデンの主・ニコが太古の昔に設置したという、ニコダイヤの欠片。

 月明かりが薄く降り注ぎ、石の表面を鈍く照らしていた。

 かなえは、その前に立っていた。

 足元を流れる車のヘッドライトが、ゆっくりとした軌跡を描き、彼女の影を淡く揺らす。

 夜風が髪をかすかに撫でても、彼女は動かない。

「…………」

 鏡石には、古くから言い伝えがあった。

 ──石に姿が映ると、その映し出した人物の願いが叶う。

 ただの伝承に過ぎない。

 そう信じる者も多い。

 けれど、それを試そうとする者が後を絶たないのもまた事実だった。

 かなえは、ゆっくりと手を伸ばした。

 指先が冷たい石の表面に触れる。

 その瞬間、かすかに微熱が走った気がした。

「! ……私は、今でもお前を待っているのか?」

 ぽつりと漏れた言葉が、夜の静寂に溶ける。

 石の向こうに映るのは、自分自身の姿。

 だが──それは"本当に"自分なのか?

 どこか遠い記憶がざわめき、胸の奥を揺さぶる。

「お前がいたなら、どうしていた?」

 石をなぞる指が、ぴたりと止まる。

 あたかも、答えを求めるように。

 不意に、過去の記憶がフラッシュバックする。

 誰かの声。誰かの背中。誰かの存在。

 確かにあったはずなのに──輪郭は薄れ、影のように掴めない。

 夜の帳が深まる。

 かなえの表情は、懐かしげで、それでいて無機質だった。

「鼎……」

 

           ◇

 

数日後──

アニマルタウン・見晴山 遊歩道

 

 穏やかな午後の陽射しが、木々の間からこぼれ、遊歩道を明るく照らしていた。

 春風が心地よく吹き抜け、新緑の香りが漂う。

 鳥のさえずりが響く中、いろは、こむぎ、ユキ、まゆ、悟、大福の六人がのんびりと歩いていた。

「みんなでおでかけ、楽しいワン!」

 犬の姿のこむぎが、しっぽを振りながら弾むように歩く。

「絶好のうさんぽ日和だ」

 大福はリードをつけられ、こむぎの隣を悠々と歩いている。

「わたしは家でのんびりゴロゴロしていたかったのに……」

 ユキはぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、しっかりとついてきていた。

 今日は久しぶりに、フューザーガオガオーンが出現していない日だった。

 ここ最近、次々と現れる脅威に対応する日々が続き、まともに休息をとる余裕すらなかった。

 だからこそ、悟の発案で「たまにはみんなで気分転換しよう」と予定を立て、この見晴山にやって来たのだ。

 けれど──

「…………」

 いろはは、どこか上の空だった。

 景色を楽しむでもなく、弾むような会話に加わるでもなく、ただ前を見つめたまま歩いている。

 かなえとの間に生じた、目に見えない隔たり。

 彼女の戦い方を否定するつもりはない——でも、納得もできない。

 その思いが、ずっと心の奥にくすぶっていた。

「……ねえ、いろはちゃん」

 心配そうな表情を浮かべながら、まゆが歩調を合わせ、そっと声をかける。

「さっきから、ずっと黙ってるけど……大丈夫?」

 その言葉に、いろはは少しだけ肩をすくめた。

「……あ、うん、ごめんね。ちょっと考え事してた」

 まゆとユキは、ちらりと目を合わせる。

 普段のいろはなら「なんでもないよ」と笑ってごまかすはずなのに。

 今日は、その余裕すらないように見えた。

 悟も何か言おうとしたが、

「ワン?!」

 その前に──こむぎが急に足を止め、鼻をひくひくと動かした。

「……どうしたの?」

 いろはが訝しむと、こむぎはピンと耳を立て、真剣な表情になっていた。

「……この匂い、ガオガオーンの気配がするワン!」

 その言葉に、全員の動きが止まる。

「えっ、フューザーガオガオーンの?!」

 悟が思わず息をのむ。

「でも、ここって……町のすぐ近くじゃない?」

 ユキが困惑した表情を浮かべるが、こむぎは迷わず遊歩道を外れ、山の方へ向かっていく。

「間違いないワン。ほんのちょっとだけど、確かにガオガオーンの匂いがする! こっちだワン!」

「ちょ、こむぎ! そんなに速く行かないで!」

 いろはが慌てて後を追うと、こむぎは鼻を頼りに山道へと進んでいく。

 悟やまゆ、大福も顔を見合わせながら、急いで後を追った。

 

 木々が鬱蒼と生い茂る中、こむぎの後を追っていろはたちは山道を進んでいた。

 遊歩道を外れてからしばらく経ち、足元の道は次第に険しくなっていく。

 乾いた土を踏みしめるたびに、木の葉がさくりと音を立てる。

 周囲は静まり返っていた。

「こむぎ! 一旦待って!」

 いろはが呼び止めると、先頭を走っていたこむぎがぴたりと立ち止まる。

 鼻をひくひくと動かしながら、警戒するようにあたりを見回した。

 いろはたちも立ち止まり、息を整えながら周囲を見渡す。

 ここはもう遊歩道ではない。

 深い森の中。

 見晴山は小学校の遠足でも定番のコースだが、整備されていない道に入るのは初めてだった。

 踏み慣らされていない土の感触が、靴越しにも伝わってくる。

「ここは……前にクマのガルガルを探しに来たところよりも、ずっと奥みたいだ」

 悟が周囲を見回しながら冷静に呟く。

 以前、ガルガルを探すために訪れた時よりも、さらに人の手が入っていない場所だった。

 木々が密集し、光は葉の隙間からわずかに差し込む程度。

 森の奥へと続く道は、まるで異世界へ迷い込むような感覚を覚えさせる。

「こんなところに、ガオガオーンがいるの?」

 まゆが不安げに呟く。

 普段なら人が足を踏み入れることもない場所。

 ここにガオガオーンがいるというのだろうか。

 その時──

 まゆの視線がふと空へ向いた。

 頭上を大きな影が横切る。

 見上げると、一羽のトビが旋回していた。

 何かを探すように、ゆっくりと円を描いて飛んでいる。

 その動きを見たこむぎたちの胸に、得体の知れない不安がよぎった。

「……!?」

 すると突然、大福の耳がぴくりと動いた。

 足を止め、じっと前方の茂みに視線を向ける。

「っ! 何か近くにいるぞ」

 全員の背筋が一瞬にして緊張する。

 こむぎも、耳をピンと立てて鼻をひくひくと動かした。

「……この匂い、さっきよりもはっきりするワン!」

 静かに足を進める。

 森の奥へと分け入るたび、風が肌を撫でるように冷たく感じられた。

 やがて、枯れ葉の積もった地面に倒れる影が目に入る。

 そこには──

「あっ!!」

 いろはの驚きの声が森の静寂を破った。

 目の前の地面には、一頭のシカが倒れていた。

 か細い息遣いが、森の奥の静けさに溶け込むように響いていた。

「これは……」

 ユキが息をのむ。

 シカの前足は不自然な方向に曲がり、骨折していることは明らかだった。

 枯葉の上には、シカがもがいた跡が残っている。

 苦しみながらも、這うように動こうとしたのかもしれない。

「いろは、この子ケガしてる!」

 こむぎがおもむろに歩み寄り、シカの様子を確認する。

 シカはうっすらと瞳を開けていたが、その視線は定まらず、まるで遠くを見るようだった。

「うん! なんとか麓まで連れて帰りたいけど……」

 いろはは焦る気持ちを抑えながら、どうすればシカを助けられるのか必死に考えた。

 助けを呼ぶ? でも、この場所は森の奥だ。

 簡単に人を呼べる状況ではない。

 抱えて運ぶ? いや、シカの体は大きいし、骨折した脚を刺激してしまえば悪化するかもしれない。

「どうすれば……」

 その傍らで、悟は黙ってシカを見つめていた。

 彼の表情は険しい。

(この骨折の仕方……たとえ病院に連れて行ったとしても……)

 シカの前足は完全に折れ、骨が皮膚を押し上げるように変形している。

 その異常な形状は、単なる骨折ではなく複雑骨折であることを示していた。

 単純な骨折ならまだしも、骨が粉砕されていた場合、治療は困難を極める。

 しかも、これは野生のシカだ。

 骨折の治療には長期間の固定とリハビリが必要だが、野生動物にとってそれは不可能に等しい。

 もし無理に固定して動けなくなれば、外敵の格好の標的となるだけだ。

(加えて、この子はすでに衰弱してる……)

 シカの呼吸は浅く、不規則だった。

 目は半開きのまま焦点が合わず、体温が落ちてきている。

 ショック症状が進行し、循環不全に陥っている可能性が高い。

 野生動物は、怪我や病気の際、捕食者に狙われないようにギリギリまで苦しみを見せない習性がある。

 それでも今こうして明らかに弱っているということは、体の内部ではすでに危険な状態になっている証拠だった。

(……このシカはもう助からない……)

 それでも、悟はその言葉を口にしなかった。

 いろはに言えば、彼女はきっと傷つく。

 こむぎやユキ、まゆも、どうしようもない現実を知れば動揺するだろう。

 だから、あえて何も言わず、ただ険しい表情でその場を見つめていた。

「だいじょうぶだよ! わたしたちが、きっとなんとかするからね!」

 悟の心情とは裏腹に、いろはの声は、迷いのない強さを持っていた。

 彼女は迷わずシカのそばへ駆け寄ろうとする。

 前足の折れたそのシカは、弱々しく瞬きをするだけで、もはや動く力もないようだった。

 それでもいろはは、その瞳の奥に残る微かな光を見逃さなかった。

(まだ生きてる……!)

 それなら、助ける方法はあるはずだ。

 誰かに知らせる? でも、この山の奥ではすぐに救助が来るとは限らない。

 ならば、応急処置をして少しずつ運べば──

 

「やめろ」

 鋭く響いた声に、いろはの動きが止まった。

 驚いて顔を上げると、斜面の上に立つかなえの姿があった。

 昼間の陽光を背に受けながら、その瞳は鋭く、じっとこちらを見据えている。

「かなえちゃん!!」

 いろはの声が震える。

「あなた……こんなところで何してるの?」

 冷静に尋ねたのはユキだった。

 しかし、かなえは何も答えない。

 代わりに、無言のまま腰のホルダーへと手を伸ばした。

 ──刹那、ナイフの刃が陽光を反射する。

 その冷たく鋭利な輝きが、次の瞬間、容赦なくシカの首へと突き立てられた。

「っ!」

「ブエエエッ……!」

 シカの悲鳴が、森の静寂を切り裂く。

 苦しげに身体がびくりと跳ね、数秒間の痙攣の後、完全に力が抜けた。

 口元から血が滴り、枯葉の上へと落ちていく。

 ──そして、その死の瞬間を嗅ぎつけたかのように、無数のハエがどこからともなく群がる。

 いろはの思考が凍りついた。

 目の前の出来事を理解しようとする前に、体が拒絶していた。

 まゆは思わず目を背け、ユキと悟は息を詰まらせる。

 こむぎと大福も言葉を失い、ただかなえを見つめていた。

 しかし──

 かなえの表情は、微動だにしない。

 その眼差しには、迷いも、ためらいもなかった。

 まるで、何かを悟っているような──

 あるいは、何かを背負っているかのように。

「これが自然の摂理だ」

 静かに告げる言葉が、森の静寂に沈み込むように響く。

「どうして……」

 いろはは、目の前でためらいもなくシカを殺したかなえを怯えるような目で見つめながら、止めどなく涙をこぼした。

 その頬を伝う涙は、まるで拒絶の証のように光る。

「どうしてかなえちゃんは……そんな残酷なことができるの?」

 震える声で問いかけるいろはに、かなえは何も答えない。

「いろはちゃん……」

 隣でまゆが心配そうに声をかける。

 しかし、いろはの感情はもう抑えられなかった。

 こぼれる涙とともに、胸の奥に溜まっていた言葉が溢れ出す。

「その子だって、生きたかったんだよ! 生きてさえいれば、この先もっともっとワンダフルなことだってあったかもしれないの! かなえちゃんは動物がきらいだから、そんなひどいことができるんだ!!」

 心の底からの叫び。

 いろはにとって、動物は愛すべき存在であり、どんな状況でも守るべきものだった。

 だからこそ、目の前の少女──かなえの行動が、理解できない。許せない。

 しかし、かなえはいろはの言葉に反論することもなく、静かに視線を落とした。

 一瞬だけ、心外だという感情が滲んだようにも見えたが、やがてそれも消え、彼女は少し寂しげな目でいろはを一瞥する。

 そして、ゆっくりとシカの亡骸に向き直ると、そっと膝をついた。

 その小さな仕草には、不思議なほどの敬意が込められていた。

 かなえは静かに両手を合わせ、まぶたを閉じる。

 そして、柔らかく、けれど迷いのない声で、低く唱えた。

「コレヨリノチノヨニウマレテ ヨイオトキケ」

 その言葉は、風に溶けるように消えていく。

 いろはは、その姿を呆然と見つめた。

 かなえの声には、怒りも冷たさもない。ただ、淡々とした静けさと、どこか儚い響きがあった。

(……なんで?)

 いろはの心の中に、ささやかな疑問が芽生えた。

 あんなにも冷たく、迷いなくシカを殺したはずの彼女が、なぜ今、そんなにも静かに手を合わせるのか。

 しかし、かなえは何も言わず、ただ手を下ろし、無言のままナイフを持ち直した。

「……長く生きることが、『命は大切』の基準だと誰が決めた?」

 彼女の声は静かで、どこか淡々としていた。

 それは説得ではなく、ただの事実として述べているかのようだった。

「それこそ、人間が自分たちに都合の良いように創ったエゴだと私は思う」

 乾いた風が森を吹き抜ける。

 それは、動物愛護を前提とするわんぷりメンバーと、自然淘汰を軸とするかなえとの決定的な思想の違いを浮き彫りにする言葉だった。

 いろはは拳を握りしめたまま、何も言えなかった。

 何かを言い返したかった。

 でも、自分の言葉では、かなえの確信に満ちたその言葉を覆すことができる気がしなかった。

 ふと、ナイフの擦れる音が響く。

 かなえが静かに手を動かし、解体を始めていた。

 血に染まった刃が、シカの柔らかな腹部を切り開く。

 あまりにも慣れた手つき。

 いろはは息を呑み、思わず目を背けそうになるが、その時、かなえが静かに口を開いた。

「犬飼いろは……ここに両手を入れてみろ」

 いろはの肩がびくりと揺れる。

 驚きと困惑が入り混じった表情で、かなえを見上げた。

「な、なにを……」

 だが、かなえの表情はいつも通り冷静で、淡々としている。

 ただ命令しているのではない。

 彼女の眼差しには、何かを伝えようとする強い意志が宿っていた。

「いいから、やってみろ」

 いろはは戸惑いながらも、ゆっくりとシカの体へと手を伸ばす。

 切り開かれた腹部。

 赤く濡れた肉と、露わになった臓器。

 こんなにも生々しく、近くで見るのは初めてだった。

 躊躇いながら、指先をそっと中に差し込む──

「……!」

 思わず息をのんだ。

「どうだ?」

 かなえが、静かに尋ねる。

 いろはは、自分の両手に伝わる感触に目を見開いた。

 血に濡れた肉の奥。

 そこから伝わるのは──

「熱い……」

 かすれた声で呟く。

 自分の手がじんわりと温められていく。

 それは、まだ失われきっていない命の温もりだった。

「シカは死んで、お前を暖めた」

 かなえの声が、穏やかに響く。

「シカの体温がお前に移って、お前を生かす。私たちや動物たちが肉を食べ、残りは木や草や大地の生命に置き換わる。シカが生き抜いた価値は、決して消えない。」

 いろはは言葉を失ったまま、両手をシカの体内からそっと抜いた。

 手のひらに残る温もり。

 シカは、確かにそこに生きていた。

 けれど今は、もういない。

「……かなえちゃん……」

 いろはの震える声が、静かな森に溶けていく。

「狩人が動物を狩るのは、動物が嫌いだからじゃない」

 かなえは、ナイフを握り直しながら淡々と言葉を紡ぐ。

「動物を狩るからこそ、最大限の敬意を払うんだ」

 その言葉が、いろはの胸の奥深くに突き刺さった。

 この時、いろはは初めて、かなえがただ冷たいだけの人間ではないことを知る。

 彼女は、いろはよりもずっと前から「生き物の死」と向き合い続けてきた者なのだと。

 乾いた風が木々を揺らす。

 森は静寂に包まれ、誰もが余韻に浸っていた──その時だった。

 

 ぐぅぅぅぅぅ……!

 唐突に響く、低く長い音。

 場の空気を吹き飛ばすような、あまりにも間抜けな腹の音だった。

「……え?」

 いろはが呆けたように振り向く。

 こむぎはというと、耳を伏せながら、恥ずかしそうに視線を逸らしていた。

「こ、こむぎちゃん……?」

 悟が困惑した声を漏らすが、こむぎは一度小さく咳払いをすると──

「お腹すいたワン……」

 ──うっかり犬の姿のまま、人間の言葉を口にした。

「……!?」

 かなえの目が、大きく見開かれる。

 それまでどんな場面でも冷静だった彼女が、今初めて露骨な驚きを見せた。

「おい、今……この犬が喋ったぞ?」

 かなえが、こむぎをじっと凝視する。

 いろはたちの脳内に、一斉に警鐘が鳴り響く。

 こむぎも「しまった!」という顔をして口を押さえたが、すでに手遅れだった。

「ち、違うワン! いまのは、えっと、おなかの虫がしゃべったワン!!」

「いや、しゃべる腹の虫ってなんだよ!?」

 大福が即座にツッコミを入れる。

「口を利くのか、このウサギも!? おまえたち……只者じゃないな!」

 かなえの目が細くなる。

 まるで、未知の敵を警戒するかのように、ナイフを握り直していた。

 ユキは溜息をつき、もはや隠しきれないと判断した。

「この際だから、はっきりさせましょう」

 そう言うと、ユキは静かに人間の姿から、本来の猫の姿に戻った。

「!?」

 その瞬間、かなえの表情が固まる。

 シカの解体どころではなくなり、愕然としたまま、ユキを凝視した。

「私たちは、鏡石の力で言葉を話せるようになったの」

 ユキが淡々と説明する。

「こむぎちゃんとユキは、人間の姿になることができて、そこからプリキュアに変身してたんだよ?」

 まゆが続けると、かなえはさらに目を見開いた。

 一度に色々なことを説明されたせいで、先ほどのシリアスな雰囲気は吹き飛び──

 かなえの目が、黒点になっていた。

「あ……」

 混乱のあまり、間抜けな声が漏れる。

 先ほどまでの冷静沈着な狩人の姿は、どこへやら。

 よもや、犬や猫が喋るどころか、人間になり、さらにはプリキュアに変身していたなんて、思いもしなかった。

 けれど、目の前の事実が、それを否定させてくれなかった。

「え、ええ……!?!」

 かなえは、完全に理解が追いついていない顔で、ユキとこむぎ、ついでに大福を見つめる。

 

           *

 

見晴山 山中

 

 かなえに連れられ、いろはたちは森の奥へと進んだ。

 山道を抜け、さらに少し登ると、木々の合間にぽつんと佇む小さな小屋が見えてきた。

 円錐型の簡素な作り。

 外壁や屋根には、落葉しない針葉樹──トドマツの枝葉がびっしりと編み込まれ、しっかりと雨風を防ぐ構造になっている。

 床にも同じくトドマツの葉が敷き詰められており、踏みしめるとほのかに青々しい香りが立ち上った。

「これ……鷹目さんが作ったの?」

 まゆが驚いたように呟く。

「……勝手に作った仮小屋だ。人の往来が少ない場所を選んでいる」

 かなえは淡々と答えながら、入口の布をめくる。

 中はこぢんまりとしていたが、大人3~4人が余裕を持って座れる広さがある。

 中央には石を円状に積み上げた即席のかまどがあり、その上には枝を組んだ簡易的な鍋架けが設置されていた。

 小屋の外は春の柔らかな風が吹き抜け、新芽の芽吹きがあちこちに見られる。

 けれど、この小屋の中は風が入り込まないため、ひんやりと落ち着いた空気が漂っていた。

 天井の小さな開口部からは、陽の光が斜めに差し込み、淡い木漏れ日を作り出している。

「うわー! こむぎ、秘密基地にくるの初めてワン!」

 と、こむぎが感心と口吻を覚えた様子で辺りを見回す。

「一時的なものだ。長く使うつもりはない」

 そう言いながらも、かなえの動きには慣れた様子があった。

 ここがただの「仮小屋」ではなく、彼女にとって必要不可欠な場所であることを、いろはたちは直感的に理解した。

「山珍海味。せっかくの機会だ。新鮮なシカの肉でご馳走してやろう」

 かなえがそう言いながら、持ち帰ったシカの肉を手際よく並べる。

 もも肉、背ロース、ヒレ肉──そして……

「で?」

 ユキが無感情な顔のまま、背中に担がされていた重たい荷を地面に降ろした。

 それは、シカの頭部。

 見慣れない獲物を前に、いろはたちが言葉を失っていると、ユキが冷静に尋ねる。

「これ、どうするの?」

「無論、食べるんだ」

 かなえは当然のように言い放った。

「えっと……どうやって?」

 悟が困惑した顔を浮かべる。

 肉なら焼けばいい。鍋にするのもありだろう。

 しかし、シカの頭部だけを前にして、調理法を想像するのは難しかった。

 そんな悟の疑問をよそに、かなえは無言でナイフを抜くと、慣れた手つきでシカの頭皮を剥いでいく。

 刃が皮膚を滑るたびに、白い脂肪層が露わになり、やがて脳味噌が顔を覗かせた。

「シカの脳味噌だ。そのままでも十分うまい」

 そう言うなり、かなえは小さな匙を取り出し、躊躇なく脳味噌をすくい、口へ運んだ。

 いろはたちは息を呑む。

 ぷるりとした半固体が、口の中でとろけるように広がる。

 かなえは静かに噛み締め、満足げに目を細めた。

「……」

 その異様な光景に、いろはたちは凍りついた。

 先ほどまで生きていたシカの脳が、目の前で口にされている──その事実が、どうしても受け入れがたい。

 しかし、そんな空気を気にすることもなく、かなえは次にいろはへと匙を差し出した。

「それ。食ってみろ」

「あ、いや……わたしはちょっと……」

 いろはは、反射的に一歩後ずさる。

 さすがに、生の脳味噌は抵抗がある。

 ましてや、ついさっき自分たちが助けようとした命だ。

 いろはが逡巡するなか──

「食うか?」

 かなえが別の相手へ問いかけた。

「え! くれるの! わーい、いただきまーす!」

 ──こむぎだった。

 周囲が止める間もなく、こむぎは嬉々として匙を咥え、パクリと口の中へ放り込む。

 もぐもぐ……

 一同が固唾をのんで見守るなか、こむぎはしっかりと噛み締めてから、一言。

「……こむぎは、やっぱりクッキーの方が好きワン」

 そのあまりにも率直な感想に、沈黙していた場が一瞬で弛緩する。

「見上げた根性だな」

 大福が呆れたように呟きながら、ある意味で自分より肝が据わっているこむぎに、心の底から感心していた。

 

「次はチタタプを食べさせてやろう」

 かなえがそう言ってナイフを取り出す。

「チタタプ?」

 悟が聞き慣れない単語に疑問符を浮かべる中、かなえは持ち帰ったシカの「気管」部分を取り出し、刃物でリズミカルに叩き始めた。

「こうしてチタタプにすれば、食べづらい部分を余すことなくいただくことができる」

「なるほど。そういうことか」

 大福が納得したように頷く。

「チタタプというのはアイヌ民族の伝統料理だ。『我々が刻むもの』という意味がある」

 そう言って、ある程度叩いてひき肉状になったところで、かなえは近くのいろはにナイフを渡した。

「交代しながら叩くから『我々』なんだ。お前もチタタプって言いながら叩け」

 いろはは戸惑いながらも、言われるままにナイフを握り、恐る恐るひき肉にしていく。

「チタタプ、チタタプ、チタタプ、チタタプ……」

「いい感じだ。チタタプは新鮮な獲物しか使われない。生で食べるものだからな」

「あぁ、生か……」

「…………」

 その言葉に、まゆが思わず表情をこわばらせる。ユキも微妙な顔で沈黙する。

 二人の反応を見たかなえは溜息を吐くと、彼女たちにも食べやすい料理を用意し始めた。

「まったく……。なら、お前たちのような都会っ子でも食えるように、シカの背ロースを塩を振って少し炙ってやる」

 その言葉を聞いた瞬間、全員が安堵の息を漏らす。

 そして出来上がった新鮮なジビエ料理を前に、こむぎたちは箸を伸ばす。

(これが、北海道アイヌ民族の伝統料理……)

 知識欲から、悟がいろはたちが手を出さないでいるチタタプを恐る恐る口に運ぶ。すると──

「! これ、おいしい!」

 目を見開き、驚いた表情でそう呟いた。

「そうだろ? 新鮮な肉は狩人の特権なんだ」

 かなえもドヤ顔でチタタプに舌鼓を打つ。

 その横で、いろはたちは炙ったシカの肉を口にする。

「はぐはぐ……おいしいィ!」

 いろはが満面の笑みで頬張る。

「多少の臭みはあるけど、柔らかいわ」

 ユキが冷静に評価しつつ、頬を紅潮させる。

「うん! シカの肉って初めて食べたけど、結構好きかも!」

 まゆも頷きながら、ジューシーな肉を味わっていた。

 悟もチタタプを食してから、炙った肉に手を伸ばし、一口噛みしめる。

 噛むほどに広がる旨味を確かめながら、率直な感想を漏らした。

「これ、カレーに入れてもおいしいかもしれないね」

「!!」

 直後──

 かなえの目がカッと見開かれる。

 次の瞬間、彼女は無言のまま悟の両肩をガシッと掴んだ。

「い……いま……カレーと言ったか!!」

「え!? い、言ったけど……」

 悟が戸惑いながら答えるや否や、かなえは拳を握りしめ──

「そうなんだよ!! シカの肉とカレーの相性は絶対に合うはずなんだ!!」

 悔しそうに地面を拳で叩く。

「くそーっ、無性に、そして猛烈に私はカレーが食べたい!!」

 その場の全員が呆気に取られる。

 いろはの家でカレーをご馳走になって以来、すっかりカレーの虜になってしまったかなえ。

 彼女の予想以上の反応に、いろはたちも思わず動揺した。

 

 ジビエ料理を一通り堪能した後──

 ふと、悟が思い出したように口を開いた。

「そういえば、鷹目さん。さっき言ってたあの言葉は?」

 シカを捌く前に、かなえが唱えていた言葉。

 その意味が気になり、おもむろに尋ねる。

「ああ、『唱え言葉』か」

 かなえは火を見つめながら頷く。

「またぎの間で使われているものだ。もともとはクマを成仏させるために唱えるんだが……」

 そう言いながら、かなえはふといろはを一瞥する。

 彼女の心情に配慮したことを、暗に伝えるような視線だった。

「オオカミやクマと違って、シカにはそういう言葉は特別にないんだよ」

「? どうしてなの?」

 純真な眼差しとともに、こむぎが首を傾げる。

「これは、人からの受け売りだがな──」

 かなえは火の中の薪がぱちりと弾けるのを見つめながら話し始める。

「クマやオオカミは、アイヌの中でカムイと呼ばれる特別な神の名を与えられているが、シカは『獲物』という意味のユクと呼ばれていた。昔は今よりもっとたくさんシカがいて、鍋に火をかけてから狩りに行くほど簡単に獲れたそうだ。ユクは『シカを司る神様』が地上にばら撒くものだと考えた。人間に食べ物として与えてくれたもの……と」

 かなえの言葉を、いろはたちはじっと聞いていた。

「でも、ある年の冬──シカが食べ物を掘り起こせなくなるくらいの大雪が降った。そしてシカが大量に死に、いなくなった。それを食べるオオカミも……」

 かなえは焚き火の火が揺らめくのを見つめたまま、言葉を続けた。

 1879年(明治12年)、北海道で記録された冬の異常気象。

 それが、エゾオオカミ絶滅の引き金となった。

「簡単に捕まえられるからと、きっと誰かがシカを粗末に扱ったんだろう。だから神様が怒って、シカを地上に降ろさなくなった……」

 皆、かなえの語る狩人の視点からの話に、深く耳を傾ける。

「懸命に走るシカの姿、内臓の厚さ、肉の味。すべてシカが生きた証だ。全部食べて、全部忘れない。それが、獲物に対する責任の取り方だ」

 その言葉が焚き火の炎とともにゆらめきながら、静かに森へと溶けていく。

 かなえの声に、いろはたちは息をのんだ。

 彼女の狩人としての哲学。

 それは単なる狩猟の作法ではなく、生き物の死に対する「責任」そのものだった。

 この瞬間──

 いろはたちは、かなえという少女を改めて見つめ直した。

 彼女はただ冷淡なのでもなく、まして動物が嫌いなのでもない。

 むしろ誰よりも命に向き合い、誰よりもその意味を考えているのではないか、と。

「だからこそ、あのフューザーガオガオーン相手には、一度も唱えることすらしない」

 静かに火を見つめながら、かなえは続ける。

「あれは命を持たない、悪しき力の隷属だ。あれでは世界を味わうことすらできない」

 焚き火がぱちりと音を立てる。

「世界を……味わうことができない?」

 こむぎが反射的に問い返した。

 かなえは少しだけ目を伏せると、炎を見つめながら静かに続けた。

「生きることは、世界を味わうことと同じだ。風の匂い、雨の冷たさ、陽の暖かさ、土の香り。そういうものに触れながら、自分がどこにいるのかを知る。だが、あれにはそれがない。命の温もりを知らず、ただ壊し、ただ殺し、ただ命を貪るだけの存在……」

 その言葉が、焚き火の煙とともに空へと消えていく。

 いろはは、かなえの横顔をじっと見つめる。

 そこには確かに、彼女なりの確信があった。

「……かなえちゃんは、どうしてプリキュアになったの?」

 何気なく──けれど、ずっと気になっていたことを口にした。

 かなえはゆっくりと視線を下げる。

 手元にあるウイングホークパクトを、無意識のうちに握り締めながら──

「さぁな。気がついたら、あの姿になっていた、としか言いようがない」

 それは、どこか不思議な響きを含んだ言葉だった。

「ただ、あれを野放しにはできないという私の心の声に従って戦うことのみ。その果てに何があるのか……」

 ──その問いの答えを、彼女自身もまだ知らないのかもしれない。

 

           *

 

 森の奥。

 静寂に包まれたその場所には、解体されたシカの残りが横たわっていた。

 先ほどまでの喧騒はなく、ただ風が木々を揺らしている。

 そこへ、一匹のアライグマが忍び寄る。

 慎重に周囲を見回しながら、鼻をひくつかせると、肉片の匂いを確かめる。

 まだ新しい。血の匂いも消えていない。

 アライグマは前足でそっと肉を引き寄せ、一口噛みついた。

 その動きを見ていたのか、茂みの奥から別の動物たちがゆっくりと姿を現す。

 タヌキ、イタチ、カラス──

 彼らもまた、獲物の残りを求めて集まってきた。

 肉を咥えようとするカラスが羽を広げる。

 だが──

 その瞬間、空気が変わった。

 温度が下がったかのような、異様な冷たさ。

 何かがそこに「生まれようとしている」。

 シカの残骸の上に、黒いもやが渦を巻く。

 最初はただの影のようだった。

 けれど、それは徐々に形を持ち始める。

 動物たちは本能的に危険を察知した。

 アライグマが顔を上げる。

 タヌキが一歩後ずさる。

 カラスが不安そうに羽ばたく。

 次の瞬間——

 彼らは一斉に散った。

 茂みへ、枝の上へ、森の闇へ。

 黒いもやは、さらに濃く、さらに強く形を変えていく。

 四肢が伸びる。

 筋肉が編まれるように絡み合い、獣のようなシルエットを形成する。

 やがて、血肉を持たぬはずのそれが、実体を得る。

 不自然なほど長い爪。

 引き裂かれたような口元。

 その全身が、シカだった頃の名残をどこかに残しながらも、異形へと変貌していく。

 ──またひとつ、新たな存在が生まれた。

「ガオガオーン……!!」

 獣のような眼が開く。

 その瞳には、生き物の温かみも、意志もない。

 ただ、破壊と殺戮の衝動だけが、そこに宿っていた。

 

           *

 

見晴山 山中・かなえの仮小屋

 

「!!」

「「「っ!」」

 かなえが即座に立ち上がる。

 フューザーガオガオーンが誕生した直後、その気配を感じ取った彼女の動きに、一瞬遅れてこむぎ、ユキ、大福も耳を立てた。

「奴だ!」

 そう告げるなり、迷いなく外へ駆け出す。

「えっ! ガオガオーンの気配がわかるの!?」

 まゆが驚きの声を上げる。

 ガオガオーンの気配を察知できるのは動物だけ──そのはずだった。

「さっきのシカの場所よ」

 ユキが鋭く言う。

「山の動物さんたち、すごく怖がってる……! 知らない動物が生まれたって!」

 こむぎの言葉に、場の空気が張り詰める。

 いろはたちは顔を見合わせ、一瞬の躊躇もなく駆け出した。

 

           *

 

 森に広がる静寂を突き破るように、獣の咆哮が轟いた。

 木々が軋み、地面が揺れる。

 その奥から、黒々とした影がゆっくりと姿を現す。

「ガオガオーン!!」

 前脚に鋭い鉤爪を持ち、全身を覆う分厚い毛皮はまるで装甲のように硬質な質感を帯びている。

 その体躯は巨大なヒグマを思わせたが、牙を剥き出しにした口元やたくましい四肢には、獣の荒々しさとは異なる異様な力が渦巻いていた。

 そして、突き上げるように前傾姿勢を取ると、筋肉の張り詰めた脚が大地を踏みしめる。

 イノシシのような太い角が額から伸び、今にも突進せんとする気迫が滲んでいた。

「あっ!」

 いろはが息を呑む。

「イノシシとヒグマのフューザーガオガオーンだ……!」

 驚愕する彼女の横で、悟が瞬時に特徴を見極め、低く呟いた。

「馬牛襟裾。山を荒らす悪しき物の怪よ、貴様に引導を渡そう」

 かなえの冷然とした声が響く。

 その言葉に呼応するように、こむぎたちは一斉にパクトを構えた。

 刹那、五人の体が聖なる光に包まれ、プリキュアの姿へと変化する。

「ガオガオーン!!」

 変身の光が消えた瞬間──

 イノシシグマガオガオーンが四肢を地に沈め、強靭な筋肉を弾くように前傾する。

 次の瞬間、爆発的な勢いで突進した。

「くるよっ!」

 フレンディの叫びと同時に、五人のプリキュアは即座に散開する。

 巨体が疾走する。地面が抉られ、木々が軋む。

 倒れた幹が弾き飛ばされ、土が巻き上がる。

 もし避けるのが一瞬でも遅れていれば、そのまま押し潰されていた。

「なんてパワー……!」

 リリアンが息を詰める。

「まともに受けたらただじゃすまないわ」

 ニャミーが警戒を強めながら、鋭い視線でガオガオーンを睨む。

 イノシシグマガオガオーンがさらに前傾し、鉤爪を振り上げる。

 ぶ厚い前脚が振り下ろされるたびに、大地が裂け、周囲に衝撃が広がっていく。

「下がれ、お前たち!」

 鋭い声が戦場に響いた。

「シャスール……!」

 ワンダフルが空を滑空するシャスールを見上げ、驚きの声を上げる。

 背に生えた翼をなびかせながら、軽やかに着地すると、タロンボウガンを手に正面から敵を射抜くように構えた。

「ガオガオーン!!」

 イノシシグマガオガオーンが、荒々しく前脚を踏み鳴らす。

 四肢に力を込めると、突き上げるような勢いで地を蹴り、一気に距離を詰めてくる。

「疾っ!」

 シャスールが矢を番え、一瞬の隙を突いて放つ。

 風を切り裂くように飛翔した矢は、まっすぐ敵の頭部へ飛んでいく。

 しかし、次の瞬間──

 鏃が弾かれ、矢が粉々に砕けた。

「なに!!」

 シャスールの目が驚愕に見開かれる。

 矢が確かに命中したはずなのに、まるで鋼の装甲に跳ね返されたかのように砕け散った。

 その隙を逃すまいと、イノシシグマガオガオーンが突進を開始する。

 シャスールは即座に体勢を低くし、横へ飛び退いた。

 彼女がいた場所を猛々しい獣の巨体が突き抜け、轟音とともに地面を抉る。

「なぜだ? なぜ矢が折れた?」

 強化された矢でさえ傷一つ付けられなかったことに、シャスールは思わず歯を食いしばる。

「ヒグマの頭蓋骨は装甲のように分厚いんだ! 銃弾だって弾き飛ばすくらい!」

 木の影から、悟が大福を抱えたまま叫ぶ。

「くっ……驕兵必敗! 私としたことが迂闊だった」

 シャスールが矢を握り締め、悔しげに低く呟く。

 狩人としての経験に加え、プリキュアとして力を得たことで、自らの矢に絶対的な自信を持っていた。

 その慢心が、この戦場で初めて砕かれたのだ。

「ガオガオーン!!」

 シャスールの矢を弾き返したイノシシグマガオガオーンは、その場で力強く踏み込む。

 わずかに前傾し、背中の毛を逆立てると、その目が一層鋭さを増した。

「警戒しろ! まだ来るぞ!」

 大福が低く警告を発した次の瞬間、イノシシグマガオガオーンの巨体が弾けるように突進する。

 ヒグマの圧倒的な筋力を活かした前脚の一撃が地面をえぐり、空気を揺るがせた。

「わぁぁ!」

 ワンダフルが即座に飛び退くも、攻撃の余波でバランスを崩す。

 そこに畳みかけるように、イノシシの特性を活かした猛突進が襲いかかる。

 さながら雷のごとく速さ。

 巨体の割に異常なまでの加速力があり、一直線に標的へ突き進む。

「避けて!!」

 フレンディの叫びと同時に、メンバーが散開する。

 しかし、狙われたリリアンは咄嗟の判断が間に合わない。

「しまった……!」

 その瞬間、ニャミーがリリアンの腕を引っ張り、間一髪で回避させた。

 すれ違いざま、イノシシグマガオガオーンの突進が岩を粉砕する。

 振り返る間もなく、敵は方向転換することなく、一気に木々の間へ駆け抜ける。

 しかし、そのまま逃げるのではなかった。

「っ! みんな、戻ってくるよ!」

 悟が甲高い声を上げる。

「イノシシはまっすぐに突進したあと、必ずUターンしてもう一度突っ込んでくるんだ!」

 悟の言葉が終わるのと同時に、森の奥に消えたはずのイノシシグマガオガオーンが土煙を巻き上げながら急旋回する。

 巨大な体躯をものともせず、戦闘機のような滑らかな軌道を描き、再び猛スピードで突っ込んでくる。

「速い……!」

 ワンダフルが息を詰める。

 これまで戦ったフューザーガオガオーンとは違い、この敵は単なる力押しではない。

 緻密に計算された動きで相手を翻弄し、一気に仕留めるタイプの相手だった。

 その時──

 突進してくるイノシシグマガオガオーンの進行方向に、小さな影が動くのをシャスールは捉えた。

「っ……!」

 ほんの一瞬だった。

 落ち葉の間から、小さなリスが飛び出し、恐怖に震えながら動けなくなっていた。

 このままでは巻き添えを食い、悲惨な結末を迎えるのは必至だった。

 そして、気づいたときには──

 シャスールの体が、動いていた。

「シャスール!?」

 フレンディが焦燥を滲ませた声を上げる。

 シャスールは翼を大きく広げ、一気に駆ける。

 イノシシグマガオガオーンが迫る中、すばやくリスを抱え込み、そのまま地を蹴った。

 敵の突進がすぐ背後まで迫る。

 ──間に合わない!?

 強烈な勢いの衝撃波が背後をかすめ、シャスールの頬を斬る。

 しかし──

 間一髪、彼女はリスを抱えたまま、脇へと転がり込むように回避した。

 敵はそのまま猛然と駆け抜け、さらに奥の森へと消えていく。

 シャスールは小さな生き物をそっと地面に下ろし、優しく声をかける。

「もう大丈夫だ」

 リスは恐る恐るシャスールを見上げたあと、一瞬だけその腕にしがみつき──

 すぐに森の奥へと駆けていった。

 フレンディは、その光景をじっと見つめていた。

(そうだよ。動物がきらいだから動物を傷つけるなんていうのは、わたしの思い込みだった)

 胸の中にあった先入観が、ゆっくりと崩れ落ちていくのを感じる。

 シャスールは決して、無慈悲に命を奪う存在ではない。

 彼女なりの価値観と信念を持ち、自然と向き合い続けているのだ。

(ガオガオーンを傷つけるのはいやだ……)

 フレンディの中に根付いていた葛藤。

 敵であっても、命あるものを傷つけることは避けたい。

 できることなら、対話で分かり合いたい。

 けれど──

(そう思っていたけど……あれは……)

 目の前のイノシシグマガオガオーンは、ただの野生の獣ではない。

 意思もなく、ただ破壊と殺戮のみを目的として暴れ回る。

 それは「生きている」と呼べるものなのか?

(ガオガオーンの姿をまねた、この世界にいちゃいけないものなんだ!)

 フレンディの瞳が強く光を宿す。

 迷いは、今この瞬間、完全に断ち切られた。

 同時に──

「ガオガオーン!!」

 敵が急旋回し、再び猛突進を仕掛けてくる。

 だが、その軌道はすでに読めている。

「ワンダフル、いくよ!」

 フレンディが覚悟を決めた声で叫ぶ。

「あのフューザーガオガオーンから、森の動物たちを守ろう!」

「うん!」

 ワンダフルが即座に応じる。

 イノシシグマガオガオーンの突進を紙一重で避け、フレンディが宙を舞う。

 その手には、光を帯びたリボンが握られていた。

「フレンディリボン!」

 振り下ろしたリボンが、光の帯となり、突進してきたガオガオーンの四肢を絡め取る。

 光がまとわりついた瞬間、敵の動きが鈍る。

「今だよ!」

 フレンディの拘束で動きを封じられたイノシシグマガオガオーン。

 敵の巨体が揺らぎながらも、四肢を激しく暴れさせ、拘束を振りほどこうとする。

 しかし──

「リリアンネット!」

 リリアンが素早く手を掲げると、光の糸が編み込まれたネットが次々と宙に広がり、地面に格子状の足場を形成する。

 蜘蛛の巣のようにしなやかに絡み合い、戦場に新たな動線を生み出した。

「ニャミー、いける?」

 リリアンが鋭く呼びかけると、ニャミーはニヤリと笑って、弾むように飛び乗る。

「当然よ!」

 しなやかな身のこなしでリリアンネットを駆け上がり、敵の懐へと接近する。

 足場を踏みしめるたびにネットが僅かに揺れるが、動きにはまったく無駄がない。

 イノシシグマガオガオーンがもがくが、動きを制限されている今、攻撃は届かない。

 そして──

「はぁあああああ!」

 高く跳び上がったニャミーが、宙で回転しながら一気に加速。

 敵の側頭部に鋭い回し蹴りを叩き込む。

「ガオガオーン……ッ!!」

 衝撃で敵の巨体がぐらつく。

 拘束されていた四肢にさらに負担がかかり、その動きが一層鈍くなる。

「ヘルプ! キラリンアニマル!」

 ワンダフルが勢いよく拳を握る。

 その瞬間、彼女の両手にキラリンベアーの巨大な手が装備される。

 ニャミーの回し蹴りでバランスを崩したイノシシグマガオガオーンが、僅かに体勢を崩したその刹那──

 ワンダフルはまっすぐ地面を蹴り、一気に駆ける。

「キラリンクマパンチ!」

 キラリンベアーの力を宿したその拳が、黄金の光を纏いながら強烈な一撃を繰り出す。

 敵の顎めがけて振り抜かれた拳が直撃した。

「ガオーンッ!!」

 鈍い衝撃が広がる。

 イノシシグマガオガオーンの巨体が大きく仰け反り、拘束された四肢にさらに負担がかかる。

 ワンダフルが息を整えながら後方に下がると、シャスールが静かに前に出た。

「よくやった。止めは、私が刺そう」

 迷いのない声が響く。

 タロンボウガンを構え、狩人の眼差しを向けるシャスール。

 その動きに、一切の躊躇はない。

 矢に光が集まり、狙いを定め──

「プリキュア・シャセールスナイプ!」

 解き放たれた矢が光を帯び、火の鳥の形を取りながら空を裂く。

 その炎の軌跡が、イノシシグマガオガオーンの胸を貫いた。

「ガオガオーン……」

 直後、光の奔流が敵を包み込み、黒いのやが吹き飛ばされる。

 イノシシグマガオガオーンは、断末魔の咆哮とともに、その巨体を崩して消え去った。

 

「かなえちゃん」

 戦いのあと、いろはは静かに歩み寄り、まっすぐに彼女を見つめた。

「さっきは……ひどいこと言って、ごめん!」

 深々と頭を下げるいろは。

 その言葉に、かなえは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑む。

「少しは迷いが晴れたようだな」

 穏やかに告げられた言葉に、いろはは力強く頷く。

「うん……わたし、決めたよ。フューザーガオガオーンから動物たちを守るために戦う」

 それを聞き、わんぷりメンバーもそれぞれに納得の表情を浮かべた。

「だからかなえちゃん、これからもわたしたちと一緒に戦ってくれない?」

 いろはの提案に、こむぎが勢いよく便乗する。

「わー、いろは! それって、すっごくわんだふるだね!」

「わんだふる?」

 聞き慣れない単語に、かなえが眉をひそめる。

「前から気になっていたんだが、それはどういう意味なんだ?」

 怪訝そうに尋ねるかなえに、こむぎがニコッと笑って答えた。

「大好きなみんなと一緒でうれしい! そういう気持ちを、わ・ん・だ・ふ・るって言うんだよ!」

 その瞬間──

 かなえは、わずかに目を見開く。

「……そうか」

 そして、ゆっくりと口角を緩めた。

「それも悪くないな」

 風が木々を揺らし、落ち葉が舞う。

 遠くでは、森の動物たちが静かに息を潜めていた。

 こうして、わんぷりメンバーとかなえの距離は、ほんの少しだけ縮まった。

 

 

 

 

 

 




登場ガオガオーン
イノシシグマガオガオーン
声:高橋伸也
身長:580cm
体重:不明(推定数十トン)
・特色/力
イノシシとヒグマの特性を融合させたフューザーガオガオーン。
ヒグマの巨体と圧倒的な腕力に加え、イノシシの突進力と暴走特性を持ち合わせている。
そのパワーとスピードの両方を活かし、戦場を制圧する凶暴な戦闘スタイルを特徴とする。
・特徴
体毛は黒と茶色が入り混じり、斑模様になっている。
背中には鋭く尖った猪の剛毛が生えており、防御力が高い。
頭部はヒグマの形状だが、額部分にはイノシシの巨大な牙が突出している。
目は赤く光り、暴走時にはさらに赤黒く変化する。
・能力
突進攻撃
イノシシの習性を活かした高速突進。全力で加速すると、並のプリキュアでは避けるのが難しいほどのスピードを誇る。
怪力
ヒグマの腕力を活かし、地面を殴りつけて衝撃波を発生させる。これにより、周囲の木々や岩を粉砕し、敵を吹き飛ばす。
耐久力
分厚い頭蓋骨と剛毛により、高い防御力を誇る。並の攻撃ではダメージを与えられない。特に頭部の装甲は銃弾を弾くほど硬い。
・行動
森の中での出現
狩りの場で残されたシカの死骸に黒いもやが集まり、誕生。
縄張り意識
強い縄張り意識を持ち、侵入者には容赦なく襲いかかる。
・戦闘記録
見晴山で突如出現し、森の動物たちを威圧。
ワンダフルたちと交戦し、イノシシの突進力とヒグマの怪力を駆使して追い詰める。
シャスールの矢を受けるも、頭蓋骨の硬さで防御し、ほぼ無傷。
フレンディリボンで動きを拘束され、そこにニャミーの回転キック、ワンダフルの「キラリンクマパンチ」による一撃で動きが鈍る。
最後はシャスールの「プリキュア・シャセールスナイプ」を受け、滅却される。
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