そのひとは変わらぬ笑顔で朝来の来訪を受け入れた。
元気にしていたか、少し逞しくなったな、と優しい声も変わらない。五年経っても老けないなこのひと、という本音は胸の奥深くに隠した。
「先生もご健勝そうで何よりです」
「はは、こちらは相変わらずだよ」
土井は丸付けの途中であったのか、文机の前で答案を広げていた。共同で部屋を使っている山田はいま実技の授業中らしい。
「学園長先生には?」
「先ほどご挨拶をしてきました。何年経っても変わらずお元気ですね、あの方は」
「そこは学園長先生だからねえ」
私などよりずっとお元気だよ、とけらけら笑う土井に、朝来も微笑みを返す。あまり忙しい先生の時間を奪うわけにもいかない。朝来は改めて口を開いた。
「先生、まずはしばらく前にお送りした文のことですが」
「うん。九郎太、さすがにあの暗号はどうかと思うぞ」
「? 解読できたでしょう?」
「まあ、できたけど……」
では何か問題でもと言わんばかりの朝来に、う~~~んと土井は天を仰いだ。確かに対象である土井だけが読めれば問題がない。そういう意味では朝来の暗号はよく機能していたと言える。
いや、うん、ごめん話を続けて……とどこか悲壮感漂う土井に首を傾げつつ、朝来はそのまま続けた。
「結論から申し上げると、もう通常以上に西国を警戒される必要はありません」
西国を中心に出回っていた、土井とよく似た抜け忍の手配書。たとえそれが土井本人でなかったとしても、似ているという事実だけで十分に土井が不要な争いに巻き込まれる可能性はあった。
文を見た土井はすぐに学園長に話を通し、西へ向かうような出張があっても自身は避けて欲しいと打診した。事実、西国に向かう機会のあった教師陣は口々に「西国を根城にする忍びが妙に活発に動いている」と報告している。朝来の情報は正しかった。
それがすでに収まったというのなら、やはり朝来が何かしらの手を打ったということなのだろう。土井は表情を変えないまま問いかける。
「どうやって火消しをしたんだ?」
忍務のことであれば尋ねるのはエチケット違反だが、朝来が自身の意志でやったことならば尋ねても構わないだろう。だいたい私は当事者なんだから知る権利がある、と土井はまっすぐに朝来を見つめる。
朝来はためらう様子もなくあっさりと答えた。
「食い合いをさせただけです」
当然ながら西国を根城にする忍者隊はひとつやふたつではない。強硬手段を是とする血なまぐさい忍者隊も、指折り数えられる程度には存在している。それらは当然ながら朝来にとっては商売敵であり、そうでなくともこの上なく目障りだった。この際だから全部まとめて消えてくれないかな、と思う程度には。
「適当な忍者隊をいくつか見繕い、それぞれがそれぞれを狙っているという情報を流しました。もともとの思想が過激ですから、わずかな火種があれば勝手に燃え上がる。全滅とまでいきませんでしたが、それぞれかなり弱体化したようです。当面は抜け忍の捜索にまで手が回らないでしょう」
無駄に殺し、無駄に火を放つ連中を朝来は好まない。徒に振るわれたその刃が、その炎が、いずれ己の味方を傷つけるかもしれない。苦しめるかもしれない。ならば馬鹿をされる前に消しておきたいと思うのは当然のこと。
そうでなくとも、食うためや身を守るためでなく殺すことは朝来の主義に反するものであった。
「お前が情報を操作したことは露見していないんだな?」
「無論です」
そうか、と土井の声が静かに落ちる。
少し困ったように、しかし確かな安堵を含んだ微笑みが零れた。
「……世話を掛けたな、九郎太」
「たいしたことでは」
「いや、そこまでしてくれるとは思わなかったよ。せいぜいこの近辺にまで捜索が及ばないようにしてくれるくらいだと」
「それもやりましたが、先生がいつまでも西国に行けないのは不便でしょうし」
そこまで言って、朝来の口が声もなく動く。言いたいことはあるのに、どう言えばいいかわからないような、そんな戸惑いが見えた。
「九郎太?」
それに気付いた土井が心配そうに声を掛ける。
微笑みが途切れた朝来は、視線を揺らしながら伝えるべき言葉を拾い集めるようにゆっくりと続ける。
「……私は、……手配書にあった抜け忍の正体に興味はありません」
「……うん」
「私にとって土井先生は土井先生ですし、……念のために何人か忍びを捕まえてその抜け忍について情報を吐かせましたが、外見はともかく、人間性は私の知る貴方とは思えませんでした」
その抜け忍は、冷静沈着、無愛想、無口、抜け目がなく、用心深い性格だという。
対して土井と言えば、担当する一年生にどう接すれば良いかわからず
だから朝来は抜け忍と土井との関係を勘ぐることをやめた。土井は土井だという言葉にも一切の偽りはない。
ただ、ドクタケの一件を知って以来、妙にその「抜け忍」が気になり始めた。
土井が消息を絶つと同時にドクタケに現れた軍師。鳥から寄越される断片的な情報しかないというのに、何故だかその「軍師」と「抜け忍」から受ける印象が重ってしまったからだと、今になって朝来は気付く。
ただの勘なのに、と朝来は口に出す言葉を探しながら内心で呟いた。
勘にすぎなかったものが、茶屋で得た情報によって真実味を帯びた。ドクタケの軍師「天鬼」が土井であることもはっきりしてしまった。
少しずつ、朝来のなかで形を得ていなかった思考や感情が言語化されていく。同時に重くもない肩に見えない負荷がかかっていき、朝来の視線は下を向いていった。
「……しかし、ドクタケの――天鬼のことを知り、」
天鬼となったことが土井の意志とは思えない。少なくとも、そう確信できるだけの理由がなければ「土井半助」が忍術学園に戻ることは出来なかっただろう。いくら情を解する人柄といえど、大川平次渦正がそんな甘いことをするはずがない。
この世には心を惑わす毒や薬もあれば、頭を打って人が変わることもあるという。おそらくはそういった理由があって、一時的に土井は「土井半助」ではなく「天鬼」としてドクタケの軍師となっていた。それならば納得がいく。
つまり朝来は、「天鬼」――「土井半助ではなかった間の土井」に、「抜け忍」と近しい印象を受けたということになる。
「私には、天鬼とその『抜け忍』が、妙に似ているように思えて、」
ここで、思考することが得意でない朝来の脳内を疑念がぐるぐるとまわりだした。
天鬼と抜け忍が似ているならば、土井は人が変わったのではなく、何らかの理由で「過去の己」に戻っていたのでは、と。
「……私は
一度開いた記憶の扉は、なかなか閉じてはくれない。
もし土井が「抜け忍」と同一人物であるならば、朝来の文は確実に土井の記憶を刺激したはず。しかも文を受け取ってそう時を空けずに土井は「天鬼」となった。
土井がどういう経緯を経て「天鬼」になったのか、朝来は知らない。朝来の文が届いたことなどまったくの無関係なのかもしれない。
慣れぬ方向へ転んだ思考はどんどん深みへと転がり落ちていく。
ずっと頭の中で渦巻いていた黒い陰がにわかに形を得た。
「私が出した文が、もし、……わずかでも、関係しているのなら、」
わからなくなった。
恩を感じていた。力になりたかった。
善い人だと感じていた。善良なまま笑って生きていて欲しかった。
己では敵わない強い忍者だと知っていた。ずっと味方でいて欲しかった。
「……おれは、」
完全に余計なことをしたのではないだろうか。
かえってこのひとを窮地に追いやってしまったのだろうか。
思い出したくない過去を掘り起こしてしまったのだろうか。
おれなら力になれると思い上がってはいなかっただろうか。
ようやく「人間」の「気遣い」を覚えたつもりでいたのに、――おれときたら、まだ。
「――九郎太」
土井には珍しい、低く鋭い声と同時に額に強い衝撃。
視線が下がっていたために反応が遅れた。
「っ……!」
額を走る痛みに、反射的に奥歯を噛みしめ声を堪える。
跳ね返って床に転がったのはかつてよく見た白いチョーク。
まったく、と呆れ半分、笑い半分の声につられ、朝来の眼が正面に座る声の主へと向けられる。
「言葉がまるで足りないが、お前が言いたいことはだいたいわかった。つまり、私のためにしてくれたことが、かえって私の迷惑になったんじゃないかと不安になったんだな。なったわけがないだろう、何を言っているんだお前は」
「へ」
「どうやって調べたのか知らないが、天鬼のことはお前の想像の通りだ。だが、天鬼の存在とお前の文は完全に別件だよ。時期が近かったからと言って何でも関連付けて考えるのはやめなさい。憶測と事実はわけて考えること。教えたはずだぞ」
「はあ……」
「お前の憶測は見当外れもいいところだ。しかも何でそう悪い方にばかり考えるんだ。下手の考え休むに似たりとは言うが、休むどころか自分を苦しめてどうする。せめて良い方に考えなさい。……聞いてるのか、九郎太」
「……あ、はい」
チョークの衝撃と畳みかけるような口撃に、朝来は目を白黒させるしかない。ぐるぐるとまわるだけだった思考が止まる。おれはなにをかんがえてたんだっけ、のレベルに思考力が低下した朝来に、ああその顔だ、とついつい土井は噴き出した。
取り繕いが不完全だった頃にたまに見せた、気の抜けた素の表情。まだまだ「教師」たりえなかった頃の土井は、朝来がこの表情を見せてくれることが嬉しかったのだ。
気を抜かせたのは己のくせに、まるで生徒からの信頼を得られたようで。
「まったく、お前は本当に、」
わざわざ土井に警告の文を送り、危険な忍者隊の動向を操ってみせたどころか、よかれと思ってやったことが迷惑になったのではと見当違いな勘ぐりをして、この古巣にまで足を運んで。
土井は立ち上がって朝来に歩み寄り、きちんと正座する愚かで可愛い元生徒と視線をあわせるように片膝をついた。
慣れた仕草で手を伸ばし、頭巾のない頭に手を乗せる。
「――やさしい忍びになったもんだ」
朝来がその言葉を咀嚼するまで数秒を要した。
目をまん丸にした朝来はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、眉間にしわを寄せ、ううむと少し考えてから肩を落とし、最終的に土井の掌を受け入れた。
顔色こそ変わらないが、両の耳が赤くなっている。どこかふてくされたような様子で元・忍たまは呟いた。
「そりゃあ、……どこぞの練り物嫌いの先生の影響でしょうね」
「ははは、なまい、き!」
ご、と鈍い音。言い切ると同時にやさしい掌は容赦のない拳骨に変わった。
かつてより随分と手加減のたりない鉄拳制裁にさしもの朝来も畳につっぷし、震えながらたんこぶのできた頭を抱える。お前は相変わらず言葉が下手だなあとけらけら笑う土井を恨めしげに見上げ、ひとつ息をついて朝来は身体を起こす。
改めて一瞬でよそ行きの笑顔をつくった朝来は、ところで、と口を開いた。
「お身体は大丈夫なのですか」
「ああ、もう問題ないよ」
「そうですか。で、私は無関係だと」
「これっぽっちも関係はないな!」
「わかりました。帰ります」
「こらこらこら、待ちなさい」
にこやかに立ち上がろうとした朝来の頭を掌でおさえつける。笑顔を崩すことなくなお立ち上がろうとする朝来と、も~~~首を痛めるぞ~~~と言いながら少しも力を緩めない土井。
完全に面白がるスイッチが入ってしまった土井に、朝来は内心で舌打ちをした。こうなるとこのひとは実はかなり面倒なことを彼はよく知っている。
「せ、んせいもお忙しいでしょう、私ごときのために、これ以上お時間をとらせるわけには、いきません、ので、」
「もうすぐ山田先生も戻られるだろう、挨拶くらいしていきなさい。それに今日は六年生たちがそろっているはずだから顔を見せてあげるといい。皆喜ぶよ」
「五年も、前に、卒業した先輩、ですよ?」
「う~ん力が強くなったな九郎太、ちゃんと鍛錬していて偉いぞう。……忘れてなんかいないし今も慕っているよ。今年のアサガオも綺麗に咲いた」
え、と朝来が動きを止める。
ふふ、とその顔を見た土井は小さく笑い、ぽんぽんとはたくように柔く頭を撫でた。
「お前が卒業してからも毎年アサガオは咲いているよ。種が零れていたのか、誰かが種をまいたのか――何となく気付いた者が世話をするようになって、もう五年だ」
また芽が出ているじゃないか、と面白がって水をやる者。
これも良い鍛錬になる、と喜び勇んで周囲の雑草を抜く者。
この配合が良いらしい、と学びを生かして肥料をまく者。
そろそろ支柱が必要だな、と腕まくりをして工具を取る者。
今年も綺麗に咲いてよかった、とひとりささやかに花を愛でる者。
先輩に教わった調合で薬を作ろう、と種を収穫する者。
六年生だけでなく後輩たちも、何となく先輩にならって。生徒だけでなく教師陣も、目に付いた以上は仕方がない、と苦笑しながら桶と柄杓を手に取った。
無論、土井とて例外ではない。
「これからも毎年、咲き続けるんじゃないかな」
お前のようにやさしい忍びのためならば、きっと。
だからそれは先生のせいだと、そう言おうとした口は何故だか震えて動かなかった。
エピローグが続きます。