「もう学園には慣れたかな」
「は、はい。……おかげさまで」
竹林を縫うように初夏の風が走り、揺れた葉がさわさわと音を立てる。
学園長庵にて湯飲みを差し出された土井は、少し緊張した面持ちで頷いた。その様子に、庵の主は軽く喉を鳴らす。
「そう構えることはない。土井先生が着任してしばらく経ったからのう、少し様子を聞きたかっただけじゃ」
「ああ、……ええと。はい、皆さんにも良くして頂いて、何とか……というところです。一年生たちは素直で熱心ですし、こんな私のこともよく慕ってくれて」
「そうか、それなら良い。こちらにも噂は聞こえておるよ、土井先生の授業は非常にわかりやすいと」
「、恐れ入ります」
褒められるのは嬉しいが、どうにも居心地が悪いのはまだまだだという自覚があるからだろうか。着任当時よりは確かに随分打ち解けられたが、土井としてはまだ生徒たちとの接し方や教え方に悩むことは多い。
打算があるとはいえ朝来にいまだ悩みや愚痴を零しているのも、教師としては褒められたものではない。
そんな土井の内心を知ってか知らずか、ふむ、と学園長もその名を口にする。
「六年の朝来九郎太ともよく話しておるようじゃの」
「! は、はい」
「なーに、責めとりゃせん。あれも目上の前での振る舞いはまだ苦手のようだからの、良い訓練になるじゃろうて」
あれでもだいぶマシになったんじゃがな、とからからと笑う学園長に、土井は緩く首を傾げた。その口ぶりには、ただの生徒に向けるより少し近い、親愛が混ざっているような気がしたからだ。
その視線に気付いた尊老はわずかに視線を伏せた後、またゆるりと土井に視線を戻した。
「特別扱いをするつもりはないが、九郎太は少し事情があってな」
「と、言いますと?」
教師陣には周知の事実だということを前置き、学園長は再び口を開く。
「朝来九郎太の名は、わしが与えたのじゃ」
*
突如として響いた怒鳴るような強い声。少し離れたところからのようだが、土井の耳は聞き逃さなかった。
学園長との話を終え、昼の休憩をとろうと食堂に向かっていたところだった。声の位置的に図書室あたりだろうか、トラブルの気配を察して足を速めた。
「──やめろ」
騒ぎの場所まであともう少し、というところで別の強い声が一瞬で場を沈めた。つい、土井もその場で歩みを止める。
「本の返却が遅れたのは私の落ち度だろう。実習が重なってなかなか返しに来れなかったなんてただの言い訳だ。それを指摘し、今後ないように注意するのは図書委員として当たり前の仕事。若王寺勘兵衛は己の仕事を果たしたに過ぎないよ」
「し、しかし……朝来先輩相手に、あまりにも……」
「むしろ言いにくい上級生相手によく指摘したと言うべきだろう。それとも何か、私が己の失態を指摘されて腹を立てるほど器が小さいように見えるのか」
「と、とんでもありません!」
そっと図書室の入り口から様子を窺うと、まず見えたのは二年生の後ろ姿。おそらく図書委員の若王寺勘兵衛だろう。それを庇うように立つ朝来。向かい合うように立っているのは、どうやら三年生の生徒らしい。
おおよそ状況は見えた。忙しくて図書室の本の返却期限を守れなかった朝来と、二年生ながら図書委員としてそれを強く指摘した若王寺、その朝来への態度を許せなかった三年生という構図だろう。
これは口を出すべきかな、と土井が考えていたとき、珍しく硬い声を使っていた朝来がふっと肩の力を抜く。
「……私の面子を気にしてくれたことはわかっているよ。だが、かといって正しいことをしている下の者を強く叱責するのは違う。言い方を注意するだけならともかくね。そうだろう?」
「……はい」
「では、勘兵衛に言うことがあるな?」
「す、すまない、頭に血が上ってしまって……」
「い、え……」
「勘兵衛、元はといえば私が返却期限を過ぎてしまったのが悪い。申し訳なかった」
そう上級生ふたりに頭を下げられ、慌てふためく幼い背中。頭を上げてください、と叫ぶ声が静かな図書室に大きく響いた。
「わ、わたしも、言葉にはもっと、気を付けるようにいたします。なので……!」
互いに頭を下げるばかりの状況。
これはそろそろ頃合いだろう。いかにも今きたばかりだという顔をして、ひょっこりと土井は顔を出した。
「──大きな声が聞こえたが。図書室で何を騒いでいるんだ」
「ああ、これは土井先生。申し訳ありません」
「九郎太。六年生のお前がいながら、もめ事か?」
「お恥ずかしい限りです。が、もう……ええ、解決しましたので」
こちらもいかにも今気付きましたという顔で若王寺の頭に手を置いた朝来。若王寺は恥ずかしそうに俯き、その後ろで三年生の生徒も気まずげに顔を伏せている。
土井は視線だけで大丈夫なんだな、と問いかける。朝来はいつもの微笑みでそれに応えた。ならばよし、と土井は頷く。
「ああ、それならいい。そういえば、三年生は午後から実習だと聞いたが。早めに昼を取らないと間に合わないんじゃないか」
「……あっ」
「昼抜きで実習は辛いな。早く食堂に行っておいで」
「う、……はい、失礼いたします。勘兵衛、本当にすまなかった」
「いいえ、ご指摘をありがとうございました。実習、頑張ってください」
ああ、と笑顔を見せて三年生は図書室を出て行った。その背中を目で追う若王寺の表情にも笑みが混じり、どうやら本当に遺恨はないらしい。
本当にこの学園の生徒は大人びた良い子ばかりだな、と感心する土井を余所に、朝来はまた若王寺に目をやり、その頭をぽんと撫でた。
「今回は向こうが悪かったのに、それでもちゃんと反省できる勘兵衛は偉いな」
「いえ、本当に私が無礼だったのです。朝来先輩、申し訳ありませんでした」
「いいよ。……でも、そうだな、私は気にしないが、お前は言葉の扱いにもう少し気を払ったほうがいいのかもしれないな。ほんの一言で敵が味方になり、味方が敵になることもあるからね」
私もまだまだだけれど、と少し遠い目をする朝来にくすりと笑い、そうだな、と土井はふたりに歩み寄る。
「同じことを言うのでも、言葉の選びによって印象がまったく変わることもある。敵を作らない努力は大事だな」
「敵を作らない努力、ですか」
「天の時、地の理、人の和というだろう? 人の和こそが第一で、和を乱す者は最終的に失敗するということだ」
「兵法にも百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり、とありますね。戦わずに勝つことこそ最善なのだから、そもそも敵対するより味方につけることを考えるべきだということでしょう」
まあそれが難しいからこんな言葉が生まれるんだけど、という内心は双方ともに胸に収めた。さすがにきらきらと目を輝かせる純真な忍たまに言うべき台詞ではない。
もっと勉強します、と両の拳を握る若王寺の頭をもうひとつ撫で、朝来は笑う。
「それはそうと、私たちも食堂に行かないとお昼を食べ損ねてしまうな」
「あ、……朝来先輩、よろしければご一緒させていただけませんか、すぐに片付けて参りますのでっ」
「ああ、いいよ。……こら、焦らなくていいから、勘兵衛、」
「……あれは聞いていないな」
朝来の返事を聞き終わるより先に胸にいくつもの巻物を抱え、足早に棚に向かった若王寺。それでも足音が静かなままなのは、さすが図書委員と言ったところだろうか。
やれやれと苦笑を浮かべながら、もしや土井先生もお昼に向かうところでしたか、と軽く尋ねた。
「ああ、食堂に行く途中で声が聞こえてな」
「そうでしたか。……止めてくださってありがとうございます」
「いや。しかし、兵法がすんなりと口から出るのはさすがだな、九郎太」
「六年生ともなれば当然ですよ、先生」
「日々の努力の賜物を当然なんて言うものじゃないよ。そうだろう?」
その言葉にきょとんと目を丸くした朝来は、一瞬目をそらし、少し恥ずかしそうに苦笑した。ありがとうございます、と小さく答える様子は年相応のそれ。
その様子に、もしや、と土井はうすうす感じていたことを改めて思う。もしかして、朝来はあまり褒められることに慣れていないのだろうか、と。
「……九郎太は、」
「はい?」
「……何の本を借りていたんだ?」
土井の脳裏に、朝来の育ちについて語る学園長の顔がよぎる。つい口をついて出そうになった問いを飲みこみ、質問を無難なものに差し替えた。
あまり一般的とは言えない「育ち」だからこそ、迂闊に朝来の内面に踏み込むようなことはしたくなかった。何が心を傷つけるかわからないことくらい、触れられたくない過去をもつ土井とてよくよく理解している。
突然の質問だったが朝来は特に気にした風もなく、ああ、と軽く答えた。
「今回は歌に関するものを。万葉歌とか百人一首とか、いろいろとまとめて」
「? 何でまた」
「よく隠語なんかでも使われるでしょう。『煙』と言えば『浅間』を、『花』と言えば『吉野』を思い浮かべられるような、そういう教養が足りない自覚がありまして。いつか潜入で必要になるかもしれませんし」
武経七書は何とか覚えたんですが、と苦笑する朝来。土井は表情を変えないまま「この話題もだめだったあああああ!」と内心だけで叫び散らした。
いや、朝来本人は特に気にしている風はない。ないが、話を聞いたばかりだと非常に気まずいものがある。
土井の脳内で、改めて学園長の声が響いた。
『朝来九郎太は、わしの古い知り合いが戦場で拾ってきた子でな』
『三つくらいの年頃じゃったが、言葉もろくに喋れず、死者の懐を漁っては食えるものを探していたらしい。野生の鳥獣と餌の奪い合いをしておったと』
『さすがに哀れと思い、己の子として育てることを決めたは良いが……何せそやつも子育ての経験などなくてのう。忍鳥ばかり育てておったせいか、拾ったときに煤で真っ黒の顔をしていたからと子を「クロ」と呼び、なかなか人らしく育たぬと悩み……こら、言いたいことはわかるが顔に出ておるぞ土井先生』
『結果、わしに頭を下げにきたというわけじゃ。この学園で人として生きる術を学ばせるために。……入学した当初は周囲全てに警戒をまき散らしておってな、なかなか手を焼かされたわ』
『朝来九郎太の名はな、クロではあんまりだと、わしが名付けた。朝来は育ての親の名字をもらい、クロをもじって九郎太と呼んだ。なかなか良い名付けじゃろう?』
朝来は己を「山猿だった」「育ちが悪い」と評したが、育ての親に拾われて以降もひとより鳥獣のほうが多い山奥に住んでいたというのだから、確かに社会性や教養が身につく環境ではなかったのだろう。
土井からすれば、むしろそれでよくこれほどまで、と思うほど朝来は「人間」として振る舞えているように見える。どれだけの努力を重ねてきたのか、想像もつかなかった。
その努力を思えば、仮に本人が本当に育ちを気にしていないのだとしても、徒に触れていいことだとは思えない。
本当に教師は難しい、と黙り込んでしまった土井の顔を不思議そうに眺めた朝来は、あ、といついたように本棚に目をやった。
「そうだ先生、先生は非常に読書家だとお噂を伺ったのですが」
「読書家? まあ、兵法書や忍術に関わるものはよく読むが」
「恥ずかしながら私は暗号の類いがまだまだ不得手でして、参考になりそうな書物があればご教授いただきたいのですが」
「暗号か。じゃあ、いくつか見繕っておこう。……そうだ九郎太、それを読み終わったら私だけに通じるように暗号で報告書をつくってみなさい。出来を見てあげるから」
「本当ですか。ありがとうございます」
追加の課題を出したも同然なのに、ぱっと顔を輝かせる朝来。この努力を惜しまないさまは、教師から見ても非常に好ましい。
土井が柔く目元を綻ばせたところで、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました、」
「勘兵衛、おつかれさま。先生もよろしければ、ぜひお昼をご一緒させていただけませんか」
「ああ、そうさせてもらおうかな」
「わあ! 先生、さきほどの人の和のお話をもっと聞かせてください!」
いいとも、と言いながら足を進める。続いて、土井よりもひとまわり小さな足と、さらにずっと小さな足が後を追った。その歩幅と歩数の違いが生徒という存在をより実感させる。
私はこの子たちに何をしてやれるだろうか、と土井は改めて自問する。
当たり前だが、それぞれ違う背景と事情をもち、人格も適性も異なる子どもたち。ただ、どうかこの戦国の世でも生き延びて欲しい、と思う。
そのために、自分がもつ知恵も技術も何もかも、しっかり教えてやりたい気持ちは当然ある。だが、肝心の生徒たちとの関係が上手く築けていないようでは教師として失格だ。
一番年の近い朝来にでさえ、上手く気を使ってやることができていないのではないだろうか。そんな疑念が土井の頭をぐるぐるとまわる。
食堂で定食を受け取り、席について箸を動かす。口の中にあるものを咀嚼しながら、とにかく、私自身ももっと生徒との接し方には気を配って、と考え込んでいたときだった。
『先生』
しゅ、と矢羽音が鼓膜を揺らす。
何でわざわざ矢羽音が、と土井が視線を浮かせると、かすかに笑みをたたえた朝来がゆるく首を傾けた。
『かまぼこ、平気になったんですね』
一瞬ののち、土井は口の中のものを吐き出すまいと口元をおさえ、朝来は食堂のおばちゃんに水を頼みに走り、矢羽音を知らない若王寺はただただ混乱した。
朝来が差し出した水で何とかかまぼこを胃に流し込み、ぜいぜいと肩で息をする土井は叫ぶ。
「な、んで食べてるときに言うんだ九郎太! というか何故私が練り物嫌いなことを知っている!?」
「いつも完全に顔に出てらしたので! 大変申し訳ありません!」
「えっ土井先生練り物がお嫌いなんですか!? 大人なのに!?」
「ヴッ」
「勘兵衛、今のは一言多い!」
「はっ申し訳ございません先生!!」
元気だねえ、と呆れたように笑う食堂のおばちゃんの声は、誰にも届かずに竈に消えた。
かつては生徒の前でくらい、好き嫌いを隠すことがあったんじゃないかなという妄想です。アニメでは初っ端から晒してましたけど、あれは一応山田先生の前だったからということで。あと引くほどネガティブで気遣いが空回りするタイプだったんじゃないかなと思っています。
若王寺先輩だしました。かくあるべき、という正論好きな型にはまりたがるタイプかな~と思って書きました。これから大人に近づくにつれて柔軟になっていくという妄想。
しかし一言多いのはお前だぞ九郎太。