──ふと、目が覚めた。
反射的に土井は身体を起こした。隣の布団では山田が微かな寝息をたてている。
いつも通りの静かな夜だ。怪しい気配があるわけでもない。それなのに、何故だか二度寝をする気にもならない。たまにそういう夜があった。
水でも飲むかとそっと立ち上がって部屋を出る。明るすぎる月は眩しいほどで、灯りをもつ必要もなかった。明るすぎる夜を居心地が悪く感じてしまうのは忍者の性だろうか、とつい自嘲する。
月に背を向けるように廊下の角をまがれば、庭からわずかな息づかいを感じ取った。誰だ、と思うより先に気付く。
アサガオの前にたたずむ気配といえば彼しかいない。
「実習帰りか、九郎太」
「土井先生。こんばんは」
「こんばんは。おかえり」
「……ただいま戻りました。どうなさったんですか、寝間着で」
「ちょっと目が覚めてな。水でも飲もうと思ったところだ」
六年生ともなれば授業よりも実習が主となり、学園長から直々に忍務を申しつけられることも多い。こうして帰参が深夜に及ぶことも少なくなかった。
つい今し方学園長への報告を済ませてきたところだという彼の忍び装束は汚れ煤けているが、その顔に疲れはない。忍務後とは到底思えない凪いだ気配に、まったくこいつは、と土井は内心で舌を巻く。
朝来の忍務のときの静謐さは、正しく理想的な「忍者」のそれと言える。殺気も、闘気も、血の昂りもない、ただ呼吸をしているだけの空気を纏う。それこそ声もなく花を咲かせるアサガオのような、ただ「在る」という気配。
昼間は下級生とともに朗らかに笑い、土井の前ではまだまだ素の己を零れ落とすくせに、夜になると彼はぐんと「忍者」に近づいた。
「……私はお前が末恐ろしいよ、九郎太」
歴代の六年生もそうだったのか、是非学園長に尋ねてみたいものだと土井は思う。そうだとしたらこの学園の卒業生は優秀すぎる。
何ですかいきなり、と破顔する朝来の顔を見て、ふっと土井も息をついた。知らぬ間に肩に力が入っていたことに気付く。そんな己を誤魔化すように、土井は裸足にも関わらず庭へ出た。どうせ井戸へ行くつもりだったのだ、足なんてあとで洗えばいい。
九郎太、と土井は最初にすべきだった問いを口にした。
「怪我はないか?」
「問題なく」
「それなら早く休んだほうがいいぞ。疲れているだろう」
「わかってはいるのですが、目が冴えてしまって」
眠れないならアサガオが咲くところでも見ようかな、と。
すでにひとつふたつと花を咲かせるようになったアサガオ。その真白の花は、当然ながら夜の間は蕾のなかに隠れている。丑三つ時は過ぎているようだが、空が白むにはもう少し時が必要になるだろう。一睡もせず待つつもりかと、つい苦笑をして隣に並ぶ。
はじまりは学園長からの課題として育てていたという白のアサガオ。それがただの課題でなくなった経緯を聞いたのは、ちょうど昨日の昼間のことだった。
『なぜ朝来先輩は、今もアサガオを育てていらっしゃるのですか?』
大風対策にアサガオの支柱を補強する手伝いをしてもらったかわりにと、一年生たちに
ちなみにその自主的な毒作りのことを土井が知っているのは、たまたま土井と一年生でその話になったとき、善法寺伊作が「普通の牽牛子の作り方だけでなく、アレやソレを足して毒性を強めたものや味や匂いを消したものの作り方を教えてくださるそうなんです!」と朗らかにバラしたからである。「そういうのはもっと学年が上がってからだ! 間違いがあったどうする!」「
潮江にアサガオを育てる理由を尋ねられた朝来は、そうだね、と遠くを見つめるようにして語り出した。
*
学園に入学しても、それまでと違いすぎる環境に朝来はなかなか馴染むことができなかった。語彙が足りないために言葉は選べず、敬語も使えず、協力することも知らなければ、ひとへの気遣いなどしたこともなく、クラスメイトどころか同室で過ごす相手も信用できず、夜は長屋のそばの木の上で眠った。野生で生きた経験から実技は飛び抜けていたが、教科の授業は読み書きにすら苦戦する始末。
それでも逃げることだけはしなかったのは、ひとりで生きていけるようにならなくてはいけないという強迫観念じみた意志があったからだ。育ての親や「朝来九郎太」の名をくれた学園長の存在があったとはいえ、ふたりへの感謝や信頼も「言葉にできないよくわからない気持ち」でしかなく。言葉にできないものを理解はできず、理解できないものを頼りにする余裕は朝来にはなかった。
ひとを信じること。言葉をかわし、相手を理解すること。相手に理解してもらうこと。その重要性を担任をはじめとする教師陣は何度も説いたが、朝来には難しかった。
そんな野生児に「特別課題」と称してアサガオの種を与えたのは学園長だ。
『このアサガオを無事育てあげ、種を得、わしに提出しなさい』
よくわからない課題だったが、朝来は特に口答えもせず種を受け取った。わからないことに慣れすぎていて、質問するのも面倒だった。
とにかく地面に植えて水をやれば育つらしい。指示された場所に種を植え、毎朝毎夕かかさず水をやった。芽を出し、葉を広げ、蔓をのばし、少しずつ大きくなっていくのはちょっと嬉しかった。
邪魔が入るようになったのはアサガオに支柱が必要になった頃だ。
『アサガオを荒らされたくなかったらわたしと勝負しろ!』
ほとんど同じ部屋で過ごしたことのない同室の生徒が、そう言ってたびたび襲撃してくるようになったのだ。
アサガオを荒らすと公言した時点で、朝来にとっては「敵」でしかない。殺すのも血を流したり骨を折ったりするような怪我をさせるのもダメだということは理解していたので、適当に叩きのめしては追い返した。しかし彼は懲りなかった。
彼の目的がアサガオでなく朝来との勝負であることは傍目に見ても明らかだったが、朝来にはわからなかった。このアサガオは狙われるようなものなのかと首を捻りつつ、それならばと授業以外の時間のほぼすべてをアサガオの傍で過ごし、近寄る者すべてに威嚇した。
ますます孤立を深める朝来に教師陣は溜息をつき、ほかのクラスメイトたちももはや呆れた目でそれを見ていたが、学園長だけは平気な顔で湯飲みを傾けていた。
転機となったのは、ちょうど今と同じ、アサガオがいくつか花を付け始めた季節に学園を襲った大風が吹いたときだ。
手探りでつくった支柱はあっというまに吹き飛ばされ、せっかく天に向かっていた蔓も葉も地べたに倒れ伏せ、雨粒の中に溺れている。せめて何かで風よけをと思っても、手を離したそばから何もかもが風に攫われてしまう。
どうしよう、とずぶ濡れの朝来が途方に暮れたときに現れたのは、毎度の如く同室の彼。反射的に投げた石礫は、彼のもつ板きれによって弾かれた。
伏すアサガオを前に焦る朝来は、その衝動のまま怒鳴りつける。
『な、んなんだよ、おまえ! いつも、いつも!』
『それはこっちの台詞って、こら、聞けよ!』
大粒の雨の合間を縫うように石礫が舞った。雨に濡れていなければ、朝来の目に涙がにじんでいたのが見えたかもしれない。
元来気の短い性分であった同室の彼も、あまりに話を聞かない朝来に堪えかねて応戦しようとした、そのとき。
『──いい加減にして』
心底呆れた声でふたりを止めたのは、彼らのクラスの学級委員長だった。いつもにこにこと笑っている少年であり、このときも確かに笑顔であったが、そのこめかみには血管が浮かんでいた。そして彼の後ろには、板材や布、工具をもつクラスメイトたち。
静かながら威圧を含んだ声に、朝来の本能が逆らうなと告げる。同室の彼もやばいという顔をして動きを止めた。
『九郎太。アサガオ、守りたいんだよね?』
委員長は朝来にもいつだって優しく声をかけていた。こんな圧のある物言いを受けたのは初めてで、その衝撃からぎくりと震えた朝来はおとなしく頷く。
そうだよね、と委員長はまた笑みを深めた。
『僕らもそいつも、九郎太を手伝いにきたんだよ。板とか道具をもってるでしょ?』
てつだい、と繰り返した朝来。言葉の意味を理解しても、彼の意図はわからない。そのまま「なんで」という言葉が野生児の口からこぼれ落ちた。
そうだねえ、と雨風などまるで気にしていない様子の委員長は間延びした声で答える。
『九郎太を味方にしたいから、かな』
『……みかた?』
『そう、味方。仲間でもいいし、友だちと言ってもいい。ねえ九郎太、この世で一番すごい忍者ってどんなひとだと思う?』
『……?』
『僕は、出逢ったひとを全員味方にできる忍者だと思うよ』
味方であれば、敵対することはない。敵対しなければ、戦うことはない。戦うことがなければ、負けることはない。負けることがなければ、忍務に失敗する確率も低ければ、死ぬ確率も低い。
情報をもらうことも、協力してもらうことも、味方なら容易いよね、と微笑む委員長。確かに彼は、学園の内外を問わず、やたらとひとに好かれる少年だった。
委員長の言葉の意味をひとつずつ何とか拾っていく。が、まだまだ考えるのが苦手な野生児は、どうにも飲み込めていないようだった。だが、感じるものはあったらしい。朝来の目から敵意はかなり薄れていた。
もう一押し、と委員長は笑みを深める。
『わかった、じゃあこうしよう。九郎太、僕たちは九郎太を傷つけたり、邪魔をしたり、裏切ったりしない。アサガオの課題も手伝わせて? かわりに』
かわりに、と繰り返した朝来。
こうなると本当に幼い子どもみたいだ、と委員長は内心だけで小さく笑う。きっと九郎太は、ただ知らないだけなのだ、と。
『僕たちにもアサガオの種をちょうだい』
え、と九郎太はまばたきをひとつ。
それでいいよねみんな、と委員長が背後に笑いかけると、いいよー、さんせー、と軽い言葉が飛び交った。九郎太の返事を聞くことなく、すたすたとアサガオに歩み寄っていく。
『委員長、話が長いよ~。もうずぶ濡れで風邪ひいちゃいそう』
『だいぶ暑くなってきたし大丈夫じゃない?』
『ちなみに夏風邪は馬鹿がひくという』
『まだ夏じゃないもん』
『おーい、お前も固まってないで手伝えよー』
『すーぐ手が出るんだからさー、まったく。そもそもアサガオを口実に勝負なんか仕掛けるから話がややこしくなったんだよ?』
すっかり置いてきぼりにされていた同室の彼も、クラスメイトに声を掛けられてはっと我に返った。持っていた板きれを握りしめ、顔を真っ赤にして駆け寄っていく。用具委員会委員長に掛け合って資材や道具を借りてきたのはわたしなのに、とぶちぶち言いながら手を動かす彼は、なかなかに手際が良かった。
そんな彼らを呆然と見つめる朝来の隣に、委員長が並ぶ。
『これでもう僕たちは味方だね、九郎太』
『……アサガオの種は学園長に』
『学園長は種を全部提出しろって仰った?』
『……言ってない』
『学園長は全部ひとりでやりなさいって仰った?』
『……言ってない』
『なら、いいんじゃない?』
それが忍者でしょ、と笑う委員長に手を引かれ、朝来もまたアサガオに駆け寄る。
朝来はこの夜初めて、同室の彼とともに自分の部屋で眠った。
『丁寧な言葉遣いを覚えようか。敬語も使えるようにならないとね』
『大人しく座ってるのが苦手? あははぼくもぼくも~! お昼までがんばろ~!』
『わからない言葉はすぐ確認。知らないまま良くない』
『九郎太の実家って忍鳥育ててるんだって? 生物委員会でも鳥を飼ってるんだ、見に来てよ!』
『勝負、……の前に、手裏剣の打ち方、……コツ、教えてくれないか』
それから朝来は味方に囲まれ、少しずつ「人間」を知り、「忍者」を学んだ。その変わりように担任は手ぬぐいを濡らし、先輩は驚きつつも微笑ましく見守り、学園長は満足げに頷き。
ひとつきりのアサガオからはクラス全員分の種がとれず、申し訳なさそうな顔をした朝来にそんな顔ができたんだと大笑いされる程度には、彼らは「味方」になっていた。
全員分がないならしょうがないねと朗らかに宣った委員長の隣で、少し意地悪な顔で同室の彼が笑う。
『じゃあ、来年だな』
『え』
『いくつかは学園長先生に提出して、残りは来年植えればいい。そうやって増やしていけばそのうち全員分になるだろ』
来年も同じ場所に植えていいか学園長先生に確認してきてね、と委員長に肩を叩かれた朝来。またこれをやるのか、とちょっと面倒くさく思わなくもなかったが、約束なのだから仕方がない。その翌年もまた、種を植えた。ただ、もう独りではなかった。
クラスメイトだけでなく先輩や後輩にも「味方」は増えていったが、やはり朝来にとって彼らの存在は大きかった。ひとり、またひとりと学園を去る彼らを見送るたびに、言葉にできない喪失感を覚える程度には。
忍術学園に入学したからと言って、卒業まで到達できる者はそう多くない。そもそも忍者になるためでなく、必要な技術や人脈を得るために入学した者や、忍者のほかに適性のある職を見つけた者、家庭の事情で退学を余儀なくされた者、忍者として致命的な怪我を負い夢を絶たれた者など、さまざまな理由で生徒は学園を去って行く。朝来のクラスメイトとて例外ではなかった。
それぞれの事情で学園を去ることになった彼らは、残る者に──朝来に、己の得意とする
『九郎太さぁ、もうちょっと武器使おう? 素手で敵に向かうのやめよ? 得意武器探そうね!』
『はい表情硬いね~下級生怖がっちゃうね~懐かれるくらいになろうね~。はい、にこ! うっわ変な顔~』
『勘で生きるな頭を使え。忍術や戦術の中身だけ覚えるな名前を覚えろ。いざというとき味方に必要最低限の言葉で伝えられないと困るだろ』
『薬をケチるな馬鹿』
『毒をケチるな阿呆』
『罠を仕掛けるのを面倒くさがらない! こういうのは念には念を入れるの! ほら地図だして! 仕掛けなきゃいけない場所教えてあげるから!』
あまりにたくさんのものをもらった、と朝来は思っている。何かお返しをしたいと思ったけれど、自分の手には何もなかった──真っ白の花を咲かせるアサガオの種くらいしか。芸がないとは思ったけれど、他にないのだから仕方がない。
餞別にと差し出された薬包紙を、彼らは笑って受け取って去って行った。昨年に学園を去った同室の彼も、私も受け取ることになってしまったか、と苦笑しつつ柔らかい紙に包まれた種を懐にしまう。
『毎年育てるよ。……
もうアサガオの種などなくとも味方は味方だとわかっていたが、まあいいかと朝来も笑ってその背を見送った。その気持ちが嬉しかった。
同学年がいなくなった今年も、朝来は種を植えた。別に深い意味はない。もはや習慣付いてしまったのと、学園で過ごせる最後の年だけ植えないのも何だか気持ち悪かったのと、アサガオの前に立つと何だか落ち着くというのと。
多くを与えてもらった以上は、絶対に優秀な忍者にならなければならない。そういう気持ちを忘れるわけにはいかなかったというのが大きい。
*
何気ない口調で語られた朝来の過去に、一年生たちはそれぞれ思うところがあったのか神妙な顔をしていた。が、当の本人があまりにいつも通りの顔をしていたため、何も言えないままこの話は終わった。土井もまた、何も言わずに彼らの作業を見守った。
いま、アサガオの前に立つ朝来の表情からは何の感情も読み取れない。相変わらず静か過ぎる空気を纏っている。
「……九郎太」
はい、と朝来は土井に顔を向ける。
その顔にのった薄い微笑みを、朝来は「かつての同級生たちによる努力の結晶」と言った。それは比喩でも誇張でもなく事実だったのだと、今ならわかる。もちろん、「同級生たちの指導に応えようとした朝来の努力の結晶」でもあるのだろう。
いいな、と土井は思う。率直に言えば羨ましくもあり、微笑ましくもある。そして、自分も与えたい、と思った。
彼が卒業後も生き残れるように。
再び「味方」たちと笑う機会をもてるように。
優秀な忍者として、誇れる彼であるように。
これまで土井は、教師として生徒たちに何をしてやれるだろうとずっと考えていた。その答えにかかっていた霧が、少し晴れたように思う。
全部、教えてやればいいのだ。土井がこれまで得たものをすべて。この乱れた世でも、それぞれの思うまま、悔いなく生きられるように。自分のような、悔いだらけの人生を送らないように。
彼らと話し、彼らを知り、足りぬものを教え、導き、送り出す。わかっていたけれどわかっていなかったことが、ようやく形を得たようだった。
おもむろに土井の腕が動く。自身より少し低いところにある頭に触れた。頭巾のざらりとした感触ごと、丸い頭をわしわしと撫でる。
「……あの、土井先生?」
「んー?」
「……私はもう六年生なんですが」
「ははは、忍たまであることには変わりないだろう?」
たくさん学びなさい、何だって教えるよ、と。
そう優しい声で告げられた言葉に、朝来は少し驚いたように瞬きをし、視線を浮かせ、最終的に眦を細めて土井の手を受け入れた。
「……では、さっそくよろしいでしょうか、土井先生」
「もちろん。任せなさい」
そうして始まる、朝来からの質問とそれに答える土井の解説。あれやこれやと話すうちに空が白み始め、月の明るさが薄れていく。
結局アサガオの花が開くところを見届けてしまった二人は、心底呆れた顔をした山田に首根っこを掴まれ、山田と土井の部屋にて正座をさせられることとなる。
「実習帰りの生徒は休ませなさいよ、土井先生」
「仰るとおりです……」
「山田先生、お言葉ですが、それは私が、」
「九郎太、生徒に庇われて教師の面子が立つと思うか」
「……申し訳ございません……」
熱心なのはいいけど昼間にやんなさいと溜息まじりに言う山田を前に、土井と朝来はふたり揃って誤魔化すように笑ったのだった。
土井先生が土井「先生」になった日。