遙か高い空で鷹が大きな翼を広げている。
強い日差しが容赦なく降りそそぐ季節、忍術学園は夏季の長期休暇に入っていた。生徒たちだけでなく教師陣にも休みが与えられ、常は学園で寝泊まりする彼らもこのときばかりは帰路につく。実家が遠方でなかなか帰ることができない者にとっては貴重な機会と言える。
が、それにも関わらず、土井の足は再び学園の方へと向いている。肩には山田の着替えの入った荷物を背負い、隣には弟のように可愛がるふくれ面の少年を連れていた。
「えっと、利吉くん、疲れてないかい? 忍術学園までもう少しだからね」
「私は大丈夫です。これくらいの道のりで疲れたりしません」
かつて抜け忍となり追われていたところを山田家に救われた土井。独立して初めての長期休みということで改めて挨拶に伺ったところ、迎えてくれたのは苦笑する奥方とむくれた顔の幼い利吉だった。
話を聞けば、一度は帰ってきた山田だが何やら文を受け取るなり「早急に片付けなければならない仕事を思い出した」ととんぼ返りしてしまったのだという。
文の内容は出張命令か、それとも残っていた仕事の催促か。そりゃあ利吉くんも拗ねちゃいますよ山田先生~~~と思いつつも、同僚としてあの仕事量を知っているだけに土井も何も言えなかった。
とは言え、こんな顔をした子を放っておける土井ではなく。
奥方にそっと許可を取り、じゃあこちらからお父上に会いに行こうと小さな手を引いた。着替えを届けに行くという名目をもって、一緒に忍術学園に行ってみないかい、と。道中に私が教師になってからの話を聞いてくれたら嬉しいなと、言葉を添えて。
そこで一旦は笑顔を取り戻した利吉であったが、何故か道を進むほどにまた機嫌が悪くなっていく。学園の話をすればするほど「はい」「そうですか」と相槌の声が低くなるのは何故なのだろう。内心で冷や汗をかくしかない。
やっぱり私に子どもの心は理解できないのか……などとまた負の思考に陥りかけたとき、蝉の音を切り裂くように鷹の鳴き声が響く。下がり掛けた視線が再び前を向いた。
いつのまにか忍術学園の門が目前に迫っている。不思議と、少しだけ肩の力が抜けた。
「……利吉くん、」
「はい」
相変わらずふてくされた様子の幼い頬。改めて見ると、ふくふくと膨れたそれは焼いた餅のように柔らかそうだ。
つい、ふに、とその柔らかさに触れる。飛び上がらんばかりに驚いた少年に声を上げて笑った土井は、逃げるように走り出す。幼い利吉が追いつくには難しく、しかし置いてけぼりにすることはない程度の駆け足。
「さあ、私に追いつけるかな?」
「、もう!! お兄ちゃん!!」
焼き餅が赤く色づいて背を追ってくる。
その様子に声を上げて笑いながら、土井は忍術学園の門をくぐった。
*
いつもは賑やかな学園も、さすがに夏季休暇となれば静けさが勝る。
それこそ山田のように仕事を残した教師や、あとは補習の生徒くらいしか敷地内にはいないはず──なのだが、やはりというか、アサガオの前にはその気配があった。
「あれ、こんにちは。珍しいお客人をお連れですね、土井先生」
土だらけの手を拭った朝来は、どうやらアサガオまわりの除草をしていたらしい。夏休み中は忍たま長屋も閉まるはずだろうと土井が呆れたように言えば、変わらぬ穏やかな微笑みとともに朝来は答えた。
「近くに
「ああ……お前の課題は城への潜入だったな」
「ええ、学園を中心にいくつかの城を、」
「貴方が朝来九郎太さんですか」
和やかな会話に、ずいっと割り込むように前に出た利吉。不機嫌とはいえあまりに棘のある声音に、利吉くん、と思わず土井が諫めるが、利吉は答えなかった。
視線を利吉にうつした朝来は、少し驚いた様子ではあったがすぐに微笑みを取り戻し、そうだよ、と頷いて見せた。その身長差ゆえに、どうしても朝来が利吉を見下ろす形にはなる。相手が後輩であれば少しかがんでやるところだが、この態度からしてそれは侮辱にしかならないと朝来は判断した。記憶の中でかつての「学級委員長」が正解の札を上げる。
しかし、少しも動じない朝来がかえって気に障ったらしい。利吉はさらに目尻をつり上げた。
「私は山田伝蔵の息子の利吉と申します」
「ああ、山田先生の。お父上にはいつもお世話になっています」
「今年の六年生は朝来さんおひとりと伺いました」
「そうだね」
「後輩たちにも慕われ、歴代の六年生のなかでも非常に優秀で、きっと卒業後も良い忍者になると期待されていると、お、……土井先生が」
「それはそれは、過分な評価を頂いて恐縮です」
はて、何でこんなにも敵意を向けられているのだろう。内心で首を傾げながら表面上は淡々と受け答えを続けていく。
じりじりと利吉の足が堪えきれずに動いている。こらこら利吉くん、とあまり強く出られないらしい土井の声などその耳には入らない。
「ならばさぞお強いのでしょう。是非、一手ご教授を──賜りたくッ」
言い切る前に利吉は地面を蹴る。一瞬ののちに間合いは詰められ、己より高いところにある顔に蹴りをいれようと身を捻って足を振り──といっても朝来とてそれを大人しく受け入れるはずもなく。
ひゅ、と鋭く息を吐いた朝来は身体をそらして軽くかわす。ついでとばかりに細い足を掴み、勢いを殺さぬまま軽く振り回して放り投げた。空中で体勢を整えた利吉は着地すると同時にまた間合いを詰め──と、始まってしまった勝負だか鍛錬だかわからないものに土井はあーあーと呆れながら溜息をつく。
間もなく忍術学園を卒業してプロになるだろう朝来と、成長期が始まったばかりでまだまだ身体も育ちきっていない利吉では結果など知れている。九郎太なら怪我をさせるようなことはないだろうと土井はふたりを見守るが、どうしたって困惑はあった。今日は本当に利吉の様子がおかしい。
ほぼその場から動くことなく、全ての攻撃をかわし続ける朝来。その顔は意外にも少し楽しそうで、利吉を観察しながら何やら考えているようだった。ふうん、と愉快そうな息とも声とも取れるものが口から漏れる。
それを聞きとがめた利吉は、朝来への攻撃の手を緩めることなく懐を探る。取り出された苦無は父から譲りうけたものだろうか、利吉の手には少し大きく見えた。
「、やあああ!」
苦無の切っ先を朝来に向け、真っ直ぐに突き出した。当然、朝来ならばそれは軽々と避けられる──はずが。
微笑んだまま、朝来九郎太は動かない。
利吉の目が見開かれる。そこで動きを止めたり、切っ先をずらすほどのほどの技術は利吉にはなく。
え、と土井も反射的に地面を蹴った。しかし朝来への信頼が仇となった。間に合う距離ではない。
結局ふたりの間に割り込んだのは、いつの間にかそれを見ていた黒い影。
「──悪ふざけが過ぎるぞ、九郎太」
息子の手首をしっかりと掴み、その手から苦無をとったのは一年の実技担当、山田伝蔵だった。
朝来はその登場にも動じることなく「申し訳ありません」と微笑み、一歩下がって姿勢を正す。
「さすがは山田先生のご子息ですね。良い動きでした」
「世辞はいい。利吉」
「は、……い」
「初対面の、しかも目上の相手にろくに挨拶もせず勝負を仕掛けるとは。そんな礼儀知らずに育てた覚えはないぞ」
あー最初から見てたなこのひと、とは土井も朝来も口には出さない。
完全に勢いを失った利吉は、さすがに泣きそうな顔をして俯いている。掴まれたままの手はわずかに震えていた。
それを見て、うーん、と内心で唸った朝来は、もにょりと口元を動かしてからそっと手を上げる。
「山田先生、お説教の前に少々よろしいでしょうか」
「何だ」
「恐れ入ります土井先生、先ほど利吉くんが言っていましたが、利吉くんに私の話をされたとか」
「え、あ、ああ。学園のことを話す中で、流れで」
朝来は脳内で情報を整理する。聞いた言葉をひとつひとつ正確に洗い出し、知る限りの土井の性格と、この短い付き合いから察した利吉の性格、いつぞや土井が零していた「弟のように可愛がっている子がいる」「その子も私のことを慕ってくれて嬉しい」との情報を照らし合わせ、また学級委員長の影を引っ張り出した。
おれはこんな感じだと思うけどどう思う、と尋ねれば、イマジナリー学級委員長は笑顔で大きく頷く。つまりそういうことなのだろう、と腹の底から飛び出しかけた笑いを喉元で押しとどめた。
改めて確認させて頂きますね、と土井に笑顔を向ける。
「大変恐れ多いですが、私のことを非常に褒めて頂いたそうで」
「え、……うん。九郎太はよく頑張っているし」
「ありがとうございます。また、学園のお話をされる中で、具体的に名前を出したのは私だけだったのではないですか?」
「……そうだった、かも?」
「では最後に。その話をすればするほど、利吉くんの機嫌は悪くなっていったのでは?」
「、何でわかるんだ?」
いやむしろ何でわからないんだ、おれでもわかったぞ、とはさすがの朝来も口にはせず。山田もあーそういうことか、と呆れた顔で天を仰いだ。
愚息がすまなかったな九郎太、いいえお気になさらず、と自分の頭より高いところでかわされる会話を聞きながら、ようやく手を離された利吉はまた真っ赤な顔でわなわなと震えていた。
怒りと羞恥の入り交じった顔のまま、だんっと音がしそうなほど勢いよく一歩前に出、叫ぶ。
「お、にいちゃんは私のお兄ちゃんなんだからな!! ちょっと気に入られてるからって調子に乗るなよ!!」
その声はまるでエコーでもかかったかのように響き渡り、鳥も虫も空気を読んだのか鳴き声を止めた。
辺りが完全な静寂に包まれる中、堪えきれなくなった未熟者は微笑みのまま「ぶふっ」と噴き出し、咄嗟に両手で顔を隠して膝をつく。
「ふ、は、あ、うあ、あっは、あ、だ、だめ、だ、かお、かおがくずれ、は、はは、あっははははは!!」
「わ、笑うなぁ!!」
「あっはははははははは!! は、くそ、かおもどれ、かお、……っはははははは!!」
涙目で顔を真っ赤にした利吉に肩を掴まれぐわんぐわんと揺れつつも、朝来の顔から手は剥がれない。
一年生のときから朝来を知っている山田でさえ、ここまで盛大に笑い崩れる朝来を見たのは初めてだった。九郎太に膝をつかせるとは逆に大物かもしれんなぁと大きな溜息をつき、毒気を抜かれた山田は息子の首根っこを掴みあげた。
わっと声を上げた利吉と目線を合わせ、いい加減にしろともはや力の無い声で言う。
「どんな理由があろうと、目上への無礼は許されん。忍者を目指すなら怒りのままに動いてはならんとも教えたはずだ」
「……はい」
「罰として裏山で鍛錬だな。ちょうど仕事も終わったところだ、たまにはしっかり日頃の成果を見せてもらおうか。今晩は眠れんと思えよ」
「えっ」
「土井先生、アンタはそこの笑い袋の面倒を頼みますよ。着替えを持ってきてもらって悪いが、明日には家に戻るから、そのつもりでな」
「は、はい!」
呆然とした顔の息子を軽々と肩に担ぎ、音もなく山田は消える。
何が何だか、とこちらも呆然とした顔の土井。笑い声こそおさえているものの、肩を震わせ顔を隠す六年生に視線をうつした。
「……九郎太」
「は、……はい」
「深呼吸しなさい」
数秒の沈黙のあとに、すー、はー、と大人しく深呼吸する音が聞こえた。少しずつ呼吸が深くなっているところを見ると、ようやく笑いの波はおさまってきたようだった。
九郎太、と土井は改めて膝をつく彼に歩み寄る。
「……つまり利吉くんは」
「ヤキモチですね」
「……ヤキモチ」
「嫉妬、悋気、何でも良いですが。良かったじゃないですか先生、慕われている証拠ですよ」
「それでお前に勝負を仕掛けるようじゃ困るよ」
「あれ、冷静ですね」
ゆっくりと九郎太は立ち上がり、ようやく両手を顔から離した。頬の筋肉がわずかに痙攣している気がしないでもないが、その顔にはいつもの微笑みがのっている。
最近はだいぶこの顔も崩れなくなってきたのにな、と苦笑しつつ、ところで、と土井は尋ねた。
「気配は感じないが、近くに誰かいるのか?」
「? と、言いますと?」
「利吉くんが最初に仕掛けたとき、矢羽音を使っていたんじゃないのか」
確かにあのとき、朝来の口からはそれらしき音が漏れていた。普段学園内で使っているものではなかったので土井に意味はわからなかったが、あれが聞こえる場所に誰かがいるのだろうとは思っていた。
ああ、と思い至った朝来は自分の指を口につける。ピィッと口笛にしては鋭い音が空気を裂いた。数瞬遅れて朝来の頭上に影が落ち、ばさりと羽音が近づいた。
「矢羽音ではなくて、こいつへの合図ですよ」
朝来の肩に、少し小柄だがよく手入れをされた鷹がとまる。おお、と思わず土井の口から声が漏れた。
少し警戒するように土井の様子を窺う忍鳥に、朝来はこのひとは大丈夫、と少しばかり優しい声をかける。
「私の
「そうか、そういえば学園に来る前もこの子が飛んでいるのを見たかもしれない。まだ若いんだな」
「ええ、卵から孵しまして、そろそろ躾けも終わって一人前と言ったところです。主の危機には飛んでくるよう躾けたので、利吉くんにも反応してはいけないと思いまして。あれは『来るな』という合図です」
「なるほど。……そういえば九郎太、お前の夏休みの課題は」
「近隣の城の城主に、
「……鷹の躾けに使ったな?」
「課題の詳細に『忍鳥を使うべからず』はありませんでしたね」
悪びれない朝来に、土井は大きな溜息を重ねる。
夏休みの課題はそれぞれの特性に応じて課されるが、朝来に課せられたそれは卒業後を見越してのものだった。有力な城と忍隊に顔と実力を売り込み、あわよくばのちのちに雇ってもらうための。これでは鷹の宣伝にしかなっていない。
土井が何を言いたいのかわかったのか、朝来は良いんですよ、と朗らかに宣った。
「城仕えをするつもりはありませんので」
「……卒業後はどうするんだ」
「フリーでやっていきます。最初は
「お前ならできないとは言わないが、安定して仕事を得るまでには苦労もあると思うぞ?」
「覚悟のうえですよ。大丈夫です、銭のない生活には慣れていますし」
それより大事なことがありますから、と小さな呟きが落ちる。それを土井が聞き返すより先に、朝来はそれにしても、と言葉を重ねた。
「面白い子ですね、利吉くんは」
どうやら嫌味ではない言葉に、土井は視線のみで続きを促す。
「後輩たちと比べても足腰がよく鍛えられていますね。体力もある。身のこなしもかなり器用で、何より格上の私相手に少しも怯まなかった」
おそらくは忍たま以上に「己を害する不安のない格上」と手合わせをした経験がある。故に利吉は朝来が己を害するかもしれないという発想がなく、恐れることなく挑むことが出来たのだろう。もしかしたら今まで生命の危険を感じたことないのかもしれない、と思うと同時に、ならばと朝来の中にむくむくと悪戯心が芽生えた。後輩じゃないしまあいいかと思ったことは否定しない。
朝来はあえて苦無の攻撃を避けようとしなかった。一応ぎりぎりで急所を外すくらいはするつもりだったが、それでも流血は避けられなかっただろう。まあその程度の怪我は慣れたもの、というのもそうなのだが、格上との戦闘に慣れた利吉がどう反応するのか興味があった。
忍者ならば、人を傷つけることは免れない。格上を相手に命がけで戦うこともあれば──無抵抗な民を一方的に蹂躙せねばならないときもある。多くの者が前者にばかり目を取られるが、ひとによっては後者の方が辛いだろうと朝来は思う。
恵まれた環境で生きてきただろう少年に、その覚悟があるのかを見てみたかった。……まあ出来ないだろうとは思っていたが、別にそれを馬鹿にするつもりはない。
「真っ直ぐで、向上心が強く、弱いもの虐めができない。山田先生の教育の賜物でしょうか。どんな忍者になるんでしょうね」
「……朝来、」
「ああ、いえ、本当に嫌味とかではないんです。何と言いますか……」
彼のような子が、己のまま生き残れる世であれば、と。
その言葉に、土井の眼が大きく見開かれる。
「ふと思っただけです。変なことを申しました」
「いや、……」
私も、そう思うよ、と。
思わず土井が零した言葉に朝来はまた笑みを深め、そっと目を伏せる。
彼の肩で休む鷹が慰めるようにその頬にすり寄った。
*
翌日山田とともに戻ってきた利吉は、ぼろぼろよれよれの姿で朝来にしっかり頭を下げた。一晩尊敬する父に扱かれ通した結果、頭もすっかり冷えたようだ。
朝来は後輩にするように頭に手を置くとはたかれてしまったが、是非またお手合わせを、とは言ってきたので嫌われているわけではないらしい。手合わせね、と一瞬考えた朝来は、いつもの微笑みで答えた。
「いいよ。また
次は私も手を抜かないから、と言葉を添えれば、まだまだ感情を隠す術を知らない少年はきらきらと目を輝かせる。
その素直さが、朝来には眩しかった。