人生やり直して、妻を幸せにします!(妻は男になっているものとする)   作:ルードリヒ

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誓い。

最初に戻ってきた感覚は、音だった。

 

言葉ではない。

意味もない。

ただ、近くで鳴り続ける、規則正しくない音。

 

誰かの声がする。

高くて、柔らかい。

 

安心する。

理由は分からないのに、胸の奥がほどけていく。

 

その直後、息が苦しくなった。

 

空気が、うまく入らない。

喉が勝手に震え、肺が強く収縮する。

 

――あぁ。

 

泣いているのだと、遅れて理解する。

 

自分の意思とは関係なく、体が声を上げている。

止めようとしても、止まらない。

 

母が、私を抱き直す。

背中を、ゆっくりと叩く。

 

その感触だけが、はっきり分かる。

 

不思議だった。

言葉は分からないのに、

この人が「大丈夫だ」と思っていることだけは、確かに伝わってくる。

 

時間の感覚が、曖昧になる。

 

眠って、目を覚まして、

また眠って。

 

その繰り返しの中で、少しずつ気づく。

 

私は、何もできない。

 

起き上がることも、

指を意図したとおりに動かすことも、

声で意思を伝えることも。

 

考えることはできる。

記憶も、まだある。

 

それなのに――

身体が、追いついてこない。

 

焦りが、胸に溜まる。

 

ある瞬間、ふと、思った。

 

――妻の名前を呼ばなければ。

 

理由は分からない。

ただ、呼ばなければならない気がした。

 

必死に、口を動かそうとする。

 

舌が、重い。

顎が、思うように動かない。

 

声にならない音が、喉から漏れるだけ。

 

その瞬間、胸を突くような恐怖が走った。

 

名前が、浮かばない。

 

顔は思い出せる。

笑い方も、声も、写真の中の表情も。

 

それなのに――

名前だけが、そこにない。

 

探そうとすればするほど、

指の間から零れ落ちていくように、遠ざかっていく。

 

嫌だ。

 

嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

必死に思い出そうとするが、

代わりに浮かぶのは、母の声だ。

 

「大丈夫よ」

「いい子ね」

 

その声に、心が揺れる。

 

違う。

今、聞きたいのはその声じゃない。

 

会いたい人は、別にいる。

 

なのに、体はこの温もりを拒めない。

 

抱きしめられると、安心してしまう。

目を閉じると、そのまま眠ってしまう。

 

――忘れるな。

 

自分に言い聞かせる。

 

忘れてはいけない。

あの人を。

あの時間を。

 

だが、眠りに落ちる直前、

胸の奥に残っていた感情が、少しだけ薄れるのを感じた。

 

怖かった。

 

このまま眠り続けたら、

目を覚ますたびに、何かを失っていくのではないか。

 

そう思いながら、

私はまた、何も抗えないまま、眠りに落ちた。

 

 

母が泣いていた。

 

理由は分からない。

声を上げて泣いているわけではなく、ただ黙って、私を抱いたまま動かなかった。

 

頬に、温かいものが落ちる。

 

最初は、何が起きているのか理解できなかった。

少し遅れて、それが涙だと気づく。

 

母の涙。

 

胸の奥が、ひどくざわついた。

 

――違う。

 

泣くのは、もっと先のはずだ。

 

そう思った瞬間、記憶の底が、不意に開く。

 

雨の音。

白い横断歩道。

ブレーキの、甲高い音。

 

小学生の頃。

学校からの帰り道。

母は、私の少し前を歩いていた。

 

そして――

 

思い出した瞬間、息が止まりそうになる。

 

事故だ。

 

この人は、未来で死ぬ。

交通事故で、私より先に。

 

その事実が、今の温もりと重なり、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 

嫌だ。

 

嫌だ嫌だ嫌だ。

 

助けなければならない。

今度こそ、助けられるはずだ。

 

だが、次の瞬間、冷たい現実が突きつけられる。

 

私は、声を出せない。

言葉を持たない。

指差すことすら、思うようにできない。

 

必死に体を動かそうとする。

腕が震える。

足が、ばたつく。

 

母は驚いた顔で、私を覗き込む。

 

「どうしたの? お腹すいた?」

 

違う。

そうじゃない。

 

叫びたいのに、出てくるのは、意味のない泣き声だけ。

 

母は、私を抱き直し、背中を叩く。

その手つきは、優しくて、慣れていて、完璧だった。

 

安心してしまう。

 

それが、怖い。

 

この腕に抱かれるたび、

私は「守る側」ではなく、「守られる側」になっていく。

 

抵抗する力が、少しずつ削られていく。

 

その日の夜、眠りに落ちる直前、また思い出そうとした。

 

妻の名前。

 

今度こそ、忘れないように。

何度も、何度も、心の中で呼ぼうとする。

 

だが、浮かぶのは、断片だけだった。

 

最初に会った日の、ぎこちない笑顔。

写真を撮るときの、少し首を傾げる癖。

最後の、あの笑顔。

 

――名前は?

 

問いかけた瞬間、胸が空洞になる。

 

ない。

 

そこにあるはずのものが、最初から存在しなかったように、消えている。

 

怖くて、涙が出る。

 

それでも、泣き疲れると、意識は自然と沈んでいく。

 

母の心音が、耳元で規則正しく鳴っている。

 

この音を、私は知っている。

ずっと昔、聞いていた。

 

絶対にこの人を、母を死なせるものかと、そうしてもう一度妻に会いたいと、強く願った。

 

 

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