男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



一 江戸城本丸の鬼

 神田紺屋町にある金物問屋、日野屋の寝間。窓が開け放たれ、蚊帳が吊り下げられた部屋の中には主人の山内忠兵衛と妾(しょう)の牧が枕を並べている。

 夜は深く、町は静まり返っているが寝苦しい夜で二人はなかなか寝付くことができない。恐らく江戸っ子は一人残らず寝苦しい夜を過ごしているのだろう。

「ねえ、あんた」

 牧はしばらく天井を見ていたが、寝付くことを諦め、身体をよじってその顔を忠兵衛に向けた。

「何だ?」

 忠兵衛は暑いとはいえさすがにもう眠いのだろう。目を開けることなく、面倒くさそうに応える。

「お願いがあるんだけど」

 牧は寛政二年の生まれで、元は忠兵衛の母が小間使いに雇った娘だった。それが享和三年、十四歳のときに忠兵衛の妾となった。

「何だ、改まって」

 忠兵衛は目を閉じたままだ。

「伊保のことなんだけど」

 伊保は忠兵衛の三番目の子どもである。伊保を産んだ本妻のくみは五年前に帰天し、もうこの世にはいない。

「伊保?・・・伊保がどうかしたのか?」

 忠兵衛は嫌な予感がした。牧が伊保の話をする場合、それが忠兵衛にとって心地の良い話であることはない。妾とはいえ、忠兵衛はくみ亡き後、牧を正妻同然に扱っていて、同じ屋根の下に暮らす牧と伊保の関係は事実上継親子関係であった。

「昼間、鉢巻をして右手にほうきを持って、左手にちり取りを持ってあたしの前に立ちふさがったかと思ったら『母上の仇、成敗してやる』ってすごまれたんだよ。ホント怖かった。殺されるかと思ったよ」

 聞いた忠兵衛はようやく目を開き、顔を牧に向けた。

「子どもの遊びだろ?気にすることでもあるまい。お前らしくないぞ」

「冗談じゃないんだよ。あの子、本当にあたしのこと目の敵にしててさ、何かと突っかかって来るんだから」

 言って牧は忠兵衛ににじり寄った。忠兵衛が続けた。

「何か心当たりでもあるのか?」

 妾が母の仇であることは間違いではない。ただ、六歳の女の子が本人の前で叫ぶには何か事情があるのだろう。

「おくみさんが死ぬ間際に病気で耳が聞こえなくなっただろう?」

「ああ」

「あんとき、あたしはおくみさんのこと、耳が聞こえないのをいいことにさんざん馬鹿にしてたんだよ。そん時のことをあの子は根に持ってるのさ」

 妾の牧が本妻のくみに良い印象を持っているはずはなく、牧はくみの病気に乗じて、ここぞとばかりに思いをぶつけたのだ。

「何馬鹿なこと言ってるんだ。おくみが死んだときあの子はまだ二歳だぞ。そんなこと覚えてるわけないだろ?」

 忠兵衛は呆れて首を戻し、また目を閉じた。

「栄次郎に吹き込まれたんだって」

 なるほど、忠兵衛とくみの長男、栄次郎は当時六歳か七歳だから妾の暴言を覚えていても不思議ではない。

「それで何が望みなんだ?」

少し理解した忠兵衛は目を閉じたまま続けた。

「お子達にあたしのこと『母さん』って呼ばせてもらえないかなあ」

 言って牧はさらに忠兵衛ににじり寄った。二人の身体が密着した。

「なるほど、そういうことか。でもそれは駄目だ」と目を閉じたままの忠兵衛。

「なんで駄目なんだい。あんたとあたしはこの通り夫婦(めおと)同然っていうか、もうどっから見たって正真正銘の夫婦じゃないかい。おくみさんが死んでもう五年がたつんだよ」

 忠兵衛は一瞬、目を開けたが、再び目を閉じ、今度は寝返りを打つように牧に背中を向けた。

「何年たとうと駄目なものは駄目だ」

 忠兵衛の口調が少し強くなった。

「どうしてだい」

「道義に反するからさ。妻亡き後に妾を充てたとあってはわしの面目が立たん」

 聞いて牧は大きなため息をついた。

「じゃあ、あたしはこの家を出て行くしかないね」

 聞いて忠兵衛は、今度は反対に寝返りを打ち、牧の方を向き、目を見開いた。

「この家を出てどうするつもりだ?行くあてはあるのか?」

「行くあてなんかあるわけないじゃないか」

 牧が嘆息した。

「だったらそんなことは言うな。行くあてのない妾を丸裸でほっぽり出すのもわしの性に合わん」

 牧は身勝手な忠兵衛の考えにがっかりした。しかし、忠兵衛なしに生きていくことが難しいこともよく分かっていた。

「結局、あたしは一生、あの子のまなざしに耐えなければならないんだね」

 牧は諦め口調になった。

「いや、そういうことではない」

 言うと忠兵衛は牧を手繰り寄せた。二人の顔が近付いた。

「伊保もそろそろ年頃になる。年頃になれば他家へ奉公に出るだろう。あの子には色々と仕込んでいるし、金も掛けている。だからどこの家に行っても重宝されると思うよ」

 忠兵衛は牧がぞっとするくらい不敵に微笑んだ。

 

 伊保が神田紺屋町にある金物問屋「日野屋」の二人目の娘としてこの世に生を受けたのは文化十三年のことであった。

 文化十三年といってその時代背景が即座に脳裏に浮かぶ日本人は少数であろう。

 江戸時代最大の事件は「赤穂事件」に相違ないが、それは十八世紀の初めの出来事であり、それから激動の江戸末期まで大きな事件はない。

 文化文政の時代は、言わば太平の世と言われる江戸時代のさらに太平の時代であった。

 しかし、太平の世を楽しんでいた江戸時代も後期に入ると制度疲労を起こしてくる。

 文化年間はロシアやイギリスが日本に接近を見せた時代であり、また間宮林蔵が活躍した時代でもあった。日本は否応なく外との接触を現実のものとしていく。

 江戸時代が終わりを告げ、明治の世が明けるまでなお五十年を要するが、時代は大きな舵を切り始めるのである。

 日野屋の主人、山内忠兵衛は、表向きは真面目な人物であった。商売に取り組む姿勢はもちろんのこと、文化や芸術を見る目を持ち、創作者達の保護者、すなわち、今でいうところのスポンサーにもなった。化政文化を支えた一人であると言ってもあながち大袈裟ではないだろう。

 商人(あきんど)らしからぬ学識もあった。江戸の学者たちと交流を深め、そのうちの一人が北は津軽藩の藩医であり、儒者でもあった渋江允成である。二人は厚い友情で結ばれていた。そして、この二人の友情が後の世代に様々な影響を与えることをこの頃の忠兵衛はまだ知る由もない。

 忠兵衛は子弟の教育にも熱心だった。長男栄次郎の教育を允成の息子道純に託しただけでなく、長女安(やす)と次女伊保の姉妹にも儒学や武芸など男子が受ける教育さえ幼いころから施していた。

 伊保の「母の仇」事件があってさらに五年、忠兵衛の教育が功を奏し、そして何より妾の跋扈する家から出たいという伊保の強い意志があって、伊保は齢(よわい)十二にして江戸城本丸に奉公することとなった。

 時は文政十年、将軍徳川家斉五十五歳の頃であり、御台所は茂姫である。

 江戸城本丸での奉公が始まると伊保はすぐにその実力を発揮し始め、先輩の下女や茶坊主からさえも頼りにされるようになったが、これはある意味あたり前のことであった。持って生まれたものもあるが、若干十二歳とはいえ、伊保は既に侍の子弟を超える教育を施されているのである。

 本丸での奉公が始まって数日たつと伊保は下女たちから奇妙な噂を聞いた。伊保がいた江戸城本丸長局(ながつぼね)には夕方になると長い廊下を通って閉めに行かなければならない窓があるのだが、その長い廊下に鬼が出るというのだ。

 そんな噂を耳にしたある日の夕方、伊保はその長い廊下の手前の角で二人の下女が言い争っているのを見かけた。近付いてみると何か仕事を押し付け合っているようにも聞こえた。

 一方の下女は気が強そうで、もう一方の気の弱そうな下女をまくしたてていた。傍目には気の強そうな方が気の弱そうな方をいじめているようにも見えた。

 ちょうどその前を通りかかった伊保は素通りしても良かったのだが、たまたま気の弱そうな下女と目が合ってしまい、その目が助けを求めるようなまなじりだったのでついつい足を停め、「どうかされたのですか?」と声を掛けてしまった。

 気の強そうな下女が振り向いた。

「お前さん、最近入った子だね?」

 言われて伊保はうなずいた。

「はい。神田紺屋町の金物問屋、日野屋の娘の伊保と申します」

 言って一礼し、「それで、どうかされたのですか?」と続けた。

「鬼が出る話はもう聞いただろ?」

「はい」

「その先の窓閉めが今日はこの子の当番なんだけど、嫌だって言って聞かないんだよ」

 言って気の強そうな方は気の弱そうな方を見た。気の弱そうな方は顎を引き、まなじりだけで伊保に助けを求めている。

「窓を閉めるだけなんですよね?」と伊保。

「そうなんだけど、誰もやりたがらないのよ」と気の強そうな方。

「本当に鬼が出るんですか?何かの見間違えなのでは?」

 ここは江戸城の本丸である。片田舎の不気味な館ならともかく、日本の政治のど真ん中で鬼が出るなどということはあり得ない話だ。見間違えですらあるはずがない。

「本当に鬼かどうかは分からないのだけど、あそこの窓を閉めに行くと、石が飛んできたり、灰をかけられたりするっていうのよ。私はまだそういう目にあったことはないんだけどね、何人かがそういう経験をしているの。この子も灰をぶっかけられたんだって」

「それが鬼の仕業だっていうんですか?」

「私見たんです。頭に角が生えていました。あれは絶対に鬼に違いありません」とそれまで黙っていた気の弱そうな下女。

「鬼だっていう確証はないんですね?」と再び伊保。

「でも、何かもののけの類(たぐい)であることは確かね」

 気の強そうな方が言うと伊保は二人の下女を交互に見た。気の弱そうな方はまだビクビクしている。

「分かりました。ではその任、今日からは私が務めることと致しましょう」と伊保。

 聞いて二人の下女は「ええっ!」と叫び、お互いに顔を見合わせた。

「そりゃ、お前さんが引き受けてくれると助かるけどさ。大丈夫かい?相手は鬼だよ?」

「はい。この目で鬼の正体を確かめてまいります」

 伊保は胆力があるので鬼くらいではビクビクしない。それに学もあるので鬼などこの世に存在しないことも分かっている。何かからくりがあるのだ。そのからくりを探ることは伊保の好奇心を駆り立てる。

「そう?まあ、ここはお城の中だし、たとえ鬼でも命まで奪うことはないと思うけど、用心に越したことはないよ」

「大丈夫です。こう見えても私、武芸のたしなみがありますので」

 言うと二人はもう一度ビックリした表情を見せた。

「武芸のたしなみって、お前さん商人の娘だよね?」

「確かに私は商人の娘ですけど、父がそういう人なのでそのように躾けられたのです」

 言うと伊保は踵を返し、鬼の潜む廊下へと向かった。

 

 鬼の潜む長い廊下を前に進むとその先に開いている窓が見えた。

「これを閉めるのだな」と理解した伊保は周囲に人の気配を感じつつ、その窓へと向かった。

 次の瞬間、何かが近付いたかと思うと頭上から灰が降ってきた。

 何も知らなければ驚きのあまり尻餅をついて、悲鳴の一つでも挙げているところだろう。しかし、予想していた伊保は冷静だった。

 近付いてきた何かを動体視力で捉えると、それがもののけの類ではなく人間であること、鬼の面をかぶっていること、身体そのものは華奢であること、伊保一人の力で十分押さえつけられることを瞬時に判断し、次の瞬間「鬼が出たぞ~」とあらん限りの声で叫んだ。

 驚いたのは鬼の方である。予想外の大声に怯むとその隙に伊保に組み付かれた。伊保は灰を振りまいた右腕をつかむと、そのまま胴体に覆いかぶさり、柔術の腕がらみの要領でがっちりと関節を締め上げた。

 鬼は身体を捻って逃げようとするが伊保に右腕をきめられてしまって動くことができない。動こうとすると伊保は両方の腕で力いっぱい関節を締め上げる。痛みに耐えかね動きを止めると伊保は腕の力を抜く。すると再び鬼は逃げようとするのだが、動くとまた伊保は関節を締め上げる。

 そんなことを繰り返すうちに下女や茶坊主が集まってきた。茶坊主は剃髪しているため「坊主」と呼ばれており、帯刀もしていないが武士階級に属しており、城内の雑用を担っている。

 茶坊主の一人が頭から灰をかぶった伊保に目をやり、さらに鬼に目をやって叫んだ。

「何をされておるのです」

「鬼を捕まえたのです」と伊保。

 鬼はもう逃げるのを諦めたようで完全に脱力している。

 鬼が脱力したので伊保も右腕を自由にしてやり、鬼の面をはぎ取った。端正な少年の顔が暴露された。

 少年は伊保に締め上げられた右腕がよほど痛かったのだろう、右腕を抑えながらうずくまり悶絶している。それを見た茶坊主が驚きの声を上げた。

「これはこれは銀之助様ではございませんか。これ、そこのおなご、何をしておる。ちと戯れが過ぎるのではないか」

 言われて伊保はその場にかしこまった。下女たちは二人を取り巻くように固唾を飲んで見守っている。茶坊主が続けた。

「このお方をどなたと心得る。津山城主松平様が婿、銀之助様にあらせられるぞ。そこのおなご、控えよ」

「いいえ、この者は若様ではございません」

 伊保はまったく動じない。

「この廊下ではこのところ悪い鬼が現れては石をぶつけたり、灰を撒き散らしたりと悪さをしていたと聞いております。この鬼めは今、まさに灰をこの私にふりかけたのでございます。私はこの鬼を成敗したところです」

「だがしかし・・・」

 茶坊主が次の言葉を選んでいると

「もうよい。私が悪かったのだ」

 銀之助がようやく身を起こし、叫んだ。

「許してくれ。大意はないのだ。ただ少しいたずらがしてみたかっただけなのだ」

 銀之助は申し訳なさそうに言ったが、これを聞いた伊保が憮然とした表情で「お戯れでは済みますまい。御台所様のお耳にもお入れせねば」と言ったので銀之助の顔はみるみる青くなった。

 これまでのことを腹に据えかねていた下女達は内心、拍手喝采を叫んだ。茶坊主は苦笑いをしていた。

 

 江戸城本丸での「鬼成敗事件」があってからしばらくしての神田紺屋町の日野屋。屋敷の寝間では蚊帳がつられ、主人の忠兵衛と妾の牧が枕を並べている。

 今宵も寝苦しい。牧は身体を忠兵衛の方によじった。

「ねえ、あんた」

「何だ?」

 忠兵衛もなかなか寝付かれない。牧が続けた。

「何で伊保が帰ってきちゃったんだい?お城の本丸でのご奉公だっていうんであんたもさんざん自慢してたじゃないか。何か粗相でもしでかしたのかい?」

 妾の牧は伊保にとって親の仇である。むろん双方にとってお互い好ましい相手ではなく、一つ屋根の下でもなるべく顔は合わせないようにしている。

 牧は伊保の暇(いとま)を聞いてはいたが、その理由まで聞き及んではいない。伊保とは犬猿よりひどい仲なので本人の口から聞き出せるはずもなかった。

「粗相したんじゃないが、居づらくなったんだと」

 忠兵衛はいつものように面倒くさいようで、牧の話をまともに聞こうとはしない。目を閉じたままだ。

「居づらくなったって、やっぱり何かしでかしたんだろう?」

「津山松平家の若君を組み伏せたと聞いている」

 それを聞いて思わず牧は身を起こした。

「組み伏せたって、喧嘩でもしたのかい?」

 たとえ相手が子どもであっても商人の娘が武家相手に喧嘩を仕掛けるなど正気の沙汰ではない。しかもお城の中で。

「いや、何でも若君のお戯れを許せなかったようで一方的に成敗したそうだ」

「いくら若君が悪かろうと、組み伏せちまったらお手打もんだろう?お咎めはなかったのかい?」

 もしそれが本当ならとてもただでは済まされないだろう。封建社会とはそういうものだ。

「お咎めどころか、松平様からは『よくぞ若を諫めてくれた』とお誉めいただいたと聞いているよ」

「じゃあ居づらくなんてならないじゃないか」

 牧が独り言のようにつぶやくと忠兵衛はようやく牧の話に興味を示し、身体を牧の方によじって目を開けた。

「過ぎたるは及ばざるがごとしということさ」

「どういうことだい?」

 牧は横になったまま首を捻った。

「伊保が松平様にすっかり気に入られてしまってね。『若君のそばめに』という話が来たのさ」

 そばめとは側室のことだ。聞いて牧の表情が明るくなった。

「松平様のおそばめかい?そりゃ良い話じゃないか。もちろん正室にはかなわないけど、お子が生まれてお世継ぎにでもなればお伊保の方様だ。大出世じゃないか」

 牧は自分のことのようにうれしくなった。それはそうだ。伊保が大名の側室ともなればこの家から永遠にいなくなるのだ。

「ところがそうでもないのだ。本人もそうだが、このわしもそんな話には納得しないのだ」

「何が気に入らないんだい?」

 牧の口調が重くなった。

「そばめはそばめだ。それはわしよりもお前の方が分かっているんじゃないのか?」

 それを聞いた牧は忠兵衛の言葉の意味を考えた。牧はもう何年も妾を続けている。だから「所詮、妾は妾だ。正妻ではない」と言われればその意味は誰よりも分かる。

「よ~く分かったよ」

 少し間があって牧が吐き捨て、仰向けになった。憮然としている。

「分かってくれたか?伊保には十分なほどの教育を施してるんだ。たとえ相手が大名でもそばめでは納得できないね。それでなくとも伊保はしたたかなおなごなのだ」

「あんたもしたたかだけどね。それでどうするんだい?伊保がずっとこの家にいるなんてあたしはまっぴらだね」

 齢を重ねるにつけ伊保の牧に対する敵愾心は増す一方である。

「もちろん新しい奉公先を探させるさ。伊保にはもっともっと自分を磨いてもらわないとな」

 忠兵衛は牧ににじり寄った。

 

 江戸城本丸から戻ってきた愛娘を主(あるじ)忠兵衛は歓迎しなかった。もちろん妾の牧との関係をおもんぱかってのことである。

 忠兵衛は伊保に引き続き他家での奉公に励むよう命じた。そしてそのことが他ならぬ自分のためであること、人生の修行であることを説いて聞かせた。

 忠兵衛の言いつけは伊保にとっても願ったり叶ったりである。牧との同居は伊保にとっても避けたいことであり。伊保は改めて奉公先を探すこととなった。今でいうところの就職活動を始めたのである。

 ただその体(てい)は就職活動に似てはいたが、他家での奉公、特に女子がする武家での奉公は就業とは相当、趣が異なる。就業は生活の糧を稼ぐためのものであるが、武家での奉公は鍛錬のためのものであり、言ってみれば学校に通うようなものである。だから日野屋のような大店は奉公のために大金を使うことを厭わなかった。

 学習の場なのだから選択の自由は奉公先ではなく奉公人が持つことになる。

 箸にも棒にも掛からぬと判断される者が採用に至ることはないが、「これは」と思う人材は武家の間でも争奪戦になる。有能な人材が争奪戦となることは現代でも変わらないのであるが、争奪戦において給金がさして有効な武器にならないことが現代とは違う。「では、当家ではいくら給金を出しますから」というよりも、その家が奉公人にとって性に合っているかどうかが一番重要で給金は二の次、三の次だった。

 江戸城本丸でも十分な役目を果たせる伊保が争奪戦の対象となったことは言うまでもない。引く手数多の伊保は何件もの屋敷を訪問したが、ここぞと思える屋敷にはなかなか巡り合うことができなかった。

 そんな中、二十数ヶ所の訪問を重ね、ようやくここぞと思えた屋敷は土佐二十四万石の大名山内豊資(とよすけ)の屋敷だった。土佐山内家の十二代目、山内容堂の三代前である。

 伊保が山内の屋敷を気に入ったのは、二十四万石の大大名であるにもかかわらず、女中がすべて綿の着物を着ていたことである。兄の栄次郎と異なり伊保は忠兵衛の教えを厳格に守っており、質素倹約を旨としている。この屋敷なら自分の性に合っているのではないかと伊保は考えたのだ。

 採用のためには試験がある。伊保がいかに実力者であったとしても採用試験は避けて通れない。試験科目はどこの家でも似通っており、通常、書、歌詠み、歌唱からなる。

 土佐山内家の試験官は奥働きの老女だった。老女はまず色紙と硯箱を持ち出して何かを墨書するよう命じた。伊保は歌を自作し、色紙に書き付けた。これで老女は書と歌詠みを同時に判定することができた。

 伊保の書は老練な書家の筆致のようだった。それもそのはずで、伊保は詩と書に優れた儒者生方鼎斎を師としているのである。父忠兵衛は教育熱心な親であり、こういうところに金を出し惜しむことはない。

 武家への奉公では書が重視される。字が上手に書けないようでは武家の奉公人は務まらない。

 次に歌唱の試験が実施され、伊保は常盤津を無伴奏で歌った。これも蔵人肌だった。

 老女は伊保に合格を告げ、「明日からでも来てほしい」と告げた。

 そのときふと老女は伊保の着物に三葉柏の紋がついているのを見咎めた。

「そなたの召し物には御当家と同じ三葉柏の紋がついていますがどういう事情なのですか?」と老女。

 問われた伊保は少し考えてから答えた。

「特に問われなかったので話しませんでしたが、私は山内氏(うじ)、今は商人をやっておりますが、遡れば祖先は山内一豊公の弟君から出ていると聞いております」

 聞いた老女はしばらく考える素振りを見せた。

「そなたはお役立ちになりそうなので明日からでも来ていただきたいのですが、その御紋は当分の間ご遠慮する方が良いでしょう」

 聞いて伊保は首を捻った。

「何故でしょうか?」

「私は長年当家にお仕えしていますが、一豊公の弟御のご子孫が江戸で商人をやっているという話は聞いたことがないのです。そなたの家では由緒あることなのでありましょうが、もし間違いがあった場合、奥方様が気を悪くされるかもしれません」

「気を悪くされるのですか?」

「一奉公人に過ぎないそなたが山内家の家紋を身に着けていることを苦々しく思うかもしれないということです」

 それを聞いて伊保は唸った。

 

 同じ日の夜の日野屋の奥の座敷、忠兵衛は伊保と向かい合い今日の報告を聞いている。

「それでどうしたのだ?」と忠兵衛。

「お断りしました」と伊保。

「断ったと?」

「はい」

「何故だ?」

「だって失礼ではありませんか。確かに当家は、今は商人かもしれません。しかし商人は商人としての矜持があります。山内一豊公の血筋も誇りです。それに何より私のことを信じてくださらなかったことが許せないのです」

 伊保は憤っていた。忠兵衛はそんな伊保に困惑しつつも優しく微笑んだ。

「なるほどね。ところがそうでもないのだよ」

「そうでもないとは?」

 伊保が首を捻る。

「実はな、言いにくいのだが、我が家が山内一豊の弟の子孫だというのは、はったりかもしれないのだ」

「どういうことです?」

 伊保はさらに首を捻った。

「お前は、我が山内家は一豊の弟の子孫だと聞いているだろう?」

「はい」

「わしも小さい頃からそう聞いている。しかし、わしもその老女と同じように本当かどうか気になって調べてみたことがあるのだ」

「それで、どうだったのでございますか?」

「一豊の弟は二人いることは分かっているのだが、そのどちらがご先祖様なのかは結局、分からなかった。その二人以外にも弟がいたのかもしれないし、あるいは・・・」

「あるいは・・・?」

「山内一豊の弟の末裔だということ自体がはったりだったかもしれないということだ。先祖の誰かが出所を聞かれて、山内氏であることをいいことに、山内氏で最も有名な一豊の名前を出したということだ。本当は一豊の末裔だと言ってしまえば良かったのかもしれないが、ボロが出てしまうかもしれないとギリギリのところで心配して、弟の末裔ということにしたのかもしれない。それでそのはったりを上塗りするために三葉柏の紋を使うようになったのかもしれない。案外それが真実かもしれないよ。まあ、ご先祖様も見栄っ張りだったということだ」

 聞いて伊保は力が抜けた。

「どうしましょう。私、試官のお方に随分とひどいことを言ってしまいました」

「何を言ったのだ」

「それは・・・、罵倒するようなことを言いました。悔しかったものですから」

「啖呵を切ったのか?お前らしいな。でも良いではないか。紋を隠さなければ務まらぬような役はどのみちお前の望むところでもあるまい。ともかく、お前が土佐の山内様を断ったのは賢明だったということだ。もしお前がお勤めしている間に何かのはずみでボロが出てしまった場合、取り返しのつかないことになっていたかもしれないからな」

 忠兵衛は他人事のように笑っていた。

 伊保は肝を冷やしていた。

 

 翌日、伊保は、今度は向柳原にある津三十二万石の大大名藤堂高猷(たかゆき)の上屋敷を尋ねた。今の都立忍岡高等学校のある辺りである。

 むろん考試はうまくいき、伊保はよく考えもせずこの藤堂家に奉公することに決めた。特にここぞと思うところがあったわけではない。他家を回りくたびれただけのことだった。

 

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